コップの底の黒黴
目覚めると、辺りは真っ暗だった。とても寒い。私は手を伸ばしてベッドの隣の机の上にあるスマホを手探りで取り、音楽をかけた。『元気がないときに聞く曲』。そう調べると、たくさん動画が上がっている。癒しの音楽。ボーカルの女性の声に心が安らぐ。曲について調べてみたら、カバー曲で、原曲は私が嫌いなアーティストによる作曲だった。
また布団から這い出し、壁に備え付けてあるエアコンのリモコンに手を伸ばした。暖房をつけると同時に、消し忘れても大丈夫なように切タイマーをつける。そしてまた布団の中に頭を埋める。意識がなくなる・・・。
また置時計のアラームが鳴っている。眠い頭を起こしながら、アラームを消す。時間は7時過ぎ。6時に起きるつもりだったのに、寝坊してしまった。けれど眠いからどうしようもない。
じっと時計を睨む。本当に7時だろうか。本当は6時じゃないだろうか。それとも、もう8時を過ぎていて会社が始まっていないだろうか。
するとスマホのアラームが鳴りだした。やはり7時だ。私はスマホのアラームを消し、布団から起き出した。
冷蔵庫からペットボトルを取り出し、水色のコップに水を注ぐ。電子レンジで2分、温める。エアコンから出てくる風に目がかすむ。フィルターが汚れているのかもしれない。単身赴任で1人暮らしをしている父親が、業者にフィルターの掃除をしてもらったら、咳き込むのが治ったと言っていた。
皿を出し、シリアルを入れる。食物繊維が多めのやつ。あとバナナも。その間に、電子レンジがチンと鳴る。コップを取り出す。机に置く。机の上に置いている、祖父の写真に手を合わせる。
朝ご飯に手を合わせる。カラカラに乾いたシリアルを口に運ぶ。美味しくない。温めた水を飲む。喉の奥にシリアルと共に流し込む。
片手でスマホを取り、音楽を止める。好きなお笑いコンビのラジオを検索する。クリスマスに買い物をしたときのエピソードを話している。私は動画を止める。また、疲れたときに聞く音楽に戻す。シリアルを食べ終えると、立ち上がり、お皿とコップを流し台に置く。冷たい水でお皿を洗う。置時計を見たら、7時20分だった。もうあと20分で家を出なければいけない。
トイレに行ったが、便秘で何も出ない。そのまま歯を磨く。自分のあまりに老けた顔と死んだ目に驚く。26歳というのはこんなに老けてるものなのか。
鏡に染みついた白い水垢に苛立つ。けれど綺麗にする気にもなれない。流し台も汚い。ハンドソープの底は茶色に変色し、ネバネバとした液体がついている。床の隅にはほこりと髪の毛が溜まっている。
もう少し明るい人間になりたかった。現実に辛いことがあっても、苦しくても、前向きに捉え、しっかりと自分の務めを果たしていくような人間になりたかった。
でもいまの私は違う。大して辛くもない癖に仕事が嫌でたまらないし、上司の言うことは何も聞きたくないし、会社の人間とは誰にも会いたくもないし、友達もいないし、休日は何をやっていても楽しくない。
歯磨きを終えて口の中の水を吐き出す。洗面台の底に汚らしくこびりついた食べ物のカスが目につく。うがい用のコップの底には黒い黴が生えている。コップに口をつけると表面がざらついている。
寒すぎる。時計を見ると、35分だ。あと10分。私は会社に行くための黒い手提げ鞄を取る。これはいつ買ったものだろう。ああ、親から貰ったものだ。中には折り畳み傘と文庫本が入っている。私が中学校のときにはまった小説。それを最近読み直している。全部で4巻。さらに付録で1巻。その3巻目をいま読んでいる。でも読む手が途中で止まってしまった。主人公は町で暮らす普通の女の子。その女の子の半生を描いている。1巻目から2巻目までは、女の子と、飼い犬の物語。3巻目以降は、女の子が獣医師になった後の物語。でも私は2巻目までが好きだ。3巻目以降は、編集者に促されて書いたと、作者があとがきに書いていた。いつも会社の昼休み休憩に続きを読もうと思うのだが、最近はなぜかあまり読めていない。
上着を着る。ネックウォーマーとキャップと手袋をつける。ジーパンの下にはタイツを穿いている。
時計を見る。40分。まだ少し時間がある。いつもは慌てて出て行くのに、5分も余裕があるなんて珍しい。私はベッドの上に座る。スマホを取り、音楽を変える。洋楽をかける。少し昔の音楽。いまの時代の洋楽は、抑揚が激しく、アップテンポで落ち着かない。J-POPもそんな感じだ。朝から聴きたくない。
音楽をかけながら、鞄の中に入っている本を開いた。1pだけ読む。久しぶりに読んだから場面を思い出すのに時間がかかる。するとスマホがピピピピピとアラーム音を鳴らした。一度、会社で働いている時にも誤って鳴ってしまったことがあった。近くにいたシニアのおじさんが、「嫌な音だねぇ」と呟いていた。
アラームを止め、立ち上がった。鍵とスマホと社員証を持っていることを確認した。家の扉に手をかけた。扉を開けると、冷たい寒気が、顔に当たった。