第一章
少林拳の達人で元傭兵の探偵、田川昂胤が死闘する物語。
「田川昂胤探偵事務所」はシリーズもので、第一部は「田川昂胤探偵事務所 ダルマは哭いた」です。
これは、令和二年度文芸社新人賞で入賞し、令和三年に同社から文庫本が発行され、紀伊國屋書店等の店頭に並んでいます。
第二部の本作品「田川昂胤探偵事務所 ウォンジャポクタン」は、令和三年文芸社創立二十五周年記念募集小説に入賞し、令和四年に同社から書籍化の予定でしたが、作者の事情で発行が見合わされました。
第三部作品は,現在執筆中です。
では、田川昂胤の世界を存分にお楽しみください。
第一章
1.恩師来日
朝、十時。
田川昂胤はいつもこの時間に出勤する。ドアを開けると、夕実が電話をしていた。
「Ah! Wait a minute please sir……所長、アンダーソンさんから国際電話です」
顔を出した昂胤を見るなり、夕実が言った。
ここは、田川昂胤探偵事務所だ。
京王相模原線南大沢駅。
ニュータウンへの入り口だ。ヨーロッパ風の街並みと自然に囲まれたおしゃれな街。渋谷駅から明大前駅で乗り換えて約四十分。新宿駅からなら、特急電車を利用して直通で四十分はかからない。
駅前は、レンガやタイル敷の屋根付きの遊歩道になっていて、外国のような雰囲気が漂う。遊歩道の先には、名だたるブランドショップが揃っている。連なる商業施設の端まで三分ほど歩くと、金属切り文字で書かれた高級感あふれるおしゃれなアルファベット文字の看板が目に入る。貴金属店のような雰囲気だが、よく見ると《田川昂胤探偵事務所》と書いてある。
昂胤三十四歳が一年前に開設した探偵事務所だ。スタッフは葵夕実十九歳の一人だけ。長い海外生活から帰国した昂胤が、自分の住むマンションの一室を事務所にして退屈しのぎに始めた探偵業だが、ちゃんとした事務所を開設しなさいと夕実の母親の翔子に強く勧められて開設したのだ。壁を淡いブルーに塗り替えて生け花と観葉植物を置いたのは夕実だ。
六十センチ幅の黒光りする木目のカウンターの内側には事務用机が四つあり、少し離れて一つ大きな机がある。昂胤の机だ。
「なに、教官から⁉」
アンダーソンからの電話と聞いて、昂胤は、何か予感めいたものが頭をかすめ、アドレナリンが体をめぐり出したのがわかった。
アンダーソンといえば、アメリカ合衆国政府主管の傭兵学校の鬼教官だ。昂胤も二十一歳までの三年間アンダーソンの教え子だった。
昂胤は、急いで自分のデスクに座ると電話を取った。
「Thank you for waiting!! I am Koin」
昂胤がアンダーソンと話すのは、去年の瓶詰めレター事件以来だ。
「では、日本に着くのは明後日ですね。わかりました。お待ちしています」
ほとんど何も話していないが、受話器を置くと、昂胤は満面に微笑みを浮かべた。
「おい、教官が日本に来られるぞ」
昂胤は、夕実に告げた。声が弾んでいた。夕実も、アンダーソンの存在を知っている。
「あら、ホントですか。いつです?」
昂胤にブラックコーヒーを出しながら、夕実が言った。ブルーマウンテンのいい香りがする。夕実は、昂胤が朝事務所に顔を出すと必ずコーヒーを淹れる。日課だ。昂胤は、夕実が淹れるコーヒーが気にいっていた。
「明後日だって」
椅子に背をもたせかけ、親指を立てて昂胤が言った。
「何かあったのでしょうか」
そう言って夕実がくるっと振り返ったとき、ポニーテールのふさふさしたミルクティー色の丈長い髪束が、ふわりと頬にかかったのが目に入り、昂胤はなぜかドキリとした。勤務中はポニーテールにまとめている肩下三十センチほどの柔らかくウエーブした髪が、きつく見える目鼻立ちのはっきりした端麗な顔立ちを優しい印象にしている。笑うとできる愛嬌のあるえくぼは、人の良いきさくな人柄を思わせる。だが、百七十センチもある夕実は、この事務所内では目立つ。
「ああ。教官が観光のはずがないからな」
「所長、嬉しそうですね」
夕実は、何もかも了解しているといった風情の笑いを含んだ目を、昂胤に向けた。
「教官と会えるの、一年ぶりだからな」
「おっと、それだけですかぁ?」
くっきりした二重瞼の利口そうな夕実の目から、いたずらっぽい笑いが湧いた。
「他に何があるってんだい」
そう言いながら昂胤は苦笑した。瓶詰レター事件を解決してから昂胤はまた退屈な日々を送っていたが、それを夕実にからかわれたと思ったからだ。
夕実が昂胤の事務所に顔を出すようになったのは一年前、夕実が高校三年生になったころのことだった。家出した夕実を探してくれと母親の翔子に頼まれて昂胤が探し出してからだ。街のチンピラと同棲していた夕実は、昂胤の関与でつきものが落ちたように我に返り、その後昂胤の事務所に顔を出すようになったのだ。昂胤がいくら言っても、顔を出すのを止めようとしなかった。
明後日。
空港に着いたアンダーソンを、まっすぐ昂胤の事務所に案内した。そうしてくれと言われたのだ。事務所に着いたら詳しく話すからと。
アンダーソンは、長旅の疲れをまったく感じさせなかった。百九十二センチの昂胤よりも背が高く、胸筋が厚くて服の上からでも鍛えられた体だとわかる。栗色の髪は短髪で、太い眉の下の薄い緑色の瞳が印象的だ。顔の下半分の無精髯がアンダーソンの男らしさを際立てているが、どちらかと言えば全体的に優しい印象で、鬼教官にはとても見えない。
応接室に通したら、夕実がすぐコーヒーを持ってきた。
「教官。俺の助手です。夕実、こちらが教官だ」
昂胤は、夕実を紹介した。
「いつも大変お世話になっております。お噂は所長からかねがねうかがっております。私、葵夕実と申します。お見知りおきのほどを、どうぞよろしくお願い致します」
昂胤がおどろくほど流暢な英語で、夕実が挨拶をした。昨年、昂胤の事務所にいつまでも顔を出す夕実を遠ざけるため、英検一級と秘書検一級を合格するまで出入り禁止だ、と申し渡したのだが、大学に入って半年で両方ともクリアしてしまった。
「私は、アンダーソンだ。ユミ、よろしく」
低くて太いがよく透る声だった。アンダーソンが手を出した。夕実がその手の先を軽く握った。巨漢だが、女性にはいたって優しい。
「コーイン、つきあっているのか」
夕実が出て行くのを待って、アンダーソンが肩をすくめて訊いた。
「違いますよ。恩人の娘さんです」
あわてて昂胤が説明した。
「狼狽しているじゃないか、コーイン」
「いや、ちょっと不意を突かれただけですよ。誤解しないでください、教官」
まばたきをしながら昂胤が言った。太い眉の下の隠れ二重の黒い目をやや垂れ目にして、まっすぐに高い鼻の下のうすい上唇から白い前歯を覗かせている。
「まあいい。仕事は順調か」
珍しそうにオフィスを眺めながら、アンダーソンが言った。夕実がいるので掃除は行き届いており、何か所かに花が活けてある。
「ご覧のとおり暇ですよ」
パーテーションで仕切ってあるだけだから、夕実が忙しそうにしているのが伝わってくるが、特に今、急ぎの仕事はないはずだ。アンダーソンに見栄をはっているのか。
「さっそくだがコーイン。おまえに頼みがある」
アンダーソンの口調が変わった。昂胤は一瞬緊張した。
「はい。おっしゃってください」
昂胤は、目を見て言った。できることなら何でもするつもりだった。
「ダンを知っているか」
コーヒーを飲みながら、穏やかな声でアンダーソンが言った。
二人とも、コーヒーはブラックだ。
「ダンって、あのダニエル・カーンのことですか。俺より十年ほど先輩の?」
「そうだ」
「知っているも何も、傭兵学校の伝説の男ですからね」
昂胤も噂を聞いている。ダンは、運動神経が抜群で、傭兵学校ですべての科目でトップの成績を残していた。
「ああ。あれほどの男は、俺も初めてだった。おまえもすごかったが、ダンは、はるかに上をいっていたな」
「俺なんかたいしたことありませんよ。俺たちみんな、ダンを目標にしていました」
「身体能力が異常に高かったが、それだけじゃなく、ヤツはIQが二百を超えていたからな」
「IQ二百! 何で傭兵なんかになったんだろうって、俺たち言っていましたよ。ダンなら他にいくらでもやることがあっただろうって」
「学校を出たらすぐ傭兵になったのだが、その後どうしていたのか、しばらく噂を聞かなかった」
「ダンがどうかしましたか」
「ヤツから連絡があったのじゃないか」
アンダーソンは、まっすぐ昂胤の目を見て言った。
「俺に? いえ。何も」
「そうか。もしあれば、私に知らせて欲しいのだ」
「俺に、連絡があると?」
「わからんが、おそらくな」
「わかりました。もし連絡があれば、お知らせします。で、ダンがどうしたのです?」
昂胤は、もう一度訊いてみた。昂胤には思い当たることがまったくなかった。
「おまえと一緒で、卒業以来ヤツから私にも連絡はなかったのだが……」
アンダーソンはコーヒーカップを手に取った。
「連絡があったのですね。まさか、旧交を暖めるため……、なんてことはありませんよね」
「ヤツがそんなことをすると思うかね」
「ですよね」
アンダーソンが話し始めた…。
一カ月ほど前、アンダーソンを訪ねてダンが来た。連れが二人いて、一人は知らない顔だったが、あとの一人は教え子だった。ダンは、仲間になって欲しいと言ってきたのだ。いま、人を集めている。そいつらをまとめて欲しい。金は、欲しいだけ出す、と。
アンダーソンは、その話にはのらなかった。何をするのか知らないが、褒められたことでないと思ったのだ。なにより、傭兵学校を離れるわけにはいかない。
アンダーソンは、ダンが帰ったあとでダンのことを調べてみた。
ダンは、十年の傭兵契約をまっとうしたあと、特に何をするでもなく、ただ無為に日々を過ごしていたようだ。だがそんなとき、たまたまダンの知人の紹介で、あるマフィアの用心棒をすることになった。
腕力は言うに及ばず、頭脳明晰、慧眼力、分析力、判断力など群を抜いているだけでなく、ダンは肝がすわっていた。そんなダンが、用心棒を通り抜け、組織のナンバー2となるのに、たいして時間はかからなかった。しかし、ダンは、ナンバー2で満足する男ではなかった。
ある日、ボスの誕生パーティを企画したダンは、ボス派を一同に集め、全員に鉛の弾をプレゼントしたのだ。それまでに周到な準備をして自分派を確保していたダンは、ボス派を一掃したあとすぐに、縄張りをそっくり自分のものにした。
大量殺戮の痕跡は一切ないが、この事件で、暗黒街ではダンの名が一気に浮上した。
教官を訪ねてきたのは、それから間もなくのことだった。何をたくらんでいるのか知らないが、人を集めていると言った。ダンのことだから、きっと、とんでもないことをたくらんでいるのだろう。
おそらく昂胤も誘いに来るだろうとアンダーソンは思った。それで昂胤に会いに来たのだ。直接説明するために。ダンが悪事をするのなら事前に止めたい。止めることができるものなら、だ。
「教官。お話はわかりました。ダンが来れば、すぐにお知らせします」
アンダーソンの話が終わったのをみて、昂胤が言った。ダンが何をたくらんでいるのかわからないが、昂胤はアンダーソンの役に立ちたいと思った。
「ああ。ヤツが現れたら、すぐ、知らせてくれ。できたら、ヤツを日本に引き止めておいてくれればありがたい」
「そいつは難しいでしょうが、訪ねて来れば、やってみます」
「ヤツから、何か情報をできるだけ引き出してくれ」
「承知しました。できるかぎりやってみます。それで教官、これからどうなさるのですか」
「ああ。主な卒業生を、このまま訪ねて回るつもりだ」
「もう何人か回ったのですか」
「いや。おまえが最初だ」
「俺も手伝いますよ」
「そいつは助かるが、俺の見込み違いかもしれないし、足を洗ったおまえを引っ張り込むつもりはないのだ」
「そうですか。どうせ、退屈しているのです。言ってくださったら、いつでもお手伝いしますよ」
「わかった。そのときは頼むよ」
「教官、コーヒーのおかわりはいかがです?」
「もらおうか」
「二~三日、ゆっくりできるのでしょ?」
昂胤は、夕実にコーヒーのお替りを二つ頼んでから、アンダーソンに訊いてみた。
「ああ。行きたいところがあるのだ」
「そうですか。どちらです? 俺がご案内しますよ」
アンダーソンの意外な申し出に、昂胤は少し嬉しくなって言った。
「会いたい人がいるのだよ」
「へ~。日本で会いたい人って、一体誰なのだろう。まさか、昔の恋人が日本にいたりして」
昂胤が少しからかうような言い方をしたが、アンダーソンは真面目に答えた。
「そのようなものじゃない。昔、世話になった人がいるのだ」
「世話になった人?」
それは初耳だった。教官は、日本に来たことがあったのだろうか。そうだとしたら、俺の傭兵時代か。それとももっと前なのか、と昂胤が考えていると、
「もっとも、私が個人的に世話になったわけじゃない。CIA情報部の立ち上げのとき、手伝ってもらったのだ」
とアンダーソンが続けた。記憶を呼び覚ましているのか、目は遠くを見ていた。
「そんなことがあったのですか。全然知りませんでした」
CIA情報部の立ち上げを日本人が手伝っていたとは、日本人も捨てたものじゃないな、と昂胤は思った。
「もうずいぶん昔の話だ。アポイントメントをとっていないから、会えるかどうかわからんがな」
ちらっと昂胤に目をやって、アンダーソンが言った。
「教官、その人が今どこで何をされているのかは……?」
「わかっている。ただ、今は大企業を率いているから、時間をとれるかどうか……」
「大企業の社長さんですね。それなら、今からでも電話されたらいかがですか」
昂胤がそう言うと、アンダーソンがその気になったようだ。
「わかった。昂胤、電話番号を調べてくれるか」
「はい、わかりました。おーい、夕実、電話番号を調べてくれ」
給湯室にいる夕実に昂胤が言った。
「それで教官。会社の名前は?」
「《ソーテン》だ」
「えっ、《ソーテン》!?」
思わず目を丸くして、昂胤は大きな声を出した。コーヒーを持って応接室に入って来た夕実と目が合った。
「もしかして、コンピュータの会社ですか。社長は葵信玄?」
そうだ、とうなずきながら意外そうな顔をしてアンダーソンが言った。
「知っているのか」
こんな偶然があるのか、と昂胤はアンダーソンを二度見した。
「ええ。夕実の叔父ですよ。それに俺も、一年ほど葵社長のボディーガード兼運転手をしていました。たまに通訳も。一年前ですが」
「なんだ、そうだったのか。ちょうどいい。じゃ、聞いてみてくれ」
アンダーソンは、信じられないと言わんばかりに軽く頭を振りながら、微笑んで夕実の顔を見た。
世話になった人というのが葵なら、話は早かった。昂胤が電話して事情を説明すると、葵がさっそく今晩空けてくれた。おそらく無理をしたのだろう。
場所は、高級料亭《彩乃》だ。葵に連れられ、何度か行ったことがある。
約束時間の少し前に着いた。
中庭には水が打ってあり、緑の木立がみずみずしい。奥の間に行くため渡り廊下を歩いていると、ししおどしのコーンという音が聞こえてきた。
《彩乃》は、各部屋が孤立しており、木立や建物で他の部屋の入り口が見えないように工夫されている。アンダーソンを案内して、《彩乃》が日本の情緒あふれる超一流の料亭であることを、昂胤はあらためて感じた。
少し早めだったが、葵はすでに来ていた。
葵は、いつものとおり、くせ毛の髪を七三に分けて乱れがない。薄い眉の下の一重瞼の目が輝きに包まれて、理知的な印象を与えている。広い額は、見方によっては冷たくも見えるが、非常に情にあふれていることを昂胤は知っていた。
「お久しぶりです!」
「その節はお世話になりました!」
葵がこれほど流暢に英語を話せることに、昂胤は驚いた。勤めていたころ、昂胤が葵の通訳も兼務していたからだ。
二人は両手でがっちり握手したあと、固く抱き合って、背中をポンポンたたき合った。抱き合うと、体格差があるので葵はアンダーソンに包み込まれてしまう。
「アン。日本へは?」
感動の波が落ち着いて、乾杯も終わってから、葵が訊いた。
「コーインにヤボ用があってな」
アンダーソンが短く答えた。
「そう言えば、昂胤くんとは、どういうつながりだね」
いずれ訊かれるだろうと思っていたことを、葵が最初に言った。
「昔の俺の教え子だよ」
アンダーソンが笑って答えた。
「CIAで!?」
「CIAは辞めたのだ」
「と言うと?」
そんなことはいいじゃないか、とアンダーソンが笑って話題を変えた。葵はまだ訊きたそうだったが、アンダーソンが情報部立ち上げの話を始めたので、それ以上重ねて訊くことはなく、いつのまにか、二人で当時の話で大いに盛り上がっていた。
今夜の葵は、まったくセーブせずに飲んでいることに、昂胤はいま気付いた。これまでは、葵がこんなに飲んでいるのを見たことがなかった。
2.雄大
「ちゃ~す!」
夕実が作った新聞の切り抜きを事務所で昂胤が読んでいると、雄大が顔を出した。暴力団遠藤組の舎弟企業、遠藤興業の若い衆だ。瓶詰めレター事件で一緒に闘った仲間の一人だ。
遠藤興業を仕切っている専務の佐々木哲夫に頼まれてそのとき限りの約束で預かったのだが、昂胤に心酔してしまい、その後事務所によく顔を出すようになった。昂胤の前にくると、子供のように素直で純朴な青年になるが、遠藤興業の中では、一九三センチの体躯に空手四段の雄大は、手のつけられない暴れ牛で通っている。雄大が言うことを聞くのは、佐々木のほかは昂胤だけだった。
夕実と二人で口ゲンカしているのを事務所でよく見かけるので、もしかして夕実に気があるのではと思っていたが、どうやらそれはないらしい。言ってみれば、二人で昂胤の取り合いをしているようなのだ。
それに関して、昂胤は見て見ぬふりをしていた。
「よお、雄大。久しぶりだな」
昂胤が雄大の顔を見るのは十日ぶりぐらいだった。
「何言ってるんですか所長。ユーちゃん、毎日来てます、コーヒー飲みに」
雄大をにらみつけて夕実がピシャリと言った。雄大が、聞こえないふりをしている。
「うちは喫茶店じゃないぜ」
雄大の顔を見て、昂胤が笑いながら言った。
「もっとピシッと言ってくださいよ。私の言うことなんて全然聞かないのだから」
夕実が仕事の手を止め、昂胤のほうを向いた。
「昂胤さん、俺、コーヒーを自分で淹れてるんすよ。夕実ちゃんがマンジ淹れてくんないから」
雄大が、すねたような言い方をした。
「おっと、なんであんたなんかのために私が淹れなきゃなんないのよ!」
雄大を睨みながら、夕実が毅然と言う。
「マンジ淹れてくれたっていいじゃねえかよ」
乱暴者でとおっている雄大も夕実が苦手なようで、あまりきつく言い返さない。しかし、ほうっておいたらまだ続きそうだ。
「雄大、こっちに来て座れ。夕実、コーヒー頼む」
立ったままの雄大に声をかけて、昂胤が応接室に移動した。雄大がついてきた。
「哲さんは元気か」
雄大に訊いた。佐々木には、親しくしてもらっている。
「オス。専務は相変わらずっすよ。本家の絞りがきついんで、俺たち毎日残業っす」
残業という言葉がおかしくて吹き出すと、雄大が言った。
「昂胤さん、笑わないでくださいよ。いま俺たちの業界、マンジ厳しいんすから」
「残業なんて言葉を使うから」
笑いをかみ殺して昂胤が言うと、雄大は、頭をかきながら話題を変えた。
「昂胤さん、何かおもしろいこと、ないっすか」
そこに夕実がコーヒーを持ってきた。ちゃんと二つある。このあたりの呼吸は、夕実はよく心得ている。
「おぉ、夕実ちゃん、俺の分も淹れてくれたんだ!」
親指を立てて雄大が言った。どちらに言うともなく「どうぞごゆっくり」と言って、夕実は出ていった。
「瓶詰レター事件から、まだ一年しか経ってねえんすねえ。もう大昔のようっす。あんときゃ、はじけましたねえ」
雄大が、コーヒーカップに手をのばしながら考え深そうに言った。雄大も、コーヒーはブラックで飲む。
昂胤は、アンダーソンの話を思い出していた。
葵と三人で飲んだ翌日、アンダーソンは北京に移動した。アンダーソンが繰り返し言った。ダンが何かしでかしそうだと。どうやらアンダーソンは、先手を打って主な卒業生をまわるようだ。所在がわかっているなら、電話で済ませられないのか。卒業生は全世界に散って居る。ほとんどつかまらないのでは、と昂胤は思っていた。何かわからないが間に合うのだろうか。
「昂胤さん、何考えてるんすか」
昂胤は、思考を中断された。
「ああ。ちょっと気になることがあってな」
雄大が顔を覗きこんできた。
「何かあったんすか」
「いや。お前には関係ない話だ」
「昂胤さん、俺も仲間に入れてくださいよ。マンジ置いてけぼりは、なしっすよ」
昂胤の顔から、いつもとは違う何かを感じとったのかもしれない。勘のいい男だ。
「哲さんに、近いうち飲みに行こうぜって言っといてくれ」
昂胤は、話題を変えた。
「あ、なら、俺もお供しま~す」
「来なくていいぜ、おまえは」
「マジっすか。そんな冷たい……。絶対ついていきますよ」
それから十分ほどくだらない話しをしていたが、仕事だと言って雄大が帰った。
その日の夕方、佐々木から電話があってさっそく飲みに行くことになった。雄大が言ってくれたのだろうと思っていたら、そうじゃなかったことが後でわかった。
佐々木は《レスト》で待っていると言った。佐々木とよく行くショットバーだ。止まり木しかなく、十人で満席になる小さな店だ。店内はダークブラウンで統一され、ゆったりしたジャズピアノが流れている。落ち着いた雰囲気が良く、昂胤は気に入っていた。
佐々木は、一番奥の席に座っていた。広い肩幅の上に、太い首と短髪頭が乗っている。目は切れ長でほりが深い。佐々木の後ろ姿が、心なしか寂しそうに見えた。隣に腰をおろした昂胤の前に、すぐにウイスキーグラスが置かれた。
「昂胤。頼みがある……」
お待たせしました、と言う昂胤の言葉が聞こえなかったかのように、佐々木が、前を向いたままボソリと言った。佐々木はいつも前置きなしだ。
「なんだかこわいな、あらたまって」
昂胤は佐々木の横顔を見た。冗談を言っている顔ではなかった。
「言ってみてくれよ。哲さんの頼みなら、聞かないわけにゃいかないよな」
昂胤が続けた。
「実は、うちのおやじが、組を解散するって言い出したんだ」
「お、遠藤組を?」
「知ってのとおり、お上の取り締まりが厳しくなってるだろ。それが最近一段と厳しくってな。親父はああ見えて情に弱いからよ。もうシノギきれなくなってんだよ。だから、おやじが嫌気さしてな。何もかも売っぱらって隠居するってよ」
暴対法ができてからは、世の中から暴力団が年々締め出されているのは確かだ。
金融機関が特にうるさく、表だって一切の取引ができなくなった。金融業がメインの遠藤組は、もろに影響する。
「でも、哲さんとこは関係ないじゃないか」
「俺んとこは遠藤組の企業舎弟だって、誰でも知ってるぜ」
佐々木は、正式な組員だ。だから、それだけでアウトなのだ。
「おやじが解散すりゃ、うちだって早かれ遅かれ、そうなる運命だ」
「《おやじ》が《父さん(倒産)》するってか」
「昂胤。茶化すんじゃねえ」
ちらっと昂胤に目をやって佐々木が言った。
「別に茶化してるわけじゃないぜ。世の中にあってはならないものが一つなくなるだけのことさ」
「言ってくれるぜ」
「で、頼みとは?」
「おぅ。それだ」
佐々木は、遠藤興業も解散すると言う。若い衆の身の振り方を考えてやらなければならないが、どうにも困っているのが雄大のこと。あの暴れ牛だけは、受け入れてくれるとこがどこにもない。
「そこでだ。昂胤、あいつを預かってやっちゃくれねえか」
佐々木が、昂胤のほうを向いて真剣な顔をした。
「おいおい、哲さん、冗談じゃないぜ。あいつを俺が預かってどうすんだよ」
何かと思ったら、とんでもないことを佐々木が言いだした。それは、絶対にできない。
「昂胤、そんなこと言わずに頼むよ。おまえしかいねえんだ。あいつがおまえに心酔してるのは知ってるじゃねえか」
「哲さん、勘弁してくれよ。組員を事務所には置いとけないぜ。それに、うちの事務所が暇なの知ってるだろ」
今の昂胤の事務所に人員は必要ない。しかも元組員となればなおさらだ。
「あの暴れ牛を、昂胤以外の誰に預けろと? それに、雄大は筋者じゃないぜ」
「あ、そうだっけ。でも、そんなこと言われてもなぁ……」
「世間に放り出したら、あいつは落ちるとこまで落ちちまうのは目に見えてるじゃねえか」
「じゃ、哲さんが面倒みろよ」
「俺には、面倒見なきゃなんねぇヤツが、まだ他にゴロゴロいるんだよ」
「あ~。しようがないなあ。ちょっと考えさせてくれよ」
昂胤は、ついそう言ってしまった。
「ありがてぇ。引き受けてくれると思ったぜ。昂胤、恩に着るぜ」
佐々木が礼を言った。
「あ、哲さん、俺、まだ引き受けちゃいないぜ」
昂胤はあわてて言ったが
「いや。おまえは面倒みてくれる。じゃ、任せたぜ」
そのまま佐々木に言いくるめられて、ついに預かる形になってしまった。
怒るだろうなぁ、と昂胤はまず夕実の顔が浮かんだ。預かってどうすんだよ、とあらためて思ったのは、そのあとだった。
翌日。
「何を言っているんですか所長! 絶対にダメです! 私は反対です!」
案の定、夕実が怒って言った。
今の仕事の量から考えると、この事務所は二人で十分だ。所長は外を攻め、私は内を守り、ちょうどバランスがとれている。ここにもう一人、入る余地などまったくない。それだけじゃなく、遠藤興業で雄大といえば暴れ牛で通っている暴れん坊。事務所に誰も寄り付かなくなる。事務所の顔に傷がつくというもの。
夕実は反対理由をまくしたてた。昂胤は黙って聞いていた。
夕実の言うことは、どれも、もっともなことばかりだった。言いたいことを全部言うと、夕実は、唇を真一文字にして腕を組んで横を向いてしてしまった。
昂胤は説得にかかった。夕実は手ごわかった。怒る夕実をなだめすかして、なんとか承知させるまでに、かなりの時間を要した。最終的には、夕実が出した条件を昂胤が飲むということでようやくおさまった。
条件とは、夕実の肩書きを主任とすること。雄大の給料は当然夕実より少なくすること、この二つだった。昂胤は、夕実の気持ちはよくわかった。夕実は、給料を上げて欲しいわけでも肩書きが欲しいわけでもないのだ。少しでも暴れ牛を扱いやすくするためだ。
昂胤の事務所だから昂胤の好きにすればいいのに、そうしないところが昂胤らしい。
佐々木はいつ解散し、いつ雄大が来るのだろうか。
事務机は、昂胤の机以外に元々四つある。一つは夕実用だから、あと三つ。雄大をどこに座らせるのか夕実が決めていた。一番入り口に近い席だ。
仕事もないのに人ばかり増えて、普通なら、経費超過だ。しかし、昂胤の傭兵時代の報酬と、瓶詰めレター事件の報酬で、資金は有り余っている。
問題は、そんなことより、雄大に何をさせるかだ。当面は、電話番と清掃か。遠藤興業でもやらされていたはずだから、当面はこれでいいだろう。しかし、雄大はマナーがなっていないから、みっちり教育する必要がある。これは、夕実に講師をさせよう。
いずれにしても、やっかいなことになったものだ。
昂胤は、考えがまとまらなかった。
一週間ほどしたころ、佐々木と雄大が、昂胤の事務所を訪ねてきた。佐々木に言い含められているのか、雄大が神妙な顔をしていた。
「じゃ、昂胤、頼んだぜ。夕実ちゃん、よろしくな。雄大、しっかりやれ。迷惑かけるんじゃねえぞ」
そう言うと、事務所でまだやることがあるからと、昂胤に軽く頭を下げて雄大を置いて佐々木は一人で帰った。雄大は、そこにそのまま立ち尽くしていた。
「雄大、ちょっと来い」
昂胤が雄大を応接室に呼んだ。
「解散したのか」
雄大が座るのを待って、昂胤は訊いてみた。
「オス」
いつもの元気な雄大とは、別人のようにおとなしい。両手をぎゅっと握りしめ、目を合わさずにうつむいたまま返事した。
「お前を預かってくれと哲さんに頼まれたのは、これで二回目だな」
「オス。瓶詰レター事件以来っす!」
顔を上げて昂胤と目を合わせて言った。
「お。元気出てきたな。あんときは面白かったな」
「オス。最高でした!」
「でもな、これからは、面白くも何ともないぜ」
「……」
またうつむいてしまった。
「真面目にやるんだぜ」
「……よろしくお願いします、昂胤さん」
雄大は、うつむいたまま頭を下げた。声が小さい。しおらしい雄大を見るのは初めてだった。
「おまえ、ここが嫌なのか」
「そんな、違うっすよ」
「しかし、嫌がっているようにしか見えないぜ」
「昂胤さんと一緒だからすごく嬉しいんすよ。だから、そうじゃなくて、世話になった佐々木の兄貴とバラバラになっちまうから」
「寂しいのか」
「寂しいというか……。わかるっしょ、昂胤さん」
「雄大。ここでは、昂胤さんはやめろ。所長と呼べ」
「うわ~、所長っすかぁ。呼べるかなあ……」
雄大は、下を向いて頭をかいた。
「それから、返事はハイだ。オスはやめろ」
「オス、あ、ハイ」
「お~い、夕実」
昂胤は、応接室に夕実を呼んで二人に言った。
「これからのことを説明する。今日から、雄大が仲間になった。俺が所長で夕実が主任だ。雄大は一番下で、ヒラだ。今後は雄大、言葉使いに気をつけろ」
「オス、あ、はい」
「担当を決める。まず、電話番と朝の掃除は当分雄大の担当だ」
「オス」
「オスじゃないだろ」
「はい」
「外での調査関係は、俺と雄大。あとは、今まで通り夕実。それと雄大は、夕実のマナー研修を受けること」
「え~っ⁉ 私がするのぉ~?」
夕実が、露骨にイヤそうに言った。あらかじめ言ってあるので了解はしているのだが、雄大に見せるためだ。
「昂胤さん、俺もイヤっすよぉ」
「昂胤さんじゃない。お前はマナーがなってない。夕実のマナーは抜群だ。夕実について、マスターしろ」
「マジっすか~……」
雄大が情けない声を出した。
雄大は、今までは、上下関係については命がけの世界に居た。だが、その世界は、一般的なマナーとは無縁で、独特の礼儀作法で縛られていた。
「所長、ユーちゃんには無理だと思いますよ」
いやがる雄大を見て夕実が言った。
「夕実、やる前にそんなことを言うな。雄大だって、バカじゃない。雄大、夕実に頼み込め」
昂胤は、夕実をたしなめた。雄大が腹をくくったのか、夕実に頭を下げた。
「夕実ちゃん、頼むよ」
「雄大、夕実は主任だぞ。言葉づかいに気をつけろ」
「はい。主任、よろしくお願いします!」
ふてくされていたが、主任と呼ばれ、夕実はしぶしぶというふうに見せて承知した。
「雄大、まだあるぞ」
昂胤は、雄大に向かって言った。
「おまえ、新聞、読んでいるか」
「読んでますよ、新聞くらい」
「どこを読んでいるんだ?」
「はい。番組表と漫画っす」
「バカか、おまえは!」
びっくりしたように目を丸くして雄大は昂胤を見た。
「これからは、隅から隅まで全部、読め」
「え~っ!?」
雄大は、げんなりしたような顔で昂胤を見た。
「新聞なんか読まなくても、いいんじゃねぇっすか」
「よく聞け雄大。夕実は毎日、五大紙を全部読んでるぜ。これを見ろ」
昂胤が分厚いA四のファイルをテーブルに置いた。
「なんすか、これ」
「新聞の切り抜きだ。五大紙の中から夕実が気になる記事をスクラップしてくれているのだ」
「あ、そう言えば、俺が早く来たとき新聞切ってるのを見たことあるっす」
「そうだろ。俺たちよりいつも一時間早く出勤しているのは、これだ。おまえは、当面一紙だけでいいから、毎日読むんだ」
「……」
雄大は、うつむいて、コクンと頭を下げた。
「それからな」
「えーっ、まだあるんすかぁ⁉」
昂胤が言い出すと、雄大が顔を上げて眉の間にシワをよせた。
「バカ言うな、雄大。本命はこれからだ」
「もう勘弁してくださいよ。マジマンジ無理っすよぉ」
「雄大、明日から、英会話教室に行け」
「うわぁ。マジ、勘弁してください。俺には絶対に無理っすよ」
雄大は、泣きそうな顔をしている。
「電話番と朝の掃除だけで給料をもらえると思っているのじゃないだろうな。甘いぜ、雄大」
「そんなぁ……」
「よく聞け、雄大」
昂胤は、雄大を預かると決めた日に、あることを決心していた。
昨年、«瓶詰レター事件»で雄大を連れてアジアやヨーロッパを回ったが、昂胤のチームで雄大だけが英語を話せなかった。と言うより、雄大は日本語しか話せかった。あのときのチームメイトは、昂胤も含め、たいてい三カ国語はこなしていた。雄大には、いつも誰かが一緒に居て通訳をしていたので何とか大事に至らずにすんだが、せめて英語だけでも話せないと、昂胤の助手としては使えない。
「お前が本気で俺の助手になりたいなら、英語を話せるようになれ。今のままじゃ、どこにも連れて行けない。去年は成り行き上連れて歩いたが、正式に俺の助手になった以上、それは許さない。英語が話せない奴は、俺はいらない」
昂胤は、言い切った。英語を話せないことで、命を落とすことだってあるのだ。昂胤が杞憂しているのはそのことだった。
「昂胤さん、マジっすか」
「二度言わせるんじゃない!」
雄大がピシリと言った。凛としたその声で、昂胤が本気だとようやく雄大にもわかったようだ。
「わかりました。そのかわり、英語が話せるようになったら、どこにでも連れてってくださいよ。いつも一緒っすよ」
腹をくくったように、雄大が言った。
「ああ。話せるようになったらな」
厳しい顔のまま、昂胤が言った。
「約束っすよ。絶対っすよ」
「二度言わせるなと言っただろ」
「オッス。わかりました」
雄大は、唇をぎゅっと結んで昂胤を見た。
「話は以上だ。仲良くやっていこう。他に、何か言いたいこと、あるか」
二人を見て、にこやかな顔で昂胤が言った。
「オス。所長、俺にも給料ってあるんすか。さっき、給料がどうのって」
先ほどまで泣きそうな顔をしていた雄大が、目を輝かせて言った。相変わらず、返事がなっていない。
「おまえ、そんなに嬉しそうな顔をして。哲さんとこでも、もらっていただろ」
「給料なんかもらってませんよ。たまに小遣いもらう程度っすよ。ほかでバイトしてたんすから」
「そうだったのか。俺んとこじゃ、毎月給料出すぜ。いらないって言うならやめようか」
雄大は、金のために何かをやるという男ではなかった。そして、それなりの骨も持っている。しかし、サラリーマンみたいに毎月決まった給金をもらってみたいのだ。
「昂胤さ~ん、やめてくださいよぉ。マンジ、イジメっすよ、それ」
昂胤と夕実は、雄大のしぐさと言い方がおかしく大笑いした。たしか今、昂胤さんと言ったな、と昂胤は気づいたが、何も言わなかった。夕実に任せたのだから、これからは俺の口はしばらく閉じていよう、と昂胤は思った。夕実は、受けた以上は成果をあげ、昂胤にいいところを見せたいと思っているだろう。
翌日。
雄大は事務所内外を清掃した後、新聞を読んでいた。夕実の新聞の切り抜き作業は終わっている。
「夕実ちゃん、ほんとにマナー研修みたいなこと、すんのかよ」
雄大が新聞を置いて、夕実に聞いた。
「あたりまえでしょ。所長に言われたでしょ。今日から研修、始めるわよ」
「俺にできると思ってんのか」
「チャレンジ精神が持てれば、門戸を開くのは自分。あいつは根性だけはあるって、所長が言ってらしたわよ」
「へえ。ほんとか」
雄大が嬉しそうに言った。
「たいていの人はね、『自分には無理』と思うことで、やる前から諦めてしまうのよ。でもねユーちゃん、根気さえあれば、大概のことはできるようになるわよ」
「うわぁ、夕実ちゃん、いいこと言うじゃねえか」
「ユーちゃんの空手だけど、苦しい練習を乗り越えて、四段になったんでしょ。マナーの勉強なんて、それに比べりゃ楽なものよ」
「えへ。そうだよな」
「ねえ、二人でがんばって、所長をびっくりさせましょうよ」
「所長の言いつけじゃ、やるっきゃねえもんな」
「根性見せなさいっ!」
「オッス! やってやろうじゃねえか!」
「ユーちゃん、まずその返事やめなさい」
「オッス、あ!」
「オスじゃなく、“ハイ”。それと、レッスン中は、私にタメ語はダメ。ちゃんと敬語を使いなさい」
「敬語って何だよ」
「所長に使ってるようなしゃべり方」
「夕実ちゃん、俺より年下だぜ。何で俺が?」
「私はユーちゃんのマナーの先生だからよ。私を空手の師匠だと思いなさい。レッスン中は、絶対よ」
「わかったよ」
「わかりました、でしょ」
「ちぇっ。わかりました」
「ちぇっ、は余計です!」
「うるせえな、まったくよ」
「雄大っ!」
「お? あ、ハイ、わかりました」
「じゃ、今から始めるわよ」
「ハイ。よろしくお願いします」
さっそく二人の子弟関係が始まったが、昂胤は、雄大にさして期待しているわけではなかった。事務所がヒマだから、時間を持て余すだろうと思って言ってみただけだ。昂胤の本当の狙いは、雄大の英会話力養成だった。
昂胤は、時間が許す限り、自分を鍛えていた。富士山の北西に位置する青木ヶ原樹海に、ナイフ一本だけ持って一週間こもる。
全長三十六センチ、刃長二十四センチ、刃厚八ミリ、重量四九〇グラム。抜群の切れ味とタフさを備えたコールドスチール社製のナイフは、昂胤の愛用品だ。鉈の代わりにガンガン使っても、刃こぼれのしない刃持ちの良さがお気に入りだ。樹海にこもっていることは、誰も知らない。ある日突然消える。一週間ほど経てば、ふらりと事務所に顔をだす。七日だったり、時には十日だったりもする。
夕実は、昂胤の目つきが鋭くなっていることと頬がこけていることを心配そうに見ているが、いつものことだからと思っているのか何も言わないし訊きもしない。
昂胤は、樹海では、けっして人の近づかない奥深くに入り、生死ぎりぎりのところまで自分を追い込んでいた。
山の斜面を一日走り通したり、高さ二十メートル以上ありそうな大木の一番上に登って樹海を眺めて見たり、樹から樹に飛び移って移動し一日中地上に降りなかったり、大木の根っこに横たわって自分の気を消して終日動かなかったり。完全に気を消していると、それとは気づかず、ウサギやタヌキの小動物が昂胤の体の横を通過していくことがよくあった。
最近では、急な斜面も、平地のように走れるようになった。樹から樹への移動も、難なくこなした。
今やっているのは、直径三十センチ程度の樹木との対決だ。二十メートルほど離れて立ち、ナイフを投げる。突き刺さったナイフをダッシュで取りに行き、元いた位置までダッシュで戻る。また投げる。それを繰り返す。時間は一時間と決めてある。
樹木の一定の部分に突き刺さりはするのだが、確実に同じ場所に刺さらないと、一時間ではとうてい倒せない。これを続けていると、途中で何度も嘔吐する。しかし、昂胤は、止めたことはなかった。
食料は自給自足だ。鳥やウサギをナイフ一本で捕獲する。一度で食べきれないから、乾し肉にして持ち歩く。
傭兵時代、これ以上の過酷な環境で十年間過ごしてきた昂胤にとって、この程度の訓練にさして痛痒はないが、そうかといってやっておかないと、五感が鈍るのは目にみえていた。雄大がメンバーに加わったので、昂胤は、今度からは雄大も連れてこようと思っていた。
アンダーソンは、ダンが何かしでかしそうだと言う。あれ以来何も起きていないが、インターネット、テレビ、新聞には、いつも目を光らせるようにと夕実に言ってある。特に海外の動向に注視するように、と。ダンが相手だとなると、相当覚悟をしておかなければならない。
「ぎゃー!!」
突然、樹海に絶叫が響いた。声の主は昂胤だった。目を見開いてまばたきもできない状態の昂胤が、顎を震わせて立ちすくんでいる。
一点を凝視したまま後ずさりし、時間をかけてその場を逃れた昴胤は、急いでキャンプをたたむと、そそくさと樹海を後にした。
3.バーレーン王国
石垣島の南に浮かぶ小さな島。
重次郎島。
午前五時。
はるか遠くに島のシルエットが見え始めた。まだ明けやらぬ空は、東の地平線に近づくにつれて徐々に東雲色)に変化し、美しいグラデーションを成してきた。間なしに一点、強烈な光が地平線に現われると同時に、空全体がオレンジ色に染まった。その光は、赤々と輝く光りの道をこちらに向けて真っ直ぐ海原を走らせた。積乱雲が赤く燃えている。
昂胤は、海で見る朝焼けが好きだった。
「うわあ……、きれい」
胸に両手を当て、夕実が言った。
「私、こんなの初めて……」
顎を引いた夕実の横顔が、赤く光っている。
石垣島からヘリコプターで三十分ほど南に飛ぶと、中川重次郎個人所有の島がある。石垣島の人々は重次郎島と呼んでいる。海岸線長五十キロメートル、面積八十キロ平米ほどの小さな島だが、個人所有の島としては大きいほうだろう。
重次郎の屋敷は、島の南側に海を背にして崖の上に建っていた。上から見ていると、ちょっとした宮殿を思わせ、島全体が要塞のように見えた。周囲が切り立っているので、船舶は接岸できない。ヘリポートは、屋敷の横庭にあった。
横庭をそのまま海に向かうと、絶壁に急勾配の階段があり、階段を降りたところに、海面一メートル上部、縦二メートル、横十メートル、幅五十センチほどのコンクリート製の足場がある。これが、重次郎専用の釣り場だ。
「俺も初めてだ……」
雄大が、かすれた声を押し出した。赤く染まった顔が輝いて、頬が濡れている。雄大の涙を初めて見た。
「これこれ、見とれてないで、手を動かさんかい」
重次郎が促した。
今朝は夜明け前からここに来ている。海原がどこまでも続いて、大きな黒いうねりが止まることはない。重次郎は手際よく釣りの準備を進めているが、雄大と夕実は、手が止まったまま、朝焼けに見とれていた。朝陽に染まる広大な景色に昂胤も目をとられていたが、手は動かしていた。
重次郎は、六十九歳。いたって元気だ。辺境に住むただの釣り好き爺さんだと思っていたら、内閣調査室の創始者だという。東京に自宅があるが、現役を引退してからはこの離島で過ごす方が多いという。調査室を後輩に譲っている今、自分としては、釣り三昧の生活をしたいらしい。だが、事件のほうから寄ってくるのか、自分から首をつっこんでいるのか、世間からいまだに隠居させてもらえないと嘆く。しかし、少なくとも《瓶詰めレター事件》は、重次郎が自分から首をつっこんでいた。
「昂胤くん。釣りは久しぶりじゃろ」
「ええ、あれ以来やっていません」
去年ここに来たとき重次郎に連れてこられたのが初めての釣りだったのだが、それ以来縁がない。
重次郎が昂胤の事務所を訪ねてきたのは昨年のことだ。《瓶詰めレター》の謎解きをしてくれと、飛び込みでやって来たのだ。なんとか事件は解決したが、何か月もかかった。その間、何回も島に顔を出している。いつしか、爺さん、昂胤くんと呼び合うほど親しくなっていた。
「雄大、このカゴにエサを入れろ」
昂胤が雄大に指示を出しながら、自分は夕実のカゴにエサを入れた。素人にはサビキがいいと、道具は重次郎がすべて用意してくれた。雄大も夕実も釣りは初めてのはずだ。二人とも、顔を紅潮させ、目を輝かせている。連れてきてよかったと昂胤は思った。重次郎に感謝だ。
数日前。
暇なら釣りをしに来ないかと重次郎から誘いの電話があったのは、昂胤が青木ヶ原樹海から戻った次の日だった。昂胤は釣りに興味はなかったが、スタッフも連れて遊びに来いと招待されたのだ。声をかけると、雄大も夕実も大喜びだった。
石垣空港に着くと、重次郎の秘書兼ボディーガードのパク・ウォンサンが重次郎のヘリコプターで迎えに来てくれていた。
パクは《瓶詰めレター事件》で戦った仲間の一人で、雄大を弟のように可愛がっていた。太い眉に二重瞼で切れ長の目、鼻筋が通った顔からはイメージしにくいが、雄大といるときは軽口の応酬をする三枚目だ。
パクが昂胤を見つけると、急いで走って来た。
「昂胤さん、お久しぶりです」
満面に笑みを浮かべてパクが言った。昂胤とがっちり握手したあと、「雄大、元気だったか」と言いながら雄大とはハイタッチをした。夕実をちらりと見て言った。
「こちらのお嬢さんは?」
「葵夕実です。よろしくお願いします」
夕実が自分から名乗った。
「パクです。よろしく。さぁ、行きましょう。昂胤さん、社長が首を長くしていますよ」
これだけ言うと、パクは、先に先に立って歩きだした。
雄大は窓にしがみついてずっと遠くを眺めている。夕実は根を輝かせ、ずっとセイラーブルーの海原を眺めている。大きなうねりの中に細かい風浪がたくさん見える。遠い空には積乱雲が見えた。
快晴だ。
順調なフライトだった。
屋敷に着いたらいつもの応接室に通され、待つほどもなく重次郎が現れた。
「おお、昂胤くん、来たか」
重次郎は、機嫌がよさそうだった。
「ご無沙汰です、爺さん。お元気でしたか」
昂胤は、重次郎の手を取って言った。
「ワシは、このとおり元気じゃ。おぬしは忙しそうじゃの」
「いやみですか。相変わらず、お人が悪い」
「おぬしの携帯にも事務所にも電話したのじゃが、つかまらんかったでの」
昂胤は、樹海に居る間はいつも下界と連絡を絶っている。重次郎から電話があったことは夕実から聴いているし昂胤の携帯の履歴でも確認していた。
「爺さん、失礼しました。電話を携帯せずに出張していましたので」
ふぉっ、ふぉっと笑いながら重次郎がソファに座ったので、昂胤たちも座った。
「この男は俺の助手で、玄雄大です」
昂胤は、雄大を重次郎に紹介した。
「玄雄大です。よろしくお願いします!」
雄大が、張りのあるはっきりした声で言った。
「おお、元気のいい若者じゃ。キミも、ドイツへ行っておったのかな。見たことのある顔じゃ」
「オス。フィリピンからずっと昂胤さんと一緒でした」
去年何回か会っているのだが、重次郎の目にしっかりとは入っていなかったようだ。
「そうじゃったか。ご苦労じゃったの。《瓶詰めレター事件》の謎は解明できたし、悪さ坊はとっちめたし、爽快じゃったのう」
ふぉっ、ふぉっ、と重次郎はいかにも愉快そうに笑った。そこへメイドがコーヒーを持って入ってきた。
「こっちはスタッフの葵夕実です」
「おお、いつも電話に出てくれるレディじゃな」
「葵夕実です。どうぞよろしくお願いします。お招きいただきましてありがとうございます」
夕実が丁寧に言った。
「昂胤くんにいじめられてはいないかの」
重次郎が、前屈みになり、眉にシワをよせて言った。
「はい。実は、ときどき男性二人して……」
夕実も眉根を寄せ、小声になって真顔で言った。
「おい夕実ちゃん、何言ってんだよ、事務所の主のクセして。社長が本気にしちまうじゃねえか」
雄大が真剣な顔で言ったので、昂胤と夕実が吹き出した。重次郎も、ふぉっ、ふぉっ、と豪快に笑った。
「マンジ、何なんだよ、みんなして」
雄大が腕を組んで横を向いた。
「どうじゃ、昂胤くん。最近、何か面白いことはないかの」
重次郎が話題を替えた。何か言いたそうだ。
「いえ。あれ以来退屈しています」
「ドイツでは楽しめたかの」
《瓶詰めレター事件》はフィリピンから始まりドイツで終わった。
「まさか。相手はドイツ政府ですよ」
「昂胤くんは、ドイツ政府をうまく料理したものじゃのう」
「よく言います。料理したのは爺さんですよ。俺は何もしていません」
「まあよい。ご苦労じゃったの。すると今は、体はあいておるのじゃな」
重次郎が、昂胤の目をまっすぐ見つめて言った。
「はい」
わずかだが、緊張に似たものが、昂胤の心を通り過ぎた。
「実はな……」
重次郎は、バーレーン王国について話し始めた。
人口七十九万四千人。
サウジアラビアの東、ペルシャ湾内にある群島。国土の大半が、砂漠と石灰岩に覆われている。大小三十三の島からなる君主制の島国。シーア派王朝。
この国で、信じられないことが起こった。
政府首脳の官邸、国防軍首脳部、警察本部、通信施設関係、空港などの交通施設など、バーレーン王国の主だった機関を、ある日一夜にして、何者かによって同時ジャックされたのだ。その手際の良さは、見事というほかなかった。無血入城だ。さらに信じられないことは、その後に起きた。
ジャックは完全に成功していた。軍部も警察も手が出なかった。というより、ジャックそのものに気づいてさえいなかった。王国としては、いかなる要求ものまざるを得ない状況だった。
それなのに、彼らは何をすることもなく、二日後、忽然と消え去った。あまりにも見事過ぎて、まるで何事も起こっていないのと同じで、突風が通り過ぎたようなものだった。
国民はもとよりほとんどの関係各所の職員は何が起こったのかまったく知らないまますべてが従来通り機動していた。事情を知っている首脳部でさえ、なんの手がかりもなくキツネに包まれたように合点がいかず、あれは白昼夢だったのかと思い始めていた。
緘口令が出されて、この件は一件落着した。
一九九四年以後、シーア派による反政府運動が激化し、二〇〇一年二月に行われた国民投票によって、首長制から王制へ移行したバーレーン王国の弱点を見事についた、ジャック犯グループの実害なしの犯行だった。
重次郎は、そこで目を閉じた。
いつもならすぐに口をはさむ雄大が、めずらしく黙っていた。夕実は終始黙っていた。
昂胤は、超トップシークレットともいうべきこの内容を、なぜ重次郎が知っているのかが気になった。その疑問に答えるように、目を閉じたまま重次郎が言った。
「バーレーン王は、ワシとは旧知での。直接ワシに電話があったのじゃ。どう思う、とな」
バーレーン国内ではこの事件はなかったものとして処理されているが、バーレーン王は、身の危険を強烈に感じた。王専担の警護班が国防軍と警察本部両方に設置されているにもかかわらず、無血占領されたのだ。
そして、あっと言う間に消え去った。実害はなかったというものの、恐怖を覚えるなというほうが無理というものだ。お前の命などいつでも召し上げるぞ、と宣告されたも同じだった。
「どうじゃ、昂胤くん。興味があるじゃろ」
目を開けた重次郎が、にっこり笑って言った。
「爺さん、待ってくださいよ。そんな話、探偵の俺にはまったく関係ない話ですよ」
昂胤が言った。そんなことを押し付けられてはたまらない。
「退屈してたんじゃろ。顔に書いてあるぞよ、昂胤くん」
重次郎は、ふぉっ、ふぉっ、と笑った。重次郎のいやな性格は、相変わらずだった。
「俺に、どうしろと?」
「どうしろと言うつもりはない。ワシも何かを頼まれたわけじゃないのでな。ただ、ワシとしては、バーレーン王を安心させてやりたいだけなのじゃ」
重次郎は、昂胤の目をまっすぐに見て言った。昂胤は、この目が苦手だった。
「実害がなかったのなら、もういいじゃないですか。ことを荒立てなくても」
だんだん重次郎のペースになっていくのを、昂胤は感じていた。このままだと、瓶詰めレターの二の舞となる。
「表ざたにはできないのじゃ。あくまで、何もなかったことになっておるからの」
「バーレーンって何語でしたっけ?」
昂胤は、訊いた。
「ふむ。アラビア語じゃろう」
昂胤は、アラビアに行ったことはあるが、言葉はまるでわからない。
「爺さんはしゃべれるんですか」
「そんなもの、ワシがしゃべれるはずなかろうが。ワシが話すのは英語だけじゃ。バーレーン王も英語を話せる」
昂胤が乗り込んでも、ラチがあくとは思えない。
話を聞く限りでは、このジャックは、訓練されたプロの仕事だ。それも、かなり鍛錬されている。二日間のジャックは、遊びや思い付きでやったのではない。だが、彼らは、バーレーンをクーデターするつもりはこれっぽっちもなかった。それは、彼らが二日間で消えたのを見てわかる。
では、何かのデモンストレーションか。誰が何の目的をもって二日間のジャックをやったのか。それなりの明確な理由があるはずだ。
「すると、本当の目的は別にあると?」
昂胤の話を聞いて、重次郎が言った。それは、昂胤にもわからない。
「少なくとも、バーレーン王の命を狙っちゃいないのは確かですね。もしそうなら、今ごろ王室は喪中ですよ」
昂胤は、自分の考えを言った。
「そう言われれば、そうじゃのう。奴の心配は杞憂じゃったか」
「爺さん、そう言ってあげてください。バーレーン王が安心されますよ」
「よし、わかった。さっそく言ってみるとするかの」
「しかし、爺さん、興味のある話ではありますね」
「そうじゃろ、そうじゃろ」
ふぉっ、ふぉっと重次郎が笑った。
「所長っ、見て下さい! 五匹も連れましたぁ!」
突然、夕実が大声を出した。物思いにふけっていた昂胤は、我に返った。ずっと静かにしていた夕実が、大はしゃぎしている。見ると、夕実の前で小魚が数匹跳ねていた。夕実は、手で口を覆って、生き生きと目を輝かせて、自分の釣果を眺めている。
「イェーイ!」
雄大が夕実にハイタッチを求めた。その後、夕実が昂胤にもハイタッチを求めてきた。目を輝かし、激しくまばたきして、笑みが止まらない。
「やるじゃないか、夕実」
喜ぶ夕実を見て、連れてきてよかったと昂胤はあらためて思った。雄大は昂胤と一緒に飛び廻っているが、夕実にはいつも留守居ばかりさせている。
「おっと、所長、全然ダメじゃないですか。私が指導しましょうか」
「自分が一番に釣れたからって、偉ぶってんじゃねえよ。マンジ、エサは昂胤さんにセットしてもらったくせに」
雄大が夕実を睨み付けて言った。
「おっと、ユーちゃんもまだ釣れてないわね。わからないことは、私に聞きなさい」
夕実の軽口が続く。
夕実は東京六大学の学生だ。英検一級、秘書検一級を持っている。最近、ファイナンシャルプランナーと保育士の資格も獲ったようだ。機転が利くし、明るくユーモアがある。優秀な人材だ。叔父の葵信玄が自分の秘書として欲しいだろう。叔父の会社に行くのがいやなら、他のどこの会社でも喜んで雇用してくれるはずだ。昂胤の事務所ではもったいない。いつでも辞めて、どこへでも行けと昂胤は夕実に言っている。しかし、何度言っても、夕実は昂胤事務所を離れようとしない。
夕実は雄大と、まだ軽口を言い合っている。
昂胤は、昨夜の重次郎の話しを反芻していた。重次郎は、何もなくて三人を招待するわけがないと思っていたのだが、やはりそのとおりだった。しかし、探偵の昂胤には、関係のない話しだった。
4.韓国入り.
夕実が毎朝作ってくれている五大紙の切り抜きを読んでいたら、固定電話のコール音がした。雄大も夕実もたまたま席をはずしていたので、昂胤が直接電話をとった。
「はい、田川探偵事務所でございます」
『コーインを出してくれ』
バリトンの英語だった。寛闊声だ。
「失礼ですが、どちら様でしょうか」
英語に切り替えて、昂胤が言った。
『俺は、ダニエル・カーンだ』
(ダンだ!)
アンダーソンの予想が的中した。まさか、と思っていた電話がかかってきた。
「田川昂胤は、俺です」
昂胤の声が大きくなった。
『ちょうどよかった。コーイン、俺を知っているか』
「もちろんよく知っていますよ! ダン先輩は、伝説の人ですから」
昂胤の声が弾む。
『光栄だな。会って話がしたいのだが、いつがいい?』
ダンが笑い声で言った。
「ダン先輩は、今、どちらです?」
『ソウルだ。もし会えるなら、明日、日本に行くぜ』
アンダーソンがもう少し在日しておれば会えたのに、縁がなかったのか……。
「俺はかまいませんよ。来られるなら、お待ちしています」
『わかった。また連絡する。じゃ、明日』
いつの間に帰ってきたのか、夕実が自分の席にいた。
「所長、英語でしたよね。もしかしたら……」
昂胤の席まで来て、心配そうな顔で言った。
「ああ。昔、俺が世話になった学校の先輩だよ」
「アンダーソン先生がおっしゃっていた、あの……」
「そうだ。ダン先輩だ。明日、会おうって話しだ」
「日本におられるのですか」
「いや、ソウルだ」
「……え?」
昂胤は、まだ話したそうな夕実を追い払って、アンダーソンの携帯を呼び出した。しかし、出なかった。
北京から日本へのフライト時間は約六時間だ。アンダーソンはダンに会えるだろうか。ダンが何時ごろ日本に来るのか。それによっては間に合うかもしれないが、いずれにせよ早く連絡をとりたかった。
その後も連絡を取り続け、ようやく通じたのは深夜だった。アンダーソンにダンのことを報せた。
すぐそちらに向かうので行くまで足止めをしておいてくれ、と言って電話が切れた。
翌朝九時を少し回ったころ、ダンから連絡があった。十二時すぎに着くから空港まで来てほしいとのことだった。夕実に言うとすぐに、羽田エクセルホテル東急のウイングルームを予約してくれた。
一緒に行くという雄大を事務所に残し、一人で空港にクルマを飛ばした。
時間通り、ダンと会えた。初対面だが、降客の中で偉丈夫なのは、ダン一行三人だけだった。頭が一つ以上飛びぬけているのですぐにわかった。昂胤の見たところ、二百センチは超えていそうだ。
「ようこそ日本へ、ダン先輩!」
ダンは、鼻筋が通って高い。きれいな青い瞳の上に、長いまつ毛がカールしている。鼻の下と顎の髯は、まったく手入れされていない。首が太い。髪色はナチュラルブラウン。魅力的な笑顔だ。見つめられたら男でも引き込まれそうだ。
「おお。おまえがコーインか!」
生で聞く声は、太くて澄んだよく透る魅力的な声だった。
「お会いできて光栄です」
「俺も、おまえの噂は聞いているぜ」
昂胤は、ダンとかたく握手した。グリップが強い。目を見つめ合って手を握ったままお互いしばらく放さなかった。
連れの二人を紹介された。一人は、傭兵学校出身ということだったが、知っている顔ではなかった。
夕実が予約してくれたホテルは、羽田空港第二ターミナルと直結していた。名乗ると、ホテルスタッフがウイングルームに案内してくれた。テーブルには、六人用がセットされていたが、二人分のセットはすぐに下げられた。席に着くと、食前酒を訊かれた。
「ダン先輩、食前酒はどうしますか」
「シャンパンだ。後、ワインをもらおう」
シャンパンで乾杯した後、傭兵学校の話しになった。料理が運ばれてきてから、ワインに切り替えた。傭兵学校卒業後の傭兵時代のころの話しなど、話題はつきなかった。
そして、ランチ後のコーヒータイムに、ダンが切り出した。
「コーイン、俺といっしょに来ないか。一緒にゲームをしようぜ」
――やはり誘われた。
「ダン先輩。俺はこの国が好きなんですよ」
やんわりと断りを入れたつもりだったが、ダンは気づかなかったのか気づかないふりなのか、また言った。
「日本は、コーインの気を魅くとは思えないがな。どうだい? 退屈してるんじゃないのか」
昂胤が退屈しているのは確かだ。
「ダン先輩。そのゲームは、面白いのですか」
行く気はないが、ダンの魅力的な笑顔に引き込まれ、昂胤はつい訊いていた。
「来ればわかるさ。少なくとも、今よりは退屈しないぜ」
ダンが、笑顔で言った。
アンダーソンは何時ごろ着くのだろうか。それまでダンを引き留めておけるだろうか。
そんなことを考えながら、食事の後どうするのかを考えていた。ぜひとも一泊して欲しい。
「ダン先輩。今夜は日本の夜を楽しんでくださいね。俺が、面白いところに案内しますよ」
話題を替えた。昨夜のうちに、佐々木に相談してある。古い友人を接待したいのだが、案内役を頼めないか、と。佐々木は、二つ返事でOKをくれた。夜の街は、佐々木に任せておけば間違いない。
「コーイン、そいつはありがたいが、おまえが一緒に来ないなら、俺たちは今夜またソウルに戻らなくちゃならない」
しかしダンはそっけなかった。
「ダン先輩、それはまた急じゃないですか。せめて今夜だけでもゆっくりしてくださいよ」
昂胤はあせった。今夜発つとなると、アンダーソンとはすれ違うことになる。ここは何が何でも引き留めたい。しかし、そんな昂胤の心を知ってかどうか、ダンは首を横にふった。
「残念だがコーイン。それは今度にしよう。とにかく、俺の言ったことをよく考えておいてくれ。これが俺の携帯ナンバーだ。連絡を待ってるぜ」
「あ、ちょっと待ってください。せめてチケットの手配だけでもさせてくださいよ。帰りも成田でいいですか」
「成田から帰るが、そこまでしなくていい。じゃ、な」
ダンは、空港まで送るという昂胤をふり切るように、足早にホテルを出て行った。
ダンの姿が見えなくなってからすぐアンダーソンに連絡したが、通じなかった。飛行機の中かもしれない。昂胤は、とりあえず事務所に戻ることにした。
事務所に戻ったら、夕実しかいなかった。雄大は佐々木のところに行ったようだ。今夜の手配を頼んでいたのにキャンセルしたから、埋め合わせに行ってくれたようだ。雄大も気を回すようになった。
昂胤は、もう一度アンダーソンに連絡した。今度は通じた。ちょうどいま成田に着いたところだと言う。申し訳ない。引き留めることができなかった、と昂胤はアンダーソンに謝った。
『シット! 一足遅かったか……』
アンダーソンは悔しそうだった。
「そうとは限りません、教官。チケットを手配するからと俺がダンに言ったら、成田からフライトすると言っていました。結局チケット、俺は買わせてもらえませんでしたけど」
『すると、このままここで待っていたら、ダンに会えるかもしれないということか!』
「教官、便はソウル行きです。俺もすぐ空港に向かいます!」
成田で合流しましょうと言って、昂胤は電話を切った。
「おい、夕実。でかけるぞ」
「はい! 車は?」
「出してくれ」
「はい、すぐに!」
夕実は、よけいな質問をしなかった。母親譲りのドライブの腕を持っているから、運転は夕実に任せておけば安心だ。
昂胤は車中で、成田からソウル行きのフライト時刻を携帯で調べてみた。
今からだと、十五時半から最終二十時五分まで七本あった。ダンがどれに搭乗するのかわからないから、ずっと見張っておくしかない。アンダーソンにその旨を連絡した。こちらはおよそ一時間で着くということも伝えた。
急げと言ったわけではないが、うまく車線変更を繰り返し、夕実はできる限り急いでくれている。それに、空港に着くまで、非常に珍しいことだが、夕実は全く口を開かなかった。おかげで昂胤は、いろいろ考えることができた。しかし、ダンの目的が何なのかは、何も思いつかなかった。
空港でアンダーソンと合流した。出発ロビーで、二人一緒に最終便まで目を光らせていたが、結局ダンを発見できなかった。
その間に、ダンと話したことをすべて、アンダーソンに伝えた。
「ダンは、一緒にゲームをしようと言ったのだな」
「はい。そう言いました。尋ねましたが、中味までは教えてくれませんでした」
「だろうな」
「教官、これからどうなさいますか」
昂胤は聞いてみた。
「ああ。また北京に戻るつもりだったが、こうなったらソウルに行ってみようと思う」
「ダンを探しに、ですか」
「それもあるが、会いたいヤツもいるしな」
「卒業生ですか」
「そうだ」
「教官。今夜はひとまず俺んちに来て休んでください。あとのことは明日考えましょうよ」
北京から東京へ強行軍だったはずだ。一切言わないが、アンダーソンは疲れていると思う。今夜は、ゆっくり休んでもらいたかった。今は、あせってもしようがない。ダンからはまた連絡がくるだろう。
「車で来ています。行きましょう」
夕実を電話で呼び寄せ、アンダーソンと一緒に乗った。
「おかえりなさい、アンダーソンさん」
アンダーソンが乗りこんだとき、夕実が運転席から振り返って笑顔で言った。
「お、キミも来てくれていたのか」
夕実は、ずっと別の場所で待機していたのだ。いっしょに来いと言ったのに、きかなかった。
「教官。腹減りましたね。うまいものでも食べましょう」
車が高速道路に乗ったとき、昂胤が言った。
「ああ。そうだな。腹、減ったな」
「夕実、お母さんの店に行ってくれ」
佐々木に連絡しようかとも思ったが、思い直して昂胤は翔子の店に行くことにした。
「承知しました!」
前を向いたまま、夕実が応えた。
夕実の母親の翔子は、マンションを所有しており、最上階に母娘二人で住んでいる。フロアは違うが、昂胤の住居もそこにある。五LDKだ。翔子は、その一階で、洒落たレストランを経営している。
しかし、九時が閉店だ。間に合うかどうかは微妙だった。夕実が電話を入れてくれた。店は閉めるが、スタッフは待っていると言ってくれた。
今夜は、歓迎会だ。
「ユミのママの店?」
アンダーソンが訊いた
「ええ。レストランです。おいしいですよ」
昂胤が言った。
「それは楽しみだ」
ラッシュアワーを過ぎていたので高速道路がすいており、閉店前に着いた。
歓迎会が始まった。アンダーソンは、おいしいを連発していた。客がいなくなったタイミングで店を閉め、翔子も加わった。翔子への同時通訳は夕実がした。
昂胤は、帰国してからのこと、夕実や翔子、そして葵との出会いを話して聞かせた。
アンダーソンは、葵がアメリカにいたころの話を、おもしろおかしく話した。翔子も夕実も、キャッキャ笑って聴いていた。
「そうかっ!」
突然昂胤が大きな声を出した。
翔子と夕実は、口をぽかん開けて昂胤を見た。
「その手があったのだ!」
昂胤が、一人で興奮している。
ダンと接触しようと思えば、簡単なことだった。
「昂胤。聞かせてもらおうか」
アンダーソンが、静かに訊いた。
「教官。俺、ダンの携帯の番号、わかります」
「訊いてくれていたのか!」
「いえ。仲間になる気になったら連絡しろってメモを置いてったんです」
「なら早く言え!」
「すみません。仲間になる気なんてまったくなかったので、メモのことは忘れてました」
「じゃ、会いたいって電話してくれ」
「それが、メモをどこにやったのか……」
「おいおい」
「大丈夫です。たぶんあのとき履いていたジーンズのポケットです」
歓迎会はここまでとし、昂胤は、アンダーソンを自分の部屋に案内した。
案の定、メモはポケットにくしゃくしゃになって入っていた。
「教官。俺、ダンの仲間になりますよ」
「何?」
「仲間になるのが一番でしょ。ダンが何たくらんでいるのか知りませんが、仲間になって探ってみます」
「あいつは、甘くないぜ」
「ええ。わかっています」
それしかないと思った。
アンダーソンは、ダンのオファーを一度蹴っている。今ごろアンダーソンが電話しても、警戒されるだけだ。電話番号をアンダーソンには言っていないからだ。
「そうしてもらうしかなさそうだな」
心配そうにアンダーソンが言った。
昂胤は、さっそくダンの携帯に電話してみた。しかし、何度もかけたが、通じなかった。
話が決まったら連絡してくれ、と言ってアンダーソンは翌朝、ソウルに発った。アンダーソンを送ってから事務所に顔をだすと、雄大が昂胤を待っていた。
「所長ぉ、マンジひどいっすよ。俺だけのけ者っすかぁ?」
昂胤の顔をみるなり、雄大が口をへの字に曲げて言った。
「雄大、すねているように見えるぜ」
雄大を見て昂胤が笑って言った。
「すねてませんよ。なんで俺がすねなきゃなんないんす?」
横を向いた雄大が、昂胤の顔を見ないで言った。
「哲さんにドタキャン喰わせた埋め合わせを、おまえがしてくれたのだろ。ありがとな。それができるのおまえしかいないからな」
「そりゃ、そうっすけど……」
「それに、おまえ、哲さんとは久しぶりぶりだったろ。だから、呼ばなかったんだよ」
「おっとユーちゃん、いつまですねてんのよ。いいかげんにしなさい」
黙って聞いていた夕実が口をはさんだ。
「もういいっすよ。今度は俺も、絶対に誘ってくださいよ。そんなことより、所長」
言うだけ言ったら気が済んだのか、雄大が話題を変えた。雄大は、さっぱりしている。根にもたない。昂胤は、こういう雄大が好きだった。
「今、なんか起きてるっしょ。何なんすか、いったい」
昂胤は、その瞬間、夕実を見た。夕実は小さく首を振った。
「なんか最近、外国人が出入りしてるらしいじゃないっすか」
どこで聞いたのか、雄大が言った。
「今度は絶対に俺も仲間に入れてもらいますよ、所長」
「何を言っている。俺のアメリカ時代の先輩が訪ねて来ただけだぜ、雄大」
なかなか勘のいい男だ。しかし、言うわけにはいかない。言えば連れて行けときかないだろう。危険な目に合うのは目に見えている。
「夕実ちゃん、知ってるんだろ。教えてくれよ」
昂胤は手ごわいとみて、今度は夕実に言った。
「おっと、教えろって何を? 所長のお友達よ。私には関係ないし。話もしてないのだから」
夕実の口も硬かった。雄大はねばっていたが、あきらめたのか、ぶつぶつ言いながらも自分の仕事にとりかかった。
夕実は、口が堅い。いちいち口止めしなくても、一切漏らす心配はない。守秘義務は、秘書の基本中の基本だが、アンダーソンやダンの動きを間近で見ているし、話も漏れ聞いているし、夕実としては興味深々だろうと思うのだが、こちらが言わない限り一切訊いてこない。
昂胤は、夕実のその配慮をありがたいと思っていた。
ダンから連絡があったのは、昂胤がシャワーを終えて缶ビールのプルトップを引いたときだった。
「おお、コーイン。来る気になったのか」
「はい。ダン先輩。日本にいても退屈ですから、行ってみようかなと……。どこに行けばいいんですか」
「ソウルだ。いつ来れる?」
「いつでも。俺は、どうしたらいいのです? ここを引き上げるのですか。そのゲームで、どのくらい遊んでくれます?」
「ま、ゲームは、半年か、一年か。そんなところだ」
「一年ですか。わかりました。準備でき次第また連絡します」
「長くは待たないぞ。三日で来い」
「三日ですか。わかりました」
電話は、これだけだった。
昂胤は、アンダーソンに電話して、このことを伝えた。アンダーソンは、一週間で自分もソウルに行くと言った。
「夕実、雄大。話がある。集まってくれ」
応接室に座って皆を呼んだ。
昂胤は、事務所を閉めるしかないと思っていた。そのためには、雄大をどう説得するか、頭の痛い問題だった。
二人は、神妙な顔をして、昂胤の言葉を待っている。
「事務所、閉めようと思う」
いきなり、昂胤が言った。そのとたん、雄大がのどを鳴らした。
「マジマンジ!?」
「また再開するけど、しばらくな」
「ちょっと待ってくださいよ。いきなり何なんすか。どういうことっすか」
雄大が目を見開いて声を荒げて言った。
「所長。再開するって、いつごろですか」
夕実が訊いた。夕実は、意外と落ち着いていた。
「わからんが、長くて一年ってとこかな」
「やめてくださいよ、所長。マジっすか。その間、俺らどうするんすか」
雄大が、昂胤にくってかかるように言った。珍しいことだった。
「所長がお帰りになるまで、私たちで事務所を開けていてはダメですか」
夕実が、静かに言った。首筋が紅潮している。
「おいおい、夕実ちゃん。所長、どっかに行っちゃうのかよ。俺は聞いてねえぜ」
雄大が目を丸くしたまま、口を尖らせて夕実に言った。
「所長。事務所を開けておいたほうが、拠点となって何かと便利じゃないですか。私たちに、事務所を守らせてくださいよ」
何も説明していないのに、夕実は、昂胤がしようとしていることがわかっているかのようだった。
「だから、何なんすか、いったい。俺にも教えてくださいよ。拠点とかなんとか、マジ、ワケわかんねえよ」
自分だけのけものにされているような言い方を雄大がした。
「俺な、雄大。しばらく日本を離れなくちゃならないんだ」
「なら、俺も一緒に行きますよ」
「それがな雄大。今回だけは、連れて行くわけにゃいかないのだ」
「いつも一緒だと言ったじゃないっすか。マンジ俺、行きますよ、絶対に」
昂胤が懸念したとおりだった。やはり、雄大は納得しなかった。昨年の瓶詰レター事件では、佐々木に雄大を押しつけられて途中からだったが参列し、共に戦い、解決するまで一緒だった。
連れて行くしかないのかもしれない。ただし、ダンが認めたら、ということだ。
「昂胤さん。マジ、どこ行くんすか」
呼び方が、所長から昂胤さんに変わっている。
「雄大。実は、俺もよくわからないのだ。俺が昔世話になった養成所の卒業生で、俺の先輩にあたる人から、一緒に来ないかって誘いがあったのだ」
昂胤は、二人に話してしまおうと思った。夕実も、中途半端に推測しているより、事実を知っていたほうがいいだろう。事務所も、夕実が言うように、開けておくほうがいいかもしれない。夕実がよければ、だ。
「あぁ、あんときのアメリカ人っすか。なんか、ありそうな気がしたんすよね」
雄大が言った。
「おまえが言ってるのは教官のことだ。そうじゃなく、誘いがあったのはダンっていう先輩だ」
「どこに行くんすか」
「まだ何もわからないが、俺は、ダン先輩の誘いに乗っかろうと思っている」
昂胤が言うと、雄大が尋ねた。
「そのダンって人、何者なんすか」
「さっき言ったろ。俺の先輩だ。スポーツ万能で、あらゆる格闘技に長けているだけじゃなく、IQが二百を超えている」
「マジマンジ! 何なんすか、いったい」
夕実がいたから昂胤はあえて言わなかったが、そのうえ、ダンは殺人のスペシャリストだ。傭兵学校の伝説の男だった。
5.白頭山
十九時。金浦空港に来ていた。
アンダーソンには、電話で簡単に説明してある。昂胤の事務所を拠点にしてあるので、連絡がつかないときは事務所に伝言を残すことになっている。
昂胤は、韓国は初めてだった。ロビーは、大変な混みようだ。ダンがどこにいるのか、さっぱりわらない。こんな状態でダンと会えるのだろうか。
昨夜、ダンからもらったメールには《明日、十九時、金浦空港で待つ》 それだけしか書いてなかった。雄大のことを相談したかったが、こちらからは連絡がとれなかった。独断で連れてきたが、文句を言われりゃ帰らせばいい。そう思っていた。雄大も、ダンがダメだと言えばあきらめる、と言っている。しかし、それどころか、こんなことではダンに会えるかどうかもわからない。
「ヘイ、コーイン。よく来たな」
突然声をかけられた。人混みの中から、いきなりダンが現れた。いつの間に来たのか、わからなかった。これが敵なら、昂胤は死んでいる。気配をまったく感じさせなかったダンに、昂胤は鳥肌が立った。自分の感覚が鈍ったとは思わなかった。それだけの修行はしているつもりだ。それとも、実戦から離れた結果なのか。
「ダン先輩。連れがいます」
そんなことをおくびにも出さず、昂胤は、気になっていることを言った。
「いいさ。タフな野郎ならな」
ダンは気にしなかった。
「コーインが連れてくるぐらいだから、ヤワな野郎じゃないことはわかるぜ。おぅ、新入り!」
昂胤が紹介する間もなく、ダンが雄大の手をとった。
「ダンだ。よろしく頼むぜ」
「あ、雄大です」
雄大は、よろしくお願いしますとは言わなかった。言えなかったのか。雄大は普段ものおじしないが、珍しいことに、ダンの迫力に気圧されていた。一九三センチの雄大よりダンは高い。
「行こうぜ」
そう言ってダンが歩きだしたので、二人も続いた。
ロビーを出るとジープが止まっていて、屈強な若者がドアを開けた。ダンに続いて昂胤、雄大が乗った。運転手以外に誰もいなかった。どうやら、ダンが一人で迎えに来てくれたようだ。
車は音もなく発進した。
「昂胤、飲めよ」
ダンが、ウイスキーのボトルを取り出した。ジョニーウォーカーの青ラベルだった。一口飲んで昂胤に渡した。昂胤も一口飲んで、雄大にまわした。喉が、カッと熱くなった。雄大が飲んで、ダンに返した。またまわされたが、昂胤はそのまま雄大にまわした。それからは、雄大とダンが、交互に飲んでいる。
昂胤は、外を流れるソウルの街並みをぼんやり眺めていた。雄大を連れてきて良かったのか。日常英会話程度ならこなすようになったから、連れてきた。そういう約束だった。しかし、正直、ダンが断るだろうと思っていた。いいよとあっさり言われ、拍子抜けする思いだった。
ダンが何をするつもりか知らないが、半端じゃないことは確かだ。
雄大は、空手道四段の腕を持つ猛者だ。しかし、その程度の腕なら、傭兵学校ではザラに居た。そういう連中は、自分への過信でむしろ逆に命を落としやすい。ことが始まれば、雄大のことにかまっておれなくなるはずだ。いまさら言っても仕方がないが、心配事ではあった。
終わったことを、いつまでも引き摺る女々しさが自分にあることに、昂胤はこのところ、苦さとともに気づきはじめていた。自分でも思ってもみなかった自分が、まちがいなく顔を覗かせている。
「ユーダイは、昂胤とは長いのかい?」
ダンが、雄大と話していた。
「いや、まだ。俺は、去年からっす」
雄大は、アルコールが入ったからなのか、ぎこちなさが消えていた。
「そうか。学校仲間じゃないのかい」
後半は、昂胤に向かってダンが言った。
「こいつは、俺の連れに頼まれて、去年一緒に仕事したのですよ。けっこう使えるのでその後も一緒にやっています」
瞑想を中断し、昂胤が説明した。
「そうだったのかい。ユーダイ、俺たちの遊びは、命懸けだぜ」
「はい。わかっています」
殊勝な態度で、雄大が返事した。
「なら、いい。楽しくやろうぜ」
ダンがニッコリ笑った。ダンの笑顔は、男が見ても魅力的だ。
ジープは、郊外を走っていた。ずいぶん前から、前にも後ろにも車はいなかった。景色がすっかり変わっていた。道路は舗装されていない。砂埃を舞い上げながら細い路を走っていたが、いつの間にか、うっそうと繁る木々の中に入っていた。繁みに隠すようにジープを停めて、そこからは歩いた。
生い茂る細い枝をかきわけるように道なき道をしばらく行くと、突然、目の前が明るくなった。森中に自然にできた約五十メートル四方の空白だ。よく見つけたものだと、昂胤は感心した。
「さ、着いたぜ」
数軒の山小屋がある。屋根には木枝葉をかぶせて空から発見されないようにカモフラージュしてあった。
ダンは、山小屋の一軒に入った。八人掛けの食卓があり、迷彩服を着た五人の男と一人の女が座っていた。
「紹介するぜ。こっちが、コーイン。むこうがユーダイだ」
ダンが、立ったまま、男たちに二人を紹介した。
「マイト、おまえから自己紹介しろ」
ダンに指名された男から順番に、自己紹介が始まった。
昂胤には、全員凄腕だということがわかった。ただ、最後のロムという女だけは、何もわからなかった。
昂胤が軽く頭を下げたが、誰もニコリともせず、じっと二人を見つめている。
「各チーム、選んだ一名をすぐにここに寄越してくれ 」
ダンが皆に言った。あらかじめ打ち合わせてあったのか、いっせいに小屋を出て行った。
「傭兵学校卒業生七人で始めたのだ。さっき紹介した奴らだ。皆で戦士を集めてきて、ここで訓練している。訓練は、傭兵学校よりきびしいぜ。落ちこぼれた奴は死ぬ。最初はもっといたが、今は五十四人だ。最近では死ぬ奴は出なくなった」
話し始めたダンが、ここで話を切って、昂胤と雄大の顔を見た。
「今は六チーム。おまえが来たからもう一チーム増やす。各チームから一人づつ抜く。その六人とユーダイを入れた七人がおまえのチームだ。これで各チーム八人になる」
ダンがまたここで話を切って昂胤を見た。
「先輩。俺のチームって言いますけど、俺は何をすれば?」
昂胤はダンに訊いた。
いきなりチームを持てと言われても、目的がわからないから何をすればいいのかもわからない。
「チーム全体をおまえの手足として一糸乱れることなく自由自在に動かせるように訓練してくれ。今いる連中は、皆が最強の戦士だ」
「先輩が言っていたゲームって、まさかこの訓練のことじゃないですよね」
「だったらどうする? 抜けるか」
ニヤリと笑いながら、ダンが言った。
「先輩が、ただ育てるだけって、そんなわけないでしょ」
昂胤がダンに言った。
「そのうちわかるぜ。楽しみにしていろ」
ダンは、笑って答えなかった。
「武器その他必要なものは、ロムに言えばそろえてくれる。ロムのチームは便利屋だと思っていい。本人に言えば怒るがな」
ダンが言った。
「他に訊きたいことは?」
昂胤が知りたいのは目的だ。さっきは、そのうちわかると言って教えてくれなかった。しばらく様子を見るしかなさそうだ。表に人の気配がしたので昂胤たちが外に出てみると、屈強な男が六人いた。ダンのことは知っているようで、ダンの顔を見て敬礼していた。
「聞いてくれていると思うが、今日から新しいチーム誕生だ。おまえたちのボスを紹介する」
ダンは、前に出るよう昂胤を手招きし、皆に言った。英語だった。
「お前たちのボス、コーインだ」
昂胤は前に出た。
「コーイン・タガワだ」
一人一人の目を見ながら、昂胤が言った。
「コーイン。じゃ、俺は行くぜ。七日後、リーダーだけで打ち合わせをする。ここに朝九時に来い。最後にひとつ。一般隊員は、自分のチームメイト以外は互いに顔も名前も知らないからそのつもりで」
言うだけ言うと、ダンは、小屋を出てそのままどこかに消えた。屈男たちと共に、昂胤と雄大はその場に残された。
「とりあえず、小屋に入ってくれ」
昂胤は、皆を小屋に誘なった。
「ここで何をするのか、俺は聞いていない。知っている者、いるか」
全員がテーブルに着くのを待って、昂胤が言った。知っている者は誰もいないようだ。
「俺は、ダンに誘われてここに来た。同じ傭兵学校出身だが、彼は俺の十年先輩で、一緒にやるのはこれが初めてだ。ダンが何をするにしても、決して半端じゃないと思う。命がけのゲームに違いない」
口を挟む者はいない。
「一番大事なことは、チームワークだ。個々の力を最大限出して欲しいが、それはチームのためだということを忘れるな。誰かの勝手な行動が、チームを全滅させる」
全員、熱く鋭いまなざしを昂胤に向けている。それぞれ、不敵な面構えだ。ふてぶてしい面構えの中にも、ぐっと結ばれた唇には、かたくなな意志が秘められていた。
「まず、自己紹介してもらおうか。それぞれ得意分野も教えてくれ」
皆を見ながら、昂胤が言った。
「じゃ、俺から言うぜ。俺は、ダウ。ボツワナだ。ナイフが好きだ」
聞いてないのに、出身地も言った。頭を丸めた黒人だ。丸顔のぽっちゃりしたどちらかと言えば愛くるしい顔だ。くりくりした目だけが白く光っている。声のトーンが高い。
「ナイフは?」
昂胤が訊いた。
「コールドスチールのトレイルマスターだ」
「ああ、あれはいい。俺も好きだ」
昂胤も、コールドスチール社製のナイフを愛用している。
「俺は、ロドニーだ。オセアニアのサーモア。爆弾専門だ」
続いてこの男も出身地を言った。白人と黒人のハーフだろう。細い目をきらりとさせて昂胤を見た。
「爆弾は何が得意だ?」
昂胤が訊いた。
「爆弾なら何でも。特に、特殊爆弾を作るのが好きだぜ」
「特殊爆弾と言うと?」
「あるだろ。万年筆型とか、時計型とか。誰も爆弾とは思いもしないものを爆弾にしちまうのが好きなのさ」
「そうか。わかった。次は」
「俺はゴードン。得意なものはない。出身地を言わなきゃなんねえのか」
低くよく通る声で、三人目が言った。得意なものがないと言うのは、何でもできるということなのか。白人で、垂れ目気味の目の青さが印象的だった。金髪を短髪にしている。細いが力強い眉が一直線に伸びている。理知的な顔だ。
「いいや。好きにしてくれ」
昂胤が言った。
「俺は周。格闘技が好きです。中国は広東から来ました」
中国人らしい造形だった。坊主頭。この中では一番若そうだ。太い眉の下の大きな黒い瞳に、意志の強さが表れていた。
「カンフーか」
昂胤は訊いてみた。
「少林拳です」
少林拳を使うのは、昂胤と同じだ。
「そうか。俺も同じくだ」
昂胤が言うと、周の目が一瞬光ったが、すぐに消えた。
「セオドア。セオでいい。ハッカーだ。コンピューターなら任せてくれ。アーカンソー出身だ」
黒々とした顔の上に鶏冠のような短髪を乗せ、鼻から下は無精髭で埋まっている。目つきが鋭い。
「俺は、ニコラス。ニックと呼んでくれ。狙撃なら俺に任せな。オレゴンだ」
笑顔で言った。白人だ。アメリカ人らしく陽気な男で、どこかカウボーイを連想させた。
最後は雄大だ。
「俺は、雄大。格闘技です。日本人です」
いきなりのことだったので、昂胤には特に何か考えがあるわけではなかった。ただ、どうせやるなら一番を目指したい。アンダーソンに連絡をするのはもう少し様子を見てからにしよう、と昂胤は思った。
「皆は初顔合わせだと聞いているが、知っている顔があるか。傭兵学校出身者は?」
訊いてみたが、誰も返事をしなかった。傭兵学校出身者がいると聞いていたが……。
「ここは自給自足らしいが、今までどうしていた」
昂胤の質問に、ニックが答えた。
「この山は、食い物は豊富なんだよ。小動物も多いし。すぐに調達できるぜ。しかし、簡単な食材ならここで揃うぜ」
こことは、ロムのことを言っているのか。
「よし、わかった。十八時にここに再集合だ。それぞれ食い物を持って戻ってくれ。明日からのことは、晩飯の後だ。解散!」
昂胤が皆に言った。
雄大だけが残った。
「雄大、しばらく俺との関係は伏せておけ。ま、いずれ自然にわかるだろうがな」
「オッス。それはいいんすけど、昂胤さん、俺、食い物って言われても」
「ここでは自給自足らしいぜ。働かざる者、食うべからずだ。武器は何でもあるそうだ」
「そんなぁ……」
ぶつくさ言う雄大を残し、いつの間にか戻っていたロムに、昂胤はボーガンとナイフを二人分注文した。
「ロム、ダンとは長いのかい?」
昂胤はついでに訊いてみた。
「さあね」
明るいゴールドカラーの短髪をオールバックにした目鼻立ちのはっきりした大柄な女性だ。
「ここは韓国かい、それとも北朝鮮かい?」
「北だよ」
愛嬌も愛想もなく短く答えて、ロムはどこかに行ってしまった。迷彩服を着たロムは、女をまったく感じさせなかった。
ロムにもらったボーガンとナイフのセットを「まあ、やってみるんだな」と言って雄大に渡した。言ってはみたものの、雄大には無理だろうと昂胤は思っていた。しかし、この程度は自分でできるようにならないと、今後ついていけない。かわいそうなようだが、させるしかない。
一カ月後。
昂胤たちは、白頭山の密林にいた。
この秘境は、中国と北朝鮮の境界にある標高二千七百メートルの山の中にある。朝鮮半島の東部を縦断する北朝鮮と韓国にまたがる太白山脈は、北朝鮮から釜山市付近まで高さ一千メートル級の山々が続いている。北に続く狼林山脈や、南西へ分岐する小白山脈と合わせて、朝鮮半島の背骨である。最高峰は、北朝鮮と韓国にまたがる江原道に位置する雪岳山一千七百メートルの山で、そのほか北朝鮮にある金剛山一千六百メートルの山は景勝地として有名だ。
昂胤たちは、人目につくことなく、釜山から山伝いにここまで来た。街中に一度も出ずに、山中で食料を調達しながらだ。全員が登山装備をしていた。武器と言えるものは、ナイフだけ。
太白山脈を往復し、白頭山X地点地中に埋め込んだ荷物を二十日以内に取って来い。
これが、ダンからのミッションだ。
先日ダンが姿を消したのは、準備のためだった。その指令を受けて、七チームがいっせいにスタートした。早い者勝ちだ。白頭山まで平坦地であったとしても、大人が急いで歩いて片道十三~十四日はかかる距離だ。まして山道だ。
しかし、昂胤たちは、七日で踏破していた。他のチームより早く来たという自信はあった。だが、荷物を回収しなければ、意味がない。指令によると、X地点は、北緯▲▲度、緯度△△度だという。
「この辺りがX地点だ。ここらを掘ってみよう。散開!」
昂胤が言うと、皆がいっせいに散った。
半径十メートル内のはずだ。早く見つけないと、他のチームが来てしまう。どのチームも優秀だ。間もなく姿を表すに違いない。殺しだけは禁じられているが、後は何でもありだ。発見したとしても、最後にダンに届けたチームの勝ちだから、発見してからは常に六チームに狙われる。ダンに届けるまで、勝負は終わらない。
三十分ほど経ったころ、誰かが叫んだ。
「あったぞーっ!」
興奮していた。
「おおっ。あったか!」
皆が集まった。たしかに、ダンが埋め込んだ品物だ。ダニエル・カーンと書いてある。
「これだっ! よくやった。よし、戻ろう!」
昂胤が言った。ゆっくりしている暇はない。
そのとき、昂胤は、わずかだが殺気を感じた。それは一瞬で消えたが、何かの気配は、体にまとわりついたままだった。
急いで移動した。
昂胤は、思いをめぐらせていた。
新チームが誕生した翌日のこと。昂胤がチームメイトに課したのは、ある地点に到達したら即折り返すという簡単なものだった。ほぼ一日のコースだ。朝七時に一斉にスタートする。チームがキャンプ地にしているところまで、早い者で一六時に戻る。遅い者で一七時だ。最後の者が、皆の夕食を準備する。最初の三日間は、雄大だった。しかし、四日目から、雄大が最後になることはなかった。
スパークしたのは、七日目の夜だった。事の発端は、四日目から食事当番を続けているセオドアだった。今日こそラストを返上するぞとかなり張り切っていたが、終わってみたら、今夜もセオドアが最後だった。自分が最後になるのはおかしい、とぼやく。夕食の準備をしながら、イライラが頂点に達したようだ。
「いつまでこんなことを続けなきゃなんねぇんだよ!」
投げつけた薪が跳ね飛ばした炭火が、たまたま煙草の火を取ろうとしていたゴードンのタンクトップの中に飛び込んだ。
「何しやがる!」
と言ってゴードンがセオドアに飛び掛かった。ところが、二人で転げたときに、仮眠をとっていたダウにまともにぶつかってしまったのだ。怒ったダウが、飛び起きざま、ゴードンに蹴りを入れた。背中を蹴られたゴードンにダウは殴り飛ばされた。飛ばされた先は、ロドニー、周、ニック、雄大が談笑している輪の中だった。それからは、全員が参加しての乱闘になってしまった。
昂胤は、最初から見ていた。格闘技は、周と雄大がさすがに強い。特に周は只者ではない。他の者と比べると、クビが一つ以上飛び出ている。最終的には、周が勝つだろう。しかし、他の連中もただやられているわけではない。ケンカ殺法は経験豊かだということがよくわかる。空手四段の雄大とほぼ互角に戦っているのだ。
直接の原因は、セオドアが薪を投げつけたことで起こっている。それさえなければ、こうはならなかった。しかし、昂胤はわかっていた。連日山歩きをさせられ、みんな、辟易しているのだ。ストレスが沸点到達というわけだ。ガス抜きさせようと、昂胤はしばらく放置していた。
そして、ぼちぼち止めに入ろうと歩み寄って行ったときだった。何を思ったのか、全員が昂胤に向かってきた。そして、昂胤を囲んで輪になった。殺気だっている。
「おい、やめろ。何考えているんだ!」
昂胤が止めても、誰も聞かなかった。雄大まで向かってきている。
最初に突っ込んだのはニックだった。まともにタックルしたようにみえたが、飛ばされたのはニックで、ひっくりかえったまま動かなくなった。昂胤は、そのまま輪の中にいただけだったが、魂を抜かれたように皆が次々に倒れていった。昂胤の正確な動きを見た者は、誰もいないだろう。
神域の訓練をしてきた昂胤にとって、この程度は何でもないことだった。神域に入ってからの訓練が、とんでもなく技を研ぎ澄ませる。常人には計り知れない技を身につけられる。ただ、誰でも神域に入れるわけではない。並の人間には、とうてい無理な話しだ。
しかし、なぜ全員が昂胤に向かってきたのか。昂胤への不満が溜まっていたのか。
他のチームは、戦闘訓練をやっていたようだ。今朝のミーティングで、そう言っていた。昂胤は、チームを鍛えるためと実力を見るため、今いる地の利を生かして山中移動訓練をしてきた。強者ぞろいのこのメンバーがこんな訓練だけでいつまでもおとなしくしているとは思わなかったが、案の定、爆発した。一週間言うことを聞いていたのは、むしろ良しとするべきか。この七日で、メンバーのキャラクターと技量を、ほぼつかめたので、メニューを換えようと思っていた矢先だった。
それしにしても、ダンはどこに消えたのか。昂胤を新チームのリーダーとして紹介してから、ダンがいない。七日後リーダーだけ集まれと言っていたのに、ダンだけ現れなかった。
ゴードンが目を覚ました。見回している。
「ボス?」
顎を擦りながら、ゴードンが言った。
「おまえら何を考えていた」
昂胤がゴードンを睨みつけた。
ボスに歯向かってきたのだ。許されることではない。他にも、一人二人と、動き出している。軽く当て身をしておいたので、やがて全員正気に戻るだろう。
「なんとなく、そうなっちまっただけなんです」
合点のいかない顔をして、話しながら次第に声が小さくなる。他の者も、上半身を起こしている。
「おい、集合しろ!」
昂胤は、集合をかけた。皆は、それでも、ぱっと昂胤の前に集まってきた。
「おまえら、何を考えている? 上官に歯向かうのはどういうことかわかっているのか!」
昂胤の声のトーンが高くなった。
「ボス。すんませんでした」
表情を曇らせ顔をしかめてゴードンが言った。
「ボス。俺たちはどうかしていました。自分たちの元居たチームから引きはがされ、毎日山の中を走り回らされて、頭に血がのぼっていたようです」
ロドニーが深いため息をついて言った。もう落ち着きを取り戻していた。爆弾の専門家だ。
「しかし、ボス。俺たちはボスにのされちまったのですかい?」
ナイフの得意なダウが目を丸くして言った。声がうわずっている。
「ボスが何をしたのか、全然見えなかったです」
格闘家の周が、頬を紅潮させ、輝いた眼差しを向けて言った。
「もういい。今回はなかったことにするが、二度目は許さない。いいか!」
昂胤が、わざと強く言った。
「さあ、メシにしようぜ。おい、みんな。セオを手伝ってやれ」
昂胤が明るく言うと、すかさずセオドアが口をはさんだ。
「いや、俺の仕事だ。手伝わなくていい。急いで作るから、もう少し待ってくんな」
騒ぎの発端が自分だということに気づいたのか、セオドアが殊勝なことを言った。
食事が済んで各自くつろいでいるとき、昂胤のそばに雄大がコーヒーカップを持ってやってきた。
「昂胤さん。コーヒーいりませんか」
日本語だった。
「おぉ。サンクス」
「昂胤さん。さっきはすんませんでした」
昂胤の隣に座った雄大が言った。
「済んだことだ」
「いや。そうじゃないっす。みんなね、昂胤さんの腕前を試そうって、前から言ってたんすよ」
「俺の腕前?」
「はい。機会があれば、なんとか試したいって」
「そんなことを」
「ええ。俺たちが雑談してるとこにダウが飛び込んできたっしょ。そこまではホントのことっすけど、そこでみんなの目が合ったんすよ」
「わざと乱闘にもっていったのか」
「ええ。そうなんす。乱闘はみんな本気でやってましたけど、やってるうちに、なんとなく気持ちがまとまったみたいで」
雄大が、申し訳なさそうだ。
「俺は昂胤さんの腕をよく知ってますが、俺だけ参加しないわけにいかなくて」
「どうせそんなことだろうとは思ったぜ」
自分たちのボスが、ボスにふさわしいかどうかテストをしたわけだ。腕に自信のある者ほど、強いボスを求める。
「それで、どうなのだ。俺は合格か、不合格か」
「とんでもないっすよ。合格も何も、みんなびっくりしてました。神業だって言ってました」
「それにしても、乱闘中によく気持ちがまとまったものだな」
「ホントっすよね」
意外とこいつらはいけるかもしれない、と昂胤は感じた。
「ギャーッ!!」
そのとき突然、大声を張り上げて昂胤が飛び上がった。
「こ、昂胤さん、どうしたんすかっ!」
雄大が立ち上がって昂胤の顔を見た。昂胤は鼻の穴を膨らませ、顔をゆがめている。何か言おうとしているが言葉が出ない。こんな昂胤は初めてだ。
「そっ、そこ、そこーっ!」
昂胤が指を指しながら後ずさっている。雄大が昂胤の指さすほうを見回しているが、特に何も見つけられないようだ。
「昂胤さん、何なんすか、いったい!」
「それっ、それっ、それだ、それだーっ!」
雄大は、昂胤の指先をたどった。先ほど昂胤が座っていたあたりに、何か空中に浮いている。よく見ると、十センチほどの蜘蛛だった。
「昂胤さん、これっすか? まさかね」
昂胤は、雄大の質問に、顔を上下に小さく振って何度もうなずいた。額に汗を浮かべ、肩を大きく動かして細かく息を吸っている。
雄大は、ぽかんと口を開けて両手を広げた。事態が飲み込めたようだ。今にも吹き出しそうにしている。
「それだ。早くなんとかしろ!」
昂胤が震える声で言った。雄大は、手で口を押さえて後ろを向いた。前屈みになった。
「ぷーっ。ぷぷ、ぷわっはっはっは!」
雄大が大声で笑った瞬間、昂胤は雄大を蹴り飛ばした。
「ここでビバークだ」
瞑想を打ちきり、昂胤が言った。
「ダウ、周。見張りだ。あとの者は、バリヤーだ。すぐかかれ」
ダンはこのミッションのために姿を消していたのだ。ダンは、十四日で往復している。昂胤たちは、山中移動訓練をしていたおかげで、今のところダンと同じペースだが、これから先はわからない。ダンが埋めた品物を昂胤たちが発見したもののこれで終わりではないからだ。殺しだけは禁じられているが、後はなんでもありだ。X地点に品物がないとなれば、持っているチームを襲って手に入れないといけない。だから、荷物をダンに手渡すまで、このミッションは終わらない。大木が密集しており、身を隠すのはたやすいが、攻撃側も密かに襲撃しやすい。今夜か明日の夜、あるいは、最終日あたりか。六チーム全部から狙われるはずだ。
肝心なのはこれからだ。
昂胤は、何かの気配を体にまとわりつかせたまま、先を急いでいた。 夜のうちにできるだけ移動したかったが、 日が落ちて月明かりだけになると、距離をかせげなかった。ポイントに何ヵ所かレーザーワイヤーを設置し、テグスは何か所にも設置した。鈴がついている。半径三十メートル範囲に動くものが入ってくれば、関知する。
「よし、メシだ。見張りは、いつものように二時間交代だ」
ガードをかためた後、食事をとった。食事と言っても火を使わない簡易食料だ。食事が終わったら、見張りを残して仮眠をとった。
騒ぎが起きたのは、一時間後だ。
「うおーっ! 」
その声で、全員飛び起きた。声がしたほうに走って行って見ると、見張りをしていた周が、何物かを押さえ込んでバタバタしている。
「どうした!」
「こ、この野郎が」
「ブヒーッ!」
周の下から声がした。
「何だ⁉」
「んなこと、わかりませんっ。早く何とかしてください!」
押さえ込んではいるが、そこから動きがとれなくなっていた。
「ブタじゃねえのか?」
ダウが言った。
「こいつはいい。明日は、盛大に焼肉パーティーといこうじゃねえか」
セオが言った。
「やれやれ。どこのチームのお出ましかと思ったら、セクシーなお嬢さんだったか」
ニックが言った。
「放してやれ」
昂胤が言った。周が少し体をずらしたとたん、下から猛烈な勢いで黒いかたまりが飛び出し、あっという間に消え去った。
黒ブタだった。
「みんな。寝るのだ」
昂胤が言って、騒ぎはおさまった。
それからは、何事もなく朝を迎えた。昂胤たちは、先を急いだ。こうして五日が過ぎた。このままいけば、あと二日の距離だ。
なぜ、どのチームも襲ってこないのか。追い付いて来ることができないのか。それとも、あるはずのないものを、まだ現地で探しているのか。
「ボス。客人が来ませんね」
小休止しているとき、ゴードンが言った。
「必ず来る。神経戦だ。敵は、俺たちが油断するのを待っている」
敵は、すぐそばにいる。 体にまとわりついた感触は、消えていない。他のチームはまだ気づいていないかもしれないが、マイトのチームだけは、すでに昂胤たちをマークしているはずだ。マイトのチームは、これまでの訓練で常に二番につけていたからだ。
ダンが作ったルールは一つだけだ。
あと一日残した前日の深夜。
物音一つしない。大木の根元に二人づつ横になっているのが、月明かりでかろうじて見える。
二番目の見張りが交代して一時間ほどしたころだ。リンと小さく鈴が鳴った。
――来た!
昂胤は、鈴が鳴るかなり前から侵入者の気をとらえていた。見張りが交代する前からだ。気は、六つ。わずか数十メートルの距離を、二時間かけて近づいて来た。恐ろしい集中力だ。目に見えて動くものは、まだ何もなかった。しかし、気配だけが確実に濃厚になっている。
それからさらに数分過ぎた。
近い。手の届くところにいる。見張りは、どうしたのだ。意識がそこにいったとき、重い気がはげしくぶつかってきた。昂胤は、自分が寝ていた場所に突っ込んだ黒いかたまりに、つぶてを放った。黒いかたまりは、そのまま動かなくなった。
あちこちで、気と気がはげしくぶつかっている。
静かになるのに一分とかからなかった。ダミーの寝袋を置いて、各自が近くの草木の底に潜んでいたのだ。だから、寝込みを襲ったつもりの襲撃者は、逆に罠にはまったのだ。
昂胤の指示だ。
昂胤チームの見張りの二人は、吹き矢で眠らされていた。
襲撃者が引っ立てられ、昂胤の前に集められた。
「マイト、残念だったな」
「ふん。実戦ならおまえら全員死んでいるぜ」
マイトが、挑戦的な目で昂胤を睨みつけてダミ声で言った。無造作に伸ばした髪と、鼻の下から顎まで手入れしないまま放置しているような濃い無精髯が特徴的だ。
「その前に、おまえらが死んでるさ」
ニックが笑って言った。マイトが横を向いて鼻を鳴らした。
「しかし、おまえらさすがだな。レーザーワイヤーやテグスを潜り抜けて、よくここまで来れたもんだぜ」
ゴードンが続けると、マイトが腕を組んで昂胤を見て言った。
「そんなことより、俺たちのことがなぜわかったのだ?」
マイトが、いかにも合点がいかないという顔をしている。
「おまえらの“気”だよ。あれだけ“気”をまき散らしていたら、いやでもわかるぜ」
昂胤が何でもないことのように言った。
「何のことだ。“気”がどうしたと言うのだ」
「俺たちのボスは、おまえたちの数までわかっていたんだぜ」
ニックが、面白そうに口をはさんだ。
「そんなことより、メンバーはもう一人いただろ。どうしたんだ」
人数が一人足りないのが気になって昂胤が言った。
「先に報告に行かせたんだよ。俺たちがゲットするのは間違いなかったからな」
マイトが言った。
「そいつは気がきくじゃねえか。だが、虚偽の報告だな」
ニヤニヤしながら、ダウが言った。
「さ、もう勝負ありだ。あきらめて一緒に帰ろう」
昂胤がダンのチームの皆に言った。
「ああ。わかった。そうするしかなさそうだ」
「さあ、もう一眠りしようぜ」
昂胤が言うと、皆が散った。
朝。
「マイトのチームが消えている!」
ニックが騒いだ。
「どうした」
ゴードンが起きた。
「何を騒いでいる!」
「マイトらが消えているのだ。俺が小便に起きたら、雰囲気が何だかおかしいので、ふっと周りを見たら、マイトチームが誰もいなかった」
「ボスを起こせ。俺は皆を起こす」
ゴードンがニックに言った。
「起きているぜ」
昂胤は、ゴードンとニックの話を聞いていた。
「あ、ボス」
皆が起きてきた。
「マイトのチームが消えた」
ニックが言った。
「さっき聞いた。セオはどうした」
昂胤が訊いた。言われてみれば、皆が集まっているのにセオだけいない。
「ボス! セオが縛られている!」
セオの寝ていた場所に行くと、縛られて身動きできなくなったセオがいた。
「すまない。油断した」
さるぐつわとロープを取ってもらってセオが言った。
「じゃ、品物、持ってかれたのか!」
ゴードンが言った。
「ああ。持っていったぜ」
「何だと!」
ロドニー。
「ひきょうな!」
周がうめいた。
「予定どおりだな」
セオが言った。
「予定どおりとは、どういうことだ?」
ロドニーが訊いた。
「作戦どおりってことよ」
セオがにんまり笑って答えた。
「つまりだな」
セオが説明を始めた。
「マイトは決してあきらめない。ルールは何でも有りだからだ。必ず狙ってくる。だから、俺がダミーをこしらえておいたってわけさ」
得意気にセオが言った。
「じゃ、マイトは偽物を持って行ったのか」
皆は破顔した。
「でかしたじゃねえか、セオ」
ゴードンがセオに言った。
「俺は、ボスに言われたとおりやっただけさ」
セオが昂胤の顔を見て言った。
「さあ、朝めしを食ったら出発するぞ」
昂胤が言った。
マイトは得意気にダンに報告するだろう。偽物とは知らずに。それを見た瞬間、ダンは何があったのか、わかる。
昂胤たちは、それからは襲撃を受けることなくキャンプ地に戻った。ダンは昂胤たちに七日間の休暇をくれた。他のチームは、マイトのチームも含めて鍛えなおすと言った。あとで聞いた話しだが、次に戻ったチームは三日後、その後は七日遅れ。十日遅れのチームもあったようだ。マイトに対しては叱責がことのほか厳しかったようだ。
休暇をもらった昂胤たちは、それぞれ好きに過ごすことにした。ゴードンはわからないが、ダウとセオとロドニーはソウルに遊びに行くと言う。
昂胤と雄大が帰国するときいて、日本が初めてというニックと、一年ほど日本に住んだことがあるという周が連れて行ってくれと言うので、連れて帰ることにした。
6.帰国
東京。帰国後二日目の夜。
昨夜は、疲れきっていた。四人ともまっすぐ昂胤のマンションに直行し、そのまま倒れるようにして眠った。爆睡だ。
今夜は、翔子の店でパーティをしてくれるという。昂胤と雄大の帰国祝いと、周とニックの歓迎会だそうだ。出席しないわけにはいかない。一日眠ったので、疲れはとれていた。主催者は、表面上は夕実だが、実際には翔子の招待だ。佐々木も来ている。葵は、仕事で欠席。珍しい客人として、重次郎が来ていた。翔子が連絡したときちょうど葵の会社にいたらしく、仕事で参加できない葵の代わりだそうだ。フットワークの軽い爺さんだ、と昂胤は思った。重次郎は、秘書のパクと一緒だった。
個室に、十人用の卓が用意してある。
重次郎が乾杯の音頭をとった。
「ご指名じゃでの。ワシが最年長じゃから、ママさんの気遣いじゃろうて」
重次郎が立ち上がり、皆が倣った。周は日本語を話すが、ニックはまったくわからない。夕実が、隣で通訳をしていた。
「本来なら、ここには葵くんがいるべきなのじゃが、あいにくヤツは忙しい。で、ワシが代理で来たというわけじゃ。まあ、ヤツが来たところで、ワシも一緒について来たとは思うがの。ふぉっ、ふぉっ、ふぉっ」
重次郎が話しだすと、いつも長くなる。
「爺さん、お手柔らかに頼んまっせ」
昂胤がおどけて関西弁で言ったら、パクと雄大が、プッと吹き出した。
「外国からの客人を迎えておるでの。失礼のないようにせにゃならんけん」
重次郎はきっすいの江戸っ子だが、いつも変な方言を使う。方言を使うのは機嫌がいい証拠だ。
「周くんとニックくんじゃったな。ようこそ日本へ」
昂胤の冷やかしも意に介することなく、続けた。
「縁というものは不思議なものじゃて。ここにお集りの皆の衆は、それぞれ何かの縁で結ばれておる。今日ここでまた新しい出会いも生まれたじゃろう。これも縁じゃ。一生の間で出会える人の数なぞ、たかが知れておる。じゃからこそ、ワシは出会いを大切にしたいと思っておるのじゃ。新しい出会いを作ってくれたママさんに、ワシは礼を言いたい」
重次郎は楽しそうだった。うきうきしているように見える。
「皆の衆、グラスの準備はよろしいかの。それじゃ、出会いを作ってくれたママさんと御一同さんの健康と幸せを祈って、乾杯じゃ!」
え、もう終わり? と思ったのは昂胤だけではなかったはずだ。思わず雄大と目が合った。
「かんぱ~い」
拍子抜けするほどの短さで重次郎の乾杯の音頭が終わった。
にぎやかに宴が始まった。翔子の店の料理を食べるのは久しぶりだ。さすがにおいしい。
パクがビール瓶を持ってやってきた。
「昂胤さん。久しぶりです」
昂胤のグラスにビールを注いだ。
「何かおもしろそうなこと、始めたみたいですね」
しばらく日本を離れていたと聞いて、パクが言った。
「まだ何もやっちゃいないさ」
昂胤が返杯しながら言った。
「おい、雄大」
パクは、雄大にもビールをすすめた。
「オッス。お先にパクさんどうぞ!」
雄大は、自分のグラスを飲み干すと、パクからビール瓶をとりあげ、空のグラスをパクに渡してなみなみと注いだ。パクと雄大は、兄弟のようだ。
「雄大。昂胤さんの足を引っ張ったら承知しないぞ」
一息で飲み、グラスを返し、雄大にもなみなみと注いだ。
「オッス。今んとこだいじょうぶっす。必死っすよ」
雄大が言った。
パクは、昂胤と一緒にいる雄大がうらやましそうだった。以前みたいに、自分も一緒に暴れたいと思っているのだろう。
そのとき重次郎が声をかけた。
「昂胤くん」
その声でパクは「昂胤さん。いつでも俺を呼んでくださいよ」と小声で言い残して席に戻った。まだ話したそうな顔だった。
「韓国で、大きな魚を釣ったそうじゃな」
爺さんは何も知らないはずだが、そんなことを言った。
「俺は、釣りに行ったのじゃなく、単なる観光ですよ。爺さんこそ、七十センチのクロメジナをあげたらしいですね」
昂胤は話題を変えた。
「去年の話じゃよ。よく知っておるのう。葵くんと一緒のときじゃ。揚げるのに三十分かかってのう」
ふぉっ、ふぉっ、ふぉっ、と重次郎が笑った。しかし、昂胤は話題の選び方を間違えた。おかげで、重次郎の自慢話を、全員が聞かされる羽目になった。重次郎の罠にはまったようだ。
翔子も夕実も元気そうだし、佐々木も相変わらずだ。
重次郎が、 周とニックを相手に、釣りの講義をしていた。二人は、意外と真剣に聞いていた。
昂胤たちは、韓国でのことを忘れ、グルメを満喫しアットホームなひとときを過ごした。
翌日、昂胤は久しぶりに事務所に顔を出した。事務所は、夕実が一人で守ってくれている。昂胤は閉めておけと言ったのだが、拠点に必要だからと夕実が自分で言い出したのだ。アンダーソンと連絡がとれなくても、夕実が中継地となって情報交換ができるので、確かに便利だった。
このひと月あまりの新聞五大紙の切り抜きスクラップが、昂胤のデスクに置いてあった。
八冊あった。
分野毎にブックを大別してあり、よく見ると、各スクラップブックの表紙裏に新聞の見出しとリードをまとめた一覧表が貼付されていた。ナンバリング処理がしてあるため、一覧表だけチェックし興味があれば詳細を読めばよい。それに、各ブックには何本か付箋紙がつけてある。夕実のお勧め記事だろう。
夕実の細やかな配慮が、昂胤の胸を一瞬熱くした。
スクラップブックを見ながら、昂胤が話しかけた。
「夕実」
「はい」
「俺たちがいないので、寂しかっただろ」
ありがとうの簡単なその一言が出ず、口から出たのは、なぜか別の言葉だった。
傭兵時代は男だけの世界だ。昴殷は、女の扱いが苦手だった。
「いいえ。全然」
そんな昴殷の気持ちを知ってか知らずか、夕実が言った。
「うそつけ。寂しいくせに」
昂胤が、また言った。
「私一人で、天下ですよ。ユーちゃんとケンカしなくて済むし、所長から小言を言われることもないし」
「おいおい、強がって」
「いいえ。ほんと楽ですよ。仕事の依頼はないし、あってもお断りしていますしね。所長もスタッフも長期出張中ですからって」
「そうか。じゃ、安心だな。俺たちがもう帰って来なくても」
「所長っ!」
昂胤は、夕実に睨みつけられた。
昂胤が言いたかったのは、そんなことじゃない。留守番の礼と、配慮の行き届いたスクラップブックを作ってくれた労いの言葉だ。
「冗談だよ」
昂胤が笑いながら言った。
「もうっ!」
頬を膨らませた夕実が、急に真顔になって言った。
「所長。こんどの件はいつごろ終わりそうですか」
長くて一年と聞いてはいるが、一人で事務所にいる夕実はやはりそのことが気になるのだろう。
「何とも言えないのだ。まだ何にもわかっちゃいないから」
実際そのとおりだった。
ダンにまだ信用されていないのか、何も聞いていない。いずれわかることだから、と昂胤は特に気にしていないが、日本で待つ身の夕実にとってはそうはいかないだろう。
昨夜、バーレーン王国の一日クーデターの件を重次郎が話題にしていた。バーレーン王国の公式発表によると、事件は発生していない。あれは誤報だった、としている。しかし、重次郎は、事実だと断言した。バーレーン国王から直接電話が入っているということだから、間違いないだろう。
この事件が、ダンと何か関係あるのだろうか。
今は考えてみても始まらない。
「そうですか。所長、必ず帰ってきてくださいよ。私、待っていますから」
「大丈夫だ。夕実は考えすぎだぜ」
夕実の思いつめた眼差しにとまどいながら、昂胤はつとめて明るく言った。
韓国での様子を雄大に聞いたのかどうかわからないが、夕実が心配するようなことはまだ何もないのだ。だが、生半可なことじゃないのは間違いないだろう。
「夕実、今夜飲みに行こうか」
留守番とスクラップブックの礼のつもりで、昂胤は夕実を誘った。
「やったぁ! は~い、飲みたいと思ってましたぁ」
夕実が満面に笑みを浮かべて言った。目が輝いている。
「久しぶりに、あそこに行くか」
昂胤も、喜ぶ夕実を見て嬉しくなった。
「あそこですか。うわぁ、久しぶりだわ」
「『あそこ』でわかるのか」
「もちろん、わかりま~す。所長の隠れ家《藤彩》でしょ」
「おお。よくわかったな」
「わかりますよ、所長。優秀な秘書、葵夕実をみくびってもらっちゃ困りますわよん」
とびきり明るい表情で、顎をあげ、手のひらを胸に当てて夕実が言った。
昂胤は、そこには以前、夕実を一度連れて行ったことがある。店の入口が表路地からは見えないので、一見客が入ることがまずない小料理屋だ。
昂胤は、いくつかお気に入りの店があるが、ここは特に気に入っている。
「そうと決まれば、すぐ電話してくれ」
小さな店だから、じきに満席になる。
「まだ早すぎます。お店の人、誰も来ていませんよ。私が後で予約入れときますね」
目を生き生きと輝かせ、照れくさそうに髪をなでながら言った。
夕実が心から喜んでくれているのがわかって、誘ってよかったと昴殷は思った。昂胤にしては上出来だった。
「おお。そうしてくれるか。じゃ、頼んだぜ。俺は、今から少しテツさんとこに顔を出してくるよ」
そう言って、昂胤は事務所を出た。
昂胤がいうテツさんとは佐々木哲朗のことで、従業員十人ぐらいの小さな配送業をしている。
佐々木が所属していた暴力団の親分が組を解散したのを機に佐々木も会社をたたみ、行くところのない若い衆を連れ、 大手の船舶会社に自前のトラックを持ち込んで、専属配送業者として入り込んでいる。佐々木が現役のころ、ここの会長がトラブルに巻き込まれて困っていたのを解消したことがある。会長はその恩を忘れていなかった。それで会長に引っ張られたのだ。
昂胤は、佐々木の事務所に来るのは初めてだった。アポイントなしに来たが、幸いなことに佐々木は事務所にいた。
「昂胤、よく来た。電話しようと思っていたところだ」
昂胤を応接室に案内しながら、佐々木が言った。
「テツさん、りっぱな事務所じゃないか」
女性事務員がいる。一般募集で採用したのだろう。昂胤が知らない若い男もいる。順調にいっているようだ。
「ああ。おかげさんでな」
佐々木は、昨夜寝ていないのか、疲れているように見えた。
「テツさん。昨日あれから?」
昨夜解散後、佐々木は、ニック、周、雄大を連れて飲みに行ったのだ。
「ああ。朝まで飲んでいた」
「雄大たちは?」
「三人とも、今頃ホテルで爆睡してるぜ」
「テツさんだけ仕事か。タフだな、テツさん」
「いや、ダメだな。俺も歳だぜ」
そのとき、女性事務員がコーヒーを持って応接室に入ってきた。
「なかなか教育が行き届いているじゃないか」
コーヒーの出し方を見て、昂胤が言った。
「冷やかすんじゃねえ」
「いい香りだぜ、このコーヒー」
ほんとにいい香りが漂っている。
「なんでもできるおまえんとこの夕実ちゃんじゃねえぞ。この会社の並びに、コーヒー専門店があるだろ。俺んとこはそこから出前してもらってんだ」
佐々木が、夕実のことを高く評価してくれていることが嬉しかった。
「昂胤。そんなことよりおまえ、今、何してんだよ」
佐々木は、話題を替えた。
「それなのだが、よくわからないんだ」
アンダーソンに頼まれたこと、そのためダンのチームに入ったこと、しかし、一カ月以上経ってもいまだに何もわかっていないこと、などを簡単に佐々木に説明した。
「おまえ、信用されてねえんだな」
痛いところをつかれた。だが、その通りだった。ダンは恐ろしく頭が切れる。もしかすると、昂胤の目的を感知しているのかも知れない。知っていながら知らないそぶりをしているのかも。
今回くれたこの一週間の休暇も、考えてみれば不自然だ。軍隊風のチームを組んではいるが、職業軍人ではない。休暇なんて必要ないのだ。キャンプに戻ったら誰もいなかった、なんてことになるのではないのか。
「ああ。そのようだ。ダン先輩は、誰も信用していないだろうな」
「それで、どうする」
佐々木は、昂胤の目を見て言った。
「テツさん、実は頼みがあるのだ」
昂胤が、あらたまったようすで言った。
「所長。休暇はいつまでですか」
昂胤は夕実を連れて《藤彩》に来ていた。夕実が予約を入れておいてくれたので座れたが、満席だった。
二人ともビールで乾杯したあと、常温の日本酒に替えていた。
「休暇は一週間だが、それより早く戻ろうと思っている」
昂胤は、早く戻ることで何かがわかると思っているわけではないが、こちらでしておこうと思ったことさえ済めば、日本にいる必要はないのだ。
「え~、そうなのですかぁ?」
夕実が、眉に皺を寄せてすねたように言った。
「もともと途中で帰ってくるつもりじゃなかったからな。ここでの用事さえ済めば、すぐ戻るつもりだ」
「用事って?」
「葵さんと爺さんに会っておきたいんだ」
夕実は、この二人の正体を知らない。だから詳しくは話せないが、ある程度のことは知らせておく必要がある。知らないと、変に心配をかけることになる。
「あの二人は情報通だから、ダン先輩のことを頼んでおこうと思って」
「叔父様が情報通なの?」
葵は、夕実の母親の兄だ。
「そりゃそうだろ。葵社長は、世界の《ソーテン》のトップだぜ」
世界有数のコンピューター開発会社の社長だから、世界の情報が集まるだろう。だから頼んでおくのだ、と説明した。
夕実が納得したかどうかわからないが、重ねて質問がなかったので助かった。
「ねえ、所長。雄ちゃん、役に立ってるの?」
夕実が話題を換えた。
「役に立つも何も、俺たちまだ何にもしてないのだ」
これは本当だ。訓練の毎日だ。
「雄大は、初めてのことばかりで最初は大変だったと思うけど、今はりっぱにやっているぜ」
雄大はよくやっていると、昂胤は評価していた。
「そうなんだ。雄ちゃん、いつも一緒でいいなぁ」
夕実がうつむいて、うらやましそうにぽつりと言った。
「何がいいだって?」
はっきり聞こえなくて、昂胤が訊いた。
「なんでもないの。 一人ごと」
夕実は、昂胤が頼んだハマチのお造りに箸を伸ばした。ワサビをのせて、醤油を少しつけ、口に入れた。ここの海鮮料理はいつ食べてもおいしい。
「所長、どうぞ」
夕実がお酌をした。
「ありがとう。だけど夕実。あんなとこ、夕実は一時間も辛抱できないぜ」
「あら所長。聞こえてたの。私のことを心配してくださったのね」
夕実が嬉しそうに、にっこり笑って言った。
「何言ってるんだ。誰が心配するか」
「所長、やっさし~!」
「だから、誰が心配するかってーの」
「照れちゃって。所長、顔が赤くなってますよ」
「ほざいてろ!」
昂胤は、夕実がかわいいのか憎たらしいのかわからなかった。
「所長。ここ、だし巻きたまご、おいしかったですよね。頼んでいいですか」
夕実がとつぜん言った。すっとかわされた気がした。
「ああ。何でも好きなもの頼め」
話しているとおもしろいのだが、自分のペースでものをしゃべる。
「じゃ、私もハマチのお造り頼んじゃおかな」
ここは、海鮮料理が新鮮でおいしい。夕実は、母親譲りでアルコールが強い。肴は好き嫌いがほとんどなく、食通だ。飲みっぷりも食べっぷりも、見ていて気持ちがいい。
「おばちゃんも誘ってあげたらよかったな」
ふと思ったことを、昂胤は口にした。昂胤は、夕実の母親をおばちゃんと呼んでいた。
「いやん、所長。久しぶりに連れてきてもらったのに、母親同伴なんてやめてくださいよぉ」
「たまにゃおばちゃんも誘ってあげないとな」
「所長。デートに自分の親を連れてくる女の子がいたら、即バイバイするでしょ!」
「デート?」
「デートです、所長。私はいつまでも子供じゃありませんよ」
「お、どういう意味だ?」
「もうボチボチ女として見てくださいって言っているのです」
「じゃ、今まで女じゃなかったのか」
「もういいです!」
もっと大切なことを話したかったはずだが、会うといつもなぜかこんな風になる、と昂胤は思った。
夕実は、お猪口の日本酒を一息に飲んで手酌で満たした。
昂胤は、夕実と軽口を言い合っていると、胸のどこかに温かさを感じる。
夕実の気持ちはわかっていた。だが、歳が十五歳も離れている。世話になっている人の娘さんだ。そういう意味で大切に思ってきた。
しかし、昂胤も、最近夕実を女として見ている自分に気づいてもいた。夕実は、魅力にあふれている。
透明な優しさ、頭の切れ、鋭い感受性、厚い情熱を持つ。手先が器用で、たいていの身の回りのものは創意工夫をこらして自分でつくってしまう。運動神経が良く、スポーツ万能だ。
そして、豊かな表現力があり、文章を書いてもうまい。ユーモアのセンスがあって、いつも他人を笑わせている。これが、昂胤から見た夕実の印象だ。
自分から交遊を求める方ではなく、他人がよってくる。だが、夕実はハードルが高いのか、容易に友達を増やさない。
昂胤は、夕実を知れば知るほど惹かれていく自分をもてあましていた。
「所長。考えこんじゃってどうしたのですか」
夕実に声を掛けられた。
「困ったやつだ、と思っていたでしょ」
「なんでやねん」
昂胤は、関西生まれだから、たまに関西弁が出るときがある
「おっと、所長の関西弁。久しぶり!」
「バカなこと言ってないで、もっと飲め」
「所長は顔に出るのですぐにわかっちゃうんだから。嘘はつけませんね。飲めと言うなら、注いで下さい」
夕実は、空のお猪口を昂胤の目の前につきだした。夕実は少し酔っていた。昂胤は、夕実を抱きたいと、とうとつに思った。
酔っているのは自分だ。
翌日。
葵には会えなかったが、 日本にいる間に会っておきたかった者には、一応会えた。
重次郎には、昂胤が今していることを伝え、協力を依頼した。重次郎は、自分のほうでも注意しておくと言ってくれた。葵にも言っておくと。
アメリカに帰っていたアンダーソンには電話し、今までやってきたことをかいつまんで報告した。
『ダンがしようとしていることはまだわからないが、何かたくらんでいるのは間違いなさそうだな』
昂胤の報告を聴いてアンダーソンが言った。
「教官、俺はこのまま潜入を続けます」
『ああ。そうしてくれ』
「ダンの元に戻れば、連絡できなくなると思われますが」
誰にも気づかれずに外部と連絡できるようなチャンスはない。第一、山の中では電波が届かない。
『コーインの判断に任せるしかないな』
「はい、わかりました。でも、できる限り報告します」
『わかった。無理するなよ』
「それと、もうひとつ。いざというとき、ダンを阻止できるかどうか、今となってはわかりません」
『うむ。そうだな。それこそ無理は禁物だ。ダンに併せるしかない』
「はい。わかりました」
昂胤はダンの元に戻ることにした。
7.長い沈黙
韓国。
五日で戻ったのは、日本に帰国した昂胤たちだけだった。ダンは、一瞬意外そうな顔をしたが、何も言わなかった。
翌日にゴードンが戻り、七日目には全員揃った。
その翌日からまた訓練が始まった。
最後の訓練だという。
各自与えられた荷を持ち、チームごとに行動し速やかにX地点に集合せよ、とだけ言い残してダンは消えた。
昂胤のチームは、山脈の密林に来ていた。
うっそうとしており、昼でも薄暗い。
ここはX地点。来るのは二度目だ。
まだどのチームも来ていない。
「すぐかかれ」
昂胤はキャンプ地作りを命じた。
X地点まで持参するようあらかじめ準備されていた、かなり重量のある八つの特大のリュックの中身を、出発する前に昂胤は皆に確認させていた。
どのカバンの中に入っていたのも、銃器と実弾だった。他に、ノストスコープやナイフ、トランシーバーなど、必要なものが一通り入っていた。
一つのリュックには、そのほかに通信機器とパソコンとバッテリーが入っていた。
訓練と言いながらこの仕様は尋常じゃない。
しかし、とやかく言ってみても始まらない。X地点に皆が集合すれば、ダンから説明があるだろう。それまでは決して油断できない。ダンは甘い男じゃない。何を考えているのか分からないが、ダンなら中途半端なことはしない。 何が始まるにしろ体を鍛えておくことだ。
昂胤のチームは、これまで生死すれすれの訓練を積んできた。生きるための死ぬほど過酷な訓練だ。それについては昂胤には自負があった。
キャンプ地作りも訓練の一環だ。戦地でのキャンプ地作りは発見されないことが絶対条件で、周辺に何ヵ所も仕掛けをこしらえる。しかも時間をかけていられない。
「ボス。俺は何をすれば?」
セオが訊いた。
昂胤のチームでセオだけが特異な存在だった。他のメイトは傭兵出身で肉体派だが、セオはパソコンおたくで頭脳派だ。しかし、遅れながらだが訓練にはついてきている。その点を昂胤は評価していた。
「いつもと同じだ。皆を飢えさせないようにしてくれ」
基本的に食事の支度は当番制だ。だが、セオは器用だった。それにセオは、自分で工夫して作ったオリジナル香辛料を瓶詰めにし、常に身につけていた。それで味を調える。この香辛料が実に絶妙なのだ。少なくなれば、自分で採ってきた薬草に何かを加えて味を調え、その瓶詰めに補てんする。
薬草が何で何を加えているかは、絶対誰にも教えない。もともとチームで一番料理の腕がいいセオだが、そのうえこの香辛料があるため、メイトは誰もがセオの料理を食べたがる。昂胤のチームでは、最初こそ順番に料理を作っていたが、セオの料理を皆が食べたがるので、いつのまにかセオが毎回作るようになり、今ではセオの仕事になっていた。逆に、セオにキャンプ作りは任せられない。皆のじゃまになるだけだ。
「わかりましたボス。任せて下さい」
次々と仕掛けが作られていく。
必要なものはここで調達する。原生林の樹木、蔓、枯れ木、草など、あらゆるものを利用する。
落とし穴、自動打矢、バネ挟、自動投網など、何か所も仕掛ける。
さらに外周にはピアノ線。
これらが、打ち合わせもなく作られていく。
「ボス。マイトのチームが着いたようですぜ」
持ってきたパソコンを昂胤がセオに調べさせているとき、ゴードンが報せてきた。さすがにマイトのチームだ。半日遅れで追い付いた。マイトがやってきた。
「コーイン、さすがに速いな。追いつけなかったぜ」
マイトのダミ声がした。マイトは、ぼうぼうと延びた髪を無造作に垂らし、顎から頬にかけて無精ヒゲをはやしていた。
マイトの他の仲間は、キャンプ地作りを手伝っているようだ。
「いや、おまえたちこそ速くなったな」
前回のミッションでは、まる一日以上遅れていたのだ。わずかの間にここまで迫るとは、やはりマイトのチームはあなどれない。
「ボスからの伝言だぜ。十三日に合流するからここで待機するようにってよ」
きょうは九日だ。あと四日ある。
「ダンと一緒じゃなかったのか」
「ああ。最初から俺たちだけだぜ」
ダンは、どこで何をしているのだろうか。
「リュックの中味、知っているだろマイト。 俺たちこれから何するんだい?」
マイトなら知っているだろうと思った。ダンと一番付き合いが長いからだ。ダンの片腕だ。
「さあ。俺も聞いてない。ダンが来ればわかるさ」
韓国に集められた人間のほとんどが元傭兵だ。傭兵でないのは、セオと周、そして雄大だけだった。
元傭兵の仲間だけでなく、長年労苦を共にしたマイトにさえダンは何も話していないのか。それともマイトがとぼけているのか。いずれにしろ、昂胤に話すわけがない。
もしこのままダンが言うゲームに突入するとしたら、アンダーソンに連絡できるだろうか。できたとしても手遅れになる可能性が高い。事前に相談できないから昂胤が自分で判断するしかない。しかし、ゲームの内容はわからないが一緒にやってみたいという気持ちが昂胤にないでもなかった。肌がひりひりするのは久しぶりだ。この感触を楽しんでいるという自分に昂胤は気づいていた。
「コーイン、何を作らせているんだい」
「襲撃にそなえている」
「誰が俺たちを襲撃するってんだ」
「わからんが、そなえて悪いことはない」
「後から来るやつらをしとめようっていうのじゃないだろうな」
一般登山者は入ってこられないような奥地だが、あと五チーム遅れて来る。罠にかからないよう誘導しなければならない。
「ボス。数、増やしますか。どうします?」
マイトとの会話にセオが入ってきた。セオは、マイトたちの夕食を作るかどうか尋ねたのだ。昂胤は一緒に食事しようと思った。二チーム分ならセオにとっては簡単な作業のはずだ。
「おお。増やしてくれ。一緒にやろう」
「イエッサー!」
セオは親指を立ててにっこり笑って言った。
「コーイン。俺たちのことなら勝手にやるからよ」
マイトが遠慮したが、昂胤はあらためて誘った。
「マイト。セオが作ったメシを食ったことがないからそんなことが言えるんだ。一度食ってみな。二度とそんなことは言えなくなるぜ」
「ほう、そうなのかい。そんなにうまいなら、食わねえ手はねえな」
キャンプはほとんどできているようだ。
マイトたちの分まで夕食を作ってやれと昂胤に頼まれ、セオは張り切っていた。
セオは、独自のオリジナル香辛料を自分が作った料理に使う。すると、料理が絶妙の味付けになるのだ。セオの料理がおいしい由縁だ。
「みんな、来てくれ。できたぜ」
セオが呼びにきた。
「さあ、マイト。行こうぜ」
昂胤がマイトに言った。
マイトたちのチームがセオの料理を食べるのは初めてだ。
食べ始めてすぐにマイトが言った。
「おい、ぼんとにうめえなぁ」
マイトのチームメートが納得したようにうなずいた。
「コーイン、おまえが言うだけのことはあるぜ。こいつはたしかにうまい!」
マイトがまた言った。
「だろ!」
昂胤。
「この秘訣は何だ」
「そいつは皆が知りたがるが、セオは教えない」
昂胤が言った。
「ほんとかよ。おい、セオ。俺にだけこの秘訣を教えてくれよ」
マイトがセオに言った。セオが嬉しそうに笑って首をふった。
「いてえっ!」
そのときマイトチームの誰かが大声を出した。食事の手を止めて皆が声のした方を見た。マイトがジョッシュと呼んでいる男だ。
「何だ、こいつは?」
口の中に指を入れてジョッシュが何かつまみ出した。広く禿げ上がった額に静脈を透かせて女のように優しい細い眉の間に不快らしい表情を浮かべて言った。見ると、親指と人指し指で黒っぽい釘状のものを挟んでいた。
「見せてみろ」
マイトが伸ばした手のひらの上に、ジョッシュが今取り出したものを乗せた。
「これは針金じゃねえか」
それを聞いてこの場に緊張が走った。
マイトが眉をしかめた。隣で食事していたマイトのチームメートが覗きこんだ。
「ほんとだ。針金だ」
「あっぶねぇなー!」
マイトが、眉間にしわを寄せて言った。
「セオーっ! ちょっとこっちに来いっ!」
ジョッシュが怒鳴った。
「俺に何を喰わせるのだ!」
「何言ってやがる。そんなもの、入ってるはずがねえ!」
セオがやり返した。
「このやろう! 俺が入れたって言うのか!」
ジョッシュが大声を出した。
「そんなもの、入ってるはずがねえと言ってるんだ」
セオも負けていない。歯をむき出しにしてジョッシュを睨み付けた。
「こっちに来やがれ! これを見てみろ!」
ジョッシュが、目玉が飛び出しそうなほど目を見開いて言った。
「うるせえ! おまえにはもう喰わさねえ!」
セオが鼻の穴を膨らませて言った。
「なんだと、このやろう!」
ジョッシュが立ち上がってセオに向かった。
「やめろっ!」
マイトが止めたが、ジョッシュはセオに飛びかかった。まともに戦えばセオに勝ち目はない。
昂胤が二人に近づいた。ジョッシュは、セオに馬乗りになってセオを殴った。
「もういいだろう」
ジョッシュの肩に手をかけて昂胤が言った。昂胤が二人から離れたらジョッシュがくずれてセオが立ち上がった。セオは、ジョッシュがなぜ倒れたのかわかっていなかったが、ガッツポーズをして吠えたてた。
昂胤のチームメイトにはわかっていた。二人を止めるため、昂胤が出た。どうしたのかまではわからなかっただろうが、ジョッシュを眠らせたのは昂胤だと思っている。
セオが間違って針金を入れるなんてあり得ない。ジョッシュが因縁をつけたのだ。セオは偽箱以来憎まれていた。ダンの元に一人で報告に行ったのがジョッシュだった。その仕返しだろう。
「マイト。連れ出してくれ」
昂胤がマイトに言った。
「おい、連れて行け」
マイトが言って、ジョッシュが連れ出された。
「コーイン。悪かったな」
マイトが素直に謝った。
「いいさ。だがな、セオは針金なんか入れるヤツじゃないぜ」
昂胤が言った。
「ああ、そうだろうな。セオ、悪かった。許してやってくれ」
マイトが、セオにも謝った。
「もういいっすよ。そんかわり、あいつにゃ二度と食わさねえ」
「わかったよセオ。メシ、うまかったぜ。俺にはまた食わせてくれるよな」
マイトがセオの肩をぽんぽんと叩いて言った。
三日後。
最後のチームがそろうのを待っていたかのようにダンが合流した。
初めて見る男を二人連れていた。東洋人だった。
ダンは、各チームのリーダーを集めた。
「もう気づいていると思うが、訓練は終わりだ。長い間待たせたが、いよいよゲーム開始だ」
にっこり笑ってダンが言った。そして、後ろに立っている二人の男を見た。
「この二人が、ゲームのジョーカーだ。こっちがチャン・ソンヒョン、こっちがワン・ヨンスだ」
二人はダンの両脇に座った。
「最初に言っておく。ゲーム内容を聞いたらもう降りられない。降りるなら、今しかない」
ダンはここで言葉を切って、ダンスマイルで皆を見た。
誰も何も言わずダンを見つめている。今さら降りる者がいるはずもないが、ダンはじっと待っていた。
長い沈黙だった。
「誰も降りないということで確定する。もう降りることは許さん!」
ダンの表情が変わっていた。
※ここから第二章「田川昂胤探偵事務所 ウォンジャポクタン②」へと続きます。
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