可愛くて健気でちょっとだけ怖い狐さんが家にやってくる話
幼いころ、田舎の祖父の家の近くで一匹の狐に会ったことがある。
その狐は全身ずぶぬれで川岸に倒れ込んでおり、息も絶え絶えになってぐったりとしていた。
まだ僕がエキノコックスなんて寄生虫を知らなかった頃の話。
昔話を信じる程度には幼く、単純だった僕はそのキツネを助けることにした。
とは言っても、母が持たせてくれたタオルで体を包み、頑張れと声をかけるくらいだったけれど。助けるというほどでもなく、しかしそれが当時の僕にとっての精いっぱいだった。
『がんばれー、がんばれー』
『……くぅん』
段々と息が落ち着き、横たわりながら僕をじっと見つめる狐。
幼い時から現金だった僕は、大したことはしていない癖に昔話のように恩返しに来てくれるかな……なんて思ったのを覚えている。
時は夕方の日が沈むころ。
茜色に照らされた狐の金色の毛皮が眩しくて、でも耳先の茶色は落ち着いていて。まるでひまわりみたいだと僕は思った。
母が好きで家の庭で咲いていたひまわりは、当時の僕にとって世界で一番綺麗なものだった。そしてそれよりもずっとそのキツネが輝いて見えて。
『決めた! 君はひまわりだ!』
僕はそのキツネに名をつけた。
落ち着いたまなざしでこちらを見る狐をペットにしよう、とも。
……うろ覚えだけど、多分当時、都会の家の近くに住む幼馴染が当時犬を飼い始めたばかりだったから。もしかしたら羨ましく思っていたのかもしれない。
『じゃーまたね!』
『きゅーん』
帰ってお母さんに許可をもらおうと立ち上がり、別れを告げる。
狐も立ち上がり、僕に向けて一鳴きしてくれた。
またねという挨拶。きっとまた会えるという希望のこもった言葉。
しかし、それは話を聞いた母が血相を変えて僕を病院に連れて行ったので叶うことはなく――それ以来、僕は祖父の家から一人で遊びに行くのを禁止された。ついでに野生動物はどんな病気があるか分からないから触るな、という説教も。
そんな思い出。幼き日の一ページ。
今となってはそんなこともあったなと大学の飲み会の席で話す程度の話題だ。
……これはただ、それだけの話。
◆
「……」
……そう、それだけの話……だったはずなんだけどなぁ。
過去の回想を終え、現実に戻ってくる。
そして覚悟を決めて顔を上げると、目の前には一人の女性が座っていた。
僕の家、安物のガラステーブルを挟んだ先に座る彼女は、しかし普通の人間ではないのが一目で分かる外見をしている。
「……その、一つ聞きたいことがあるんだけど」
「はい、なんでしょう?」
なんでこんなことに。そう思いながら口を開く。
彼女は素直に返してくれて、どうやら会話は通じるようだと胸をなでおろした。
すぐそこ、手の届く場所で彼女の金色の髪が輝いている。その髪に周囲を彩られた顔立ちはテレビの中でしか見たことが無いくらいに整っていて。
……もし彼女が普通の人間だったら、これ以上嬉しいことはなかったのにな、と思う。
現実逃避の戯言だけど。
「……その、それ本物なの?」
「それ、とは?」
「……狐みたいな耳と尻尾」
「……はい?」
不思議そうに首を傾げる彼女に会ったのはつい先ほどのことだった。
大学の授業が終わり、家に帰ってくると彼女が扉の前に佇んでいた。
……人には無い、獣の耳と尻尾を生やした姿の少女。
驚いているうちに何故か視界が切り替わり、気が付いたら家の中だ。そして彼女が目の前に座っていた。
「……」
……正直訳が分からない。
思わず回想したり現実逃避なんてしてしまうほどに。
玄関から部屋の中までの記憶が無いことが怖くて仕方ない。
狐に化かされた気分だった。……いや、実際にそうなのか?
だって耳と尻尾は狐っぽいし……。
「で、その耳と尻尾は本物なの?」
「――はい、もちろん」
改めて問い直すと、彼女が笑顔で頷く。
もちろん、かあ。耳と尻尾は本物なのか。まあ、作りものとは思えない動きをしているし、そうだろうとは思ったけれど。
……記憶がおかしくなってなかったら、凄いコスプレで片づけることも出来るのに。
「……」
……困った。
そう思い、頭を掻く。
彼女の耳の色は、僕から見るとひまわりのように見えた。
◆
さて、冷静になって考えてみよう。彼女はいったいなぜここに来たのかを。
それによっては僕の今後が大きく変わってくることは間違いない。
まず僕が聞かなければならないことは二つ。
一つ目は彼女があのときの狐なのかということ。
二つ目は彼女がここに来た理由。
特に二つ目が大事だ。これが物語でよく見るような結婚してください、的な展開ならまだいい。しかし、もしそうでなかったら。
「……」
……あのとき、僕彼女に何したんだっけ。
記憶ではタオルで包んだだけだと思う。
……でも、子供のすることだし。
子供には無邪気に虫を殺せるような、モノを知らぬゆえの残酷さがあるわけで。
「……」
……何かとんでもないことはしてないよね?
「……その、もう一つ質問いいかな」
「はい」
……とりあえず、彼女があの狐かどうかを確かめるか。
なぜか先程から尻尾を左右に振っている彼女の目を見る。ちなみに彼女の後ろは尻尾で煽られてほこりが舞っていた。
「出身はどこ?」
祖父の家は北海道だ。
なので、別の地域なら別の狐かもしれない。
なお、なんでこんな遠回りな聞き方をするのかというと、わざわざ訪ねて来た彼女にお前誰? と聞くのはさすがに躊躇われたからだ。あとちょっと怖いし。
「出身ですか? 生まれたのは青森です」
……おや?
これは予想外だ。もしかして違うんだろうか。彼女はあのときの狐ではない?
「ですが、親戚の紹介で随分前に引っ越しまして」
あ、じゃあやっぱりあの狐かな?
「今は九州に住んでます」
なら違うか。
「そんなある日、ふと北海道の鮭が食べたくなって北海道へ向かい、そこであなたに会いました」
あの狐だった。
「やっぱりあの時の狐か……」
「はい。あなたに助けて頂いた狐です。」
彼女が嬉しそうに微笑む。
その姿は可愛いけれど、でも状況が特殊過ぎてあんまり喜べない。
「覚えていて下さったのですね……そうです、私はあなたのひまわりです」
「……僕の?」
「はい、それまでの名は捨てました」
「……」
……………………重っ。
気軽にとんでもないこと言わないで欲しい。
なんでそんなに簡単に名前を捨てたの?
子供が十秒で決めた適当な名前だよ?
「ここに来たのはあの時の恩返しをするためです。受けてくださいますか?」
「……………………まあ」
そして、図らずも二つ目の理由が分かってしまった。
困惑しつつも、一応好意的な理由だったみたいでその点は安心する。
「ありがとうございます。では早速、夕飯を作らせてもらっても?」
「……あ、じゃあお願いします」
頷くと、彼女がにっこりと笑う。
そしてゆったりとした動きで彼女が立ち上がり、キッチンへと向かうのを見送った。
……なんかいろいろ怖いけど、でも考える時間が出来たのは良いことなんじゃないだろうか。
「よいしょ……」
尻尾の辺りからずるりと大きな魚を取り出す彼女を見ながら考える。
どこから出て来たのか全く分からないけど、今はそれより考えるべきことがあった。
――結局今の僕はどういう状況にいるんだろうか。
恩返しと言って彼女は料理を作り始めたけど、これは本当にそれだけで済む話なんだろうか。
………………終わらないない気がする。
あなたのひまわりですとか言ってたし。これでご飯作って帰って行ったらそっちの方が驚くかもしれない。
「……」
そもそも彼女はどういう存在なんだろう。
狐なのは確かとして、こうして人型になってるのは……妖怪とかそっち系?
……うーん、僕はこれから一体どうなるんだろうか。
これが人間の美少女が押し掛けて来た――というのなら大喜びするんだけど。彼女、人間じゃないっぽいし、ちょっと言うことが怖いんだよな……。
知識が全然なくて困る。彼女が可愛いのがせめてもの救いか。その点に関しては素直に嬉しい。
……でも、どうしよう?
逃げ出さなくていいんだろうか。気が付いたら僕も人間辞めて狐になってたりしない?
物語なら可愛いねで済むことも、リアルではそうはいかない。
可愛い女の子に街でいきなり声を掛けられたら、変な物売りつけられないか警戒するでしょ? え? 僕だけ?
「……」
……うーん。
「はい、できましたよー」
悩んでいるうちに彼女が皿をもってこちらへ歩いてくる。
机の上に置かれたそれはとてもおいしそうだった。
……これは意外と言うべきか、それとも順当と言うべきか。
人間じゃないのに美味しそうのというのが意外で、でも妖怪なら長く生きてそうだから順当な気もする。
「さあ、召し上がれ」
「……いただきます」
口に運ぶ。
……見た目通りとても美味しかった。
◆
食後、出されたお茶を啜りながら首をひねる。
いや本当にどうすればいいか分からない。というか料理で絆され始めてる自分がいる。
こんなおいしいご飯が食べられるならこのままでいいんじゃないか、と少し考え出している自分が怖かった。男という物は美味しい料理でお腹がいっぱいになったら結構色々どうでも良くなる生き物なのである。すでにして僕は胃袋を掴まれた。
「……」
何かないか。そう思い、皿を洗ってくれている彼女に一歩近づく。
水の流れる音の中、彼女が何かつぶやくことがあれば、それを聞き逃さないように。
「……ぁ」
……おや。
なんだろう。何か言っているように聞こえる。
さらに一歩近づいて耳を澄ませた。
「やりました! よくやりましたよ、ひまわり。あの人も満足そうにしてました!」
「……」
「頑張りました……あの人に美味しいと言ってもらえるように頑張りましたもんね……」
小さな呟き。
すごく健気な言葉が聞こえてくる。手元では小さくガッツポーズなんかしちゃったりして。
……うーん、これは可愛い。
自分が喜んでることを喜んでくれるって、なんだかとても幸せなことの気がする。
「これで明日には結婚ですね」
それは流石に重い……。
直前まで顔も知らずに出会って即結婚、というのは昭和で終わったはずだ。今の時代にはそぐわないのではないだろうか。
「これで私も可愛いお嫁さんになれます」
これは可愛い。
「他の女がいないことは調べ終わってますし、きっと彼も受け入れてくれるでしょう」
とても怖い……。
「……ふう」
好感度が乱高下するあまり、どうしていいか分からず彼女から離れる。
幸せになれそうな気もするし、逃げ出した方がいい気もする。どうすれば良いのかは分からないままだ。
「……しかし」
しかし、問題は逃げ出しても大丈夫なのかということだ。
もし追いかけられたら怖いなんてもんじゃない。よく分からない力を使う相手だ。
僕を取り巻く世界観が日常物からホラーに変わりかねない危険性がある。
というか、もしかして殺されるだけならまだマシなのだろうか……。
もっと酷い目に遭う昔話とかよく見るような気もする。
「……」
……本当にどうしよう。
……
……
……
「では、もう寝る時間ですね」
彼女が言う。僕は布団の中だ。
あれよこれよのうちに、逃げ出せないまま時間は過ぎてしまった。
いや、逃げ出すかどうか決められないうちにこうなったというべきか……。
なんだかまずい気もする。
でもこちらに好意を向けてくる相手から逃げ出すというのも難しくて。
「おやすみなさい、あなた」
「……ああ、うん」
彼女は当然のように同じ布団に入って来た。
……隣から甘い匂いがするのを感じる。そして彼女の体温も。腕ががっちりつかまれている。
……ああ、これはもう駄目かも知らんね……諦めたほうがいいかも。
そう今更ながらに悟り、深い諦めと心地よさを感じながら僕は目を閉じた。
◆
そして次の日。気付いたら婚姻届に判を押していたというのはまた別のお話。