24-2:汚染源の特定(蔵前)
阿鼻叫喚の雷門を背に、俺は浅草の街を逆走した。
逃げ惑う人々の波をかき分け、路地を抜け、息を切らして隅田川テラス(親水テラス)の階段を駆け上がる。
普段なら、ライトアップされたスカイツリーと、川面を渡る屋形船の提灯が織りなす、東京屈指の夜景スポットだ。
だが、手すりに手をかけ、眼下を見下ろした俺の目に映ったのは、この世の終わりのような光景だった。
「……ッ、なんだ、これ……」
そこは、死の川だった。
かつて「水の都」の象徴だった隅田川は、見るも無惨な姿に変貌していた。
視界いっぱいに広がるのは、蛍光色の緑と、どす黒い紫がマーブル模様を描いて蠢く、巨大なヘドロの帯。
ボコッ、ボコボコッ……。
川全体が、強酸の鍋のように泡立ち、弾けるたびに黄色い有毒ガスを噴き上げている。
そして、何より酷いのが「臭い」だ。
腐った卵と、鼻を突く化学薬品、そして何十年もドブの底に溜まっていた汚泥をミキサーにかけたような、脳髄を直接犯す悪臭。
俺は口元を腕で覆いながら、手すりを乗り越えた。
「……くそっ! どいつだ! どこに隠れてやがる!」
俺は霊力を足裏に集中させ、汚染された水面に着地した。
ジュッ……ジュワァ……!
靴底が悲鳴を上げる。霊力のコーティングがなければ、一瞬で足首まで骨になっていただろう。
俺は、ヒリヒリと肌を焼く瘴気の中で、目を凝らして川面を見渡した。
溶けかかった水上バスが傾き、沈んでいく。
無数の魚が白い腹を見せて浮いている。
だが――肝心の「敵」がいない。
「どこだ……!? 川底か!? それとも上流か!?」
川は広すぎる。
それに、ヘドロのような濁流と立ち上るガスが視界を遮り、発生源(元栓)が特定できない。
ただ闇雲に探している間にも、毒水は水位を上げ、テラスを乗り越え、浅草の街を浸食し続けている。
一刻の猶予もない。
(小僧! 落ち着け! 闇雲に走っても埒が明かねえ!)
焦る俺を一喝したのは、脳内の玄さんだった。
(敵は姿を見せねえ。……なら、見つける方法は一つだ。俺たちには“最強の耳”を持った仲間がいるだろうが!)
ハッとして我に返る。
そうだ。雷門には、亜美がいる。
ついさっき、ネットの海から犯人を引きずり出した、あの神がかり的な聴覚があれば!
俺は防水仕様のスマホを取り出し、震える指で詩織に発信した。
頼む、繋がってくれ。
ワンコール。即座に、詩織の声が聞こえた。
『愁さん! ご無事ですか!?』
「俺は平気だ! だが、敵が見つからない! 川全体が腐ってて、発生源が絞り込めねえんだ!」
俺は、視界を遮る有毒ガスを手で払いながら、スマホに向かって叫んだ。
「亜美に代わってくれ! 彼女の耳なら、この毒の発生源が分かるはずだ!」
『分かりました! 亜美ちゃん!』
ガサゴソとスマホが手渡される音がして、すぐに亜美の切羽詰まった声が聞こえた。
『……愁さん!』
「亜美! すまない、また頼るぞ。ヘッドホン、着けてるな?」
『うん、着けてる。……ノイズは消えてるから、大丈夫』
亜美の声は、恐怖に震えてはいたが、芯はしっかりとしていた。
彼女はもう、守られるだけの少女じゃない。
「そのヘッドホンで、隅田川の方角……いや、この辺り一帯の音を探ってくれ。普通の水の音じゃない、“異質な音”がしているはずだ!」
『……分かった。やってみる』
電話の向こうで、亜美が深く息を吸い込む気配がした。
雷門の大提灯の下。高い台座の上から、彼女は意識を研ぎ澄まし、ノイズキャンセリング機能で雑音を削ぎ落としたクリアな世界で、「敵の音」を探し始める。
数秒の沈黙。
その間にも、目の前で、川に落ちた野鳥が断末魔を上げて溶けていくのが見えた。
焦燥感で心臓が破裂しそうだ。
その時。
『……あった』
亜美が、短く呟いた。
『聞こえる……。川の中じゃない。もっと、規則的な……機械の音』
「機械の音?」
『うん。ドクン、ドクンって……。まるで、すごく大きな心臓みたいな音。……何かを吸い上げて、吐き出してる』
亜美の言葉に、俺の背筋が凍る。
吸い上げて、吐き出す。
それは、ただのタレ流しじゃない。
意図的に循環させるための「ポンプ」の動きだ。
『場所は……ここ(雷門)から見て、南。……蔵前の方角』
『川沿いにある、古いコンクリートの建物の中から……その音が、一番大きく響いてる!』
「南……蔵前……コンクリートの建物……」
俺の脳裏に、地図が浮かび上がる。
そこにある施設は、一つしかない。
「まさか……!」
『愁さん、代わりました! 詩織です!』
再び詩織が電話口に出た。
『今、亜美ちゃんが言った場所を霊視しました。……間違いありません!』
詩織の声が、恐怖で裏返る。
『そこは……「水道局のポンプ場」です! 地下深くに張り巡らされた上水道の配管網が、まるでどす黒い“呪いの血管”のように脈打っています!』
「上水道だって!?」
俺は絶句した。
川を汚しているのは、あくまでタンクから溢れ出した「余剰分」に過ぎない。
敵の本当の狙いは、川ではない。
この街の人々が生きていくために不可欠な、もっと致命的な場所――。
『敵は、そこにある巨大な浄水ポンプを乗っ取っています! 地下の瘴気を吸い上げ、毒と混ぜ合わせ……それを、浅草中の家庭へ圧送しようとしています!』
その事実を理解した瞬間。
俺の脳内で、何かが「ブチッ」と切れる音がした。
玄さんだ。
今まで感じたことのない、氷のように冷たく、けれど底知れない「殺意」が、俺の全身を一気に支配する。
(……てめぇら……ッ!)
玄さんの激昂が、俺の口をついて出る。
(井戸に毒を撒くのが……どれだけの重罪か分かってんのか!)
玄さんの声は、怒りを超えて、冷徹な「断罪」の響きを帯びていた。
(江戸の昔、井戸は長屋の命綱だった。それを汚すってことは、女子供、年寄り……そこに住む全ての命を、苦しめて殺すってことだ)
(武士の風上にも置けねえ。いや、人としての一線を超えてやがる)
ドクンッ!!
俺の体から、制御できないほどの霊力が噴き出す。
水面が波立ち、毒ガスが吹き飛ばされる。
(そんな外道はな……市中引き回しの上、獄門だぞ!!)
獄門。
単なる死刑ではない。打ち首にし、その首を晒し者にする、極刑中の極刑。
かつて「仕事人」として数々の悪党を斬ってきた玄さんが、最も許せない一線。
それを、奴らは踏み越えた。
「……ああ、同感じゃねえか、玄さん」
俺は、スマホを握り潰しそうなほど強く握りしめ、蔵前の方角へと身体を向けた。
「亜美、よくやった! お手柄だ!」
「詩織ちゃん! 場所は分かった! 俺もすぐに向かう! 現地で合流してカチ込むぞ!」
『はい! 亜美ちゃんも連れて、私たちも向かいます!』
俺は汚染された川岸を思い切り蹴り、陸地へと飛び上がった。
靴底から立ち上る白煙など気にも留めず、アスファルトを砕く勢いで疾走する。
もう、「テロの阻止」なんて生易しい言葉じゃ済まされない。
これは「処刑」だ。
人々の命綱を握り、それを汚した万死に値する罪人への、執行猶予なしの死刑執行だ。
待ってろよ、毒使い。
その汚い首、綺麗な水で洗って待ってやがる!




