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24-3:静まり返った施設


浅草の南端、蔵前エリア。


隅田川沿いにひっそりと佇む、古びたコンクリートの塊。


それが、東京都水道局のポンプ場だった。


普段は無人で自動運転されているはずのその施設は、今、異常事態を告げる赤色回転灯に照らされ、けたたましい警報音を夜空に撒き散らしていた。


ウゥゥゥゥ――ッ!! ウゥゥゥゥ――ッ!!


「ここか……!」


俺はフェンスを乗り越え、敷地内へと着地した。


周囲を見渡すが、警備員の姿すらない。おそらく、有毒ガスを感知して避難したか、あるいは――。


「はぁ……はぁ……っ! 愁、さん……!」


背後から、荒い息遣いが聞こえた。


詩織と亜美だ。


混乱を極める大通りを避け、裏路地を全力で走ってきたのだろう。二人とも髪は乱れ、肩で息をしている。特に体力のない亜美は、詩織に支えられながら膝をつきそうだ。


「無事か! よく追いついたな」


「なんとか……。でも、匂いが……ここまで漂ってきます!」


詩織が顔をしかめる。


施設の換気口からは、あの隅田川で嗅いだのと同じ、腐った卵と甘ったるい化学薬品の臭気が、白煙となって漏れ出していた。


「亜美、音はどうだ?」


俺が尋ねると、ヘッドホンをした亜美は、呼吸を整えながら、青ざめた顔で施設の奥――巨大な配管が集中する建屋を指差した。


「……あそこ。一番奥の建物から、あの『ドクン、ドクン』って音が聞こえる」


「間違いないな」


俺は頷き、建屋の裏口へと回った。


鉄製の重厚な扉には、「立入禁止」の札と、厳重な電子ロックがかかっている。


「……邪魔だ」


俺は、霊力を右足に込めた。


物理的な鍵など、今の俺たちには何の意味もない。


ドォォォン!!


一撃。


分厚い鉄扉が、蝶番ちょうつがいごとひしゃげて吹き飛んだ。


ぽっかりと空いた暗闇の入り口から、濃密な瘴気が「ヒュオオオ……」と音を立てて噴き出してくる。


(行くぞ、小僧。……毒の壺へご案内だ)


「ああ。息を止めてついて来い!」


俺たちは、ハンカチで口元を覆い、魔窟と化した施設内へと足を踏み入れた。


内部は、まるで巨大な生物の体内のような様相を呈していた。


天井を這う無数の配管。


壁に張り付いた計器類。


そして、足元のグレーチングの下を流れる、ドス黒く変色した水路。


ゴウン……ゴウン……シュウゥゥ……


巨大なポンプが稼働する重低音と、配管から蒸気が漏れる音が、反響して鼓膜を圧迫する。


人の気配は全くない。


死のような静寂と、機械の騒音が同居する、不気味な空間だった。


「……ひどい瘴気です」


詩織が、御札を握りしめながら周囲を警戒する。


「この空間自体が、一つの『結界』になっています。……毒の結界です。呼吸をするだけで、体力が削られていく……」


「長居は無用だな。亜美、どっちだ!」


「こっち! ……もっと下!」


亜美の先導で、俺たちは迷路のような通路を駆け抜けた。


階段を降りるたびに、空気は重く、湿り気を帯びていく。


壁や床には、蛍光色の粘液がベッタリと付着し、触れたコンクリートを溶かして煙を上げている。


(まるで、病に侵された血管の中だな)


玄さんが、嫌悪感を露わにして呟く。


(本来なら、清らかな水を街へ送るための血管だ。それをこんな……ヘドロで詰まらせやがって)


俺たちは、地下3階相当の最深部へと辿り着いた。


目の前には、今までとは比べ物にならないほど巨大な、防音扉が立ちはだかっていた。


その扉のプレートには、こう記されている。


『中央管理室 兼 第1配水タンク』


「……ここだ」


亜美が、確信を持って言った。


「この向こうから……一番大きな“心臓の音”がする」


俺は詩織と目配せをし、木刀を構えた。


深呼吸をする。肺に入ってくる空気は毒だが、構うものか。


この扉を開ければ、そこに元凶がいる。


「開けるぞ!」


俺はドアノブを蹴り飛ばし、勢いよく扉を押し開けた。


プシュウウウウウウウッ!!


気圧差で猛烈な風が吹き荒れる。


その向こうに広がっていたのは、広大な地下空間だった。


体育館ほどもある広い部屋の中央に、巨大なプールのような「貯水タンク」が鎮座している。


だが、そこに湛えられているのは、透明な上水ではない。


あの隅田川と同じ、いや、それ以上に濃度を高めた、極彩色の毒液だった。


ボコッ、ボコッ、ボコッ……。


タンクの水面が不気味に波打ち、有毒ガスを充満させている。


そして、そのタンクを見下ろすキャットウォークの上に、一人の男が立っていた。


白衣に、ガスマスク。


手にはガラスのフラスコを持ち、眼下の毒の海を、我が子を見るような慈愛に満ちた目で見つめている。


「……素晴らしい」


ガスマスクの奥から、くぐもった声が漏れた。


警報音が鳴り響く中、その男の周りだけが、奇妙に静まり返っているように感じられた。


水質検査チェック、完了。……毒性、浸透圧、呪詛濃度、すべて基準値を超えています」


男――「毒海どっかい」は、フラスコの中身をタンクへと注ぎ込んだ。


ジュワッ!


一滴の雫が落ちただけで、タンク全体が反応し、さらにどす黒く変色する。


「さあ、行きなさい。……私の可愛い子供たち(ウイルス)よ。浅草の隅々まで、そのを届けておあげ」


男が操作盤のレバーに手を掛ける。


あれを引けば、この高濃度の毒水が、一気に各家庭へと圧送される。


「そこまでだ、ヤブ医者ァッ!!」


俺は叫び、キャットウォークへと跳躍した。


男の手が止まる。


ゆっくりと、ガスマスクのレンズがこちらを向いた。


「おや。……毒海どっかい様の実験動物モルモットが、もう迷路を抜けてきましたか」


自分自身を「様」付けで呼ぶ、狂気じみた陶酔を含んだ声。


俺たちを侵入者としてすら見ていない。ただの実験の不確定要素として処理しようとする、冷徹で傲慢な科学者の目だ。


「ここがお前の処刑台だ、毒海!」


俺は木刀を突きつけた。


背後で詩織が結界を展開し、亜美を守る。


役者は揃った。


毒ガスと機械音に満ちた地下の密室で、最後の決戦が始まる。

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