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20-3:四天王「虚(ウツロ)」の宣告


黒い蟲の幻影が霧散した後も、店内の空気は重く澱んだままだった。


幻覚だと分かっていても、肌の上を這い回るような感触が消えない。


母さんはショックでへたり込んだままだし、詩織も警戒を解かずに周囲を睨んでいる。


「……誰だ。誰がこんな真似を……」


俺は、誰もいない空間に向かって呻いた。


ネットの悪意を利用した「蟲毒」。


そんな陰湿な術を使う奴が、近くに潜んでいるはずだ。


その時だった。


ザザッ……ザザザザッ……!!


突然、店内の壁に設置されていたテレビが、勝手に電源が入った。


同時に、俺と詩織のスマートフォン、さらには店内のBGM用スピーカーまでもが、一斉に不快なノイズを吐き出し始めた。


「な、なんだ!? 今度は何だ!」


「ジャックされています……! 電波ラインを強制的に乗っ取られてる!」


詩織が叫ぶ。


テレビ画面の砂嵐が激しく点滅し、やがて一人の「人影」を結んだ。


『――ヒヒ……』


スピーカーから、擦りガラスを爪で引っ掻くような、不快な笑い声が響く。


『驚いたかい? 浅草の英雄さん』


画面に映し出されたのは、奇妙な男だった。


背景は真っ暗闇。


男は、和装のようなダボついた服を着ているが、その顔は――「顔」がなかった。


顔の部分だけが、粗いモザイクのようなデジタルノイズで覆われ、表情が全く読み取れない。


ただ、そのノイズの奥から、爬虫類のような二つの眼光だけが、ギョロリとこちらを覗いていた。


「テメェ……誰だ!」


俺がテレビに向かって吠える。


男は、クククと肩を揺らした。


『名は「ウツロ」。……天領会われらが四天王の“二席”を預かる者だ』


「天領会……! やっぱり、あの御門の手下か!」


昨日の風水建築士は、グラン・アーバンの手先だった。


だが、こいつは違う。


玄さんを殺した因縁の呪術組織、「天領会」の幹部だ。


『手下、とは心外だねぇ。私はただの“演出家”さ』


虚と名乗った男は、画面の中で大袈裟に両手を広げた。


『昨日の風水師は、いささか無粋ぶすいだったろう? 重機だの、物理破壊だの……。現代いまの時代、そんな野蛮なやり方は流行らない』


男が指を鳴らすと、画面の端に、SNSのタイムライン――俺の店を誹謗中傷するコメントの嵐が、滝のように流れた。


風水ぶつりがダメなら、世論くうきで潰すまで。……どうだい? 私が用意した“蟲”の味は』


「あの蟲は……やっぱり、お前の仕業か!」


『ああ。現代人はお喋りだ。ネットという壺の中に、毎日毎日、誰かの悪口どくを溜め込んでいる』


虚の声には、人間という種族全体を嘲笑うような響きがあった。


『私は、その壺の蓋を少し開けて、君の店に誘導してやっただけさ。……「言霊ことだま」とはよく言ったものだ。数万人の「汚い」「気持ち悪い」という言葉は、物理的な毒よりも深く、現実を浸食する』


「ふざけるな……! ネットのデマを利用して、人を呪うなんて……!」


詩織が憤る。


だが、虚は動じない。


『デマ? ハハハ! それを誰が証明できる?』


虚が画面越しに、俺たちを指差した。


『一度貼られたレッテルは、刺青タトゥーのように消えない。君たちがいくら潔白を叫んだところで、世間は「火のない所に煙は立たない」と笑うだけさ』


その言葉は、鋭い刃物となって俺の胸を抉った。


今朝の、商店街の人々の冷たい視線。


何十年も築き上げてきた信用が、たった一晩の「書き込み」で崩れ去った事実。


それが、こいつの言う「現代の呪術」の正体だ。


『単刀直入に言おう。……お前たちの居場所は、もう浅草にはない』


虚の声が、スッと低く、冷たくなった。


『このまま店にしがみつけば、明日はもっと酷い“噂”が立つぞ? ……食中毒の次は、何がいいかな。異物混入? それとも、店主おやじの過去の犯罪歴の捏造ねつぞうか?』


「きさまッ……!」


『社会的に死ぬか。……それとも、大人しく立ち退いて、タワー建設を認めるか』


究極の二択。


いや、これは選択ですらない。一方的な死刑宣告だ。


『選べ。……もっとも、選ぶ権利など残っていないと思うがね』


ヒヒヒ……ヒヒヒヒヒ……!


不快な嘲笑を残し、プツン、と唐突に通信が切れた。


テレビ画面は元の真っ黒な状態に戻り、スピーカーのノイズも止んだ。


だが、残された絶望感は、さっきよりも深まっていた。


「あ……う……」


ドサリ。


後ろで音がした。


振り返ると、母さんが白目を剥いて倒れていた。


「母さん!!」


俺は慌てて駆け寄る。


呼吸はある。だが、顔色は土気色で、全身が冷え切っている。


蟲の幻覚と、テレビからの脅迫。


一般人である母さんの精神は、もう限界を超えていた。


「母さん! しっかりしろ! 母さん!」


揺さぶっても反応がない。


詩織がすぐに脈を診る。


「……ショック状態で、気が動転しています。霊的な当てられ方もしていますが……これは、精神的なダメージが大きすぎます」


「クソッ……!」


俺は、意識のない母さんを抱きしめながら、床を拳で殴りつけた。


昨日は店を壊され、今日は母さんの心を壊された。


それも、姿すら見せない、画面の向こうからの攻撃で。


重機なら壊せる。


術者なら斬れる。


だが、「世論」や「空気」なんていう、実体のないものを、どうやって斬ればいいんだ!?


(……腐った根性しやがって)


俺の脳内で、玄さんがギリギリと歯ぎしりをする音が聞こえた。


彼もまた、かつてないほどの怒りに震えている。


(姿を見せねえでコソコソと……。正々堂々名乗りも上げず、安全な場所から石を投げる)


(一番、気に食わねえ手合いだ!)


玄さんの怒りは、俺の怒りだ。


卑怯? ああ、そうだ。


だが、それ以上に許せないのは、こいつらが「人の言葉こころ」を、ただの凶器として扱っていることだ。


俺たちは、またしても負けたのか。


何もできずに、このまま社会的に抹殺されるのを待つしかないのか。


母さんの寝顔を見つめながら、俺の中には、無力感と、それを焼き尽くすほどの殺意だけが渦巻いていた。

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