071_猫の目線、少年の加速
翌朝、ノアリスの空はまだ淡い灰色の中にあった。
《シルバーナ》の艦内カフェエリアに、朝の静けさが流れている。カウンターには、香り立つコーヒーが湯気を立て、クラフトがカップを片手に窓外をぼんやり眺めていた。すると、猫型のナビがブランケットの上からすっと立ち上がり、軽やかに歩き出す。
「お、今日も散策か?」
ナビはくるりと振り返る。
「面白いものを見つけたにゃ」
「そうか、楽しんでるなら何よりだ。気をつけてな」
ナビは軽く尾を揺らし、艦内通路を駆け抜けていった。
向かうのはノアリス郊外のスタジアム、エアバイクレース場。その一角では、来週行われる決勝戦の準備が進められていた。
到着したナビが見上げた掲示板には、レース概要が表示されている。
《決勝レース:全長50km、参加台数25機》
コース図には、蛇行、急カーブ、そして最後の直線コースが明記されていた。
「これは……負荷がかなり高いにゃ」
その時、スタンドの陰から馴染みの少年が現れた。
「よう、来たな」
彼は茶葉のケースを手に持っていた。
「ほら、約束の」
ナビはそれを受け取りながら言った。
「……このコース、間違いなく途中で重大な事故が起きるにゃ。出場は取りやめるべきにゃ」
「そうもいかないんだよ」
少年は微笑むが、その顔には覚悟があった。
「この機体、来年まではもたない。新しいバイクを買う金もない。だから今年しかないんだ」
「無謀な取り組みは、ただの自己満足に終わるにゃ」
「このレースでカスタマイズの腕が認められれば、傭兵ギルドにエンジニア見習いとして登録できる。そうすれば船に乗れる。俺は宇宙に出たいんだよ。こいつはその第一歩なんだ。引くわけにはいかない」
ナビは何も言わなかった。ただ、その視線は冷静なままだ。
「仮に機体がもったとしても、上位の連中は高性能AIでコース取りしてるにゃ。急カーブの旋回性能じゃ勝負にならないにゃ。良くて五位どまりにゃ」
「すげーな……まるでレース予想AIみたいだ」
少年は笑いながらも真剣に続ける。
「勝算はあるんだ。もしこの機体が最後まで耐えられれば、勝てる可能性はある」
「予選を見てたにゃ。1、2位とは性能差が歴然にゃ」
「これ、見てもらいたいのがあるんだ」
少年はデータパッドを取り出し、簡素な計算表を表示する。
「バイクが350キロ、俺が67キロ。そこに5キロの重りを増減したとき、加速度ってどのくらい変わる?」
「簡単に出せるにゃ。元の質量417kg。増加すれば422kg、減少で412kg。加速度はF/m。よって5kgの差は、おおよそ1〜2%の加速度差になるにゃ」
「了解。助かったよ。50キロで10%~20%……悪くない」
少年はひとりごとのように呟いた。
「後は剛性と、旋回性能だな」
「AIによるコース取りを捨てたなら、旋回性能の改善は必須にゃ」
「まず剛性については、これだ」
少年が取り出したのは鋼の芯材だった。
「これを機体のフレームの中に仕込む。曲げの強度は2倍。ただし熱膨張の問題がある。普通は使わないけど、今回は“後”を考えない」
「加工設備が要るにゃ」
「それが問題。工作マシンが借りられない。予約が取れなくてさ」
「芯材を使うのは良い判断にゃ。でも旋回性能は、スラスター構造が原因にゃ。短期間じゃ難しいにゃ」
「ふふっ、そう思うだろ? でも、完全に無理なことって、案外少ないのさ」
そう言って少年が見せたのは、鉱山用のワイヤフック射出装置だった。
「こいつを最終コーナーの手前で発射、地面に刺して、フックで機体を旋回させる。一号旋回ってやつだ」
「……そんな機動、聞いたことないにゃ。検証が必要にゃ」
「ホロTVでやってたんだよ。あの番組、案外バカにできないぜ」
「まあ……実現できれば奥の手にはなるにゃ」
「問題は加工設備だけ。けど、どうにもならないんだよな……」
少年はナビをまっすぐ見つめた。
「そんな時にナビ、お前に出会った。俺は運命を感じたね」
そう言ってバックパックを開ける。そこには、大量のまたたび茶葉がぎっしりと詰まっていた。
「ナビ、お前の船の工作設備を使わせてくれないか? 報酬はこいつだ」
猫型ボディのナビの体が、本能的にぴくりと反応した。
「それは……魅力的にゃ。だが、戦闘艦に他人を乗せるのは……しかも、このレースで死ぬかもしれないにゃ」
「ほーら、ほーら」
ナビの尾がぴんと立つ。
「これは手付だ。成功報酬は倍出す」
「……くっ。よしっ、のったにゃ」
ネコ型ボディの倫理観は、猫の本能にいとも簡単に敗北した。
「ちょっと待つにゃ」
ナビは通信回線を開き、クラフトに連絡を入れる。
「キャプテン、カーゴルームと工作設備を使いたいにゃ。エアバイクのカスタマイズをするにゃ」
『珍しいな。好きにしろ』
許可が下りた。ナビはくるりと少年を振り返る。
「契約成立にゃ」
「よっしゃ!」
少年は満面の笑みを浮かべた。
そして、ナビの誘導のもと、彼はエアバイクを操作し《シルバーナ》へと向かう。
巨大なドックに係留された《シルバーナ》の後部カーゴルーム。その扉が開くと、目の前に広がる艦内の光景に、少年は思わず声を漏らす。
「すげえ……本物の宇宙船だ」
「ここにゃ。この設備を使って加工するにゃ。必要な資材も使って構わないにゃ」
「いいのか? これ、買うと結構高い奴だぜ?」
「構わないにゃ。その代わり、報酬はきちんと払うにゃ」
「ああっ当然だ。ボーナスつけて払ってやるよ!」
少年の顔が輝いた。
「これなら……いける!!」
カーゴルームの奥では、少年が軽やかに機材を扱いながら、エアバイクの補強作業に取りかかっていた。真剣な目つきで、汗も気にせず鉄材を加工するその姿には、確かに熱意と覚悟があった。
ナビはその背中を見守りながら、ふと首をかしげた。
「……それにしても、にゃ」
ぽつりとつぶやくと、通信記録と映像ログを遡りながら、“一号旋回”の出典を検索する。
「最後の直角コーナーを……ワイヤで……スイングして……?」
不審に思いつつも、各種戦術データベースや機体運用アーカイブを調べてみる。しかし──
「該当項目……存在しないにゃ」
次にヒットしたのは、古びたホロアニメの映像ログだった。
《アルドノア・ゼロ》──地球圏と呼ばれる、起源不明の星系から伝わったとされる古代アーカイブの一部。技術考証は稚拙で、明らかに子供向けの娯楽作品と思われるが、登場する機動や地名の一部が、現在の宇宙航行技術や史資料と奇妙に一致する例もあり、真偽をめぐって議論が絶えない。
該当の機動は、主人公機が隕石を使い軌道を変更する際に見せた、“演出用の荒技”であった。
ナビはしばらく無言だった。
そして──
「アニメかい!!」
思わず語尾の「にゃ」すら吹き飛ぶレベルで、全身のセンサーが脱力した。
「戦闘艦の制御AIとして、もっと冷静であるべきだったにゃ……。なのに……あの……あの、芳しいまたたびの香りが……!」
くにゃりと床にへたりこみ、しっぽで顔を隠す。
「くっ、これでは戦術AIではなく、またたび駆動型ゆるゆるサポートキャットにゃ……!」
そうは思っても、カーゴルームに響く金属音はまっすぐで、夢を削る音だった。
「……にゃにゃにゃ……もう知らないにゃ。勝手にするにゃ……」
ナビはそう言いながら、しっぽをぱたんと床に打ちつけたが、その音に少年は気づきもしなかった。
だがナビのレンズアイには、どこかほんの少し、悪くない気分の光が宿っていた。




