4 筆談
次の日。私は朝食の香りに目を覚ましました。
屋敷が狭いからでしょうか。パンを焼く香ばしい香りが漂ってきていました。
そして、ノックが聞こえました。
「どうぞ」
「あ、おはようございますす。よく眠れたすか?」
「はい。ソファも悪くないですね」
「許してくださいす。話を聞かされてなかったので、用意もできなかったす」
イトロはそう言いながら、テーブルに朝食を並べていきました。
「あの、昨日と同じ紅茶を……」
「はいす」
イトロは昨日と同じ紅茶を注ぎました。
「ありがとう……」
「気に入りましたすか? それ」
「ええ」
「それ、うちの庭で私が育ててる紅茶す」
「え、庭で? イトロさんが?」
「そうす。私、栽培には自信あるんで、嬉しいす」
「……」
なんだか、少し恥ずかしく思いました。イトロさんには失礼ですけれど、自信があると言っても、素人の手作り。その道のプロが作ったものに勝てるはずがないのに。
「……おいしい」
悔しいですけれど、本当においしい。
「じゃあ、こっちはどうすか。その紅茶を練りこんだパンす。ほんのり香るす」
差し出されたパンを受け取り、一口大にちぎり、口に運びました。
「あ、本当。ほんのり香る……」
イトロはふふんと鼻を鳴らしました。相変わらず表情は固まっていましたが。
そして、立ち上がると言いました。
「今日はデッド様が帰ってくる日す。ついに旦那さんとご対面すね」
そう言えば、そうでした。
私は不安に思っていたことをイトロさんに尋ねてみることにしました。
「あの、イトロさん。デッドエンド・ビギニング・レイダウンレイル様は、どのような方なのですか?」
私はデッドエンド・ビギニング・レイダウンレイル様について、何も知りませんでした。知っていることと言えば、『血塗れ卿』と呼ばれていることだけ。
「デッド様は優しい人っす」
「……あの、年齢は?」
私がそう聞くと、イトロは「ああ」と何かを理解したかのように頷き「ちょっと待ってるす」と部屋を飛び出していきました。
戻ってきたイトロは、その手に紙とペンを持っていました。
「私、説明無理すけど、筆談ならできるんす。字は、下手っすけど……」
イトロは目を逸らしながら言いました。
「はい。分かりました」
私はそう言うと、ソファを一人分開けました。そして、ソファを叩きました。
「こっちに座ってください」
「え。それは、ダメす」
「大丈夫ですよ。私が大丈夫と言っているのですから」
そう言うと、イトロは「じゃ、じゃあ」と狼狽えながらも、ソファに腰を下ろしました。
「失礼するす」
私はイトロから紙とペンを受け取ると、紙の上にペンを滑らせました。
『イトロさんは何歳?』
「え、私すか?」
「ええ。私、イトロさんのことを知りたくなってしまいました」
私がそういう言うと、イトロは顔を真っ赤に染めました。表情は変わりませんが、冷汗をかいたり、顔を赤くしたりすることはあるようですね。
「恥ずかしいす」
「ほら、答えは?」
イトロは「えっと」と言いながら、文字を書きました。
『十六歳』
「そうなのですね。じゃあ、私の一つ下ですね」
「そ、そうす」
「じゃあ、次」
私はまた質問を書き込みます。
『好きなことは?』
それに対し、イトロが答えます。
『畑仕事。料理。星を見ること』
『苦手なことは?』
『会話。説明』
『説明はしたくない? できるようになりたい?』
『できるようになりたい』
『好きな食べ物は?』
『シチュー』
『苦手な食べ物は?』
『キノコ』
部屋にはペンの音だけが響いていました。私はひとしきりイトロのことを質問したあと、ふと思い立って言いました。
「イトロさん。その、イトロ、と呼んでもいいですか?」
私の言葉に、イトロは首をかしげました。
「もちろんす。なんだか嬉しいす」
イトロの素直な反応に、私は少し恥ずかしさを覚えて「えへへ」と頬を掻きました。
「アクトバッド様。デッド様のことは聞かなくて良いのですか?」
「え? ああ、そうですね」
私は、思い出したかのようにデッドエンド・ビギニング・レイダウンレイル様のことを質問しました。
──
「そうなのね……」
血塗れ卿。デッドエンド・ビギニング・レイダウンレイル様。
私はもっと、恐ろしい人なのかと思っていたのですけれど。
年齢は二十歳。私の三つ上。身長はイトロより頭一つ分ほど高いのだそうです。私とイトロがほぼ同じ身長なので、私よりも高い程度、男性としては平均程度と言えますね。
優しい人で、メイドたちや領民からの評判も良いそうですが、しかし、少々優柔不断なところがあるそうで、いつもみんなに怒られているのだそうです。
そして何より、戦争が強い。めちゃくちゃ。いつもの優柔不断さも、戦争中においては微塵も感じられず、的確な指示と鼓舞で兵士を奮い立たせるのだそうです。
……ただ『血塗れ卿』と呼ばれていることを知った時には、恥ずかしさから二日間も引きこもってしまうそうな気弱な部分もあるそうです。
こう聞くと、とても親しみやすい人に聞こえます。もっと、恐ろしい屈強ゴリゴリな男性を想像していたので、少し安心しました。
「じゃあ、デッド様を迎えるために、準備するす」
イトロはそう言って、私の部屋のクローゼットを開きました。
「アクトバッド様。本日はどのお召し物を着ますすか」
私は絢爛豪華なドレスの束を見て、言いました。
「イトロは、どれがいいと思う?」
「え、私すか?」
「ええ。もっと言ってしまえば、デッドエンド・ビギニング・レイダウンレイル様が好きそうな服を選んでほしいのだけれど」
そう言うと、イトロは張り切って「分かったす」と言いました。
「じゃあ、こんなのはダメす」
そう言って、クローゼットを閉じました。
「え?」
「デッド様はドレスなんかより、もっとラフな村娘みたいな服装の方が喜ぶす。っていうか、ドレスなんか着て向かえたら、多分デッド様が緊張して死ぬす」
「えぇ……」
「これ、マジす。デッド様は貴族令嬢様にトラウマを抱えているす。『血塗れ卿』といじられてから、自身の領地に引きこもり、戦争に明け暮れる毎日す」
……先ほどの説明では、親しみやすい人だなと思ったのですけれど……ちょっと気難しい人なのかもしれません。
「ってわけで、ちょっと待つす」
部屋から飛び出して、そして戻ってきたイトロが持っていた服は、村娘というには少し身ぎれいだけれど、貴族令嬢としてはあり得ない服装でした。ついでに言うと、イトロの手作りらしいです。
「こ、こんな、こんな服装で、大丈夫ですか……?」
「私を信じるす。絶対好印象す」
そう言って、イトロは私の姿をまじまじと見つめました。そして。
「アクトバッド様。可愛いす」
「へ?」
人から可愛いと言われたことなんてありませんでした。
「か、可愛いだなんて」
「いや、マジす。可愛いす」
「や、やめてください」
「こいつはデッド様が羨ましいすね」
「もう……」
──
そして、数時間後。お昼過ぎ。
デッドエンド・ビギニング・レイダウンレイル様が馬に乗って現れました。その時、私とイトロは仲良く食後のティータイム筆談を楽しんでいましたので、彼らの帰還に気付くのが遅れてしまいました。
「あ、やべ」
イトロがそう呟くまで、私は全く気づけませんでした。
「デッド様が帰ってきたす。アクトバッド様、準備す」
私はついにこの時が来てしまったと、体をこわばらせました。
「大丈夫す。そんなに緊張していると、きっと拍子抜けするす」
イトロはそんなふうに言ってくれましたが、しかし、抵抗虚しく緊張していました。なにせ、今から対面するのは、私の夫となる人なのですから。
私とイトロは急いで屋敷から出ました。デッドエンド・ビギニング・レイダウンレイル様は既に、門のそばまで来ていました。
「おかえりす。デッド様」
イトロがそう言って、門を開けました。
「ああ、帰った」
私が初めて目にした婚約者の姿は、馬から降り、メイドに馬を引き渡しているシーンでした。
「何もなかったか?」
イトロはそう問われました。イトロは答えました。
「あったす。めっちゃあったす」
「え?」
デッドエンド・ビギニング・レイダウンレイル様が、素っ頓狂な声を出しました。
「あったす。ほら」
イトロはそう言って、私の背中を押しました。
デッドエンド・ビギニング・レイダウンレイル様が私を見下ろしました。私は、その目を真正面から見てしまい、その異質さに怯えてしまいました。
こんな異質な目をした人には、会ったことがありませんでした。王都にはこんな目をした人はいませんでした。
怯えてしまった私は、それでも、積み上げた王妃教育の賜物を見せつけました。
それは、胸元に右手を置き、左手はスカートを押さえ、右足を曲げて、左足は右足の後ろで曲げる。この国の伝統ある淑女のカーテシーでした。自分で言うのも何ですが、この国で一番美しいカーテシーなのではないでしょうか。
「デッドエンド・ビギニング・レイダウンレイル様。お初にお目にかかります。私、アクトバッド・ホープフロムルイン・リベリオンと申します。この度は婚約を結んでくださり、幸甚の至りでございます。不束者ではございますが、何卒、よろしくお願い致します」
デッドエンド・ビギニング・レイダウンレイル様は、ただ、私を見つめていました。
しかし、彼を囲んでいたメイドたちはそうではなかったようでした。
「「「ここここ、婚約ぅ〜!?」
初対面のイトロ、三人バージョンの叫びが響きました。