20-2:実体化する噂(虫の幻影)
朝日が昇りきり、仲見世通りに人通りが増え始めても、俺は動けずにいた。
シャッターを埋め尽くす無数の「卒塔婆」のような張り紙。
そこに書き殴られた『人殺し』『食中毒』という呪詛の文字。
それを遠巻きに見つめる視線が、物理的な痛みのように俺の背中に突き刺さる。
「……おい、あれ見ろよ」
「うわぁ、凄いことになってる……。ネットで見たけど、マジだったんだ」
「火のない所に煙は立たないって言うしねぇ……」
ヒソヒソと交わされる会話が、風に乗って鼓膜を撫でる。
観光客だけじゃない。
俺が子供の頃から知っている、近所の乾物屋の親父さんや、土産物屋のおばさんまでもが、俺と目が合うと気まずそうに視線を逸らし、足早に通り過ぎていく。
「……なんでだよ」
俺は唇を噛み締めた。
昨日の今日だ。店が壊された事情だって、なんとなく察してくれてもいいはずだ。
今まで何十年も、この街で一緒に商売をしてきた仲間じゃないか。
それなのに、たった一晩。
ネットにばら撒かれた「匿名(どこの誰とも知れない奴ら)」の嘘の方が、俺たちとの「何十年もの付き合い」よりも信じられるっていうのか。
(……人はな、小僧。残酷な生き物だ)
脳内で、玄さんが静かに諭すように言った。
(「真実」よりも「面白い噂」を好む。「正義」よりも「安心」を欲しがる。……自分たちが被害を受けたくないから、標的になった奴を切り捨てる。それが世間の常だ)
「そんなの……あんまりだろ……!」
俺が拳を握りしめ、俯いたその時だった。
「きゃあああああああああっ!!!」
店の中から、鼓膜をつんざくような悲鳴が響いた。
「!?」
「母さん!?」
その声は、詩織でも亜美でもない。
腰を痛めて二階で休んでいるはずの、俺の母さんの声だった。
俺は弾かれたようにシャッターの勝手口を蹴破り、店内へと飛び込んだ。
「母さん! どうした!」
薄暗い店内を駆け抜ける。
悲鳴は、奥の調理場から聞こえた。
俺が暖簾をかき分けて厨房に入ると、そこには信じられない光景が広がっていた。
「い、いやぁっ! 来ないで! うわぁぁぁん!」
母さんが、床にへたり込み、腰を抜かしたまま後ずさりしている。
その視線の先。
普段は清潔に磨き上げられているはずの、ステンレス製の調理台やシンク、そして床一面が、
**「黒い波」**に覆い尽くされていた。
「な……んだ、これ……」
俺は息を呑んだ。
それは、波ではなかった。
生き物だ。
カサカサカサカサカサカサ……!
ジュルル、グチュ、カサカサ……!
耳障りな衣擦れのような音と、湿った粘液が動く音。
蠢いているのは、数え切れないほどの「蟲」だった。
ゴキブリ。ムカデ。ウジ虫。ハエ。
およそ人間が生理的嫌悪を抱くであろう、ありとあらゆる害虫たちが、調理場を埋め尽くしていた。
シンクから溢れ出し、まな板の上を這い回り、餡子の入ったバットに群がっている。
その数は、百や二百ではない。万の単位だ。
「う、嘘だろ……昨日は、一匹もいなかったぞ……!」
俺は吐き気を堪えながら、母さんの元へ駆け寄った。
母さんのエプロンにまで、黒い甲虫が這い上がろうとしている。
「母さん! 離れろ!」
俺は母さんを抱き起こし、その腕にたかったゴキブリを振り払おうと、思い切り叩いた。
スカッ。
「え?」
俺の手は、空を切った。
いや、違う。
俺の手のひらは、確かにゴキブリの背中を捉えたはずだった。
だが、感触がなかった。
俺の手は、黒い虫の体を「すり抜け」て、母さんの腕を叩いただけだった。
「……すり抜けた?」
俺は呆然と自分の手を見た。
虫は、潰れていない。
何事もなかったかのように、カサカサと母さんの腕を這い続けている。
「愁さん! 下がってください!」
背後から、詩織の声が飛んだ。
彼女は二階から駆けつけてきたらしく、手にはすでに数枚の御札が握られている。
その顔色は蒼白だが、目は冷静に状況を分析していた。
「詩織ちゃん! こいつら、叩けない! 幻覚か!?」
「いいえ、ただの幻覚じゃありません!」
詩織は、御札を調理台に向かって投げつけた。
「悪鬼羅刹、邪気退散!」
バチチチチッ!!
御札が触れた瞬間、黒い蟲の群れが、青白い火花を上げて弾け飛んだ。
肉片が飛び散るのではない。
黒い霧となって、空中に霧散したのだ。
「……やっぱり」
詩織は、確信を持ったように呟いた。
「これは実体のある虫ではありません。……呪力で具現化された“幻影”です」
「幻影……?」
俺は、床を埋め尽くす黒い絨毯を見る。
触れない。叩けない。
だが、その不快な羽音も、湿った光沢も、鼻をつく腐敗臭も、あまりにもリアルだ。
これを見せられたら、誰だって正気を保てない。
「母さん、大丈夫だ! これは本物じゃない!」
俺は震える母さんを支え、厨房の外へと避難させた。
母さんは「店が……店が……」と譫言のように繰り返している。
大切にしてきた職場が、こんな汚らわしいものに陵辱されたショックは計り知れない。
「詩織ちゃん、これは一体何の呪いだ? まさか、あの風水師の仕業か?」
「いえ、風水だけではこんな芸当はできません。これは……」
詩織は、霧散していく黒い霧を睨みつけ、忌々しそうに言った。
「『蟲毒』です」
「コドク?」
「古来より伝わる呪術です。壺の中に毒虫を何匹も入れ、共食いさせて、最後に生き残った一匹を使って相手を呪い殺す……。最も陰湿で、強力な呪いの一つです」
詩織は、スマホを取り出し、あの地獄のようなSNSの画面を表示した。
「でも、本来の蟲毒は、実物の虫を使います。……今回の媒体は、これです」
彼女が指差したのは、ネット上に溢れる誹謗中傷のコメント群だった。
『店が汚い』
『ゴキブリがいそう』
『衛生管理がなってない』
『虫が湧いてるんじゃないの?』
「……ネット上の“悪口”が、呪いの“虫”になったって言うのか?」
「そうです。SNSという巨大な“壺”の中で、何万という人間の悪意が共食いをし、増幅され……それが、強力な呪力となって、この場所に“幻影”として投影されているんです」
俺は戦慄した。
昨日の「卒塔婆」は、単なる嫌がらせの張り紙だった。
だが、これは違う。
ネット上の「デマ」を、呪術によって強制的に「現実」に上書きしているんだ。
人々が「店が汚い」と噂すれば、本当に汚い虫が湧く。
「食中毒だ」と騒げば、本当に毒が発生するかもしれない。
これは、現実を侵食する「認識災害」だ。
「見ろ、愁。……あそこだ」
俺の中から、玄さんの声が聞こえた。
俺の視線が、調理場の換気扇に向けられる。
そこには、一匹の奇妙な虫が張り付いていた。
他のゴキブリやムカデとは違う。
人間の指くらいの大きさの、真っ白な蜘蛛だ。
その背中には、天領会の紋章――「三つ巴」が刻まれている。
(あれが“親虫”だ。……あいつがネットの悪意を受信して、この幻影を産み続けてやがる)
「あの野郎……!」
俺は近くにあった麺棒をひっ掴み、その蜘蛛めがけて投げつけた。
だが、白い蜘蛛は、フッとかき消えるように姿を消した。
瞬間移動か、あるいはそれ自体が映像だったのか。
残されたのは、再び湧き出し始めた黒い蟲の群れと、母さんの嗚咽。
そして、店の外から聞こえる、「やっぱりあの店、何か変よ」「保健所に通報した方がいいんじゃない?」という、近所の人々の冷たい声だけだった。
店は汚された。
信用は地に落ちた。
俺たちは、社会という名の「結界」から弾き出され、孤立無援の檻の中に閉じ込められたのだ。




