5。
「(──経由、……行き。定刻になりましたので発車致します。本日、雨でお足もとが大変滑り易くなっており危険です。走行中は座席を立たない様お願い致します。扉が閉まります。ご注意ください──)」
雨に濡れた窓の外の景色。バスが、ゆっくりと43番乗り場を転回して動き出す。窓辺に流れる雨粒の音と車内アナウンス。あらかじめ、調べておいたとおり。ちゃんと、行き先のバスに乗れているようで安心する。バスの転回に伴い、雨の降りしきる車窓から煌びやかな駅ビルの光が飛び込む。ボンヤリと窓ガラスに伝う雨粒に滲んではいるけれど──。
(──憶えてるかな。私のこと……)
外の雨の風景を見ながら──、雨に濡れた自分の髪先を胸の上で握る。
──病室で彼の心配そうにしていた瞳を想い出す。
けれど、明確な顔の輪郭や表情がこの窓辺に流れる景色のように、どこか朧気で曖昧で。私は、あの時のことを想い返していた。
ボンヤリとした意識と視界の中──、病院のベッドの上で、時折私へと尋ねる彼の心配そうな声が聞こえる。そして、幽かに滲む病室の天井。その白い灯り。彼の優しい眼差しが、私へと向けられていた。けれど、灯りを背にしているせいか、彼の表情がはっきりとは見えなかった。
少し短めの髪型に、スーツ姿。私とは少し年上か、そんなに変わらないように想えた。
(──私、どんな表情してたんだろ。あ、メイク……)
雨降りでメイクが崩れてないか確認する。窓辺に流れる雨粒と私の顔。車窓に映るけど、よく分からない。
私にとっては、ほとんど初めての街──初めての場所。雨が、降りしきる。視界が悪い。行き交う車のヘッドライト。黒く濡れたアスファルトに反射する路面。灰色に流れる街の景色──が黒い雨雲に溶け込む。
スマホに映して自分の顔、確かめる。手の冷たさを感じた。バスが揺れる。その度、だんだん緊張感で胸が高鳴っているのが分かった。落ち着かなくて、ゆっくりと深呼吸をする。信号が青に変わって、徐々にスピードを上げたバスの窓ガラスに、雨粒が斜めに流れて行った。
(──憶えてる、憶えてない、憶えてる……。会えるかな、会えないかな、会えるかな……)
曇りガラスに灯る車のヘッドライトの明かり。過ぎ去っては、流れていく。雨粒のように。
バス停に止まる度、自動で開閉する昇降口から、外の冷たい雨の空気が流れ込む。
年輩の女性が席を立って、雨に湿った化粧品の匂いが、鼻をついた。
停車する度に聞こえる車内のアナウンス。高鳴る胸を他所に、オレンジ色に灯る運賃表の電光掲示板が、整理券番号と共に更新されて行く。
「(──次、停まります。ご注意ください……)」
車内アナウンスが流れる。車窓のすぐ隣に設置された停車ボタン。誰かが押したのか、紫色に灯っている。
「(──○○苑、老人ホーム前でございます……。危険ですから、バスが停車するまで座席を立たないようお願い致します。本日雨で、車内通路が大変滑り易くなっております。お降りの際は、お足もとにご注意ください)」
静かに響く車内アナウンス。停車したバス停の名前を聞いて、ハッとする。
鞄からお財布を取り出して、小銭を確認する。ちょうど足りない。調べて分かってたのに。
(──降りなきゃ……)
焦る緊張感が胸を締め付けた。隠すように、紙幣を手に取る。落ち着きを装う。座席から立ち上がろうとすると、ヒールが滑って、上手く立てなかった。転びそうになる。座席と天井からぶら下がる吊革に咄嗟につかまって、なんとかバランスを保った。他の乗客からの視線。みんなに見られているのを感じた。
──ため息をつく。落ち着こうとして、一度、深呼吸をする。ゆっくりと、雨に濡れた車内の通路を歩く。ヒールの足音が響く。滑らないように。転ばないように。転倒して、良い想い出が無かったから──。
──いや、彼に会えたのは、あの時駅のホームで転倒したおかげ──なのかな……。危うく死にそうになったけど。
(──ダダダダダ……。チャリン、チャリン……)
両替機に紙幣を投入し、オレンジ色に灯る電光掲示板の運賃表と整理券番号を照らし合わせる。調べておいたとおりの金額。小銭を手に取って運賃箱に入れる。
「ありがとう」
「お気を付けて」
バスの運転手にお礼を言う。雨に濡れたバスステップ。転ばないように一段一段、静かに降りる。ヒールの足音が鳴る。その度に、緊張感と胸の高鳴りが、私を締め付けた。
黒い雨雲。降りしきる雨。私は空に向かって、ビニール傘を差した。雨を弾く激しい音。透明のビニール傘の上を、幾つもの雨粒が流れ落ちる。外の空気が冷たい。私が深呼吸する度、吐く息が白く消えた。




