8。
(──ガタン。ギギギギギ……)
列車が、急停車する音が耳に聴こえ、身体が座席から前のめりになり、俺は眠りから覚めた。
「(只今、先行列車が人身事故のため、垂水駅手前で緊急停車しております。運行を見合わせておりますので、運転再開まで、しばらくお待ち下さい……)」
車内にアナウンスが流れる。
それと同時に、俺と向かい合わせの席で眠っていた女性も、目が覚めたようだ。
(──しかし、リアルな夢だったな……。人身事故まで起こるとは)
人身事故は俺の乗る列車ではなく、夢の中では大阪方面から来る列車のはずだった。
しかし、さっきまで話していた彼女(夢の中でだが)──俺の真向かいに座る女性が、カバンから何かの資料を取り出して開き、確認をしていた。
現実に戻った俺には、彼女へと話し掛けるキッカケも術も何も無い訳だが。
(おっと。俺も列車が遅延した場合について、資料の確認をしとかなきゃだな……。って、ん?)
よく見ると、真向かいに座る女性が開いている資料は、俺と同じ研修先の資料だった。
(──ま、マジか……)
急に胸が高鳴る。目の前に座る見ず知らずの女性に対してだ。
いや。夢の中では最後、彼女からの返答を聞けないままだった。
もしかしたら──、とも想ったが俺と彼女には何の縁も縁も無い。
──いや。
「す、すみません……。○○研修先の方ですかね? 僕も同じ研修受けるんですが、遅延した場合って──」
俺に突然話し掛けられた彼女が、目を見開いて驚く。研修先の資料から顔を上げ、夢の中と同じ瞳で俺の目を見つめた。
「え? あ、そ、そうなんですね。遅延しても、なんか大丈夫みたいですよ? 駅で発行してる遅延証明書をもらったら良いみたいで……」
「そ、そうですか……」
言葉少なく、彼女と俺との会話が終わった。
それから、二人してザァザァと降る雨粒が透明な車窓に流れて行く様子を見ていた。外の景色とともに。
まだ、海は見えておらず、鈍色の雨雲の下に夢の中で見た学校や公園が見えた。
(俺の知らない街、知らない風景、知らない彼女──、か……)
しばらくすると、運行を見合わせていた列車が、ゆっくりと少しずつ動き出した。車内にアナウンスが流れ、お急ぎの方は次の停車駅で別の路線の列車かバスに乗り換えて下さいとの案内があった。
俺は、なんとなく雨の気怠さもあり、そのまま列車に残った。
彼女は、次の停車駅で降り、研修先へと先を急ぐようだった。研修に身の入らない俺は、遅延しても構わないと想った。
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そのあと無事、三ノ宮駅に着いて急いでコンビニに立ち寄る。
外国人のレジは、やはり空いていた。要らないレジ袋もそのまま購入するハメになったが。雨の中、鞄にしまうのも面倒だと想った俺は、買ったばかりのチョコクランクをレジ袋から取り出し、頬張りながら研修先へと急いだ。
遅延証明書をもらってはいたが、流石に何時間もゆっくりとは出来ず、それなりに急ぐ。
大きな神社のある坂道に差し掛かったが、修学旅行生もバスの姿も見あたら無かった。
坂道を歩きながら缶コーヒーを飲んで、途中でムセる。
『パッポウ』と鳩の機械音声が鳴り響く横断歩道を渡り終えたが、夢の中で鳩のエサやりをした時計台と緑のある公園には寄れなかった。しかし、『もっこすラーメン』を急ぎ足で左横目に確認した俺は、昼こそは必ずと想う。
(なんか、夢の中の方が良かったよな……)
現実は、いつだって忙しない。そう言った想いが歩きながら過ぎる。雨の中を途中、水たまりに急ぎ足で歩く俺の片方の革靴が嵌まり、靴下が少し濡れた。
少しの晴れ間もなく降り続く雨。俺の差す傘の向こうに、大きな歩道橋が見えた。信号が青になり行き交う車とともに、小さな歩行者用の横断歩道を速やかに渡り終え、左の路地へと入る。
(確かこの辺りに、タバコ屋……)
研修先の案内地図と俺の夢の中での記憶とが重なる。辿り着いた俺は、夢の中と同じように、急いで古びた茶色の木の長椅子に腰掛ず、立ったまま軒先でタバコを一服。雨空に昇る煙が消えていく。雨の中、郵便のバイクが、俺の目の前を黒いアスファルトに流れる雨の水飛沫を上げて、走り去る。
(急いではいるが、タバコだけは吸っとかないとな……)
別に、この後、何かが有るわけじゃ無い。俺は、会社からの業務命令で研修を受けに来ただけ。けど──。
──研修目的で神戸へと来たのに、今は違う目的でドキドキとしていた。
……やはり、そのあとも無事、遅延証明書を研修先へと提出した俺は、夢の中とは違った想いで講義時間には全くもって身が入らなかった。時折、休憩時間に彼女の方をチラチラと見たが、特に変わった様子も無い。俺と彼女とは全くの赤の他人のままだ。
そして、昼休憩を受講生メンバーたちとともに、講義室を後にする彼女の後ろ姿を人知れず見送った。
それから、『もっこすラーメン』を夢のままに味わった俺は一人、午後からも滞りなく研修を終えた。
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研修を終えた俺は、研修会場出口から受講生が掃けるのを最後尾から遠目に見つめていた。気持ちが急かされる。
もしかしたら、あの時、あのタイミングだったからこそ、彼女に会えた訳で──。
──俺は、ようやく研修会場出口へと辿り着き、エレベーターではなく階段を駆け下り、研修会場の自動ドアを駆け抜けて大きな神社のある下り坂へと急いだ。雨は、いつの間にか止んでいた。
(そ、そうだ……)
夢の中でも参拝し損ねていた俺は、神社の境内をくぐり抜けるついでに、夢の中の彼女に再び会えるようにと、急いで立ち寄り、しめ縄と賽銭箱の前で財布を確認した。
(ご、500円玉しかねぇのかよ……。1円玉じゃあな……。まあ、良い)
俺にしては奮発して、賽銭箱へと500円玉を投げ入れ、素早くも精一杯祈った。
(彼女に会えますように、会えますように……。そして、出来れば──お願いします、神様!)
俺は、神社の境内を背にして、一目散に海を目指した。夢の中では、彼女がいた海へと──。
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(ハァ、ハァ……。い、いた──)
──息切れしている俺とは対称的に、夕日が海に沈む桟橋のその先に、彼女が静かに佇んでいた。
しかし、俺と彼女は、とりわけ何かをキッカケにして話せる状況でもない。
夢の中とは、少しタイミングがズレていたのか、今ちょうど豪華客船が汽笛を鳴らして出航したばかりだった。
(──ボー! ボー、ボー!!)
豪華客船の出航の汽笛が、夕日の沈む赤い水平線の海に流れた。
夢の中では少しばかり、ある程度の会話があった俺と彼女だが──、今は何も無い。
カモメの鳴き声が海風に聞こえて、テトラポットに寄せる波飛沫の音が足もとに迫っていた。
刻一刻と過ぎ去る時間。何も言い出せないままに、このまま終わってしまうのだろうか……。
彼女が、桟橋の先から身を翻して、俺の方へと近づいてくる。黙ったまま。俯いて。夕焼けを背にして──。
──すれ違う。何も言えない。
俯いた俺の目には、涙が零れていた──。
(──あ、あれ? なんで……)
もう、会えない時間。会うことのない時間。過ぎ去る時間に、歯止めがきかないように、零れた涙が次から次へと溢れかえる。まるで、時間をつなぎ止めるかのように、俺は歯を食いしばり、両の拳を握りしめて立ち尽くしていた。
「ま、待って──!」
俺は、彼女を呼び止めるように叫んでいた。波の音だけが聞こえた。
彼女は、一瞬、立ち止まり──俺へと振り返った。
夢の中で変わらない彼女の顔と瞳が、夕焼けとともに、俺の目に赤く染まり反射して映っていた。
「──お返事、まだでしたよね?」
「え──?」
──夕焼けを背にした彼女が、海風に靡く長い黒髪を耳もとで掻き上げていた。
どう言う理屈でか、訳が分からないが、何故か俺と彼女との間に会話が成立している。
「あ、あの……」
「夢──。私も見てましたよ? もしかしたら、貴方がここに来るんじゃないかって」
言葉を詰まらせた俺に対して、彼女が驚くことを口にした。
夢の中で体験していたのは、俺だけじゃなかった。彼女もそうだった。だけども、研修先での現実の時間が忙しなく二人を押し流した。だからこそ、ここに流れ着いた。海の見える、この夕焼けの桟橋に。
「ご飯。食べに行きます? もちろん、良いですよ? あー、なんか、お腹減った! ……ですよね?」
「あ、あぁ……。そ、そう! 俺のオゴリで、ね?」
「フフ……。別に良いのに。なんか、昔から知ってたみたいですよね? 私たちって」
「そう、だよな? なんか、その……。長い時間グルグル回ってたような? 何回も同じとこ」
「うん……」
それから、俺と彼女は例の夢の中と同じオルゴールの鳴る土産物屋に入り、中のレストランで同じものを注文した。
弾む彼女との会話。
だが、これも、もしもまた夢で、あの列車の中の時間に振り出しに戻されたりなんて、しないだろうな? とも想う。
「また、振り出しに戻されたりなんてしてな? あの車両に」
「アハハ! まぁ、その時は、その時じゃない? また、仲良くなれば良いし?」
「そうだな」
「そうだよ」
オルゴールの音色は明るく美しく、儚い夢のようでもありながら、いつまでも続く気がした。店のオレンジ色のボンヤリとした照明が俺と彼女のテーブルを照らしている。
ただ、俺は、彼女の名前をまだ知らない。
いつか自然に。名前を知るその時が来れば良いと想う。
今は、それよりも、この時が何処までも何時までも、途切れないことを心の中で祈っていた。
名前を聴いてしまえば、何だかまた振り出しに戻るような気がして。そして、あの車両で知り合うよりも、もっと以前に流されてしまったのなら?
また、暗い部屋に俺ひとり戻りたくはなかった──。
──でも。やはり幻は嫌だ。いくら、今が幸せであったとしても。
それに、もしも、また違う時間にひとり流されたとしても、また、こうやって勇気を振り絞って会いに行けば良い。
いや、もしかしたら、あの車両で想ったように、違う場所で生まれたなら──違う誰かに出会い、今、目の前にいる彼女の存在が消えてしまうのかも知れない。
それでも──、現実をこの手に掴みたかった俺は最後の確定ボタンを押すかのように、彼女へと名前を尋ねた。
「そうだ。名前。名前知らないのも変だよね?」
「知らなくても良いのに」
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何故か、そのあと──プッツリと記憶が途切れた。
気が付くと、窓辺から鈍い光が差し込んでいて、雨粒がザァザァと降り注ぐ音だけが響いていた。
「──仕事。いや、今日は研修先に……行かなくちゃ」
俺は何してんだろうって、想う。
身体が重い。何故だか分からないが、日常を繰り返すのは、いつものこと。
今日も、俺はひとり。
雨の降るバスと列車から、窓辺の風景を眺められれば、それで良いとさえ想う。
──fin──