時間旅行
量子コンピュータによるワープ装置、情報を転送されて再構築された人間は別人であるのか。
そろそろ時間だ。
僕は重い腰を上げて、横にあるワープ装置を一瞥した。月の裏側に造られた、白い平面に囲まれた無機質な空間、その中心に存在する人類の夢。人体を分子レベルにまで分解して再構築することによって空間を超えることができる分子転送装置。
しかし、目の前にある夢はまだ未完成で、転送されるまでの時間に数年単位の誤差がある。人間一人が持つ情報量は膨大で、量子コンピュータの演算を以てしても数年単位の誤差が生じると予測されている。
単純な動物実験ですら二年間の時間を要したのだ、何年先に人体が再構築されるのか見当もつかない。
装置の充電完了を知らせるベルが鳴った。
パネルに計算結果が出力されている。僕の体は今から二分と五十秒後に粒子となって砕け散る。
時計の針は戻らない。僕は円柱のガラスケースに入って目を閉じた。次に目覚める時は地球の上で、マスコミの集中砲火を浴びることになるだろう。
機械が作動すると、この世の終わりと錯覚する位の激しい振動に見舞われた。脳内で鉄の塊が暴れ回るような痛みと吐き気。体の末端から感覚が強く奪われるように消えてゆく。
視界が白に染まるにつれて体が砂時計のように空間に拡散する。意識が朦朧として呼吸すらもどうでもよくなっていた。
こんな極限状態で、ふと脳裏に浮かんだのは幼少期の記憶だった。
幼稚園の先生が僕にクレヨンを持たせて大きな白紙の前に着席させる。僕は青のクレヨンを手にして直線を無作為に描いてこう言った。
「雨」
先生は困ったような表情をしていた。次の瞬間には小学生の僕が理科の実験道具をいじって目を輝かせている。
場面の回転スピードが加速し、映画フィルムのように僕の成長記録が展開されていった。
人生の膨大な記憶が、この瞬間に凝縮される。一瞬だけの時間旅行。
最後に浮かんできたのは地球に残してきた恋人の顔だった。ワープ装置の研究は安全面を考慮して月で行われるため、僕は彼女と別れることになった。空港の出発ロビーで最後のさよならを告げた。
記憶を閉じ込めた光の砂が、脳の奥からこぼれていく。
それに呼応するかのように、黒だけが増殖していく。
砂が、底に触れた。
目を開けると全身の細胞が伸びきっていないためか、乾燥するような痛みに襲われた。ガラスケースがスライドすると熱気のこもった煙が外気に触れた。
僕の立っている場所はアカデミー賞の授賞式で見るような広いホールだった。観客席には科学の権威と新聞記者、それとテレビ業界の人間が待ち構えていた。
スポットライトに照らし出され、大量のフラッシュが僕の影を幾重にも増幅させる。
「教授の姿が確認されました、実験は成功したようです」
ニュースキャスターの声が寝ぼけた頭によく響く。
会場を万雷の拍手が包み込んだ。
正面の大きなスクリーンには、現在の時刻が表示されている。
(十年経過、興味深いね)
ほどなくして彼女が姿を見せた。別れてから十年経過しているけれど、僕にとってはあの日のままだ。目線が重なる。こんな無粋な場所で、僕は彼女を抱きしめた。
彼女は言った。
「おかえりなさい」
生まれて初めて未練ができた。
SFファンならもうお分かりでしょう、ボーンズのネタです。




