プロローグ(3)
「ただいまー。」
玄関中に、自分の声が響きわたる。
でも返ってくる声は無かった。いつもは、義母さんの声が返ってくるのに。
もう、あの人を嫌いたくないと思っていた。
悪あがきはやめよう、そうした方が、お父さんも、お母さんも、幸せなんだ。
お母さんが亡くなって2年たった。そろそろ受け入れた方が良い。
義弟が産まれた。兄になった。僕はその子の、家族になってやらなきゃいけない。
義母はとても良い人だった。僕の勝手な予測は外れていた。
父親はきっと、あの人となら幸せになれると思って、再婚したのだろう。
そういうのを、ちゃんと考えている人だ……僕がその幸せの邪魔をしてしまった。
身近の、いろんな人を傷つけた。凄く弱かった。弱すぎた。
せめて今からでも、家族になりたい。
「……なのに、どうしたんだろう?かいものにでもいってるのかな。」
取り敢えず靴を脱いで、リビングに行く。
部屋の中はシーンとしていて、僕の足音ばかりが響いていた。
カチリと電気をつけると、薄暗かった部屋が明るくなった。カーテンが全部しまっていた。
カーテンを開くと、空がどんよりとした灰色で覆われていた。この感じじゃあ、もう少しで雨が降り出すだろう。
扉の方に戻ろうとすると、キュ、キュ、と、磨かれた床が鳴った。そう言えば、あの人は毎日綺麗に家を掃除していた。きっと家庭的な人だったのだろう。我が儘な僕にだって、毎日食事を出してくれた。
「おぎゃあああああぁあ゛あ、ゔぁあ゛ぁぁああああああああああっっぁあ!」
「うあっ!」
二階から、赤ん坊が泣いている声が聞こえた。きっと弟だろう、どうしたのかな。
静まり返った部屋の中で、赤ん坊の泣き声だけが嫌に響いて、僕の耳の奥の方で、ぐわん、ぐわんと変に眩暈を誘った。
きいん、と音がしたと思ったら、僕は自然とそちらに足を向けていた。涙が出そうだ、と思った。
キシッと階段が音を鳴らした。どうしてだろう、こんな音、泣き声でかき消されても良いだろうに。
無駄に響いている階段の音よりも早く、心臓がガンガンと僕をゆすぶる。なんだろう、予感がするんだ。この階段を上っても良いのかと、誰かが聞いているような、そんな気もする。
どうしてだろう、そんな声が、煩わしい。
足を止めることはできなかった。それどころか、僕は階段を上るスピードを上げた。
タタタタッと、たどり着いた廊下の床を、勢いよく蹴った。
学校と比べたら、全然長くも無いはずの廊下が、今まで無いほど長く感じられた。
どうしたんだろう。すごくすごく、なんだろう。
何時の間にか、僕は唇をかみしめていた。これじゃあ、一言だって言葉を発することができない。
服がじわじわと濡れた。さっきの雲を思い出して、ああ、もう雨が降り始めたのかなぁ、と、変な事を考えた。
目の前には、何の雨粒も見えなかった。ただ何故か、下睫毛に塩水が乗っかっていた。
僕はその勢いのまま、子供部屋の扉を開いた。
煩いほど耳の奥で響いていた弟の泣き声が、その瞬間に止んだ。
泣き疲れたのかな、とか、寝ちゃったかな、とか、赤ん坊と言うのは、あんなにも大きな声で泣くんだな、とか、一通りの事を考えて、ただ、その目の前にある、壁を見つめた。
「……待ってた、ホタル。」
見たくなかった方向から、声がした。落ち着いた声だった。
僕は瞳だけを動かした。そのせいで、焦点はよく合わなかった。ただ、風にたなびいているカーテンの隙間から、鈍く光が零れているのが見えた。
間違っても、体を動かそうとは思わなかった。足の裏が、その慣れ親しんでいた床に、縫い付けられているかのようだった。
「……この歪な世界を、何時か壊したいと思ってた。ふざけんな、何台無しにしてくれてるんだよって。」
僕の顔を見て、何を血迷ったか、何故だか「安心しろ、お前の事じゃねえから。」と言った。
でも僕は確か、彼の世界を歪めた気がする。
どうも、見覚えのある顔だった。
何度も何度も見てきた顔だった。
転校生の彼のように、気のせいだと思えない顔だった。
つい数分前も眺めた顔だった。
彼はまるで何時もの世間話でもするように、少しだけ高圧的な顔で、確かに、笑っていた。
「ぐちゃぐちゃにしてやりたいと思った。全部なかったことにしてやりたかった。このめちゃくちゃな世界で、正しい事をしたいと思ってやったんだ。今だって、これで合ってたんだって、勝手に思ってる。」
彼が右手に持つ包丁から、鮮やかな赤が零れた。
それ以外にいつもと違うのは、その顔がどうにも赤色の何かで濡れていることだった。
そう言えば、この部屋中を染めている赤色と似てると思った。
目の前は全て、赤かった。何時起きたのか、弟の泣き声が開かれた窓から出ているように思えて、近所迷惑かな、と思った。バタバタと音を立てている、五月蠅いカーテンさえ、赤色だった。雨が降ってる筈なのに、そこから零れる光さえ赤いように思えた。
さっき僕が踏みしめた床も、雨でびちゃびちゃに濡れていた。なのに赤かった。
天井から、ポタリと落ちた雨粒が、僕の頬を滑った。それを指で受け止めたら、赤かった。
真っ赤っ赤。まっかっか。
「ヵ゛、……タ、、ヅ、く、」
上手く、彼の名を口にすることが出来なかった。
のどがカラカラに乾いて、掠れていた。さっきリビングにいて、冷蔵庫が近かったのだから、麦茶を飲んで来ればよかったな、と思った。
「何から壊そうかな、と思ったんだ。そこで、お前が義母を苦手にしていることを思い出した。幼馴染だし、助けてやろうか……お前は弟が産まれるのを楽しみにしているようだった。だから、それまで待った。」
水を求めているからか知らないが、目尻から水が零れた。
それはこの部屋では珍しい事に、赤くなかった。だけど、さっきの雨と混じったのか、少しだけその色が濁ったのが分かった。
頬を伝っていったそれが、唇の隙間から口内に入っていった。僕は、ゴクリと喉を鳴らした。
唇が震えた。指の感覚が少しだけ無くなった。耳がキーンと鳴って、痛かった。
「病院で殺してやろうと思ったけど、俺にはまだ人に被害を浴びせる毒の知識も、害のある成分も、どうやって投薬してやるかもよく分からない。それに病院だったら、生き残る確率だってある……だから、俺はこの女が退院したらと思って、また待った。」
床から、足がはがれた。
僕はふらりと彼の方を向いた。
鮮やかな赤色の壁に、背中をつけた。
ごん、と音がなって、頭までぶつけていることに気が付いた。
シャツが何かで、じわと濡れた。さっきの雨とは、また違ったものだった。
「そんで俺は、最近更新したばかりの、新しい日常を過ごした。小学校一年生、そんな年齢で壊したいとか、幼児にでも戻ったか、それとも、早すぎる重い厨二病か……滑稽だけど、でも、どちらでも良いって思ったんだ。だから、俺はそれをぶっ壊した後、お前を待った。こういうのって、伝えた方が良いと思ったんだ。」
彼は笑っていた。
でも僕は、それを普通だと思った。そう言う物だと思った。全然そう言う物じゃないけれど。
「こういう、ぶっ壊しちまったこと、お前には伝えた方が良いと思ったんだ。」
そう言い直した彼の足元で、雨に濡れた義母が、苦しそうな顔で固まっていた。
元から白かったその肌は、もっともっと青白かった。
仲良くなりたかった、と思った。
何でこうなったんだろう、とも思った。
でも、それより僕は、彼の事が気になってしまった。
だって、彼は言い訳していた。
だって、彼は本当は、さっき僕と話まで、殺すのが怖かった。
だって、僕が壊したかも、しれなかった。
「……タツくん、うめよう。」
喉はもう、乾いていなかった。
ただ、そんな自分に自己嫌悪が止まらなかった。
壁は赤色に染められていたけれど、まだ固まりはしていない。すぐに拭いたら、きっと取れるだろう。
……僕は最悪のタイミングで、今の彼を受け入れた。
僕は義母の足を持った。僕の家は、高い塀で囲われているし、この時間は人通りが少ない。隣はタツ君の家で、両親は何時もいないと聞いている。もう片側は空地だ。庭側ならきっと、誰にも見られないで済む。
彼も義母の背中を持った。持ち上げると、思っていたより軽かった。そう言えば足も細く、痩せていた。きっと、ストレスを抱えていたのだろう。僕より弱かったのかもしれない。
トン、トン、と階段を下りた。不思議と、さっきより音は響かない。どこか、別の世界で起こっているかのようだった。
そっと義母を床に置いて、家の中にある方の倉庫から、大きめのスコップを取り出した。
大人が持つようなもので、少し重かった。
庭の端の方に生える、木の近くを掘った。ここなら掘っても、あまり気づかれない。
タツ君はただ黙って、地面を掘った。だから僕も、黙って義母を埋めた。
僕はそこで初めて、今空が晴れていることに気が付いた。雨なんぞ降っていなかった。さっき教室で見たのと変わらない位、真っ青に、晴れ渡った、空。
本当に馬鹿だったと思う。
殺された義母でなく、殺した幼馴染を取ったのだ。
確かに、彼の方が長い時間を共に過ごしてきた。
確かに、僕は彼の人生を少しだけ台無しにした。
だけどあの時は絶対に、義母を想わなければならなかったのに。
でも今僕は、こうやって。
「よく、みえないや。」
目の前がぼやけて、焦点が合わなかった。夢の中みたいだった。
タツ君が、お前、コンタクトしなよ、と言った。
それもそうだな、と思った。
そして、ぴう、と、目の端らへんを風が通り過ぎて行くから、思わずぎゅっと目をつぶった。