#1-4-2 ヴードゥーの精霊②
「あれあれ、もしかしてもう忘れちゃったのかな、ボクの事」ピエロはわざとらしく首を傾げた。
茶織は既に理解していた──ピエロは幻でなければ、普通の人間でもないという事を。
──化け物。
「うーん、残念だな……いや、やっぱりその顔は覚えているね! 良かった良かった!」ピエロは破顔し、大袈裟に手を叩いた。
──まずいわ。かなりまずい。
茶織は焦りながらも、ピエロに釘付けとなっていた。
「キミ、高校生かと思ったけど……大人かあ」茶織が何も答えずにいると、ピエロは肩を竦めた。「さっきから反応が少なくて、ちょっと寂しいな、道脇茶織ちゃん」
名前を呼ばれても、茶織はそれ程驚かなかった。どうやって調べたのかは不明だが、このピエロには調査も追跡も朝飯前なのだろう。
「まあ、別にいいんだけどね、キミが高校生だろうが成人していようが、サオリだろうがカオリだろうが。予定通り実行させてもらうだけさ」
「……え?」
「あ、やっと喋ってくれたね。でも察しが悪いなあ。つまりさ──」
ピエロは一旦言葉を切り、ぐっと身を屈めると──
「ベロベロバアーーーーーーッッ!」
ディスプレイに向かって勢い良く飛び掛かった。不気味な顔がアップになり、先端が若干尖った黄ばんだ歯と、飢えた獣のようにぎらつく真紅の両目がはっきりと見える。
茶織が小さく驚きの声を上げて後ずさると、ピエロは不満そうに顔をしかめた。
「ホントにもう、反応薄くてつまらないなあ……せっかく会いに来てやったのにさあ!」
「……誰も頼んじゃ──」
次の瞬間、ピエロの右手がディスプレイを突き破った。茶織が先程よりも大きな驚きの声を上げて飛び退くと、ピエロは満足げにニイッと笑った。
「ほらぁ、そんなに離れてちゃ、握手が出来ないよ……ケケケッ」
ピエロは白手袋の指を何度か曲げたり伸ばしたりすると、左手、頭と順番に突き破り、ズルズルと這い出て来た。
「そうそう、さっきの続きだけど……キミには死んでもらうって事だよ! だって見られちゃったんだもの、口封じってヤツだよ口封じ! あとストレス解消も兼ねてね! ウケケ──」
茶織は骨の十字架をピエロの頭頂部に振り下ろした。上手く命中したが、キャップがクッションになってしまったのだろうか、あまり手応えは感じられなかった。
「……舌噛むかと思っただろ……ケケッ……次はボクの番だね……ケケケッ……ウケケケケッ!」
ピエロが完全に這い出す前に、茶織は部屋を飛び出し、一目散に玄関へと向かった。何処へ逃げるつもりなのか、自分でもわかっていなかった。
「なっ……」
妙に軽いドアを一気に開くとそこは、茶織がかつて通っていた東京都内の中学校の校庭だった。
振り返るもドアはなく、目に入ったのは移動式のバスケットゴールが二台と、その下に放置されている空気の抜けたバスケットボールが一つ。その後ろの汚れたコンクリートの壁には、所々に赤茶色のシミが付着している。
──血……?
シャキ。シャキ。
何か音がする。
シャキ。シャキ。
日常生活で割とよく耳にするような音だが、思い出せない。
シャキ。シャキ。
茶織は再び振り返った。四、五年前まで週に五日も通っていた、懐かしくも何ともない四階建ての古いコンクリート校舎の方から、白衣姿の太った女が歩いて来る。よく見るとそれは、三年生時に国語担当だった教師、阿川だった。
シャキ。シャキ。
阿川はお気に入りの生徒たちには愛想が良く、見下した生徒たちには冷淡だった。茶織に対しての扱いは、初めのうちは後者だったが、日本国内でそれなりに有名な一族の娘だと知った途端に態度を変え、露骨に媚を売るようになった。
「若い頃はオードリー・ヘプバーンに似てるってよく言われたわ!」
口癖のように自慢げに語る彼女に陰で付けられたあだ名は、〝大喰らい・デブババア〟であった。
シャキ。シャキ。
音源は阿川が手にしている物体──全長一メートル以上、刃渡りだけで七〇センチはありそうな、大はさみだった。
シャキ。シャキ。
五〇メートル以上は離れているにも関わらず、空鋏の音は不自然な程によく響いてくる。
「久し振りねぇ道脇さん。お元気?」
シャキ。シャキ。
「すっかり綺麗になっちゃって。まあ道脇さんは元から顔立ちが整っていたけど、より一層、ね。それに背も伸びたわねえ」
シャキ。シャキ。
「羨ましいわ。先生はどんどん衰えていくだけ。オードリーだったあの頃に戻りたいわ。ケケケッ。あら、聞いてるのかしらぁ道脇さん」
シャキ。シャキ。シャキ。
一歩、また一歩と近付くにつれ、阿川の姿が変化してゆき、キツネ目にお下げ髪、背が低く小太りな少女となった。二年生時にクラスメートだった横井だ。
「ちょっと、道脇さん! 何そんな所に突っ立ってんのよ!」
理由は不明だが、横井は茶織を目の敵にし、何かと突っ掛かってくる事が多かった。茶織が冷静に言い返すとムキになってキイキイ喚く姿は、空腹の小豚が騒いでいるようで滑稽だった。
「全く、お前らは何度同じ事言わせりゃ気が済むんだガキ共……赤ん坊か? ああ?」
「道脇ぃ! ほら挨拶しろ挨拶!」
数学教師の海永、英語教師の古林と変化が続いた。どちらも阿川と同じくらい人間性に問題があり、同じくらい生徒たちから嫌われていた。
──オールスター大集合、って?
古林がピエロの姿に戻る頃には、茶織との距離は一五メートルも離れていなかった。
シャキ。シャキ。
「その音、さっきからうるさいんだけど」
「まあまあ、そんな神経質になるなって。しかし冷静だね。もっと怖がってくれなきゃ張り合いがないよ」
「むしろ笑えるわよ」
「へえ、そうかい」
シャキ! シャキ!
茶織は無意識に骨の十字架を胸元に抱き寄せていた。その激しい脈動と、火で炙っているかのような熱さが、叔父の言葉を思い出させた──〝その身に危険が迫ったら、その時はサムディを呼び出すんだ〟
──……どうやって?
ピエロが再びゆっくりと歩き出すと、茶織も後ずさった。
──どうやるのよ、綾兄?
「動いてどうするんだい。大人しくしてりゃすぐに終わらせてあげられるんだ……だからそれ以上動くなっつうんだよボケ」
シャキ! シャキ! シャキ!
──!?
茶織は、第三者の気配を感じた。ピエロ以外にもろくでもない化け物が存在し、襲い掛かるチャンスを窺いながら、舌舐めずりしているとでもいうのだろうか。横目で探すも、その姿は見当たらない。
──いる。間違いなく誰かがいる。
シャキ。シャキ。
「困ったねえ、だぁれも助けてくれる人がいなくて」
骨の十字架を握る手に力が入る。手も胸元も火傷しているかもしれないが、ほとんど気にならなかった。
──まさか……バロン・サムディ?
「こんな時、キミのおじさんが来てくれれば良かったのにねえ」
シャキ。シャキ。
「キミのおじさん、キミをほったらかしにして、今頃何処をフラフラしてるんだろうねえ。仕事だなんて嘘だったりしてね! ホントはあちこちにいる女の所を転々としてヒモ生活しているだけだったり! ケケケッ!」
茶織は俯いた。
シャキ。シャキ。シャキ。
「もっと酷いのはキミの両親だ……育児放棄もいいところだったじゃないか。あんな奴ら、親と呼ぶのも嫌じゃないかい? 今、目の前で倒れて苦しんでいたらキミはどうする?」
ピエロは小首を傾げて返事を待っていたが、茶織に答える様子がないとわかると小さく溜め息を吐いた。
「助けないだろ? 絶対に! むしろトドメ刺しちゃうだろ? わかる、わかるよ、ボクだってそうするもの!」
シャキシャキシャキシャキシャキ!
「──したな」
「ん?」
「綾兄を侮辱したな」
シャキ──
怒気を含んだ低く威圧的な声と共に、茶織の顔がゆっくりと上がった。
「あの二人はどうでもいい。でも綾兄を侮辱するのは許さない。綾兄を侮辱していいのはこの世でわたしだけ」
「キミ……ちょっと変わってるね」ピエロは僅かに顔を引きつらせた。「いやむしろ、イカれてるよ。自分が今どんな顔してるかわかる? 目が据わっちゃってさ。それに、ボクにここまで歯向かってきた人間は初めてだよ。皆すぐにビビっちまうのにさ」
「黙りな」
「その威勢の良さはいつまで保てるかな?」
ジャキ!ジャキ!ジャキ!
「じゃあまずは腕からいこうか。そのヘンテコな十字架ごとチョッキンとね! ウケケケケッ!」
大きく開かれた刃が茶織に迫る。
──信じるわよ、綾兄!
茶織は、牽制するように骨の十字架を突き出した。
「いるんだったらとっとと出て来なさいよ、バロン・サムディ!!」
応えるように、骨の十字架が一際大きく脈打った。