第1章 第1話 記憶喪失の少女
昔から海が好きだった。家の前に広がる一面の大洋、湘南の海。俺の人生にはいつも海がそばにあった。
と言っても好きなのは夏も冬も関係なく我が物顔で群がるサーファーや、何を焦っているのか必死に思い出を作ろうとしている陽気な連中が闊歩する昼間の海ではない。人影一つない、静かな波の音と爽やかな潮風だけが支配する夜の海が俺の居場所だ。
死を想起させる冷たい海が佇む砂浜を今日もいつものように歩いていく。少し離れた街路灯と月明かりだけが照らす夜の砂浜は昼間とはまるで別世界だ。特に夏休みに入った八月のこの海は一年を通して最も乖離が激しい。
昼間は人がゴミのように湧いているが、夜間は文字通りゴミだらけになっている。観光客が残した食べ物の容器や花火の残骸……忘れるはずもないレジャーシートも転がっている。そしてそれらとは明らかに違う、海を渡って漂流してきたゴミ。俺の目的は後者だ。
外国語が書かれた缶や瓶、それ以外にも川を通って海に流れ着いたであろうゴミも多い。水の中に捨てれば消えてなくなるとでも思っているのだろうか。
えーと、今日のゴミはビニール袋にペットボトル、ボールペンに何らかの布。女の子にプラスチック……。
「……女の子?」
見慣れたゴミの中に、初めて見るものが打ち上がっていた。俺と同い年くらいだろうか、高校生くらいの女の子が波を浴びながら倒れている。ブラウンがかった長い黒髪が顔に張り付き、白いワンピースが泥にまみれて汚れている。身体には海藻が絡みついており、泳ぐどころか歩くのもままらならないだろう。落ちているからといってこれはゴミではない……とも言い切れない。
「生きてるよな……?」
海辺で倒れている人間……嫌でも最悪な想像が頭をよぎる。というかこの状況ではむしろ最悪な想像こそが正常だ。急いで駆け寄りうつ伏せに倒れている少女の身体に絡みついている海藻をナイフで切っていく。
「大丈夫ですか?」
「……う……んん……」
肩を揺すると長いまつげがわずかに動き、か細い呻き声が漏れてくる。息はあるようだが安心はできない。
「ひとまずよかった……今すぐ救急車を……」
「待ってください!」
スマホを取り出そうとする俺の腕を、驚くほど力強い手が止めた。この線の細い女の子のどこにこんな力が……何かスポーツでもやっているのだろうか。
「病院に運ばれたら警察が来ますよね……ぁう」
立ち上がろうとした少女の脚がガクリと折れ、砂浜にぺたんと力なく座り込む。さっきのは火事場の馬鹿力だったのだろう。
「事件の可能性もあるし……たぶん呼ばれると思うけど……」
「でしたら絶対にやめてください……警察だけはだめです……!」
「なんで……?」
「……? さぁ……なんででしょう?」
首をことんと傾ける少女に俺も首を傾けたくなる。まぁ警察を呼ばれたくない事情なんていくらでもあるか……。
「スマホは水没してるよな……。警察が嫌ならご両親の連絡先を……それか友だちの連絡先とか覚えてれば……」
「……覚えてないです……あれ?」
「まぁ今時そうだよな……じゃあ他に……」
「……なにも覚えてません」
「……見ず知らずの男に情報明かすのは怖いよな……それじゃあ」
「そうじゃなくて……! なにも覚えてないんです!」
「なにもって……なにを?」
「全部! です! 連絡先どころかなんでここにいるのかも……自分の名前も全部思い出せないんです!」
……は? 自分の名前が思い出せない……? それってつまり……。
「記憶喪失、ってこと……?」
「だと……思います……。それすらもよくわからないんですけど……」
冗談を言っている……わけではなさそうだ。何も考えてなさそうなボケっとした表情をしているが、漂着したと思われるこの状況でそんな呑気な態度を取れるわけがない。が、もし自分の身に何が起きたかすらわかっていないのだとしたら合点がいく。
精神科医をしていた父さんが昔言っていた。記憶というのはあくまで防衛本能の一種なのだと。たとえば海は危険な存在だと誰もが知っているだろう。しかし誰にそれを教わったか覚えている人は少ないはず。重要なのは結果だけで、誰に教わったという部分は生命の維持という観点においてどうでもいいからだ。つまり生きるのに不必要なものから記憶は失われていく。本当に大事なものを守るために。
ようするにその記憶が危険だと脳が判断すれば、その記憶は強く封印されて失われていく。ストレスや鬱によって記憶が曖昧になるのはそれが原因だというわけだ。
もちろん海に流されている最中何かに頭をぶつけた可能性はある。でも名前すらも思い出せないというのは異常だ。打ち上げられていたという異常な状況も踏まえ、こう判断するのが妥当だろう。
この少女は、全ての記憶を失われなければならないほどの命の危機に瀕していた、と。
「……うちに来なよ」
記憶を失ってもこびりついている警察に知られたくないという望み。おそらく彼女は何らかの秘密を知ってしまった。誰かにとって決して知られてはいけないそんな秘密を。その結果全ての記憶を失うに至った。そんな状態の女の子を放っておくことなんてできるわけがない。
「今両親がいないから二人っきりになるけど……一人よりはマシだろ」
「いえそんな……そこまでのご迷惑をおかけするわけにはいきません。わたしは一人で生きていけますので……」
「記憶も何もないのにそれは無理だろ。高校生か中学生くらいだろうし、びしょ濡れの未成年の女の子が深夜に一人でいたらそれこそ警察に見つかると思うぞ」
「大丈夫アテはあります……じゃなくて、ここら辺の地図は何となく覚えているんです。なので上手いことやってみせます」
……この子、隠し事ができるタイプじゃないな。さっきまで間抜けな顔をしていたのに、俺が家に来いと言った瞬間表情に明らかな警戒の色が浮かんだ。初対面の男が突然そんなナンパをしてきたらそりゃ警戒するだろうが、それ以上にアテがあるという失言……たぶん何かを隠している。記憶を失っているというのは事実だろうが、一つや二つ……こびりついて剥がれない大切な何かが残っている。誰にも話せない何かが。
「……わかった。じゃあ名前と家の住所だけは渡しとく。本当に困ったらいつでも来ていいから」
できれば家に連れていきたかったが、無理矢理はさすがに犯罪が過ぎる。土地勘があると言ったのも嘘だろうし、周辺の地図も含めて名前をメモに書いて女の子に手渡した。
「…………」
俺からメモを受け取った女の子はじっくりと紙に目を通していく。……にしても長いな、もう十秒以上経ったぞ。暗くて文字が読めない……いやまさか文字まで覚えてないとか? 名前にふりがなは振っておいたしせめてひらがなは覚えていてほしいが……。
「あの……風谷明人さん……ですか……?」
「ああ、そうだよ。一応電話番号も書いとく……」
「わたしです! カノンです!」
きょとんとした表情でも、警戒心が滲み出た表情でもない。裏表のない、この暗闇には不釣り合いなほどの眩い笑顔。まるで唯一の希望が見つかったかのような喜びの表情で、女の子……カノンは俺の手を握ってきた。
「嘘をついていてごめんなさい……あなたが明人さんだってことも忘れてて……。でもこれで安心です……明人さんさえいてくれればもう大丈夫。記憶がなくたってもう大丈夫です!」
俺の手を両手で包み込んだカノンは安堵のため息をつき、身を擦り寄せてくる。大きな瞳から涙が一筋垂れるほど安心したようだ。だがそれとは対照的に、俺の思考回路は完全にショートしていた。
「えー……と……。なんか俺のこと知ってる風だけど……。俺、君のこと何も知らないよ……?」
「…………。記憶喪失ですか?」
「俺も……?」
再びコトンと首を傾げたカノンに合わせ、俺も首を傾げてしまう。今起きていることを素直に表せばこうだ。記憶喪失になった少女が俺のことを知っていて、記憶がはっきりしている俺が少女のことを知らない。中学も高校もカノンなんて名前の知り合いはいなかった。あるいはそれより昔、記憶も曖昧な幼少期の知り合いか……? まるで見当がつかない。
「確認したいんだけど……自分の名前を覚えてないってのは嘘だったんだよな?」
「嘘……ではない、のかもしれません」
「どういうこと……?」
「明人さんにだから正直に言いますね。記憶喪失なのは本当にそうです。でも覚えていることが二つだけ。それが『カノン』という名前と、『カゼタニアキトを頼れ』という誰かの言葉なんです。だからわたしがカノンで明人さんの恋人か何かだと思ったのですが……」
「いや……彼女なんてできたことないです」
とすると俺の同姓同名の奴がこの子の知り合いってわけか……? 明人という名前は特段珍しくはないが、風谷という苗字は両親以外に会ったことがない。本当に俺も記憶喪失なのか……? 心当たりがないでもないが……。
「人違いでしたか……失礼しました……」
自分の中で結論を付けるよりも早く、カノンは俺の身体から離れてメモをワンピースのポケットにしまう。その時に元々ポケットに何かが入っていたことに気づいたようだ。俺のメモとは別の紙のような何かを取り出すと、カノンの顔が再び輝きだした。
「わたしの勘は間違いないようです! やはりあなたこそわたしが探し求めていた人でした!」
カノンが俺に見せつけてきたのは写真だった。俺の笑顔が収められた写真。今の俺と年齢に差はないように思える……背景はおそらく江ノ島……となると今年の春に家族で遊びに行った時の写真だろう。
これが彼女が探していたのは俺だというのは確定した。それはいいが……同時に浮かび上がった事実に冷や汗が垂れる。
俺の知らない人間が、俺の写真を持っていて、俺にここまでの執着を見せている。
「記憶を失って尚大切な人に巡り逢えるなんて……まさしく運命です。しかもこれから二人っきりで同棲だなんて……ロマンティック……♡」
頬を紅潮させ、トロンとした瞳で顔をほころばせるカノン。自意識過剰と言われるかもしれないが、結論としてこれしかありえない。
「これから二人で幸せな記憶を作っていきましょうね、明人さん♡」
俺は記憶を失ったストーカーと、同棲することになってしまった。