7。
「さっきの豪華客船、綺麗だったですよね……」
俯いて歩いていた彼女が、いつの間にか俺の右隣を歩いていて、急に顔を上げたかと思うと、そんな風に言った。チラッと俺の顔を見たかと思うと、また真っ直ぐに、高架下の駅の方向を見つめた。
山手に広がるこの街のビル群や、曲がりくねったオブジェのような高速道路も、夕焼けに染まり太陽の赤い光を反射させている。
「え、えぇ。た、確かに。綺麗だったですよね……」
俺も俯いて言葉を返すが、なんともこの丁寧語での話し言葉は、まどろっこしくて話づらい。歯が浮くとでも言うのか、次第にゾワゾワとして来る。しゃべりにくい。
最初の最初は緊張こそしていたが、何か歩いている内に、そんなことは、どうでも良くなって来た。
やはり、年齢のせいか、どう思われているかとかより、今のこの時間と会話を大事にしたいとも想う。
彼女が、何を感じて何を想うのか。
チラリと彼女の横顔を見てから、海側を振り返ると、まるで水平線に沈みこむ太陽に吸い込まれるかのように、大型の豪華客船がゆっくりと進んでいるのが見えた。
「旅行とか興味あるの?」
俺は言葉少なく、自分の想いとは裏腹に、彼女へと話題を振ってみた。
おそらく、彼女は日常を離れたい訳だ。豪華客船に彼女が想いを馳せるとは、そう言う事だ。
しかしながら、俺は腹が減った。よくある豪華客船のビュッフェとか、バイキングとかの料理を腹いっぱい食いたいとも想う。
我ながら、全くムードに欠けるとも想う。
「ん? 何処か行きたいよりも、お腹減ったかな? 旅行よりも、食いっ気?」
おぉぅっ!? ナイスフィーリング!! とは、この事だ。
的は外れたが、二人の間に流れる共感というものは、心の距離を近づけ和らげる。
夕闇迫る海を臨む緑の公園。敷かれた石畳の道が緩やかにカーブして、先ほど俺が危惧して恐れを成した土産物屋の建物へと差し掛かる。
「ちょっと、寄って行きません?」
出た。恐怖の土産物屋。俺はあえて素通りしようとしたが、彼女は興味あるらしい。
まあ、俺も興味が無いと言えば嘘になるが。
何が恐怖かって、オルゴールだ。切ないんだ。あの音色。
けれども、俺は今、一人ではない。
あろうことか、偶然による奇跡で見ず知らずの女性と今ここにいる。
見ず知らず? ん? 名前も自己紹介も、まだじゃねーかっ!?
しかし、突然の出会いって、こう言うもんなのか?
まぁ、この後、何も無かったとしても良い想い出くらいにはなるだろう……。
(──カランコロン……)
店の入り口の扉に取り付けられた鈴が鳴る。
見渡す限り土産物屋ではあったが、意外にも奥行きがあり、レストランも兼ねている。
そして──、
(──お、オルゴールの音色……)
あぁ……。やはりだ。儚き想い出よ。オルゴール館とか昔に行ったが良い想い出がないっ!
と言うのも、本当は、オルゴールの音色が大好きで一人で旅行した時に彷徨ったり……。
──って、失恋でじゃねぇか。傷心旅行かよ! 今、想い出した。ロクな事がねぇ……。
「オルゴールの音色──。良いですよね?」
彼女は、長い黒髪を耳もとで掻き上げ、女神のような澄んだ笑顔で俺の目をジッと覗き込む。意外にも彼女はスラッとした長身で、俺と差ほど身長が変わらない。
店内の薄暗いオレンジの照明の中で聞こえるオルゴールの音色。流行りの曲やジブリなんかがアレンジされて流れている。ご当地もののお土産が多種多様に置かれ、売り場は賑わっている様子だ。
それとは別に、過去のトラウマ的なものが隆起し、心の中をヒクつくが、店の雰囲気も彼女との雰囲気も、まあまあ良い感じだし……。
って、おい! 俺よ。彼女を彼女として、完全に意識してしまっているではないかっ!? さっき、出会ったばかりだぞ……。
「そ、そうですね。お、オルゴール……。い、良いですよね」
ヒクつく笑顔で、ニカッと俺は彼女に笑い返した。
俺の話言葉が、またもとの丁寧語へと戻る。まあ、良いさ……。
「あ! これ、可愛い! 見てくださいよっ」
て、彼女。おねだりなのか? まさかな。それに、彼女は気さくだ。誰に対しても、こうなのか?
そこは少し残念だが、重苦しい雰囲気よりかはマシだ。せっかく、今ここにいるんだから。もう、この店にだって、二度とは来ないだろうし。
「ん? あー。これね。可愛いよね。今、流行ってるんじゃない?」
俺も、ノリと勢いで、気さくさを演じて彼女と言葉を交わす。まあ、年齢行きゃあ、そんくらいはお手のモンだ。
「フフ……」
微笑む彼女が、笑顔を零して、手に取った商品を静かに元の場所へと戻した。
って、買わんのかーいっ!?
もう少し仲良くなれたのならば、言えるツッコミにしても、今はイキナリだし、出会ったばかりだし、自重して止めておく。
それにしても、彼女は可愛い。そんなこと想ったのは何年ぶりだろう。職場にも女子社員は居るが、みんな疲れた顔をしていて、こんなにキラキラとした笑顔は、トンと久方ぶりだ。
(──や、ヤバいな……)
見ず知らずの名前も知らない彼女のことを、好きになりかけているのが、自分でも分かる。
けれども、彼女は、俺のことを何て想っているだろう。俺は、まだ何も行動していない。優しさも誠実さとかも、そんなの意識すると気持ち悪いが、それでも俺は、彼女に対して何もしていない。
(むぅ……)
彼女が売り場に戻した商品を見て想う。
今日限りだし、彼女とおそろで買っても……。いやいや、止めておこう。付き合ってる訳でもなけりゃあ、さっきまで公園をほんの数十メートルにも満たない距離を歩いただけ。
しかし、いちいちドキドキする。まるで、チェスゲームか何かのようだ。
自分のその時々の一挙手一投足により、まるで運命が分かれて行くような──。
──彼女が、オルゴールの音色の中をオレンジの照明とともに、商品を手に取り眺めている。
時折、上がる彼女の赤い唇の口角と、肩に掛けられたカバンの金色に光る金具が、眩しく目に映った。
ヒールのよく似合う足首の細い彼女。俺にはもったいないくらいの品のある女性だと、今さらながらにして想う。
しかしながら想うのだが、自己紹介も今さら取って付けたようで、おかしくないだろうか? 今日限りだし。研修も終わってるし。
が──。
「な、なんか、腹減りません? め、飯……。よ、良かったら、奥行って食べます? おごり、マスよ?」
何を想ったのだろう。俺。自分でもパニックだ。
今日限りと言う想いが、俺の何かを突き動かしたとでも言うのだろうか。
まるで、誰かに背中を押されたように──、
──俺は、彼女の目の前へと、一歩。気づけば、彼女の横顔が目の前にあって。俺の言葉を聞いた彼女が、俺へと振り向いた。まるで、宝石みたいにキラキラとした彼女の瞳。店内のオレンジの照明が揺れている。
「……──」
──彼女の沈黙が、店内のオルゴールの音色とともに流れ、しばらくの時が流れ去る。それから俺が、何かを耳にしたのは、ほんの数秒後の出来事だった。