#4-3-5 追跡⑤
瞼の奥まで照らさんばかりの光の輝きがようやく落ち着き、ゆっくり目を開けるとそこは、人気のない路地裏だった。
「ここって……俺たちが異界に入った場所だ、二丁目の!」那由多は周囲を見回し、弾んだ声で言った。「そうだよね、緋雨?」
「ああ。現実世界に戻って来たのは間違いないな」
「あー、まだ目がチカチカする。皆無事?」
那由多の斜め後ろに立つ龍とアルバは頷き、少し離れた所に座っている茶織は左手をヒラヒラと振った。
「戻って来られたのはいいが、ピエロはこっちにいるのか?」龍は心配そうに言った。
「いるわよ。あのピエロ独特の禍々しい気を感じるもの。それもそんなに離れていないわ」
「それだけではない。かなり多くの悪しき存在が集まっている」
アルバと緋雨は虚空を睨むようにしながら答えた。
「だったら早く探さねえと──」
「待って龍君、そのままじゃまずいよ」
那由多は龍の脚を指差した。ジーンズが膝の周辺を中心に、乾いた血によって変色してしまっている。
「あー……」
「サオリが倒れていた時のものね。確かにこのままうろついていたら、呼び止められちゃいそう」
「でも、何処かで買い換る余裕なんてないだろ。ていうか……大丈夫か?」
龍の言葉の後半は茶織に向けられていた。茶織は先程から座り込んだままで、一言も発していなかった。
龍は茶織に近付き、しゃがんで顔を覗いた。
「……あんた、ちょっと顔色悪いぞ」
「ちょっと疲れただけ。暴れ過ぎた」茶織は素っ気なく答えた。
緋雨も茶織の元へ来た。その顔は少々険しいものだったので、龍は不安になった。
「バロン・サムディよ、そろそろ離れたらどうだ。長時間の融合は茶織の心身に負担が掛かる」
「そうね、後で倒れちゃうかもしれないわ」
アルバも同意すると、茶織は顔を上げて眉をひそめた。
「何の話? さっきから時々よくわかんない話するよね」
「今のお前の人格は、瀕死の重傷を負ったお前の命を救うために、ヴードゥーの精霊バロン・サムディが融合し、新たに生まれたものだ。これから先もそのままというわけにはいかん」
「何だそれ……さっぱりわけわかんない」
「記憶に混乱が生じているのも無理はない話よ。サオリとしての記憶が残っているだけでも凄いのだから」
「と言われてもさ、全然ピンとこないや!」茶織は勢い良く立ち上がった。「ねえ、ここでずっと喋くってていいの? 何か向こうの方が騒がしいけど」
茶織が釘バットで指し示すと、一同は通りの方へと振り返った。複数人の怒鳴るような声と悲鳴に近い声が聞こえてくる。
「とりあえず今は、あほんだら道化野郎をぶちのめすのが先決でしょ」
「わかった」返答に悩む様子の緋雨とアルバの代わりに龍が答えた。「ただ、もうあまり無理も無茶もするな。ヤバくなったら我慢せず誰かに言え」
「ほーい。あ、でも前に言ったけどさ……」茶織は龍にぐっと顔を近付け、不敵な笑みを浮かべた。「ピエロに止め刺すのはアタシだからね」
「あんの馬鹿……ほんっっともう、何処で何してるのよ!?」
TAROのマネジャーである鈴木は、苛立ちを隠そうともせず、〈藤紫第二ビル〉出入口前を忙しなくうろついていた。
TAROは少し目を離した隙に控え室からいなくなった。スマホに電話やメッセージを入れても何の返事も寄越さず、とうとう本番になっても姿を現さなかった。唯一の目撃者は受付の警備員だが、行き先はわからないという。目玉企画の一つであるトークショーは、TARO不在で開催されているが、機材トラブルが相次ぎスムーズな進行が滞っているらしい。
運営スタッフたちは、TAROが事件か事故に巻き込まれたのではないかと心配しているが、鈴木の考えは違った。
──どうせ急に面倒になったからって逃げ出したんだわ。
TAROがバンドメンバーとの打ち合わせやリハーサルをドタキャンした事は、過去に何度かある。体調不良や、親あるいは祖父母が倒れた事を理由としていたが、鈴木は常に半信半疑だった。
理由は何であれ、後々関係者に片っ端から頭を下げて回らなくてはならない。そう考えただけでも非常に面倒臭く、怒りは更に増した。
──もう辞めようかしら、この仕事!
「鈴木さん、大丈夫ですか」
ビルから大道芸運営スタッフの中年男性が出て来ると、鈴木は反射的に頭を下げた。
「うちのTAROがご迷惑をお掛けし、本当に申し訳ございません!」
「いえいえ……しかし心配ですな。何だか今回は色々と起こり過ぎて困ったもんだ」
「え、他にも何かあったんですか」
男性スタッフはしまったという顔をしたが、開き直ったのか声を落とし、
「町内のあちこちで事故やトラブルが相次いでいて、本部はてんやわんや。こっちにも波及してきていますよ。私は昔からスタッフやってますけどね、こんなの初めてです」
「そういえばさっきから何だか慌ただしいですよね……」
ふと男性スタッフが、何かに気付いたように弓塚二丁目方面に振り向いた。鈴木もつられて目をやると、フラフラとおぼつかない足取りの女性がこちらに歩いて来るところだった。虚な目をし口は半開き、短い茶髪はボサボサで、服装や体のあちこちが汚れている。
「ちょっと、大丈夫ですか?」
鈴木は女性に駆け寄り、驚きに目を見開いた。女性の全身に付着した汚れは乾いた血で、更に前歯が何本かなくなっていた。
「た、大変だ」男性スタッフもやや遅れて気付いた。「救護スタッフ呼んで来ます!」
「大丈夫!? 何があったの!!」
女性は上の空だ。鈴木は遠慮がちに女性の肩を掴み、何度か揺さぶった。
「ねえ、大丈夫!? しっかりして頂戴!!」
女性がゆっくりこちらを向いた。目が合った瞬間、鈴木は得体の知れない恐怖を覚え、肩から手を離して一歩後ずさった。
「わたひあ……なかやなつ、れす……」女性は呂律の回らない口調でボソボソと喋り始めた。「わたひあ……わういおんなえす……はんせーひまふ……ゆるひてくあはい……」
「な……何言って──」
「ころはないで……ゆーひて……いちあんわるいのは……のむらひんひゃろう……なおに……」
「のむら……しんたろう? 今、そう言ったの?」
鈴木は混乱した。その名前は、TAROの本名と同じだ。
「ゆーひて……ごえんなはい……ゆ──」
女性は白目を剥くと、コンクリートに正面から倒れ込み、ピクリとも動かなくなった。
「何なのよ……どうなってんのよ……」
救護する事も忘れ、鈴木は体を震わせながらその場にへたり込んだ。
数箇月後、鈴木は[RED-DEAD]結成時からのマネジャー業を辞めるだけでなく、事務所を退所し、芸能界からも去る事になる。




