24-8:黒い水道水
パキパキパキ……!
詩織の作り出した巨大な氷塊に、早くも亀裂が走り始めた。
所詮は一時的な足止めだ。数千トンの水圧と、熱を持つ呪毒は、すぐに氷を食い破るだろう。
「急ぎましょう! ……氷が割れる前に!」
詩織は、ふらつく足で俺(愁)の左腕を肩に回し、無理やり立たせた。
俺の意識は朦朧としている。全身が鉛のように重い。
「出口は……どこだ……」
「上(入り口)へ戻る時間はありません! ……あそこです!」
詩織が指差したのは、キャットウォークの奥、天井付近にある「緊急搬出用のハッチ」だった。
本来なら高すぎて届かない場所だ。
だが今は、眼下のタンクから溢れ出し、瞬時に凍りついた汚水が、巨大な「氷の坂道」となってハッチの足元まで達している。
「亜美ちゃん、先導して!」
「うん!」
俺たちは、滑りやすい氷の斜面を、這うようにして登った。
背後で、氷が砕ける音が大きくなる。
ハッチにたどり着いた亜美が、ハンドルを回して重い鉄扉を押し開ける。
吹き込んできたのは、隅田川の生臭い風だった。
「出られた……!」
そこは、ポンプ場の裏手、川に面した排気口だった。
俺たちは泥まみれになりながら、コンクリートの護岸へと転がり落ちた。
ズドンッ!!
直後、足元の地面が揺れた。
地下で氷壁が崩壊し、毒水が再び暴れ出したのだ。
間一髪だった。
それからどうやって帰ったのか、記憶が曖昧だ。
詩織と亜美に支えられ、タクシーも拾えず、路地裏を引きずるように歩いて……。
気づけば、俺は実家『浅河』の客間に寝かされていた。
「はぁ……はぁ……っ、ぐぅ……」
全身が、溶岩に浸されているように熱い。
俺の上半身は裸にされ、詩織が必死に治療術を施している。
だが、右腕から背中にかけて浮き出た「どす黒い紋様」は、治癒の光を嘲笑うかのように、じわじわと面積を広げていた。
「ダメです……! 毒の浸透が早すぎる……!」
詩織の声が涙で濡れている。
「解毒しようとしても、呪いが邪魔をして……!」
(……小僧……すまねえ……)
脳内で、玄さんの声が途切れ途切れに響く。
(ワシが……もっと早く……斬っていれば……)
あの最強の鬼神が、弱音を吐いている。
それほどまでに、この毒は「魂」に深く食い込んでいるのだ。
「水……水を……」
俺の干からびた喉が、反射的に水分を求めた。
脱水症状だ。とにかく体を冷やし、水を飲まなければ、毒の熱で脳が焼き切れる。
「今、用意するね!」
亜美が立ち上がり、洗面所へと走った。
氷嚢と、飲み水を用意するためだ。
キュッ。
蛇口をひねる音が、静かな店内に響いた。
だが、次に聞こえてきたのは、清涼な水音ではなかった。
ボコッ……ゴポッ……ジュルルル……。
まるで、詰まった下水管が逆流したような、粘着質な音。
「……え?」
亜美の、凍りついたような声。
俺は、霞む視界を無理やり洗面所へ向けた。
蛇口から吐き出されていたのは、透明な水ではなかった。
あの隅田川で見たのと同じ。
腐敗臭を放つ、ドロリとした「黒い汚水」が、洗面ボウルに垂れ落ちていた。
「……ダメ」
亜美が、絶望に震えながら後ずさる。
「ここにも……届いちゃってる」
毒海の言葉は、ハッタリではなかった。
ポンプ場から圧送された毒水は、すでに浅草の地下配管網を巡り、各家庭の蛇口にまで到達していたのだ。
飲み水はない。
傷を洗う水もない。
顔を洗うことすらできない。
エースである俺の感染ダウン。
そして、ライフラインの完全汚染。
清潔な水一滴すら手に入らない極限状況の中で、
俺の意識は、高熱と絶望の闇へと、完全に落ちていった。
(第25章へ続く)




