#1-4 ヴードゥーの精霊①
──バロン・サムディね……。
茶織は自室のデスクに向かい、久し振りにノートパソコンを起動させると、バロン・サムディ及びヴードゥーについて検索してみた。どちらも他の宗教や神話などに比べると情報量が少なく、関連書籍も数える程しか出版されていないようだ。
世界各国の神話や民話、伝説に関する情報を扱う、とある個人のホームページを見付けた茶織は、『ヴードゥーだョ! 全員集合』と派手なデザインで描かれたバナーをクリックした。
アイザン、アイダ・ウェド、エジリ・フリーダ、オグン、レクバ……。聞き慣れない単語が並んでいる。これらは全てヴードゥーの精霊の名前らしい。エジリ・ダント、グラン・ブリジット、ダン・ペトロ……そして、バロン・サムディ。
茶織はバロン・サムディのテキストリンクをクリックした。
〝バロン・サムディは、ペトロ王国に属する、生と死と性欲を司る精霊ゲデのリーダー的存在である〟
──ペトロだのゲデだのは後で……って、性欲?
〝これはペトロ王国に属する精霊全般に当てはまる事だが、味方に付けると頼もしいが、敵に回すとなかなか恐ろしい〟
──ふうん。
〝頭蓋骨やツルハシを手にした、黒い山高帽と燕尾服にサングラス姿の老人だという〟
──あら、年寄り? ……少し残念。
〝酒とタバコを嗜み、魔力が高く、陽気で賢いが、下品な言動を好む。憑依した人間を使い女性にちょっかいを出す事もしばしば〟
──……ねえ、ちょっと。
性欲を司る。下品な言動を好み、女性にちょっかいを出す。よりによって、そんな奴を預けられたというのか。
「綾兄……あんた本当に何考えてんの?」
茶織は深い溜め息を吐いた。ノートパソコンをシャットダウンし、壁に向かってぶん投げる代わりに拳をガンガンとデスクに叩き付け、やり場のない怒りやら何やらを発散する。
──……ペトロといえば、今日は……。
JR線磨陣駅南口改札から直通している、七階建てビルの複合商業施設〈ADVENTURES〉、その二階を丸ごと占めている大手チェーン店〈ペトラ薬局〉。
様々なジャンルの商品を豊富に取り扱い、日頃から低価格なうえに毎月一八日は特売セールが開催されるこの店を、茶織はよく利用しているが、まさに今日がその特別な日だという事を、たった今思い出したのだった。
一四時二〇分。今すぐ家を出れば、急激に混み始める一六時頃までには充分間に合う。
──今日を逃したら多分後悔するわね。
茶織が必要最低限の所持品だけ紺色のリュックサックに入れ、背に白いトカゲのシルエットがプリントされた黒地のパーカーを用意していると、部屋の片隅に放置していた骨の十字架が目に入った。
何故だろうか、一緒に持って行った方がいいのではないかと思えた。しかし茶織は、すぐにその考えを打ち消した。
──大き過ぎ。邪魔。
〈ADVENTURES〉三階、カフェ〈DIAMOND〉の一席。
茶織は、アールグレイを少しずつ口に含みながら苛立ちを静めようと努めていた。
〈ペトラ薬局〉内は家族連れを中心にごった返しており、六台のレジの前にはそれぞれ長蛇の列が作られ、店の外まではみ出していた。今日が土曜日だという事実を、茶織はすっかり忘れていたのだった。
ただでさえ混む特売日だが、もうしばらく待てば、レジの混雑は多少は緩和されるだろう。苦手な人混みの中、それ以上に苦手な小さな人間たちから発せられるやかましいBGMやSEを耳にしながら買い物をするなんて、茶織にはとても耐えられそうになかった。
──何で子供ってあんなに元気なわけ?
「は? ピエロに取り憑かれた?」
「ピエロとかヤバくね? ウケるんだけど!」
「いやいや、もうマジな話なんだって!」
女子高生が三人、周囲への配慮は一切なしの大声で喋りながら店に入って来た。
「昨日と一昨日、二日連続で夢に出て来てさ。不気味な顔でニヤニヤ笑ってるし、スゲー馴れ馴れしいの」
長い茶髪の少女がそう言うと、連れの二人は、お世辞にも上品とは言い難い笑い声を上げた。
「ちょっと怖いしキモイんだよね。ピエロならウチんとこ来ないで、一人でハンバーガーでも食いに行けっての」
「マジウケる~っ!」
「ヒナん家のママって回転寿司で働いてんでしょ。寿司が食べたくなったとか」
「マジか。あのピエロ贅沢言ってんな!」
三人組は笑いながら店の奥へと進んでいった。
──ピエロ、か。
茶織の脳裏にある記憶が蘇った。
欲しい物や必要な物は自分で購入するようにと、子供には多過ぎる額の小遣いを手渡すだけで、使い道を聞くわけでもなかった両親が、どういう風の吹き回しか、茶織の一〇歳の誕生日にプレゼントを寄越した事があった。
「会社の近くのお店で売っていたの。大した物じゃないけれど、お父さんとお母さんからよ」
母から直接手渡されたのは、赤いリボンで結んである薄いピンク色の袋が一つ。中身は少々柔らかい感触がした。
母がその場を去ると、リボンを解き中身をゆっくり引っ張り出した。最初に目に入ったのは、先端に白いポンポンの付いた赤と緑のとんがり帽子。その次に、白い肌とエメラルドのような大きな瞳、優しく微笑みかける赤く分厚い唇。右頬には唇と同じ色の、小さなフェルトのハートマークがくっ付いている。
一二、三センチ程の大きさのそれは、ピエロのぬいぐるみだった。
両親からの直接のプレゼントは、後にも先にもこの一回だけだったはずだ。何故この時だけそんな気になったのだろうか。いや、そもそも本当に自分たちで購入したのかどうかも怪しかった。同じ会社か取引先の人間から貰った物を偽って寄越した可能性だってある。
──あのぬいぐるみ、その後どうしたんだっけ。
「えー、何にするー?」
「皆違う種類にしようよ。んでちょっとずつシェア」
「ヤベ、ケーキ全部美味そうじゃね?」
やかましい声によって、茶織の意識は現実に引き戻された。ああでもない、こうでもないとレジの前で相談し合っているのは、席を取り終えた先程の女子高生三人組だ。
「あれ、何処の高校だったかしら。うるさいわね」
「私立高っぽい制服だな」
「学校がわかったら、苦情の電話入れてやろうかしら」
「まあまあ……」
隣の席の六〇代後半くらいの夫婦と思われる男女の会話は、茶織の耳には途中までしか入らなかった。
──何あれ。
茶織の目は、女子高生三人組の内の、ヒナと呼ばれていた茶髪の少女に──いや、正確には、少女の上半身を覆う黒いもやに釘付けとなっていた。茶髪の少女は注文を、その後ろで順番を待つ連れの二人は相変わらずお喋りを続けており、その他の客や店員たちも気付いている様子が全くない。
──見えているのはわたしだけ?
茶織は手にしていたティーカップをソーサーに戻すと、ギュッと目を閉じ、再び開いてみた。黒いもやは消えるどころか全身を覆っており、少女の姿はほとんど見えなくなってしまっていた。
やがて、黒いもやは少女から離れ、一番近い柱の前で止まると、少しずつ形を変化させていった。それは明らかに人型となり、顔に当たる部分のもやが薄くなったかと思うと、まるで絵の具かペンキでもぶちまけたかのように突然真っ白く染まった。
茶織があっけに取られている間に、白く染まった部分に顔の各パーツが次々と現れた。黒く縁取られた眉と両目、それ以上に目立つ、血のように赤い口紅が裂けたように頬の辺りまで引かれた唇。赤い付け鼻こそないが、これはまるで──
「──ピエロ?」
白塗りの顔は茶織に気付くと、こちらを向いてニイッと笑ってみせた。
途端に茶織は、声を出した事、黒いもやを凝視し続けていた事を酷く後悔した。上手く説明出来ないが、何だかとてもまずい気がした。
会計が済んだ茶髪の少女がレジを離れると、黒いもやと顔は柱に溶け込むように消えてしまった。
アールグレイと店内の空調で暖まっていたはずの茶織の体は、外でも感じなかったような寒気に、無意識のうちに熱を求めてティーカップを手に取っていた。
──何だったの?
アールグレイはすっかり冷め切っていた。
〈ペトラ薬局〉で簡単に買い物を済ませ、真っ直ぐ帰宅した茶織は、商品の入ったリュックサックと脱いだパーカーを骨の十字架のすぐ隣に放ると、畳の上に横になった。〈DIAMOND〉の一件から、何となく頭が重い。
──本当に何だったのよ、あれ。
横になったまま、何気なく部屋の隅に目をやる。リュックサックとパーカーと、持ち主よりも前から寝そべっている骨の十字架。
気付くと茶織は、部屋の隅に移り、骨の十字架を手に取っていた。何故そうしたのか、自分でもよくわからず困惑した。
──疲れているんだわ。
再び横になり、一八時頃まで休んで、それから夕食の支度をしよう。その時点で回復していなければ、早く寝てしまえばいい。きっとあの困った叔父が原因のストレスだ。ひょっとすると、骨の十字架なんて物が手元にあるせいかもしれない。
──だとしても綾兄のせいよね。
やはりこんな物、処分してしまうべきなのかもしれない──茶織がそう考えた次の瞬間、異変が起こった。
──!?
突然、骨の十字架が熱を帯び、まるで生きているかのように脈打ち始めた。
「な、何これ──」
「やあ」
同じく突然聞こえた声に、茶織は思わず骨の十字架を落としそうになった。振り返るも、誰の姿もない。
「こっちだよ」
声はノートパソコンから聞こえたようだった。しかし、家を出る前にシャットダウンしたはずだ。現にディスプレイは真っ暗で、怪訝そうな表情を浮かべる茶織を映し出している。
──今度は幻聴?
ディスプレイに変化が起こった。中央の一点に、ミルクを垂らしたかのように小さな白いシミが出来ると、じわじわと全体に広がってゆき、やがて一面真っ白になった。すると今度は、最初に白いシミが出来た部分に、ごま粒大の黒いもやが発生した。
黒いもやは上下に小刻みに動きながら徐々に大きくなってゆく。よくよく見るとそれは人型をしており、奥からこちら側に向かって駆け寄ろうとしているのだった。
──疲れているのよ。
嫌な汗が茶織の背中を伝った。
──幻覚。幻聴。全部綾兄のせい!
ほとんど願望に近い茶織の考えは、駆け寄る者が近付くにつれてその顔立ちが判別出来るようになると、粉々に打ち砕かれた。白塗りをベースに、眉や目の周りが黒く縁取られ、真っ赤な口紅が頬骨まで引かれている。
化粧が特殊なら衣装も特殊だ。右半分が黒で左半分が白の二股に分かれたキャップ、同じ配色の先端がクルリと丸まったブーツ、それらと真逆の配色のスーツに、白手袋。キャップのポンポンと付け襟は赤で、地味な色合いの中で目立っている。
〈DIAMOND〉で目撃したあのピエロ以外に、誰がいるだろうか。
「何で……何がどうなってんのよ!?」
ピエロはある程度まで接近すると足を止めた。そして黄ばんだ歯を見せニイッと笑うと、茶織が一番耳にしたくなかった言葉を口にした。
「見い付けた」