#1-1 茶織①
読み辛くってすみません。
「監督! 今回の作品ですが、どのような内容でしょうか?」
「はい。今作は、家族愛、親子の絆といった普遍的なテーマを軸に据えつつ、現代日本の社会問題に真正面から向き合った、ヒューマンドラマです」
初老の男性映画監督の回答に、女性インタビュアーが短く感嘆の声を上げる。朝のワイドショー、エンタメコーナーでの一幕だ。
──ふん。
道脇茶織は、テーブルの上のリモコンを取ると、テレビの向こうで綺麗事を言いながら盛り上がる人間たちを消し去った。小さく溜め息を吐いて椅子から立ち上がると、空いた食器をキッチンに下げ、自室へと戻る。
カーテンを半分開いて窓の外を覗くと、絵に描いたような澄んだ青空が広がり、木々の葉が優しく揺れていた。そよ風にでも当たろうかと窓を開けると、まるで示し合わせたかのようにピタリと止んでしまった。
──何なの?
ピシャリと窓を閉め、完全に外の景色を遮ると、再び溜め息が出た。三日前から、頭が重く、胸の奥がモヤモヤしてスッキリしない。些細な事で苛立ってしまう──もっとも、元々短気な性格ではあるのだが。
──あんたのせいよ、綾兄。
茶織はデスク上のノートパソコンの横に無造作に置かれたある物を手に取ると、睨むようにじっと見やった。
──こんな物だけ。
縦三〇センチ、横一二センチ程のサイズのそれは、何かの骨を二本組み合わせて作られた十字架だ。交差している部分には、元々は白かったのであろう汚れた細い紐がグルグルと巻き付けられている。骨同士はしっかり接着されているらしく、強く引っ張ってもビクともしない。
この奇妙なアイテムの元々の持ち主は、茶織にとって唯一の家族であり唯一の大切な存在、叔父の道脇綾鷹だ。
そして彼はまた、三日前から続く茶織の精神的不調の原因ともなっていた。
──こんな物だけ残して、ろくな説明もしないでわたしの前からいなくなるなんて!
道脇家の一族は、政治家や会社経営者など、社会的地位の高い人間を代々排出している、由緒正しい家柄だ。
綾鷹は幼少時より様々な面において優秀で、一族からは当然のように将来を嘱望されていた。しかし当の本人は、道脇の家に縛られず自由人として生きる事を強く望んでおり、二〇年前、現在の茶織と同じ二〇歳の時に、某国立大学を勝手に中退すると海外に旅立ってしまった。
パニックを起こした一族の中心人物たちは、イギリスに滞在していた綾鷹を捜し出すと力ずくで連れ戻そうとしたが、それが難しいと判断すると、今度は必死の説得と泣き落としにかかった。それらも時間の無駄に終わると、裏切り者、一族の恥などと罵倒し、外出先から帰宅した綾鷹のルームメイトに通報されそうになると、逃げるように立ち去り手ぶらで日本へ帰国したのだった。
それ以来、一族のごく一部の人間以外は、道脇綾鷹という男など最初から存在しなかったかのように振舞い続けた。そのため茶織は、五歳の秋に祖母の葬式会場で初めて目にするまで、叔父の存在を全く知らなかった。
茶織は当時の出来事を、一五年が経過した今でも不思議と鮮明に覚えている。
葬儀が始まって間もない頃、一人の若い男性が遅れてやって来ると、会場内に怒号と罵声が飛び交い騒然となった。若い男性は、抵抗虚しく道脇一族の参列者数人に締め出された。彼の姿が見えなくなってからも、不穏な空気が漂い続けていた。
「いまのひとはだれ?」
茶織は、締め出された男性の事を知らない人間なら誰にでも生じたであろう疑問を口にした。
「あなたの叔父さん。お父さんの弟よ」少々の間の後に、右隣に座る茶織の母が小声で答えた。
「あんな負け犬、弟であるものか」更にその隣の茶織の父が、吐き捨てるように続いた。「あの一族の面汚しが、今更のこのこと……」
火葬が終わり、一族の参列者たちが外部の参列者たちに挨拶をして回っている間に、茶織はこっそり抜け出し、火葬場近くの住宅街の中にポツンと存在する小さな公園に足を運んだ。葬儀場から火葬場に向かうバスの中で見付けた際には、二人用のブランコくらいしかなく、つまらなそうだと感じたが、空気が悪く、怖い大人や知らない大人だらけの場所にいるよりはずっとマシだ。しばらくの間姿を消していても、両親は気に留めやしないだろう。
──だって、あのふたりはわたしにきょうみないから。
公園のブランコには、大人の男性が座っていた。茶織が砂利を踏んだ音に反応して、俯いていた顔が上がる。
「……おじさん」
男性は、葬儀会場から締め出されていた人物だった。
「えっと、君は確か和兄の……」
〝おじさん〟の目は赤く、僅かに潤んでいた。
「さっきはごめんね、驚かせちゃったよね。俺は綾鷹。君のお父さんの弟なんだ」
「しってる」
「そうか。あ、だから俺をおじさんって呼んだのかな。そうであってほしいな……だって俺まだ二〇代だし……え、老けてる……?」
綾鷹は一人でぶつくさ言っていたが、やがて一つ咳払いすると茶織に向き直り、
「お名前は?」
「さおり」
「さおりちゃんか。さおりちゃん、おにいちゃんはね、普段は外国でお仕事をしているんだけれど、おにいちゃんたちのお母さん、つまりさおりちゃんのおばあちゃんが死んじゃったって聞いたから戻って来たんだ。でもおにいちゃんはね、前に皆と喧嘩しちゃって、仲直り出来ていなかったから……」
綾鷹は声を詰まらせた。茶織はそれだけで悲しくなってきた。それ程高齢ではない実の祖母が突然亡くなったと知らされても、様々な種類の花に囲まれ棺の中で眠る姿を直接目にしても、普段これといった交流がなかったとはいえ、特に何の感情も湧かなかった。しかし今日初めて存在を知り、まだ一分程度しかやり取りをしていない叔父には、すっかり感情移入していた。
「さおりちゃん、お父さんたちはどこにいるんだい」
「かそうば」
「火葬場から一人でここに? 早く戻らないと心配するよ」
茶織はかぶりを振り、その反応に戸惑う綾鷹の元へ歩み寄ると、スカートのポケットからタオルハンカチを取り出し、差し出した。白地で右下にウサギのシルエットが刺繍されたデザインで、茶織はそこそこ気に入っていた。
「ああ……」綾鷹は驚いた表情を見せたが、笑顔で受け取ると、茶織の頭を優しく撫でた。「有難う。優しいね」
茶織は嬉しさと照れ臭さが入り混じった、心地好いようなむず痒いような不思議な気分に陥った。両親にだってしてもらった記憶はなく、だからといって誰かに気安く触られるのも嫌いだったが、綾鷹の行為には全く抵抗がなかった。
茶織は、自分から何か話すべきかどうか迷った。おにいちゃんは落ち込んでいるから、面白い話をすれば元気になれるかもしれない。しかし、その肝心の面白い話というのを、いくら思い出そうとしても思い出せなかった。
──こわいはなしなら、いっぱいしってるのに。
そもそも、面白い話なんて何も知らなかった。
──どうしよう。どうしよう。
「さおりちゃん。おにいちゃん、もう行かなきゃ」
茶織は我に返った。
「飛行機に乗れなくなっちゃったら大変だから。これ、有難うね」
綾鷹は受け取った時と同じ状態のままのハンカチを茶織に返し、腰を上げた。
「それ、お母さんに買ってもらったのかな」
「わかんない」
「さおりちゃん、お休みの日に、お父さんやお母さんと一緒にお出掛けしたり遊んだりするの?」
「しない。おしごといそがしいんだって」
「そっか……」
綾鷹は何か思案していたが、やがて小さく息を吐くと、茶織の背丈に合わせて屈み、しっかり目を見ながら続けた。
「今日はもうお別れだけれど、またいつか、必ず会おう。ただ、おにいちゃんは、さおりちゃんのお父さんお母さん、それから親戚の皆に見付かっちゃうと、さおりちゃんに二度と会えなくなっちゃうかもしれないから、こっそり会いに行くね。いいかな?」
茶織は微笑んで頷いた。おにいちゃんとお別れするのはさみしいけれど、また今度会う時は皆には内緒でこっそり、というのがとても楽しそうで、今から待ち遠しいくらいだ。
綾鷹も頷き、
「じゃあ、約束の指切りしよう」
「ゆびきり?」
綾鷹は茶織の右手を取ると、お互いの小指を絡め、歌のような不思議な呪文を唱えた。そして「指切った!」を最後に、優しく指を離した。
「いいかい、この話は絶対に誰にも言っちゃ駄目だよ。ここで会った事もね。二人だけの約束、二人だけの秘密だ」
「うん」
茶織は先程よりも大きく頷いた。念を押されなくたって、公園で出くわした時からそのつもりだった。
「よし。じゃあ、行こう。交差点の所まで一緒だよ。そこから先は一人でね。おんぶしようか?」
茶織はかぶりを振り、おずおずと左手を伸ばした。
「そうだね、危ないから手を繋ごう」
歩く間に、綾鷹は茶織に様々な質問をしつつ、自分の話もした。
「おにいちゃんはね、映画を観るのが好きなんだ。さおりちゃんは好き?」
茶織は頷いた。
「どんな映画が好き? 映画館で観たの?」
「ううん、このあいだ、てれびでみたやつ」
「へえ。何て名前?」
「えくそしすと」
「え」
「あと、ぷれでたー」
「そ、そうか……」
別れの場所には、あっという間に着いてしまった。綾鷹の大きな手がゆっくり離れると、茶織は泣きたくなってきた。叔父ともっとずっと一緒にいてお喋りしたかったし、遠くに行ってしまわないでほしかった。しかし、ここでわがままを言ったり泣いたりして困らせたら、もう会わないと言われてしまうのではないかと思い、ぐっと堪えた。
「じゃあね、さおりちゃん。くれぐれも気を付けて戻るんだよ。またいつか会おうね」
「うん……ばいばい」
綾鷹の後ろ姿が完全に見えなくなると、茶織はしゃくり上げた。気が済むまで沢山泣きたかったが、誰かに見付かって話し掛けられるのは嫌だったので、慌てて白いハンカチで目元を拭うと、人気のないうちにその場を走り去った。
火葬場に戻ると、外部の参列者たちが帰りのバスに乗ろうとしていたところだった。両親は案の定、心配する素振りを見せるどころか、幼い一人娘が姿を消していた事に気付いてすらいないようだった。