#1-4-3 ヴードゥーの精霊③
目も眩むような閃光。あるいは、地の底から響き渡る、自信に満ちた低い男の声──は、いつまで経っても見えなければ、聞こえもしなかった。
「……で、何だって?」静寂を破ったのは、呆れたようなピエロの声だった。「助けを呼んだみたいだったけど、だぁれも来ないね」
茶織は眩暈を覚えた。
──き、決まった方法があるなら教えときなさいよ、綾兄……!
すっかり聞き慣れてしまった耳障りな笑い声が、茫然と立ち尽くす茶織の耳から耳へと通り抜けた。
「流石に長居し過ぎて疲れてきちゃったよ。腕からって言ったと思うけど取り消す。首一発で終わり! じゃあね!」
眼前に広がる、交差した刃。
──綾兄の馬鹿! 阿呆! それから──……
ガッッ!
鈍い音を立てて大はさみが噛んだのは、茶織の首ではなかった。
茶織は数メートル後方に倒れていた。綾鷹への恨み言を念じている最中、突然吹っ飛ばされたのだった。背と尻を打ち付けはしたが、とりあえず今はまだ首が繋がっている。
──何があったの……?
「な……なああっ!?」
ピエロの動揺する声に起き上がると、直前まで茶織が立っていた場所に第三者の姿があった。驚くべき事に、ピエロと同じように白手袋をはめた手に握った黒茶色の杖で、大はさみを受け止めている。
茶織はその後ろ姿をまじまじと見やった。夜の闇のように黒い、ボロボロの山高帽と燕尾服にブーツ。一九〇センチ以上はありそうな長身で、吹けば飛んでしまいそうに華奢だ。髪は見えないが、帽子で隠れてしまう程に短いのか、そもそも生えていないのかはわからなかった。性別は男で間違いないだろう。
「もしかして……バロン・サムディ?」
茶織が恐る恐る声を掛けると、男は無言で振り向いた。ペンキか何かで塗ったように真っ白な顔には皺が刻まれ、服装と同じ色合いのサングラスを掛けている。暗い夜道ですれ違ったら逃げ出したくなるような容姿だ。
ギギギギギッ。
軋んでいるのは杖か、はさみの方か。
男は素早く杖を引き抜くと、あっという間に茶織のすぐ目の前までやって来た。茶織の見間違いでなければ、足は地面から離れ、宙を滑るように移動していた。
男は長身を屈め、茶織を覗き込んだ。サングラスの奥はどんな目をしているのかはわからなかった。
茶織がたじろぐと、男は顔色に負けないくらい白い歯を見せてニカッと笑ってみせた。
「いやあ、随分と思い切ったイメチェンしたね、アヤタカ!」
「……は?」
「まさかの女装! そこそこ似合ってるけど……あれ、顔も変えた? 結構大胆に変えたんだねえ! 面影は残ってるけど元より気の強そうな目……いや待てよその体……え、性転換までしたの!?」
「何言って──」
「あ、でもワシ全然気にしないよ。むしろ嬉しいよ、お嬢ちゃんなアヤタカにこき使われるってのもなかなか──」
「ちょっと!」
男の細い腕を強く引っ張ると、頼りなくよろめいた。
「アヤタカって、道脇綾鷹の事でしょう。わたしは綾兄じゃない」
「え、あらヤダ! 早とちりだったってワケね。メンゴメンゴ~」
「あんたは……」茶織は一呼吸置いてから続けた。「バロン・サムディなんでしょ」
「その通り! 気軽にサムちゃんって呼んでくれて構わないよん」
ヴードゥーの精霊ゲデのリーダー、バロン・サムディ。もっと威厳のある言動を想像していた茶織は脱力しかけた。
ジャキ! ジャキ! ジャキ! ジャキ!
「勝手に二人で盛り上がってんなよ」ピエロの声は怒りに震えていた。「バロン何だって? せっかく終わらせられるところだったのによ! ヨボヨボの老いぼれが!」
「ヨボヨボ!?」
「サムディ、あいつは危険よ。早いところ何とかして。……サムディ?」
サムディはガックリと肩を落とし、
「ヨボヨボって……老いぼれって……え、ヒドくない?」
「ちょっと、ショック受けてる場合じゃないわよ!」
茶織はサムディの腕を揺さぶった。間違ってはいないだろうとも言ってやりたかったが、黙っておいた。
「ほら、早──危ない!」
ピエロは突進すると、その勢いのまま、閉じた大はさみをサムディの腹に突き刺した。
「んぐえっ!!」
「サムディ!!」
ピエロは更に力尽くで刃をめり込ませる。
「ちょ、ちょっ、痛いって痛い痛い──」
「お喋りが過ぎるんだよ、お・じ・い・ちゃん!」
刃先が貫通し、茶織の数センチ手前で止まった。あまりのショックに、茶織は悲鳴を上げる事も忘れていた。
サムディの体から力が抜けてゆく。ようやく刃が引き抜かれると、バタリと俯せに倒れた。
「……サムディ?」
サムディから血は流れ出ていないが、到底無事だとは思えなかった。
「ケケッ、呆気ない。正直、最初はちょっとだけビビったけどさ」ピエロはニイッと笑い、大はさみをゆっくり開いた。「さて、道脇茶織。今度こそさよならだ」
──の、呪い殺してやるからね、綾兄!!
ピエロが顔をしかめ、動きを止めた。「何だよ、生きてたのか」
サムディがピエロの足首を掴んでいた。ピエロが振り払うと、何事もなかったかのように飛び起き、再び杖を大はさみに噛ませた。茶織はその隙に刃先の届かない位置まで下がった。
「グッ……」
ピエロの腕に力が入るが、一見何の変哲もないごく普通の杖は、切断されるどころか大きな傷が付く様子もなかった。はさみを閉じようと力み過ぎて、腕が震え出す。対照的に、サムディは微動だにしない。
やがて、大はさみは泡が弾けたように一瞬で消え失せ、ピエロは連続バク転でサムディから離れた。今までの余裕は何処へやら、その顔には明らかな焦りが見受けられ、額には汗がにじんでいる。
「サムディ……あんた、何ともないの?」
恐る恐るといった様子で茶織が声を掛けると、サムディが振り向いた。いつの間にやら貫通傷は塞がっていた。
「モロチン! いや、モチロン!」サムディはニカッと笑った。「心配してくれたのねっ。嬉しい」
「全然」
「えっ、ああそう……。ところでお嬢ちゃん──」
けたたましい騒音が会話を遮った。ピエロの手に、今度はエンジン式のチェーンソーが握られていた。
「あれま、アイツ何でも持ってら」
「呑気な事言ってる場合じゃないわよ。何とかして」
「ほいほーい」
サムディは杖を振りかざした。すると、先端から黒い霧が溢れ出し、無数に分散して形を変えてゆき、それぞれがサングラスを掛けた人間の頭蓋骨となった。サムディがもう一度杖を軽く振ると、歯をカタカタと鳴らしながら次々とピエロへと飛び掛かっていった。
ピエロはチェーンソーを振り回し、頭骸骨たちを片っ端から真っ二つにし消滅させてゆく。やたらめったらと振り回しているようで意外と正確な動きだ。
抵抗を掻い潜り、頭骸骨の一つがピエロの肩に喰らい付いた。ピエロが小さく叫んで怯むと、残りの頭骸骨たちも次々とあちこちに喰らい付いてゆく。チェーンソーがピエロの手から滑り落ち、地面にぶつかると、大はさみの時のように消滅した。
やがて、ピエロの足がもつれて転倒すると、群がる頭骸骨たちであっという間に姿が見えなくなり、悲鳴だけが響き渡った。
「ねえ、他に何か武器はない?」頭骸骨の群れから目を離さず、茶織はサムディに尋ねた。
「持ってないなあ。何で?」
「わたしからもあいつに一撃くれてやりたいのよ」
「およっ、好戦的だね! でもお嬢ちゃんが手出ししなくても、ワシの頭蓋骨ちゃんたちが全部やってくれるよ。ヒョヒョヒョヒョヒョッ!」
「あいつは綾兄を侮辱したのよ。だからこのままじゃ気が済まない。……今の笑い声、あのピエロのと同じくらい気持ち悪いわよ」
「ガーン!」
ピエロの悲鳴がプツリと途絶えた。群がっていた頭骸骨たちも消滅してゆく。茶織はグロテスクなピエロの死体を覚悟したが、何も残っていなかった。
「綺麗に平らげたって事?」
サムディはかぶりを振った。「いんや、アイツは逃げた」
「はあ!? ……ちょっと!」茶織はサムディの胸倉を掴むと、怒りに任せて揺さぶった。「逃げられてどうするのよ! またいつ襲って来るかもわからないじゃないの! やっぱりわたしが止めを刺してやるべきだった!」
「お、落ち着いてくんろ、お嬢ちゃん……と、とりあえずさ、起きようじゃないの、ね?」
「え……?」
茶織の視界が歪み、ぼやけた。不快感を覚える前には正常に戻り、一番最初に目に映ったのは木目板だった。それが自分の部屋の天井で、今の自分が畳の上に仰向けになっているのだと茶織が気付くのに、時間は掛からなかった。
茶織はゆっくり上体を起こした。すぐ隣には骨の十字架が、まるで一緒に眠っていたかのように真っ直ぐに置いてある。そっと手に取ってみたが、脈動も熱も感じられなかった。
──夢……?
「こんばんは~」
サングラスを掛けた、皺が多く異様に白い顔が、にゅっと覗き込んできた。驚いた茶織が短く悲鳴を上げ、手にした骨の十字架で反射的にぶん殴ると、白い顔の男は変な声を上げて倒れた。
「イタタ……めり込んだよ……歯が折れるかと思ったよ……」
「バ、バロン・サムディ……」
「ほい、ワシです」
「ああ……」茶織は居住まいを正した。「さっきまでの出来事……あれは現実だった……?」
全てがただの悪夢だったのなら、目の前のこの変人、いや、ヴードゥーの変な精霊も存在しないはずだ。
「あのね、さっきまでの出来事は、夢でもあり現実でもあったのよん」サムディはそう答えると、宙に浮かび、あちこち忙しなく移動しながら続けた。「ワシを召喚でなければ、お嬢ちゃんは眠りながら死んでたね。はさみでバラバラにされるショックで心臓麻痺か何か起こしてね」
「あの夢と現実は連動していたって事?」
「その通り。しかし! あの道化師がワシに恐れをなして逃げ出した事によって、アイツが創り出していた世界が消えて、お嬢ちゃんは無事に目を覚ませた。この説明でおわかり?」
「まあ、だいたいわかったわ。夢だったからあんなに滅茶苦茶だったのね」
よくよく考えてみれば不自然な展開だらけだったのに、どういうわけかあの時はあまり疑問を感じなかった。本物の悪夢とは、そういうものなのかもしれない。
「焦ったわよ。呼び出すったってやり方がわからないし。出て来ないのかと思った」
「お嬢ちゃんの力があんまり強くなくってね、実体化するのに時間が掛かっちゃったの。波長はそこそこ合ってたみたいだけどね」
「力って……」
「〝霊力〟とか〝魔力〟って呼ばれているようなヤツね」
「わたしにはそんな能力ないわよ」
サムディは空中クロールを止めると、茶織の隣に着地し胡座を掻き、
「なかったら、ワシを自分の体に憑依させずにそのまま召喚だなんて芸当は無理。姿だって見えないし、会話も出来ないよん。え、ホントに無自覚? 今までにワシ以外の誰かを召喚だ事ないの?」
「あるわけないでしょ」
「ふーん、ワシが初めての男ね……え、何?」
「嫌な言い方しないでくれる?」
「そ、その鋭い目付き超怖い……でもちょっと好きかも……」
茶織は無視して立ち上がり、壁時計を見やった。短針は一一を、長針は一〇を指している。
「嘘……もうこんな時間?」
「良い子はもう寝る時間ですねーっと。まあさっきまで眠っていたんだけどね。ヒョヒョヒョ」
「当分眠れそうにないわ、色んな意味で。夕飯ももういいか」茶織は溜め息を吐いた。「お風呂に入るから帰って。召喚解除って言うのかしら。……ちょっと、聞いてるの?」
振り返ると、真顔で直立不動のサムディの姿があった。
「物凄く不自然よ」
「いやあ、またあの道化師がやって来るかもしれませんからなあ。ワシがすぐ近くで見張っていなくてはなりませんなあ」
「ふざけた事言わないで」
「何をおっしゃる、ワシは至って真面目に──」
「今すぐ消えなさい、バロン・サムディ。さもないと首をへし折るわよ」
「へ、へいっ!」
茶織は再び溜め息を吐いた。バロン・サムディは生と死、そして性欲を司るという。ピエロの化け物から助けられはしたが、決して油断ならない。
「それに見た目からして気持ち悪いし」
「へっ?」
「ほら、早く」
「へーい……あ、でもちょっと待って」
回り込んで来たサムディに、茶織は身構える。
「あ、殴るなら右の頬にして……さっきは左だったから」
「それが用件?」
「いやいや、ほら、肝心な事を聞き忘れてたじゃないの」
「何かあったかしら」
「お嬢ちゃん、お名前なんてーの?」