24-5:物理無効のガス状ボディ
「その蛇口、今すぐ閉めろォッ!!」
俺(玄)は、鉄製のキャットウォークを爆発音が出るほどの脚力で踏み切った。
間合いは一瞬でゼロになる。
毒海は動かない。
ガスマスクのレンズ越しに、哀れな虫を見るような目で俺を見ているだけだ。
(ナメんじゃねえぞ、ヤブ医者!)
俺(玄)は、蒼い霊力を木刀に過剰なほど注ぎ込んだ。
狙うは、そのふざけたガスマスクの眉間。
鉄兜だろうが岩だろうが両断する、鬼神の一撃。
「“神速・断ち”ッ!!」
ヒュンッ!!
空気が鳴いた。
木刀の軌道は完璧だった。
毒海の頭蓋を粉砕し、脳漿ごと吹き飛ばす――その確かな手応えが、掌に返ってくるはずだった。
だが。
スカッ……。
「……は?」
俺(玄)の体勢が、勢い余って崩れかける。
斬った。確かに斬ったはずだ。
だが、木刀は毒海の身体を、まるで「煙」でも払うかのように素通りしていた。
目の前の毒海が、ゆらりと揺らぐ。
次の瞬間、彼の白衣が、肉体が、そしてガスマスクまでもが、輪郭を失い――
プシューッという音と共に、濃密な「紫色の毒霧」となって弾け飛んだのだ。
「消えた……だと!?」
俺(玄)が驚愕する間もなく、紫色の霧は生き物のように渦を巻き、頭上の排気ダクトの中へと吸い込まれていった。
『ククク……ハハハハハ!』
施設全体に、反響する笑い声が響き渡る。
それはスピーカーからではない。
天井を走る配管、壁に埋め込まれたダクト、足元のグレーチングの下。
四方八方の「管」そのものから、毒海の声が聞こえてくるのだ。
『物理攻撃ですか? 前時代的ですねぇ。……私の体は、状況に応じて液体にも、気体にもなれる』
ゴウン……ゴウン……!
周囲の配管が、脈打つように振動を始めた。
『ここは私の領域です。このポンプ場のすべてのパイプ、すべてのバルブは、私の血管であり、指先だ』
「姿を見せろ! 卑怯者!」
俺が叫ぶと、毒海は冷ややかに告げた。
『捕まえられますか? ……この入り組んだ“パイプ迷宮”の中に潜む、空気を』
シュゴオオオオオッ!!
突如、俺の背後の配管から、高圧のジェット噴射音が鳴り響いた。
「後ろか!」
振り返った瞬間、バルブが勝手に回転し、そこからカッターのように鋭い「高圧の毒水」が噴射された。
「くっ!」
俺(玄)はとっさに木刀でガードするが、衝撃で身体が吹き飛ばされる。
ただの水圧じゃない。鉄板すら切断するほどの威力だ。
「愁さん! 上です!」
詩織の悲鳴。
見上げれば、頭上のスプリンクラーや蒸気口が一斉に開いていた。
ブシュウウウウウウウッ!!
噴き出したのは、水ではない。
白く濁った、超高温の「酸の蒸気」だ。
『害虫駆除の時間ですよ』
「ちィッ! 詩織、結界だ!」
「はい! 急急如律令、壁!」
詩織が亜美を抱きかかえ、即座にドーム状の防護結界を展開する。
俺も転がり込むようにその中へ退避した。
ジュウウウウ……!
結界の外側を、酸の蒸気が白く焼き焦がしていく。
視界が真っ白に染まり、方向感覚が狂わされる。
「安全地帯だと思ったか?」
毒海の声が、今度は足元のグレーチングの下から響いた。
「気体の浸透圧を舐めないでいただきたい」
スゥゥゥ……。
結界の内部に、甘ったるい刺激臭が漂い始めた。
防げない。
物理的な攻撃や呪いの波動なら弾ける結界も、空気そのものに混じり込んだ「ガス」までは完全に遮断できないのだ!
「げほっ、ごほっ……!?」
亜美が激しく咳き込む。
「喉が……焼ける……!」
「詩織! 結界が破られてるぞ!」
「違います! ……粒子が細かすぎて、霊的な網の目をすり抜けてくるんです!」
詩織の顔も赤い。目から涙が溢れている。
このガス、ただの毒じゃない。粘膜を焼く催涙ガスと、神経毒の混合物だ。
(おのれ……ッ!)
玄さんが呻く。
斬ろうにも、敵は配管の中を高速で移動する「気体」だ。
刀で煙は斬れない。
それどころか、この狭い通路では、迂闊に暴れれば配管を破壊し、さらなる毒ガスを撒き散らすことになりかねない。
『逃げ場はありませんよ。ここは密閉された手術室だ』
キキキキキッ!!
四方八方のバルブが一斉に軋む音を立てた。
前後左右、そして上下。
すべての穴という穴が、俺たちに狙いを定めている。
『さあ、消毒を始めましょう』
ドオォォォォォンッ!!
全方位からの同時噴射。
高圧の水流と、灼熱の酸蒸気、そして致死性の毒ガスが、嵐のように俺たちを襲った。
「ぐあああああっ!!」
結界が軋み、ヒビが入る。
俺(玄)は木刀を風車のように振り回し、迫りくる水流を弾き飛ばすが、気体はどうしようもない。
吸い込むたびに肺が焼け、皮膚がただれていく。
(クソッ! 手も足も出ねえとはこのことか!)
物理無効の身体に、地形効果を最大に生かした攻撃。
この「パイプ迷宮」において、毒海は無敵に近い存在だった。
俺たちの命が、毒の霧の中でジリジリと削り取られた。




