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【改稿版】骨の十字架  作者: 園村マリノ
第三章

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#3-3 善意と悪意①

 六堂町四丁目。


「……っし、終わり……っと!」


 座ったまま大きく伸びをし、フウッと息を吐き出すと、それだけでもほんの少しは疲れが取れた気がした。

 仲村雄春(なかむらたけはる)が〈はねだ探偵事務所〉のアルバイト事務員として働き始めてから、今年で三年目になる。従業員が四人のみの小さな事務所で、日頃の依頼数は決して多くないのだが、先月は珍しく立て続けに浮気調査や人探しの依頼が入り、更に数日前にはもう一人の事務員が盲腸で入院してしまったために皺寄せが来ていたのだ。


「お疲れ」


 所長の羽田(はねだ)がやって来て、缶コーヒーと貰い物の洋菓子を雄春に差し出した。きっちり固めたロマンスグレーの髪に、いかつく気難しそうな顔付き、そしてその容姿とは裏腹に温厚で、犬猫を見掛けると目を細めるところなどは、五年前に亡くなった雄春の祖父を思い起こさせる。


「あざっす! いただきます!」


 雄春は短大卒業後、某大手飲料水メーカーの下請け会社に就職したが、横行するパワハラに耐えかね四年目に退職した後は、アルバイトであちこちの職場を転々としていた。〈はねだ探偵事務所〉での勤務年数は、最初の会社に次いで長い。


「はあ……しかしまあ、どうしてこう簡単に浮気だの不倫だの略奪だのって出来ちゃうんでしょうね。自分には理解出来ないっす」


「仲村には彼女いるのか?」


「えーっと……最近はお一人様を満喫してますね」


「最近? 実はもうだいぶ長いんじゃないのか」


「うわぁ容赦ないっすね! まあ大正解ですけど!」


 羽田は小さく笑うと、雄春の後ろの窓に寄り掛かり、ブラインドの隙間を指で押し広げて外を眺めた。


「……おや、まだいるな」


「へ?」


「ほら、あのにいちゃん」


 雄春は缶コーヒーを開けようとしていた手を止め、席を立つと羽田と同じように外を見やった。


「ああ……はい、いますね、一人」


 探偵事務所の斜向かいの古い二階建てアパートの前に、何かが入ったビニール袋を左手に持った眼鏡の青年が立っている。


「かれこれ三〇分近くはいる。最初は何も持っていなかったんだがな。近くのコンビニで買って戻って来たんだろう」


「誰かを待ってるんすかね」


 眼鏡の青年はビニール袋から取り出したパンを食べ始めた。


「あれは、あんぱんかな……牛乳も入ってたりして。刑事の張り込みみたいな。あの袋の大きさからすると、他にも何か色々入ってそうだ……おお、これこそまさに探偵って感じだ。どうです所長、自分の推理は。所長はあの男をどう思います?」


「推理か」


 羽田は苦笑すると、席へと戻っていった。少々騒ぎ過ぎただろうかと、ばつが悪くなった雄春も静かに席に着いた。


「ああ」ややあってから、羽田が思い出したように呟いた。「藤紫に用かもな」


「フジムラサキ?」


「すぐ隣のビルだよ」


 羽田は親指でビルの方を指し示した。


「駅近に〈FOUR SEASONS〉ってショッピングモールがあるだろ。あそこの経営者の持ち物でな、毎年、六堂大道芸の芸能人ゲストの控え室に使用していたらしいんだが、去年は誰かが外に漏らしちまったせいで、当日朝早くから、ゲストの若手俳優の熱狂的ファンが押し寄せちまって、ここらでちょっとした騒ぎになったんだよ」


「初耳っす」


「あれ、仲村は去年いなかったっけか」


「あー、休みでしたね」


 雄春は座ったまま椅子ごと窓まで移動し、再びブラインドの隙間から外を見やった。眼鏡の青年は先程とは違うものを食べている。


「確か今日のトークショーのゲストは、お笑いコンビと、あとはTAROでしたよね」


「タロウ?」


「ウルトラなヒーローじゃないっすよ。[RED―DEAD]っていうバンドのボーカルで、何か自分に酔ってるちょっとイタい奴です」


 眼鏡の青年は、空になったパンの袋をビニール袋にしまい、今度は小さなペットボトルを取り出した。


「何だ、牛乳じゃなさそうだな。緑茶、いや紅茶か……?」


 電話が鳴り響き、雄春の素人探偵モードは強制的に解除された。もう少し観察していたいところだったが仕方ない。椅子ごと戻ると、三コール目で愛想良く応えた。



 弓塚二丁目方面から緋雨が飛んで来たので、那由多は止まりやすいように右腕を伸ばした。


「結界はどう?」


「抜かりない」


 那由多が〈藤紫ビル〉の周辺をうろつき始めてから四〇分以上が経過した。ビル内に電気は点いているが、現時点では出入りする人間を一人も見かけていない。


「ずっとこのまま待ち続けるつもりか」


「やっぱ早過ぎたかな。まあでも張り込みは根気がいるもんね、仕方ない」


「刑事か探偵でも目指しているのか。しかもその袋……一つや二つではないのだろう。今更驚く事でもないが」


「あんぱんと、ジャムとバターとチーズがたっぷりの食パンサンドイッチに、カレーパン、あとはメロンパン。全部食べちゃったよ。どれか食べたかった?」


 緋雨は答えず、那由多の耳元で呆れたように溜め息を吐いた。


「茶織さんと龍君はどうかな」


「今のところ連絡なしか」


「うん。異常なしと判断していいのか、それとも──」


〈藤紫ビル〉から、紫色の七分袖Tシャツを着た、小柄で体格のいい白髪頭の女性が姿を現した。那由多には、女性が六堂大道芸のボランティアスタッフだとすぐにわかった。数日前、六堂大道芸の公式ホームページを閲覧した際、今年のボランティアスタッフ用のオリジナルTシャツを紹介するページに目を通し、覚えていた。

 女性は外に出ると腰に手を当て大きく伸びをし、誰かを待っているのか、キョロキョロと辺りを見回している。


「あのー、すみません」那由多は思い切って声を掛け、女性の元へ歩み寄った。「ぼく、大道芸のアルバイトスタッフなんですけど──」


「あら~そうなの? お互い頑張りましょうね!」


 脳天から出しているような甲高く大きな声に、緋雨が小さく呻いた。


「はい。あの、芸能人の方はまだいらっしゃっていないみたいですね」


「芸能人?」女性は生まれて初めて聞いた単語だと言わんばかりの表情を浮かべた。


「あれ、このビルって芸能人ゲストの控え室に使われているんですよね」


「え? 違うわよ、ここはボランティアスタッフの休憩室」


「え……」


「どうしたんだい」


 弓塚二丁目方面から、六〇代後半くらいのバーコード頭の男性が歩いて来た。女性と同じくボランティアスタッフのTシャツを着ている。


「あら~佐久間(さくま)さんお帰りなさい。あのね、この子アルバイトスタッフなんだけど、このビルは芸能人の控え室じゃないのかって。残念ながら違うのよね~」


「ああ」佐久間と呼ばれた男性は小さく頷いた。「今年から変更になったよ」


「今年から変更?」


「去年、若手俳優の子がゲストだった時にね、スタッフの誰かが情報を流しちゃったせいで、若い熱烈なファンが何人か来ちゃって騒いで、警察も呼んだんだよ。今年も人気ある子を呼ぶし、また同じ事が起きても困っちゃうからってね」


「え、じゃあ今回は何処に? ご存知です?」


「あー……知ってはいるが、こういう情報はね……」佐久間は苦笑した。


「あの……実はぼく、TAROの幼なじみで、今日本番前に久し振りに会おうって約束していたんです。駅周辺の担当なんですけど、場所はこのビルだって聞いていたから、まだ時間があるし、バイトリーダーに許可取ってこっちまで来たんです。参ったなあ……」


 那由多は肩を落とした。緋雨が感心し、また同時に呆れる程に自然な演技だった。


「あら~そうだったのね。それはちょっと可哀想だわよ。佐久間さん、特別に教えてあげてもいいんじゃない? ねえ~!」


 緋雨が再び呻いた。


「仕方ないな……じゃあ特別だ」佐久間は駅方面を指差した。「六堂町二丁目の〈藤紫第二ビル〉だ。周りには絶対秘密にしてくれよ」


「わかりました! 有難うございます!」


「ついでに、それこっちで捨てておきましょうか?」女性の視線は那由多の左手のビニール袋に向けられていた。「それ、ゴミでしょう?」


「え、いいんですか?」


「ええ!」


「それじゃ、お言葉に甘えて……」


 那由多が遠慮がちに差し出したビニール袋を、女性は微笑んで受け取った。


「気を付けて行ってらっしゃいね!」


「はい! お二人共、有難うございました!」


 那由多が駆け出すと、緋雨は肩から離れ、すぐ隣を飛んだ。


「いい人たちだったね」


「ああ……女の方はもう少し声が低ければ文句はなかったが」


「ねえ、二丁目だからさ、茶織さんに連絡した方が早いかな」言いながら、那由多はボディバッグからスマホを取り出した。


「茶織に頼むのか? どんな文句や嫌味を言われるかわかったもんじゃないぞ」


「そうかな……あれっ」


 横断歩道に差し掛かったところで、那由多は足止めた。


「どうした」緋雨は再び右肩に止まった。


「圏外だよ。何でだ……」那由多は答えを求めるように緋雨に目をやった。


「既に何かが起こっているのかもしれん。油断するなよ」


 那由多は無言で頷いた。

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