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第24章:隅田川、腐敗する ~毒と水、見えない侵食~ 24-1:阿鼻叫喚の観光地


ライブ配信による大逆転劇から、数十分後。


深夜の浅草・雷門前には、奇妙な高揚感と、祭りの後のような心地よい疲労感が漂っていた。


大提灯から噴き出していた黒い瘴気は霧散し、朱塗りの柱はいつもの威厳を取り戻している。


配信を見て駆けつけたファンや、誤解が解けて戻ってきた近所の人々が、遠巻きに俺たちに手を振ったり、写真を撮ったりしている。


「終わったな、愁さん」


詩織が、張り詰めていた糸が切れたように、深い安堵の息を漏らした。


「うん。……嫌な音、もう聞こえない」


亜美も、特製のヘッドホンを首にかけ、少しはにかんだような、年相応の少女の笑顔を見せている。


俺は、熱を持ったスマートフォンをポケットに仕舞い、大きく伸びをした。


勝ったのだ。


顔の見えない悪意に、俺たちの「意地」が勝った。


「お腹、空きましたね」


「そうだな。今日は店の大福じゃなくて、美味いもんでも食いに行くか。……玄さんも、祝い酒が飲みたいだろうしな」


そんな、ありふれた会話。


守り抜いた日常の暖かさが、戦いでささくれ立った神経をゆっくりと解きほぐしていく。


――はずだった。


プァァァァ……ン……


不意に、東の方角から重苦しい音が響いた。


船の汽笛だ。


だが、それは観光客を楽しませる水上バスの軽やかな音色ではない。


まるで、深海に潜む巨大な海洋生物が、瀕死の状態で上げている断末魔の呻き声のような、腹の底に響く不気味な重低音だった。


「……なんだ、今の音」


俺は眉をひそめ、東――スカイツリーがそびえる隅田川の方角を振り返った。


夜風が吹いた。


いつもなら、川の水面を渡ってくる風は、湿り気を帯びた涼しいものだ。


だが、今の風は違った。


「……うっ」


隣で、詩織が咄嗟に鼻と口を袖で覆った。


風に乗って漂ってきたのは、鼻の粘膜を直接焼くような、強烈な刺激臭だった。


腐った卵と、甘ったるい化学薬品、そしてドブの底に何十年も溜まった汚泥をミキサーにかけたような、吐き気を催す悪臭。


「なんだ、この匂い……ガス漏れか?」


「くさっ! 何だよこれ!」


周囲の観光客たちも、異変に気づいてざわめき始める。


ハンカチで口を覆う者、顔をしかめて周囲を見回す者。


だが、そのざわめきは、またたく間に悲鳴へと変わった。


「きゃああああああっ!!」


「逃げろ! 何か来るぞ!!」


「水だ! 水が溢れてきた!!」


雷門前の交差点。その向こう側から、人々が雪崩を打って逃げてくる。


転倒する者、靴が脱げるのも構わずに走る者。


パニックに陥った群衆の背後から、それは「ぬらり」と姿を現した。


「……津波、か?」


いや、違う。


俺は目を凝らした。


それは、波と呼ぶにはあまりにも遅く、そして粘着質だった。


アスファルトの道路を覆い尽くして迫ってくるのは、蛍光色の緑と紫が混ざり合った、ドス黒い液体だった。


水位はくるぶしほどもない。


だが、その液体は、まるで意思を持ったスライムのように、道路の傾斜を無視して広がり、逃げ遅れた人々の足を狙って這い寄ってくる。


ジュッ……ジュワァ……!


液体が触れるたび、舗装されたアスファルトから白い煙が上がる。


石が溶ける音だ。


ただの水ではない。強酸か、あるいはもっとタチの悪い何かだ。


「うわぁぁぁっ!! 俺の人力車が!!」


逃げ遅れた若い車夫が、商売道具である人力車を引こうとして、その「黒い水」に足を踏み入れた。


その瞬間だった。


「ぎゃあああああああああっ!!」


夜の浅草を、人間のものとは思えない絶叫が切り裂いた。


「足が! 足が焼けるぅぅ!!」


車夫が転倒し、のたうち回る。


俺は戦慄した。


彼が履いていた厚手の地下足袋が、瞬く間にドロドロに溶解し、剥き出しになった皮膚が、見るも無惨な紫色に変色していく。


ただの火傷じゃない。


皮膚の下でボコボコと何かが沸騰し、葡萄ぶどうのような不気味な水疱が、足全体を覆い尽くしていく。


「なっ……! 毒水か!?」


「いえ、あれは……『呪毒じゅどく』です!」


詩織が叫ぶ。


彼女の視界には、その液体から立ち上る、禍々しい瘴気の色が見えているのだろう。


「ただの汚水じゃありません! 触れたものの生命力を腐らせる、強力な呪いが込められています!」


黒い波は、止まらない。


道路標識の鉄柱を溶かし、ガードレールを飴細工のように曲げながら、じわじわと雷門の広場へと侵食してくる。


「あ……あぁ……!」


隣で、小さな悲鳴が上がった。


亜美だ。


彼女は、さっきまで笑顔だったのが嘘のように顔面蒼白になり、ガタガタと震え出していた。


「亜美! どうした!」


彼女は両手でヘッドホンを強く耳に押し付けていた。


だが、防げない。


物理的な音ではない「何か」が、彼女の脳を直接揺さぶっているのだ。


「痛い……痛いよぉ……!」


亜美はその場にうずくまり、激痛に身をよじった。


「水の音が……叫び声に聞こえるの……!」


「叫び声?」


「『苦しい』『溶ける』『死にたくない』って……! 川が……水の中の生き物たちが、みんな泣き叫んでる……!」


(……ッ!)


俺の中で、げんさんの殺気が爆発的に膨れ上がった。


(聞こえるぜ、小僧。……隅田川かわの悲鳴だ)


玄さんの声は、怒りで低く震えていた。


(魚も、水鳥も、川に宿る精霊たちも……みんな、あの毒水に焼かれて死んでいく。……これは、大量虐殺だ)


俺は歯噛みした。


「炎上」で心を攻められた次は、「汚染」で肉体と土地そのものを殺しに来たか。


天領会四天王。


どいつもこいつも、やり口が陰湿で、吐き気がするほど残虐だ。


ジュワワワ……!


黒い波が、ついに雷門の石畳にまで達しようとしていた。


逃げ場を失った観光客たちが、パニックを起こして押し合いへし合いになっている。


このままじゃ、将棋倒しで二次被害が出る。


それに、あの水に少しでも触れれば、一般人は重篤な後遺症を負うか、最悪死ぬ。


「くそっ!」


俺は、蹲る亜美を横抱きにし、詩織の腕を掴んだ。


「逃げるぞ! ここじゃ防ぎきれない!」


俺は霊力を足に込め、雷門の巨大な柱を蹴った。


一足飛びに、赤い大提灯の下――少し高くなっている石の台座の上へと飛び乗る。


ここなら、地面を這う汚水は届かない。


「はぁ、はぁ……!」


「亜美さん、大丈夫!?」


詩織が亜美の背中をさする。亜美は脂汗を流し、うわ言のように「痛い」と繰り返している。


この場所に留まること自体が、彼女にとっては拷問だ。


「詩織! ここを頼む!」


俺は、亜美を詩織に預け、台座の縁に立った。


「えっ? 愁さん、どこへ!?」


「元凶を叩く!」


俺は、異臭の漂ってくる方角――真っ暗な闇に沈んだ隅田川の方角を睨み据えた。


「この水、ただの垂れ流しじゃねえ。……意思を持って俺たちを狙ってきてやがる。誰かが操ってなきゃ、こんな動きはしない!」


俺の目には、黒い波の向こう側に伸びる、どす黒い「呪いのライン」が見えていた。


その先には、この地獄絵図を描いている画家がいるはずだ。


「待っててください。……このふざけた蛇口、俺がねじ切って止めてきます!」


(行くぞ、小僧! ……江戸の水を汚した罪、万死に値する!)


「おう!!」


俺は、石の台座を強く蹴った。


迫りくる黒い波の上を、霊力でコーティングした靴底で滑るように駆け抜ける。


目指すは隅田川テラス。


腐敗と死の匂いが充満する、汚染の源流へ。


阿鼻叫喚の観光地を背に、俺は夜の闇へと疾走した。

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