解離と天使様
頭痛が酷いので首を思いっきり左に曲げたら物凄い音がした。今度こそ脳味噌に繋がる大事な神経が切れたのだ。ベッドに寝転んだまま部屋の中を見渡すと違和感があった。妙に明るいのだ。それでいて世界と自分の間に距離が出来たというか、一枚膜を隔てたような感覚で、僕は僕自身のことを他人事の様に眺めている。こんな夜はきっと誰にでもある。なんだか全部が全部夢のようで、嫌な事も楽しいことも思いつかずに全ての実感が僕からするりと抜け落ちている。酷く落ち着いていた。解離。僕の状態を本当に医学的に解離と呼ぶのかはわからないけれど、その言葉は今の僕の精神にぴったりと当てはまるような気がした。
「ルナ」
僕が虚空にそう呼びかけると、銀色の長い髪を持ち、水色の浴衣に身を包んだ少女がふわりと僕の前に現れた。その躰は幽霊の様に宙に浮いている。
彼女は僕の頭の中に住んでいる。僕がこの空虚な人生でつくりだした唯一の創作物だ。
今日は一段とその存在に現実感がある。僕が現実から遠ざかったからだろうか。
「どうしたの?」
「首をひねったら物凄い音がしたんだ。多分神経だか血管だかリンパだか、とにかくそんな大事なものが切れたに違いない。きっとこのまま少しずつ体が動かなくなって死んでしまうんだ」
僕はベッドから身を起こしながらそう言った。
「病は気からって言うでしょ。そんなことだれだってあるよ。きっと大丈夫だって」
病は気から。気は病から。心気妄想。そんなの卵が先か鶏が先かみたいな頭をただ無意味に空回りさせるだけのお遊びであって、大切なのは僕が実際に死んでしまうかどうかではなくて、僕が死んでしまうかもしれないと思い込んでいること、そして僕が死んでしまうなら死に方を選びたいということだ。
僕は立ち上がって自分の姿を見下ろした。黒いTシャツに普段着に見えなくもない灰色のスウェット。こんな深夜なら外を出歩いても不審には思われないだろう。
机まで数歩歩いて、引き出しを開ける。中にはドラッグストアでおなじみのものから頭の病院に行かなければ手に入らないような各種薬物がぎっしりと詰まっていた。
「それで死ぬの?」
ルナは僕を止めない。脳を共有している以上僕の死はそのまま彼女の死に繋がるのだが、僕が心の底から願っていることに反した言葉は口に出来ないのだから。彼女は僕であり、僕は彼女。僕とルナとの会話は鏡に対してしゃべりかけているようなものだ。対象化する自己と対象化された自己との意思疎通。合わせ鏡が無限の深さまで繋がっているように、僕は彼女との対話の中で再帰的に彼女を、自分自身を確認する。
「それも考えたんだけどね」
僕は部屋を見渡す。
味気ないような白い照明に照らされた部屋。
机の上に散らばっている缶ジュースと飲みかけのペットボトル。
食卓を中心に床まで散らかっている大学からの重要なものもそうでないものもぐちゃぐちゃな書類。
ベッドの隅で所在なさげに縮こまっている毛布。
タンスの上に乱雑に纏められた衣類。
孤独と病気をパノラマにしたとしたら、きっとこんな風景だろう。我が部屋ながら眩暈がする。こんな場所で死んだら幽霊になってもこの部屋に囚われて、永遠に終わらない毎日を繰り返すことになりそうだ。大家さんにも迷惑がかかる。
僕は少し考えて、この解離状態を加速させるような薬物を何種類か選んだ。右の掌いっぱいの薬を僕は頬張って嚥下する。洗面所にいき、歯ブラシの入っていたコップで水を一杯飲む。
さあ、外に出ようじゃないか。死に場所を探しに行こう。
外は昼の熱気でアスファルトの匂いを淡く漂わせていて、過ごしやすい涼しさだった。ときおり風が剥き出しの肌を撫でる。良い夜だ、と普段なら僕は感傷に浸っていただろうが、現実と白昼夢の境界が淡く滲んだ今はなんとも思わない。ただ暑さや寒さは僕を現実に引き戻すから、それがないのは好都合だと思った。
「どこに行くの?」
「さあ、どこに行こうか」
僕は薬の回り始めた頭で応える。
彼女の存在感は更にその重みを増していた。
「死なないほうが絶対に得だと思うけどね」
「そうだね」
「そうだよ」
「そうだね」
「そうなんだよ」
「しかし、どこに行こうか?ただ歩き回ってるだけじゃあ何時もとおんなじだよ」
「駅なんかいいんじゃないかな。人が一杯いるところでさ、いきなり切腹して死ぬの。エンターテインメントじゃない?」
「人目を集めて自殺か。劇場型犯罪ならぬ劇場型自殺」
「もっとひっそり、静かに死にたい?」
「いや、どっちでもいいかなあ。あの部屋で死にたくないってだけで、外に出てきた訳だから」
「あの部屋で死ぬの、なんか寝るのと一緒みたいだもんね。またおんなじ毎日が続きそう」
「じゃあ、とりあえず駅に向かおうか」
僕の周囲に漂うルナを連れて、僕は駅の方に足を向ける。別に死に方などどうだっていいのだが、大騒ぎの中意識を失うのはどんな気分なんだろうとちょっと気になるのも事実であった。
駅について僕は拍子抜けした。
殆ど人がいないのだ。
当然だ。池袋や新宿のような繁華街の近くのおおきな駅ならまだしも、こんな住宅街の近くの小さな駅に、こんな時間で人が集まっている訳が無い。
コンビニから出てきた若者、駅から出てくるサラリーマン。タクシーから降りる途中の女、そんな人たちがまばらにいるだけで、こんな中で自殺したって大した騒ぎにはならないだろう。かといって駅に入って地下鉄に乗り、もっと大きな駅に行こうかというと、ちょっとそんな気分にはなれない。僕はそこまで劇場型自殺に憧れているわけではないし、電車の中の眩い照明、色とりどりの広告、大通りの喧騒と目を潰す勢いの街の明かり、そんな大量の情報を一身に受け止めたら、この酩酊にも似た静寂は破れ、すぐに現実に引き戻されそうな気がした。ていうか切腹なんて簡単に言うけど痛そうだ。だいいち刃物なんて持ってない。
僕がぼうっと駅の前で佇んでいるとルナは何かを見つけたように駆け出した。ルナの走っている方向に目をやると、酔いつぶれてガードレールにもたれかかって寝ているスーツ姿のおじさんがいる。ルナはそのおじさんを蹴っ飛ばそうとするがもちろんそんなことは出来ない。ルナの脚はただおじさんの体を通り抜けるだけだ。
「大丈夫ですかあ」
普段の僕なら絶対に声などかけないが、現実から遊離した僕はどんな面倒な絡まれ方をされてもたいして気にならないという自信があった。ただ突っ立っているのに飽きたというのもある。
「だい……じょう……ない」
「大丈夫じゃないって」
「なにがですか」
「おれはさあ、おれは頑張ってきたんだよ!がんばったよなあ俺はなあ!」
「どんな風にですか」
「親父も、弟も、東京大学にいってさあ、叔父さんも従兄弟も京大、慶応、マーチマーチマーチマーチマーチ!」
おじさんは最後歌うように言った。
「おれだってよう、頑張ろうとしたさ、でも駄目なんだ。机の前に座っても不安で不安で仕方ねえんだよ。教科書読んでもなあんにもあたまに入んねんだ」
「それはつらかったですねえ」
僕はなんだか楽しくなってきた。薬のせいか、人の不幸話が面白いのかわからない。
「一浪してさ、三流以下の私大行ってさ、それでも就活頑張って、中小だけど企業入ってさ、恋人も作ってさ、家族になってさ、子供作ってさ、人並みの幸せってやつを手に入れたと思ったんだよう」
「頑張ったねえ」
ルナはうんうんと頷いている。
「親父や弟にゃ敵わねえかもしれねえけどよ、毎日毎日残業でもよ、これが俺の幸せだって納得できそうだったんだ」
「それでそれで?」
ルナは楽しそうに笑う。
「俺はよ、俺はよ、一流大学を出て、大企業に勤めて、幸せな家庭を築きたかった……」
「何があったんですか?」
「妻が働いてるパート先のバイトの大学生と不倫してた」
「あちゃー」
ルナは顔を片手で覆う。
「俺が、俺がもっと稼げたら、パートなんかさせなくても済んでたら、俺がもっといい大学出てたら、もっと頭がよかったら」
「あなたは、理想の実現を現実に求めてるんですねえ」
「それ普通だろ」
ルナの言葉を無視して続ける。
「あなたは理想と現実とのギャップを努力で埋めようとした」
「だからそれ普通だから」
「でもね?もっといい方法があるんですよ」
「いい方法?」
「人間は二つの世界を生きている。自分の世界と、自分以外の世界――つまり現実ですね」
どうせ酒で腐っている脳味噌に届くわけがないので、僕は社会性0のうわ言をつらつらと語る。
「この二つの世界を完全に分離させればいいんですよ。あなたは自分の世界で、理想の世界を妄想という形で飛び回る。こうすれば現実には肉体が存在するための最低限のコストだけを支払っていればいい」
「妄……想」
「そう。妄想の世界ではあなたは自由ですよ。一流大学を卒業して、大企業に勤めて、幸せな家庭を築いていける」
僕はそうやって生きてきた。だからルナを作った。
「でも、でも、俺は今悲しいんだよ!」
僕はその瞬間おじさんの顔面を蹴り飛ばした。おじさんはアスファルトに倒れ込んで動かなくなった。ルナは少し寂しそうだった。全く、現実ってやつはどこまでもしつこく僕達を追い込む。容姿が、学歴が、社交性が、無意識が僕達を苛む。どんなに速く走っても、現実は僕達の背中に張り付いている。それは時には罵声で、時には嘲笑で、時には失格で、時には鬱で。僕は気分が悪くなった。もうここには用がない。とっとと別の場所に行かないと、この高度を保てないかもしれない。
「翔太」
「何」
「ごめんね」
ルナは言った。
「ルナは悪くないよ。僕達が遅すぎるからいけないんだ」
そう。きっともっと速く現実から逃げれば。妄想の強度を上げれば。そうすればきっと僕達は別の世界にいける筈なんだ。
駅から離れて住宅街に入る。しばらく僕達二人は口を聞かなかった。しばらくすると薬の効きが回ってきたのか、更にルナの存在感が増してきた。僕は嬉しくなって、下らないよたを飛ばし始めた。
「人間の文明が進むにつれてさ、現実逃避ってどんどん加速してると思わない?」
「加速?」
「そう最初は文字と絵だけだった。石の壁やら羊皮紙やらに書かれた文字と絵だけが、妄想の世界への窓だった。それが活版印刷技術で多くの人の手に渡るようになって、次は動画が生まれた」
「今じゃVRなんてものもあるね」
「そうだよ。次は脳に電極をぶっ刺すんだ。その次はどうなるんだろう。もしかしたら、僕達が生きている間に、君に会える日が来るかもしれないね」
「無理だよ。だってこれから死ぬんでしょ」
「そうだったそうだった。あははは」
「うわあああああ出ていけええ」
深夜の住宅街にはふさわしくない叫び声が聞こえた。僕達から見て右手にある古いアパートの一階だ。明かりの落ちたアパートに一つだけ、煌々と電気の付いた部屋がある。
ルナは何を思ったか突然、近くに落ちていた空き缶を広い、電気の付いた部屋に投げつける。僕はルナが物質に干渉出来る筈がないので驚いたが、よく考えると現実の世界では僕が空き缶を投げたのかもしれない。
空き缶は高い音を立てて雨戸にぶつかった。僕は雨戸が割れていないことに安堵した。
「誰じゃあ!」
雨戸を開けて出てきたのは、ところどころ黒い毛の混じった白い髭が伸び放題のおじいさんだ。
「こんな遅くに大声で叫んじゃいけないよ。常識っていうものがないのかな」
今のはルナの台詞だ。
「なんじゃあ貴様は、なんじゃあ人の部屋に」
「うるさいってば。静かにしなよ」
人の雨戸に空き缶をぶつけておきながら常識を語るのはお門違いというものだが、僕は気にせず続ける。
「いったいどうしたというのですか。こんな夜遅くにぎゃあぎゃあと叫んで」
「どうしたもこうしたもあるかあ、頭ん中盗聴されてるんじゃあ」
ああ、この人は頭の中の妄想に食われてしまったのだ。さっきのおじさんは現実に負け、このおじいさんは妄想に負けた。救いだと思われていた妄想が人を壊すのだ。もう何だか話をするのも嫌になってしまった。
僕は全てに見放されてしまった気分になって、話す気力が無くなってしまった。
まだ騒いでいるおじいさんの怒鳴り声を背に受けながら、僕達は歩きだした。ってやつはどこまでもしつこく僕達を追い込む。容姿が、学歴が、社交性が、無意識が僕達を苛む。どんなに速く走っても、現実は僕達の背中に張り付いている。それは時には罵声で、時には嘲笑で、時には失格で、時には鬱で。僕は気分が悪くなった。もうここには用がない。とっとと別の場所に行かないと、この高度を保てないかもしれない。
「翔太」
「何」
「ごめんね」
ルナは言った。
「ルナは悪くないよ。僕達が遅すぎるからいけないんだ」
そう。きっともっと速く現実から逃げれば。妄想の強度を上げれば。そうすればきっと僕達は別の世界にいける筈なんだ。
駅から離れて住宅街に入る。しばらく僕達二人は口を聞かなかった。しばらくすると薬の効きが回ってきたのか、更にルナの存在感が増してきた。僕は嬉しくなって、下らないよたを飛ばし始めた。
「人間の文明が進むにつれてさ、現実逃避ってどんどん加速してると思わない?」
「加速?」
「そう最初は文字と絵だけだった。石の壁やら羊皮紙やらに書かれた文字と絵だけが、妄想の世界への窓だった。それが活版印刷技術で多くの人の手に渡るようになって、次は動画が生まれた」
「今じゃVRなんてものもあるね」
「そうだよ。次は脳に電極をぶっ刺すんだ。その次はどうなるんだろう。もしかしたら、僕達が生きている間に、君に会える日が来るかもしれないね」
「無理だよ。だってこれから死ぬんでしょ」
「そうだったそうだった。あははは」
「うわあああああ出ていけええ」
深夜の住宅街にはふさわしくない叫び声が聞こえた。僕達から見て右手にある古いアパートの一階だ。明かりの落ちたアパートに一つだけ、煌々と電気の付いた部屋がある。
ルナは何を思ったか突然、近くに落ちていた空き缶を広い、電気の付いた部屋に投げつける。僕はルナが物質に干渉出来る筈がないので驚いたが、よく考えると現実の世界では僕が空き缶を投げたのかもしれない。
空き缶は高い音を立てて雨戸にぶつかった。僕は雨戸が割れていないことに安堵した。
「誰じゃあ!」
雨戸を開けて出てきたのは、ところどころ黒い毛の混じった白い髭が伸び放題のおじいさんだ。
「こんな遅くに大声で叫んじゃいけないよ。常識っていうものがないのかな」
今のはルナの台詞だ。
「なんじゃあ貴様は、なんじゃあ人の部屋に」
「うるさいってば。静かにしなよ」
人の雨戸に空き缶をぶつけておきながら常識を語るのはお門違いというものだが、僕は気にせず続ける。
「いったいどうしたというのですか。こんな夜遅くにぎゃあぎゃあと叫んで」
「どうしたもこうしたもあるかあ、頭ん中盗聴されとるんじゃあ」
ああ、この人は頭の中の妄想に食われてしまったのだ。さっきのおじさんは現実に負け、このおじいさんは妄想に負けた。救いだと思われていた妄想が人を壊すのだ。もう何だか話をするのも嫌になってしまった。
僕は全てに見放されてしまった気分になって、話す気力が無くなってしまった。
まだ騒いでいるおじいさんの怒鳴り声を背に受けながら、僕達は歩きだした。
やがて工事中のビルに辿り着いて、僕はその中に足を踏み入れた。かん、かんと階段を上る足音が闇に響く。やがて屋上にたどりつく。
空の向こう側は既に太陽が昇りだしていた。白い朝。冷たい空気。死ぬにはいい日だ。そう思った。一瞬だけこの世界に目が眩みそうになるけれど、やっぱり僕はここで死ぬんだな。
「ルナ」
「なに」
「今までありがとう」
「最後までいっしょだよ」
僕達は手をつなぐ。手には彼女のぬくもりがある。息づかいまでリアルに感じられる。事ここに至って、僕達は向こう側へと到達していた。
最後の一歩を踏み出した。思いっきり。僕達は現実の向こうへ帰るのだ。