豆腐屋源さん冒険記
世の中は相も変わらず混迷を極めていた。どこいらのお偉いさんの言葉とは裏腹に、賃金は一向に上がらないし、子供たちの学力は低下して、経済大国は夢の跡。臓器移植で一人の命を救おうと奔走する一方で、年に二万人以上が自殺している。そんな荒廃した社会に、一陣の清風のごとく正義の男が現れた。
◇ ◇ ◇
深夜の地下駐車場。いつもなら全く人気のないこの時間に、その日は、ただならぬ幾つかの人影があった。一人はくたびれた背広の会社員。それ以外は、黒スーツを着た人相の悪い男達だ。会社員は、脅えた表情で壁を背にしていた。
「おうおう、今日こそはきっちりと金を払ってもらうぜ」
「そんな……わ、私にはあなた方にお金を払う覚えはありません」
会社員は、なけなしの勇気を振り絞り、そう言い放つ。しかし、そんな努力が何の効果も生まないことは分かっていた。
「おうおう、おっさん、何度も言ってるがな、あんたの死んだひいじいさんが、まだ生きてる時にうちからビデオをレンタルしたんだよ。返却されないまま、今日でちょうど六十年。二万千八百七十日分の延滞料金、二百十八万七千百円、耳揃えて払ってもらわなきゃ困るんだよ」
「そんな無茶苦茶な……」
「おうおう、何と言おうが、払ってもらうぜ。さあ、さあ」
黒服の男たちは、うろたえる会社員にじり寄る。このビデオ・オンデマンド全盛の時代にレンタルビデオの延滞料金とか……しかも60年前にビデオデッキがあったのか……とか、そんな疑問が頭をよぎるが、口に出す勇気はない。
「待ちな、兄さん方」
その時、低くよく通る声が辺りに響いた。黒服の男達は驚いて周囲を見回す。木下駄のカラカラという足音と共に、夜の闇の向こうから一人の男が現れた。上下共にステテコ姿。頭には手ぬぐいはちまき。年季の入った彫りの深い顔。見事な太い眉の下に、鋭いまなこが覗いている。
「おうおう、何者だ、てめえ!」
黒服の男が得意の凄みを利かせると、ステテコのおやじは、こんがりと焼けた油揚げを咥えながら答えた。
「俺か? 俺は、さすらいの豆腐屋、源さんだ」
「豆腐屋だとぉ? おうおう」
予想外の答えに顔を歪める男達。源さんはキッと油揚げを咬みちぎり、続ける。
「兄さん方、悪いことは言わねえ、無茶な集金はおよしなせえ」
「うるせえ。おうおう、豆腐屋は引っ込んでな」
黒服の男は吐き捨てた。だが、源さんも黙っちゃいない。
「生憎だが、引っ込んでろと言われて引っ込んでちゃあ、商売上がったりだ。兄さん方、あんたたちゃ、まるで、『おから』だねぇ」
「おから? 何のことだ? おうおう」
源さんは不敵な笑みを浮かべ、答える。
「豆腐を作るにゃ、旨い大豆を潰して汁を煮る。煮ながら根気よく、アクを取るのさ。取ったアクと、煮汁を絞った残りカス、それがおからさ。兄さん方はアク。そして、カスだねぇ」
「ふざけるな豆腐屋!」
途端に男達はいきり立った。そして、源さんを取り囲む。
「いけねえ、血の気が多すぎるのは困りもんだ。兄さん方、大豆イソフラボンでも摂ってくだせえ」
「人の心配より、自分の心配をしておくんだな!」
そう言うやいなや、一人の男が棒を手に取り、源さんに殴りかかる。しかし、源さんは微動だにせず、懐から白い液体の入った瓶を取り出し、相手にその中身を振りかけた。
「うわっ、何だこりゃ! 薬品か?」
「安心しなせえ。そいつぁ、ただの豆乳だ」
「豆乳?」
「そうとも。煮詰めた豆汁のことさ。そいつに『にがり』つまり海水から塩分を取り除いた残りのやつを入れて固めると、豆腐になる。兄さんたちゃ、固まりかけの豆乳と変わらねえ。中途半端さ」
「臭え! 臭えよ!」
豆乳を浴びせられた男は、情けない顔をして泣き叫んでいる。
「おっと悪りぃ。何日か前の残り物で、ちいとばかし、腐ってたかもしれねえな」
「畜生、馬鹿にしやがって、やっちまえ!」
その言葉が合図となり、男達は一斉に源さんに躍りかかった。
「仕方ねえ。ここまで言ってもわからねえらしい。これは、あれだ。『木綿に絹ごし……』違った、『暖簾に腕押し』ってやつだ。或いは、『豆腐にかすがい』か。兄さん方のような輩は、少し懲らしめる必要があるらしいや」
源さんは男達の攻撃をひらりとかわすと、懐から巨大な豆腐を取り出した。
「そんな豆腐でどうする気だ。当たっても痛くもかゆくもねえぞ!」
あざ笑う男達を後目に、源さんは大きく豆腐を振りかぶる。源さんご自慢の、特大木綿豆腐だ。
「豆腐の角にぃ……
頭ぶつけて死んじまえぇ!」
そして、気合いと共に豆腐を投げ放つ。豆腐は超高速で飛行し、手前の黒服の男にぶち当たる。
「おお!」
刹那、男の足が地面を離れ、猛スピードで錐揉みしながら他の男達の中に突っ込んでいく。すると、黒服の男達は、まるでボウリングのピンが弾けるように吹き飛んだ。
「柔らかい豆腐でも、気合いを込めればこの通りさ」
超高速で飛行する物体は、例えそれ自体柔らかくても、絶大な破壊力を秘めるのだ。
「兄さん方、覚えておきなせえ。絹ごし豆腐は舌触り。木綿豆腐はいい味だ。滑らかな絹ごしに誘惑されちゃいけねえ。いい目を持ちなよ、兄さん方」
砕けた豆腐まみれになり、体を痙攣されている白和の男達に、源さんはつぶやいた。そして、油揚げをかじりながら、闇に向かい歩き始める。
「待って下さい。せめて、何かお礼を」
座り込んでいた会社員が立ち上がり、源さんに呼びかけた。さすらいの源さんは振り返らない。背を向けたまま手を振り、一言こう言った。
「礼はいらねえ。それであんたの気がすまねえなら、これからはせめて、正しい豆腐を選んでくだせえ」
祖父が豆腐屋だったもので……
連載している作品もありますので、よろしければご覧ください。