5。
午後からの研修講義が思ったよりも早く終わり、時刻は夕方4時。まだ空は明るかった。
講義内容なんて、ほとんど覚えていない。職場に報告書の提出とは言え、どうせ、帰ってから資料を読み込んで、まとめりゃ良いだけの話だ。
「さて、家に帰るかな……」
講義の壇上近くに座らされていた俺は、出口まで遠い位置にいる。受講生たちが掃けるのを遠目に待っていた。
「時間もったいねぇよ。けど、まあ良いか……」
そう想いながら、俺は講義のあった室内を後にした。
混み合うエレベーターを避けて、階段をコツコツと音立てて降りる。
研修先のビルの自動ドアを抜けると、外の風が頬を掠めた。
空は、午前中とは打って変わって晴れていた。
まだ、夕焼けとまでは行かないが、だいぶ日が沈みかけている。空に、薄い青色と黄色に近い色が混ざる。
「もう、来ることねぇんだろうな……」
少し後ろを振り返り、なぜだかそんな風に思った。いや、来ることもあるかもだが、毎回、研修先は変わる。
それに、あれだけの受講生たちが居ながら、ほとんど誰とも会話する事のなかった俺は、急に寂しさを覚えた。家に帰れば、また暗い部屋に一人。何をするともなく、必要なことに追われて眠るだけ。とは言え、幸い2連休で明日も休みだ。
「ちょっと、寄ってくか……」
そんなことを想いつつ、神社のある坂道を下る。
参拝しても良かったのだが、それよりも俺はこの港街に面した海が見たかった。
駅の構内をそのまま通り抜け、国道をまたぐ歩道橋の階段を登る。
海辺とビルの谷間の景色が混ざる歩道橋からは、さながら現代アートのような風景にも見えた。そして、反対方面に振り向くと、限りない海が水平線の彼方まで広がっていた。
「流石に、綺麗──……。ん?」
歩道橋から海辺に渡る一人の女性の後ろ姿があった。
「確か、あの人……」
そうだ。同じ車両の向かい側に座っていた女の人だ。たぶん、偶然にも研修先でも同じだった。
「なんか、気まずいな……。俺も同じ方向に行きたいんだが……」
別に、後をつけるワケじゃない。たまたま、行く方向が同じだっただけ。別に興味は無い。──と言うと、嘘になるかも知れないが、なぜ彼女も一人で? くらいには想う。まあ、関係のない話だが。
海辺とは言っても、臨海公園のようになっており、ヨットが岸に停泊している。それに、小洒落た土産物屋の建物なんかもある。たぶん、オルゴールとかが店内に流れてて、余計に切なくなる気持ちを恐れた俺は、雨上がりの海に面した緑の公園をブラついた。
しかし。しかし、だ──。
──俺の行く方向行く方向へと、彼女の方が先に先にと進みやがる。
俺は、波打ち際が見たかっただけだ。
となると、彼女もそう言う事なのだろうか。まあ、良い。関係のない赤の他人だ。
俺は、カモメたちの鳴き声を聞きながら海風に吹かれ、ちょっとばかり黄昏時をそう言う気分とともに味わいたかっただけだ。
桟橋の先には、海を見つめる彼女が俺よりも先にいた。完全に先を越される。俺は桟橋の先へと行きたいんだが、彼女とは距離を空けて海辺に漂う波間を見つめることにした。
テトラポットの波打ち際に、夕焼けが迫りカモメたちの鳴き声が聞こえる。空と海との境界線が赤く染まる。何処までも美しい──。
「──あの?」
何かに彼女が反応した声が聞こえた。
スマホででも、誰かとライン電話でもしているんだろうか……。
まあ、知らん振りだ。もとより、俺には関係ない。俺は黙々と海辺の波打ち際を見つめた。俺も早く桟橋の先から、海に沈む夕日を見たい。
「あの、研修先。同じ、でしたよね?」
あり得ない。
声がした方向に俺が振り向くと、彼女は赤のロングスカートと、黒髪を腰のあたりに風に靡かせ、研修先でもらった資料を入れているであろう黒いカバンを肩に掛けて立っている。
この桟橋に俺と彼女の二人きり。それに、手にはスマホなんて持っていなかった。
どうやら彼女は、本気で、俺に話し掛けている様子だった。
はい──? と、惚けるのも失礼だし、え──? と、聞き返すのも失礼か。
急に、緊張が身体の中を走り抜ける。人見知りの激しさだけは、良い年齢して自信がある。
しかしながら、何て返事を──。
「──ぼ、僕ですか?」
なんだそりゃ。僕ってか? いやいや、無いだろうよ、その返事の仕方。それに、周囲には彼女以外、俺しか居ない。決まってんだろうよ。
けれども、妄想が脳内をコンマ数秒間逡巡した結果、あり得ないバカバカしさに気づいた俺は、冷静さを取り戻すことが出来た。