第20章:汚された暖簾(のれん) ~見えない悪意と、実体化するデマ~ 20-1:デジタル・タトゥーの朝
風水建築士との激闘から、一夜が明けた。
浅草の朝は早い。
隅田川から流れてくる湿った風が、昨夜の戦いの火薬臭さを洗い流していくようだ。
空は突き抜けるような快晴。
早朝の仲見世通りには、まだ観光客の姿はなく、仕込みを始める店主たちが店先を掃き清める、リズミカルな箒の音だけが響いていた。
「……よし。今日もやるか」
俺――浅河愁は、実家である和菓子処『浅河』の前で、大きく伸びをした。
昨日の戦いで負った傷はまだ痛むし、全身の筋肉は悲鳴を上げている。
だが、心は驚くほど軽かった。
俺たちは勝ったのだ。
「工事」という名の暴力で俺たちの生活を破壊しようとした、あの卑劣な風水師を撃退した。
店の一部は壊されたままだが、修理の手配は済んだ。
詩織も亜美も無事だ。
何より、「俺たちは戦える」という自信が、不安を押しのけていた。
「親父は腰痛でダウンだしな。今日は俺が店を開けて、売り上げで修繕費の足しにしねえと」
俺は気合を入れ直し、店のシャッターに手を掛けようと近づいた。
見慣れた、錆びついた金属製のシャッター。
そこに手を触れようとした、その瞬間。
「……あ?」
俺の足が、無意識に止まった。
違和感。
視覚的な情報が脳に届くよりも早く、肌を刺すような「寒気」が、俺の本能にブレーキをかけたのだ。
「……なんだ、これ……」
俺は目を凝らした。
朝日が逆光になっていて、遠目にはよく見えなかったシャッターの表面。
近づいてみると、そこには「何か」が、ビッシリと張り付いていた。
ビラ? 広告の張り紙?
いや、違う。質感が違う。
紙のような薄っぺらいものではない。
厚みがあり、ザラザラとした……木片?
「うわっ……!?」
俺は、思わず半歩後ずさった。
それは、長さ15センチほどの、薄い木の板だった。
上部がギザギザに刻まれたその形は、墓場に立てられる「卒塔婆」そのものだ。
一枚や二枚じゃない。
数百、いや、数千枚。
まるで蛾の群れが壁に止まっているかのように、あるいはフジツボが船底を覆い尽くすかのように。
ミニチュアの卒塔婆が、店のシャッターの全面を隙間なく埋め尽くしていたのだ。
「な、なんなんだよ……これ……」
俺は恐る恐る、その一枚に顔を近づけた。
テープや糊で貼られた形跡はない。
木の板の根本が、まるで植物の根のように、硬い金属製のシャッターにめり込み、融合している。
物理的にありえない現象だ。
そして、そこに書かれている文字を読んだ瞬間、俺の全身の血の気が引いた。
『人殺しの店』
『毒入り饅頭』
『死ね』『死ね』『死ね』
『詐欺集団』
『反社フロント企業』
『浅草の恥さらし』
『穢らわしい』
『出て行け』
朱色の、血のようにドロリとした筆文字で書き殴られた、呪詛の数々。
一枚一枚、筆跡が違う。
震える字、達筆な字、子供のような字。
無数の「誰か」が、俺の店に対して、明確な殺意を向けている。
(……小僧。触るな)
脳内で、玄さんの鋭い警告が響いた。
(こいつは……ただの悪戯じゃねえ。……臭え。吐き気がするほど臭えぞ)
「玄さん……これは、呪いか?」
(ああ。だが、プロの呪術師が練り上げた洗練された術式じゃねえ。……もっと薄汚くて、ドロドロした……不特定多数の“雑多な悪意”の吹き溜まりだ)
不特定多数の、悪意。
その言葉の意味を理解する間もなく、俺のポケットの中で、スマートフォンが狂ったように暴れだした。
ブブブブブブブブブッ!!
ブブブブブブブブブッ!!
着信音ではない。通知のバイブレーションだ。
まるで、スマホそのものが発作を起こしたかのように、震えが止まらない。
俺は、嫌な予感に指を震わせながら、画面を点灯させた。
ロック画面を埋め尽くしていたのは、SNSアプリからの通知だった。
アイコンの右上に表示される未読バッジは、見たこともない「999+」という数字を表示して固まっている。
「……嘘だろ」
俺は、震える指でアプリを開いた。
トレンドワードのランキング。
そのトップ3を、見覚えのある単語が独占していた。
1位:#浅草_食中毒_隠蔽 2位:#殺人和菓子 3位:#浅河_反社
タップして開いたタイムラインには、地獄のような光景が広がっていた。
『【拡散希望】浅草の老舗和菓子屋「浅河」、賞味期限切れの餡子を使い回して食中毒出したってマジ? 友人が病院送りになったらしい』
『近所の人の証言入手。「夜な夜な黒塗りの車が止まって、ヤクザみたいな男たちが出入りしてる」。完全に反社のフロント企業じゃん』
『昨日、重機で店が壊されたのも、抗争の巻き添えだってさ。自業自得w』
『こんな危険な店、浅草から追い出せ!』
『店主の息子の写真特定しました。こいつ、大学でも評判悪いらしいぜ』
そこには、もっともらしい「証拠写真(フェイク画像)」や、ありもしない「被害者の声」が溢れかえっていた。
昨日の工事現場での騒ぎも、「反社同士の抗争」として、都合よくねじ曲げられて拡散されている。
スクロールしても、スクロールしても、罵詈雑言が終わらない。
俺の顔写真。店の住所。親父の名前。
個人情報が丸裸にされ、見知らぬ何万人という人間たちに、おもちゃのように弄ばれている。
「ふざけるな……! なんだよこれ……全部デタラメじゃないか!」
俺は叫んだ。
うちは真面目な和菓子屋だ。
材料にはこだわっているし、衛生管理だって徹底している。食中毒なんて創業以来一度も出したことない。
反社? 親父はただの頑固な職人だ。
俺だって、大学の講義をサボるくらいの悪さはするが、犯罪になんて手を染めたことはない。
なのに。
画面の向こうの、顔の見えない何万という人間たちが、俺たちを「極悪人」だと決めつけ、正義の鉄槌を振りかざしている。
「おい、あれ……」
「ここよ、ネットで話題の……」
背後で、ヒソヒソという声がした。
振り返ると、早朝の散歩をしていた近所の人々や、観光客たちが、遠巻きに俺の店を見ていた。
その目は、いつもの親愛に満ちた目ではない。
「汚いもの」を見るような、軽蔑と恐怖の入り混じった目だ。
中には、スマホを向けて、卒塔婆だらけのシャッターを撮影している者もいる。
「……!」
俺は、自分が裸で晒し者にされているような感覚に陥った。
弁解しようにも、声が出ない。
何を言っても、「言い訳」として切り取られ、新たな燃料にされる未来しか見えない。
カタカタカタ……。
風が吹き、シャッターに張り付いた無数の卒塔婆が揺れた。
その乾いた音は、まるで俺たちをあざ笑う、ネット上の匿名の笑い声(www)のように聞こえた。
物理的な攻撃なら、斬り払える。
法的な攻撃なら、耐えられる。
だが、この「空気」による攻撃は?
実体を持たない、無限に増殖し、事実を塗り替えていく「社会的な死」に対して、俺たちはどう戦えばいいんだ?
俺は、スマホを握りしめたまま、その場に立ち尽くすしかなかった。
これは、昨日までの戦いとは次元が違う。
もっと陰湿で、逃げ場のない、「現代の呪術戦」が始まったのだ。




