第三話「蛇尾編」
須々木次郎氏の寝室にあったのは死体のようなものだった。
明確な言葉を避けたのはそれを次郎氏と信じたくない心象でも、言葉遊びでもなんでもなく。単にそれが通常の人間の死体と区分すべきかどうか迷ったからである。
次郎氏の身体、だったものは四肢を胴体と分断されて更にそのどちらも焼かれていた。十分に火が通され、表皮のほとんどは炭化してしまい、奇妙なオブジェクトと化していた。
近くにポリタンクが転がっているところをみると、次郎氏の死体は可燃性の液体で念入りに燃やされたようだ。
あまりにも遺体の損壊が酷く。狼狽した森野を含めた三人の乙女達にこれ以上陰惨な光景は見せられなかった。そのため、三人には談話室に戻ってもらうことにした。
医者の木下先生と、記者の遼樹は彼女らほど遺体に生理的嫌悪を抱くこともなかったので、そのまま現場の保存と簡単な見聞を済ますことにした。
「死後どのくらいだ」
「さあ、なんせ切断の後でかなり火が通されているからね。いくら僕が医者だからといっても所見で判断できるような状態じゃない。それに僕の専門は精神科だ」
「切断したあとに燃やしたのか。ああ、切断面も表皮と同じくらい焼けちまっているからか」
「凶器も燃やされているようだね。おそらく痕跡を消すためにしたのだろうね」
火事の現状は次郎氏の惨状で分かるとおり。この寝室だった。カーペットや壁が焦げ、机や椅子らしきものも燃えて崩れて、それらは原型にほど遠い、黒い屑になっていた。
その中には凶器として使ったらしき半月状の刃も落ちていて。柄は燃えてしまい。他の木材と区別がつかなかった。
「証拠隠蔽のためか、身元の判明を遅らせるためにしたのか。だが後者の心配はない。それは僕が保証してやろう」
「顔もめちゃくちゃになっているのに自信たっぷりだな。死体が別人である可能性は?」
「それはないね。ここを見てみろ、探偵くん。次郎氏の歯の治療痕は特に変わっていて上顎の両犬歯は金歯に差し替えてある。見間違いはしないよ」
「同じ治療痕の別人かもしれないぞ」
「それはまずないよ。第一、この屋敷は外からの防犯体制が万全だ。正面玄関から堂々と入ってくれば別だが、普段から正面の扉は森野が鍵をかけている。もし誰かが招き入れて誰かを死体にしたというなら探偵くんの想像どおりかもしれないがね。ここは人を隠すには広すぎる」
「もしくは死体を冷凍庫か冷蔵庫に隠しておいて後で燃やしたか、だ。肉の搬入は目立たないし、それなら両手両足の切断にも理由がつく」
「… …中々斬新なアイディアだね。いや、でもそれは違うみたいだよ」
木下先生が切断された次郎氏の左腕を指した。
幸い左腕は火元から離れていたらしく、指の先端までよく火は通っていない。つまり死後の状態が比較的保存されていると言えた。
「もし予め薬か何かで昏倒させて屠殺場よろしく肉を卸したとすると、抵抗のあとは残らない。だろう」
次郎氏の左手の指は何か硬いものを強く引っ掻いたように皮が磨り減り、爪がめくれて剥がれそうになっていた。爪の間には小さな木片が詰まっているため、床を傷つけてできた痕跡のようだ。床にもそれらしき跡が残っていた。
これで可能性の一つは削除された。
「しかし、ここまで計画的に燃やしているのに証拠を消しきれていないなんて、用意周到なのか馬鹿なのか。僕にはわからないね。君には同じ気持ちがわかりそうなものだけど」
遠まわしに馬鹿にされたものの。遼樹は訊かれたことに答えない主義ではないので、ご希望に添えてやった。
「燃やし残しがあるのは燃やした方法が方法だったからだと思うぞ」
「ガソリンを撒いたからとかではないのかい。いや、それでも燃やしきるには時間がかかりすぎるし、それに火災警報器が今さっき鳴ったから矛盾するな」
「そうさ。答えはあれだ」
遼樹が天井を指すと、火災警報器らしきものに、透明なシートのような物が貼られている。それは天井が黒焦げている様子とビニールが萎縮して破れているところをみると、火に熱せられて破けたらしい。
「ああいう機械は煙を探知して警報を鳴らすから、ビニールをかぶせておけば破けるまで火災を探知できない。そうすればシートに火が届くまで部屋の床はほとんど燃えてしまうし、意図的に燃焼時間を長引かせられる。ただし、これだと目的の物が完全に焼失する前に火が消えてしまうという欠陥もあったようだけどな」
「ほほう。なるほど。それにしてもよく気づいたな。あんなに小さいもの」
「伊達に『探偵くん』を任されたわけじゃないからな」
だが、それが事件解決の糸口になるわけでもない。逆にアリバイは誰にもないと証明したに過ぎず、解決の試みは更に困窮化した。
「机や椅子をかき集めたのも天井に手が届くためか。とは言っても、目的はそれだけではなかったようだがね」
そうして、もう一つ天井にある縄を見つめる。それは螺旋状に組み込まれた荒縄でちょいとやそいとじゃ、ちぎれそうもない。その耐久力もあってか、奇跡的に焼き切れることもなく。縄が吊り上げている奇妙な物体を一部が焦げただけで残していた。
「これが吊られた人形… …か」
髪はなく、両手両足もなく、死人よりも死人じみた宙空を見つめる眼差しはコバルトブルーの宝石に似た鮮やかさをしていた。
関節部には人形らしく、人体にポッカリと開いたような継ぎ目がある。それだけが唯一の人形らしさで、他は嘘くさいほどまでの綺麗な形の人間をしていた。
生気のない肌の色も相まり、吊られた人形の姿が絞首刑を受けた死刑囚の末路のように思えた。
「探偵くん。これが何の意味を指しているか分かるかい」
「警察は怨恨の線で洗っているらしいな」
「僕は違うと思っている。勝手な想像だけど、あれが犯人だ」
「それはまた突拍子のない話だな。木下先生。アンタ自分が言っている言葉の意味、分かっているのか?」
「分かっているとも。大体、探偵くんこそ知っているのかい。あれが軍事用目的で作られていることを。だったら人間の指令を受け、殺害を犯し、口止めのために自殺することだって十分に有りうる」
「機械が自殺って、本気か」
「その通りだよ。だからこそ、あの時探偵くんにそう告げた。僕はこの狂気が次郎氏の死で終わると思っていない。もしかしたらまだ続くだろうし。その犠牲は多分。探偵くんか、僕だと思う」
「大胆な推理だな。俺は今日初めてここに来ただけなのにさ」
「初めてでも経験済みでも、やることは似たようなものだよ。殺されるか、そうでないかだ。それにもしかしたら探偵くんが探偵として雇われたのも。犯人が仕組んだ罠かもしれないよ」
「否定は出来ないな」
「死がすぐ横に立っているこの状況では否定も肯定も無意味だよ。探偵くん」
「そんなの知っているさ。けどな、いい加減にその呼び方やめてくれ。耳が痒くなる」
ぐだぐだと話を続けて時間を浪費した後も、それ以上の捜査の進展はなかった。
遼樹の提案でとりあえず一度談話室に戻ることになった。女性三人には警察と連絡をとるように言っておいたので、警察に現場保存のことや発見について話しておきたい。
それに何らかの新しい情報があるかもしれないだろうし、無駄に刑事ゴッコをするよりは幾分もマシなはずだ。
木下先生は最も怪しい容疑者の傍に近づきたくはないという顔をしていたものの。警察がいつ頃到着するかを知っておきたい、という安堵を求める声が勝り。遼樹の提案に渋々承諾した。
遼樹は、というと木下先生ほど恐怖した様子はない。他人の絵空事を鵜呑みするほど記者人生が短いわけでもなかったし、それを単なる妄想と処理する冷静さがあったからだ。
ただしそれだけではない。遼樹にとってはむしろ、トバリが犯人であることを望んでいた。彼にとっては所詮この事件も興味深い出来事の一つなのだ。
なら、最高の配役と幕引きを願望とするのは観客にとって当然のことなのである。
「電話がつながらないだって」
声に抑制は付いていたが、感情の重みの分、空気に沈殿しそうな淀みのある声質だった。
「申し訳ございません。先ほど確認しましたところ、電話を含めた外に通じる全ての回線が切られているようなのです。ですから、街に連絡することはおろか。緊急事態をお知らせすることもできないようなのです」
畏まって木下先生に平謝りする森野の様子は、心配が絶えないほど弱々しそうである。
落ち着きは若干取り戻したらしく。口調はいつもどおり、相手の心を掻き乱せるくらい馬鹿正直な敬語であった。
「とにもかくにも。俺たちは陸の孤島に取り残されちまったようだな。助けを求めて狼煙でも上げてみようか?」
遼樹は他人ごとのように、SOSを指でなぞって皮肉を混ぜた。
木下先生はそんな態度の遼樹に反論した。
「まだガレージに車が残っている。燃料も街に行くだけなら足りているはずだよ。陸の孤島に残されたと言い切るには早すぎではないかい、探偵くん」
「逃げ道はあるってことか。つまらないな」
「そんなことを言うものじゃございませんよ。しかし、どうやら遼樹さんのお望みは叶っているようですけれど」
そううそぶくと、トバリは窓の外を指した。
談話室の外に見えたのは舗装されていない道と畑作にも使われていない泥沼だけのはずなのに、普段と違い別のものが混じっていた。
半分泥沼に浸かって佇んでいるそれは、木下先生が陸の孤島云々を否定する拠になっていたガレージの車のようだった。
「そんな、ガレージの中にあるはずじゃ… …」
「ガレージから沼に向かって地形が傾斜していますからね。きっと、サイドブレーキを外しただけでしょう。それだけなら私にもできますしね」
これではもう街に情報を送ることも逃げることもできない。もちろん、馬車を使って四時間以上かかる道を、車椅子を引き連れて夜通し歩いて行くつもりなら別の話だが。
そうすると、この場所は何が起きても不思議ではないミステリーサークル、巨大なミニチュアハウスで出来上がった密室になったわけだ。
木下先生は当てようの無い不満を募らせ、苛立ちを隠せても消せようがなかった。その暗い気持ちは疑心を揺れ動かすに十分な起爆剤となった。
「もしかしたら最初から分かっていたことじゃないのかい、トバリ」
「あら、木下先生ったらご冗談がお好きなようでございますね。それなら全く他人ごとの遼樹さんだって怪しいっていうのに」
遼樹は勝手に話を振られてちょっとムスっとしたような顔になった。
「彼も怪しい。が、それはこれまでの人形事件の容疑者の一人であったら、の話だよ」
「どうかしら。もしかしたらこの事件は連続事件とは関係なく、遼樹さんの模倣犯というのも筋が行くけど。例えば、次郎様に弱みを握られた遼樹さんがカッとなって刺殺した。なんていうのはよくありそうな話の一つだけど。その上で遼樹さんは今回の殺人を連続事件に偽装した。その可能性は十分にあるのでございますよ」
トバリは疑いと目配せを遼樹にさりげなく送った。それは初めて会った時の印象が残っていれば嬉しさの方が勝る仕草だった。
今は彼女の底知れないものに怯えてそんな気持ちには到底なれない。
「そんな世迷言を僕が信じるとでも思ったのかい。僕は少なくとも君の主治医ではあったわけだ。それに君の『いい人』でもあったのだよ。その人物が君の嘘に惑わされるとでも」
「ああ、そうだったかしら。記憶に薄くて忘れていたわ」
くすり、とそんなことを本気で笑ったトバリの姿に木下先生の顔は怒りの色に染まった。
木下先生とて、知った忘れたの問答で怒る気になるほど堪忍袋の緒は細くない。けれども、トバリは追い打ちするように木下先生を逆撫でする言葉を重ねた。
「思い出した。確か木下先生が受診中にも構わず私に色目を使って言い寄って来たのですよね。少し顔がいいからって、どんな美女でも落とせるって自慢したげな風に意地張って。でも男としてとてもくだらない人間で、私は落胆したのでございますよ。私の愛に応えてくれもしない。私の愛を認めることさえしてくれないなんて、失望以外の言葉を忘れてしまいますわ」
「愛だと? それを愛だというのは鬼畜映画かトチ狂った劇作くらいのものだよ。愛というのはもっと美しく清純、もしくはもっと仲睦まじく温かいものに決まっている。その感性を持たない君をどうやって愛せる?」
「木下先生、それはとてもツマラナイ言い分でございますよ。私にとってはですね。愛という定義が誰かに決められるくらいなら、気狂いのようなものになってしまっても構わないと思っているのでございます。愛というのは、それこそ神様にも汚されない聖域だと。そうは考えられません?」
艶かしく傾げた首に沿って、簾のように髪が顔を隠す。まるで神様がトバリの本性を暴くのが怖くて誰にも見せまいとしているかのように、彼女の姿は創作物の賜物だった。
戦慄しているのは空想上の神様だけではなく、木下先生も例外に洩れない。
ただ一人、そうでもない男がいた。
「さっきも聞いたが、面白い言い分だな。それは」
髪に隠れたトバリの表情が滅多にない驚きに変わった。
「最初は死刑囚と死刑執行人とか、訳の分からない話ばっかりだったけどさ。愛に定義はない、か。真理といえば真理だ。その愛というやつにも一層の信憑性が出る。事実、それを体現した数少ない人間がここにいるわけだしな」
トバリは真面目に考える遼樹とは裏腹に、小さく吹き出して笑った。
「ふふふっ… …。あらあら、乙女の身体を弄んで興奮した人の割にはよく回る舌ですこと」
「おいっ、それは。って、違う!」
良いこと言ったと胸を張る遼樹に痛烈な鳩尾のブローが入れられた。これでは遼樹の言葉の信頼性というか、根底にある人格評価そのものが揺すぶられて霞んでしまう。
特に二人の女性からそのことについて激しい叱咤が浴びせかけられる。
「うわー、遼樹さんのスケベ。池田屋友樹の弟が聞いて呆れるっていうレベル」
「りょ、遼樹様。トバリ様にそのようなひ、卑猥なことをなさってはいけません!!」
誤解といえば、そうでもないので対処に困る。否定もできないので唯一とれる沈黙という行動も遼樹のなけなしのメンツを奪い去ってしまう。
そんな和みのような雰囲気に木下先生も興というか、勢いを削がれたようだ。
「馬鹿らしい」
一言だけ告げるとさっさと談話室を離れてしまった。トバリという存在で居心地を悪いところ、更に変な空気が蔓延したので耐えられなかったのだろう。
それは良いとして。遼樹は自分の尊厳と自由と、男の見栄とちっぽけなプライドのために、男のサガだから仕方ない。とだけ弁解しておいた。
木下先生が自室に戻ったあと、各員それぞれ自分の部屋に戻ることになった。それとは別に、遼樹と森野だけ談話室に残ることにした。
犯人が誰かわからない状況で別行動するのは危険とはいえ、誰も一個人を束縛する権利はなく。これ以上事件が進展するという考えも木下先生以外の面々には持ち合わせていなかった。そのため全員が基本自由行動となった。
ただし、部屋に入ったら必ず鍵を閉めるようにと確認しあい。最低限の注意は呼びかけた。
談話室でひとり座り込んだ遼樹はこれまでに集まった情報を元に、今回の一件を整理し直してみた。
次郎氏が殺されたこの屋敷内には五人の被疑者がいる。誰にもアリバイはなく、共犯の可能性も含まれる。そして、この殺人事件が一連の連続殺害事件である人形事件に関連するか、もしくはその偽装だった。
殺害の動機は少なくとも三人明らかになっている。
一人はトバリ。アカリと共に須々木家の養子であり、須々木重工の自動人形設計士である。
動機と呼べるか怪しいが、トバリは自動人形を扱い次郎氏を殺害したと、木下先生が証言している。その本来の動機となる供述は不明なままだ。
供述者である木下先生もまた動機がある。二人の証言によれば、一度は次郎氏から莫大な遺産を譲り受ける機会に巡り会えたことがあり、かつてトバリと恋愛関係にあったそうだ。
痴情のもつれと金に対する欲望が憎しみと変わったのなら、動機だけに絞ればこの上なく怪しい人物となる。
森野の動機については遼樹の客観的分析に過ぎないものの。次郎氏に対するストレスと屋敷の全責任を任される重圧は凄まじいものであったという予測にズレはないはずだ。
それらの限界は森野が凶行に及ぶのに十分な理由となる。何かのキッカケが分かれば尚良い犯行の動機となるのだが。そこまで推理できるほどの名探偵っぷりは持ち合わせていない。
アカリに至っては謎だ。他者の評価について証言をくれる情報屋のような存在ではあれど、彼女本人の情報は少ない。アカリはある意味、トバリ以上の不思議な人物と言えなくもない。
それともアカリが自称する通り、ただの噂好きな年頃の少女なのだろうか。
特にアカリについてはもう少し情報が欲しかった。
「アカリさんとトバリさんはどちらも養子だと聞いたが、本当か?」
遼樹は直接訊くよりも効果的な方法を持ち出した。それはこの館一素直そうな人にそう尋ねることだった。
「ええ、そうでございますよ。トバリ様もアカリ様も同じ孤児院で育ったのです。あの頃は。今もそうでございますがトバリ様もアカリ様も眩しいくらいに愛くるしくて可憐なお姿でしたの。せっかくでしたら、アルバムもお取り寄せしましょうか」
話の食いつきがよろしいのは結構なことだが、話が長くなるのはごめん被りたい。
遼樹は森野の申し出にそつなく断りを入れ、簡潔な話を頼むことにした。
「そ、そうでございますか。あの、もしかしてトバリ様やアカリ様をお疑いなのでしょうか」
「形式的なものだ。気にすることはないさ」
「… …さ、左様でございますか」
嘘も方便という、特に罪悪感というものは遼樹にはなかった。それに何も疑ってかかっているのは彼女らだけではないのだ。
ざっと、森野からトバリ達姉妹のことを聞くと次のようなことがわかった。どうも森野は姉妹の相談役も兼用していたらしく、思っていたよりも詳しい事情が聞けた。
トバリとアカリは戦争により血の繋がった父を、失意とその後の子育ての疲労から産みの親である母を亡くした。孤児院で過ごした時間は人生に浅い傷跡を残す程度の長さで。早い時期に引き取り先も決まったそうだ。
それは次郎氏が未来有望な若者はいないかと院に見学しに来たのが始まりだった。
その頃からトバリに異彩があったせいか。次郎氏の目にトバリという少女の魅力が射止められた。次郎氏はすぐに院長に彼女を養子にしたいと申し出た。
二つ返事でOKしても良さそうな話ではあるが突然のこともあり、二人に説明させてくれないかと、院長は次郎氏に頼んだ。
この頃の次郎氏の会社は中小企業というには小規模、しかし生活苦になるほど経営が傾いていたわけでもなく。人の良さも地元の人から敬愛されるほどで、何より愛妻家として有名であった。
院長は二人が姉妹であることを鑑みても、きっとこの方は慈愛によって二人を引き取ってくださるだろうと考えていた。
だが、そんな甘い話はなかった。次郎氏は二人を前にしても堅くなにトバリだけにしてくれと注文を付け、アカリを拒絶した。
目からこぼれそうなほど涙を溜めているアカリを気遣ってか。トバリは躊躇なく次郎氏の前に歩み寄り、逆に彼に対して注文をつけた。
その際どんな秘密が二人の間にあったのか。アカリにも聞くことは出来なかったそうだ。
ただ森野の伝聞によれば「特別な人」という単語だけが耳に残っていたらしい。
「まだ成功する前の話だというのに、子供二人養うのは大変だったんじゃないか」
「確かにあの頃、次郎様は私も召抱えてくださって、懐に余裕があったとはとても言えません。奥様も亡くして心労があったと思いますのに、それを近くの私にも見せず気丈な方でした。その強さがあってこそ、ここまで会社を大きくできたのです。次郎様は今も昔も、本当に素晴らしい方です」
次郎氏の新たな側面を見たような気もした。けれど遼樹の興味はもっぱら他のことだった。
もしアカリがこのことを今も悩んでいて、苦悩を森野に告白したとしたらどうだろう。
幼い頃の何気ない傷は一生の人格をかたどるには十分な修正である。仮に、次郎氏に拒絶されたことやトバリと次郎氏の謎の約束によって生じた姉との疎外感が影響していたとするなら、他人の秘密を知って言いふらしたいというアカリの行動に反映されたのではないのか。
遼樹は精神の専門家ではない。これも憶測というやつだ。
「他にも、何かご用件はございますか?」
「いや、別に―――」
その時、遼樹はヒラメキというか邪悪な発想というか。ともかく素晴らしい妙案が腐った灰色の脳を電光のように駆け巡った。
それはある意味、現実的な探偵業ではありがちな思案だった。
「取材、というよりも事件の捜査のためにトバリからも話を伺いたいのだが。呼んできてもらえるか」
「ええ、いいですけれども。危険ではありませんか? もし犯人がうろついていたら。と、トバリ様も。わ、私も。ししし死、死んでしまいます」
「内線とかはないか? 外へ繋がる電話線が切られていても、中に伝わる電話線はまだ生きているかもしれないだろ」
「た、確かに。でも、それではトバリ様が危険なのではございませんか」
「なら俺が途中まで迎えに行くさ。彼女の部屋は一階だし、そんな一瞬の間で殺されるようなことがあれば、ここの全員が死んでいる。もちろん犯人を除いてだけどな」
「さ、左様でございますね」
そうすると今度は森野が一人になって危険だ。とは、遼樹が助言するはずもなかった。
森野は聞き分けが良く、すぐに受話器を取りに行って内線の番号を打った。遼樹の推察の通り内線は切られておらず、連絡が届いたらしい。森野は遼樹の顔を見て、三度頷いた。
遼樹はそれに相槌を打ち、思惑通り書斎からトバリの部屋へ向かうことにした。
トバリに話を、というのは嘘だ。詭弁だ。
話はまたいずれ聞けば良いし、聞きに行くならわざわざ呼び出さず部屋を直接訪れればいい。
アポイントを取って部屋からおびき出したのは、別の理由がある。それは意図的なすれ違いだ。
あくまでも自然な状態でトバリの部屋を覗き見てしまうという状況を、遼樹は欲しがったのだ。
トバリを車椅子の滑車の音で聞き分けてやり過ごし、目論見通り遼樹は部屋に潜入した。
できれば、このまま決定的な証拠を見つけ出してしまいたい。もちろん、まだトバリが犯人だとは決まっていないので希望的観測上の話だ。
相変わらず趣味の悪い部屋の体裁を横目に、今度はじっくりと部屋を探索することにした。
捜査の基本は不法侵入というのは推理小説の読みすぎだけではないはずだ。結局、結果が出れば過程など、どうでもいいのだ。
遼樹は改めて部屋の壁を眺めた。処刑道具を収める壁の立てかけは幾つか空きがあり、まだまだ増やす予定があるようだ。それも天井近くのものばかりで、増やすにしても配置するには人手がかかりそうだ。
もう一つ、こちらが本題だ。遼樹は部屋の隅に固められた彼女の作品である自動人形をまじまじと眺める。
複数体置かれ、どれも次郎氏の部屋の吊るされた人形のように人間から生気だけをくり抜いたような印象を受ける。
髪はカツラらしきものを生やしているものの、他は特に大差ない。
吊られた人形はここから持ち出されたものなのだろう。
それならば、トバリは主犯か共犯か。それともただ部屋の人形を盗まれた、のどちらかだけだ。
近くでそれを注視してみると、その異様さが更に映える。
だが、その人形共は何故か言いようのない既視感を遼樹に与えた。
吊るされた人形は以前にどこかで出会ったような、そんな感覚を遼樹に与えた。
ああ、分かった。この人形たちの面影が似ている人に、遼樹は既に会っているのだ。
「コソコソと、殿方が奥方の部屋を覗き見るのは失礼でございますよ」
思ったよりも早く引き返してきたな。と、遼樹は自分のタチの悪さよりも彼女の感の良さに辟易した。
「へいへい、すいませんでした。っと」
「あら、随分開き直った謝罪の言葉ですこと。そんな悪い子には電ノコを口の中に突っ込んで掻き回してあげましょうか」
壁にある手頃な大きさの電気ノコギリを触りながら、冗談めかしにトバリは言う。しかし目の奥の光が偽りで濁っていないので、どこまで本気か伺いようもない。
「それはそうと。随分と自動人形が置いてあるようだな。これなら一つや二つ持ち出されても気づきようがないな」
「他も同じようなものでございます。人形だけを隠しても仕方がないですし、隠すつもりもありません」
トバリは車椅子で近づき、そっと人形の髪に触れてやった。
物扱うというよりも、子供をあやすようなその仕草は彼女が自分の両脚をなぞった様と被さった。遼樹はそれを思い出して少々身震いした。
「人形も、その。トバリの趣味のようなものか。愛の体現とか、切断愛とかの」
遼樹の言動にトバリは拗ねた顔をした。
「違いますよ。遼樹さん。私の愛というものを理解していただけるにはまだ足りないようでございますね」
トバリの物言いが何だか別れを切り出す際の枕詞のように聞こえてくる。
内容が内容なので、遼樹の雑食な食指にも別段反応はしなかった。
「私の愛は切りたいという加虐意思と切られたいという被虐意思が合わさって初めて可能になるの。人形は、人形。いくら趣味や性癖を投写出来ようとも意思疎通ができない以上。私の恋愛の対象にはなりません」
「… …そういうものか。なら人形は別段趣味の範疇でもないのか」
「そうとも言えないのでございます」
どちらだよ。と、柄になく心の中で売れないお笑い風のツッコミを入れてしまった。
「あの人形のモデルはですね… …どうなさいました?」
「聞かないでくれ」
「あらあら。とにかく私の自動人形への愛情は人形のモデルを通して完成させているようなものでございますよ。どなたかは、遼樹さんも心当たりあるでしょう」
「―――森野か」
「御名答」
強ばった顔つき、精錬されすぎて細くなった腕付き脚付きはどれも森野を連想させる。それだけで判別できるほど、この人形たちは似すぎていた。
性質自体が人形に近い森野のことだから、モデルとなったのは至極まともな帰結といえよう。
「森野は知っているのか。このことを」
「さあ、森野に見せたら。とってもいいものですね。とだけ言われたわ」
「そうか」
「でも自分の面影を持ったそれが、人を殺したり男を慰めたり要人を暗殺したりしていると知ったら、彼女どんな顔をしてくれるかしら。いっそのこと、はっきりと教えて差し上げましょうか」
「興味深いがおすすめはしないな」
ただでさえ神経質で責務の重圧に潰れそうな森野のことだ。そんな彼女が、自分に似せた人形にひどいことをさせていると聞かされたら。それも信頼を寄せているトバリの口から告げられたとしたら、予測するまでもなくヒドイことになる。
きっと森野は修復不可能なまでに壊れてしまうはずだ。
「人形はより人らしく。人はより―――なんでしょうね。きっと素晴らしいモノに昇華するのでしょうけど、見当もつきません」
「それで、人形を森野に似させてどうしようってんだ」
「森野に似させる必要は実は微塵もないのでございます。ただ私は私の愛を投写しうるモノがこの世に少なかったので、自分で作ってみたいなと、そう思ったのですよ」
なるほど。人形が彼女の愛をぶつける完成型にはまだ遠く、それでも人形を愛の代用品にしようと画策しているから趣味や性癖の範疇外ではないのだ。
となると、そのうち完全に独立した自立型の人形でも作るつもりなのだろうか。
そんなことを話し込んでいると、部屋の片隅から目覚ましのベルのようにけたたましい音が鳴り響く。どうやらまた内線の呼び出しが来ているようだ。
遼樹は足のないトバリに代わって電話に出てやろうという優しい心を働かせた。けれどもトバリは心配ご無用とばかりに車椅子を滑らせて遼樹を追い抜いてしまった。
そしてトバリが受話器をとる。
「私です。森野? ―――ええ、ええ。では、こちらへいらしてとでも伝えて、お願い。取り乱さないで森野、どうせ戯言ですよ。それじゃあ」
トバリはカチャリと受話器を下ろした。
「木下先生が私をお呼びしているそうでございます。まもなくこちらへいらすと思いますけど、遼樹さんもご一緒にどうです?」
「レディーの頼みを断るのも野暮だし、構わないさ。しかし木下先生からの呼び出しっていうのはどういう了見だ」
木下先生が自室にこもったのはトバリが恐ろしくて逃げたようなものだ。その彼が自分からトバリを呼び寄せて会おうとしている。その行動の意図が読めない。
「どうせつまらないことでしょう。例えば、自室の扉の前に吊られた人形の片割れがあったとかの、世界を騒がす下らない冗談でございますよ」
知ったばかりの黒い嘘をつく顔がお祭り前の高揚感のように火照り、自然にニヘラとした笑いが込み上げていた。
「話がある」
罪を背負ったキリストのような神妙な顔つきで、木下先生がトバリの部屋に現れた。気のせいか、談話室で見かけた時よりもやつれ、服は着崩れしていた。
「お待ちしていましたわ。紅茶でもお淹れしましょうか。でも炊事場はないから森野に持って来させましょうか」
「来る途中に森野がぶっ倒れるだろうからやめとけ」
遼樹は場を和ませるつもりで会話の相の手を入れた。
だが木下先生への効果は芳しくなく。彼は冷たい顔のままソファーの上に座った。
「まさかさっきの冗談は本当か」
木下先生はその言葉に眉を釣り上げた。
「僕はそいつと違って大真面目だよ。自分の身が危険にさらされている中、嘘や誤魔化しをしていられるほどの図太い神経は持ち合わせていなくてね」
「それはどこだ。まさか置いたままここに来たのか」
もし吊られた人形の一部ならば物的証拠の一つだ。警察に渡す必要性はもちろん、事件解決の決め手にもなるかもしれない。
しかし、木下先生にとってそれは忌諱すべき存在でしかなかった。
「当たり前だろ! あんな気味の悪いもの、触りたくもない」
木下先生は悪寒によって震える身体を抑えるように自分自身を抱いた。
だくだくとあふれそうになる恐怖の氾濫を必死になって止めようとする、そんな小市民の姿がそこにあった。
「あれは脅迫か、犯行予告かもしれない。僕は狙われている。殺されてしまう。逃げなければいけないのかもしれない、いや逃げ場なんてないね。そうだろう。いっそのこと一番イイ手を使うべきではないかい」
遼樹には木下先生の言わんとしていることがすぐにわかった。
「ダメだ。木下先生、あなたは医者だ。それだけはしちゃいけないと、この中の誰よりも知っているはずだ」
「そうさ。僕にもそれくらいの理性はあるよ。探偵くんには初めから同行してもらうつもりでいたが、僕の考えは正解だったようだね」
「じゃあ、どうするつもりだ」
「殺される前に―――。は最終手段だよ。だが最も優先されるのは僕の命だ。僕が死んでしまっては元も子もない。犯人には誰も殺せないようにするしかない」
「… …」
明らかに全ての犯行をトバリが主犯と断言した言動だ。暴論といっても良い。木下先生は命の危機にさらされて冷静な思考を欠いている。
話の当人のトバリは微笑みを湛えたまま黙って聞いていた。
まるで仏の手の平の上で転がされているようだな。と、遼樹は空想上のその様を想像した。
「もう隠しても無駄だ、トバリ。君は自動人形を使って次郎氏を殺した。他の従業員も君が手にかけたのだろう。僕たちは君を拘束する権利があるはずだ。抵抗するようなら、実力行使に出る必要もある」
「おいおい、勝手に」
「どうした何か言ってみせろ、トバリ!」
木下先生は最初の落ち込みようとは比べものにならないくらいの興奮状態に陥っていた。熱にうなされたと言っても過言ではないくらいにこの状況で酔っていた。上戸としては手に負えないくらいの悪癖だ。
それでもトバリは修道女のような恭しい沈黙を保ったまま動かない。苛立ちを堪えきれないのか、ついに木下先生はトバリに詰め寄って彼女の襟首を掴みあげた。
その時だった。
トバリはポケットの中から前振りもなく抜き身のナイフを取り出した。それを持ったまま、腕は右から左へと払われる。
あわや木下先生の喉元を引き裂くような軌道ではあったが挑発で行われたのは間違いない。もしそうでなければ、わざわざ手首を返してナイフのサムホールを見せびらかすことも、独特な波状の鋸刃が木下先生によって避けられることもなかったはずだ。
後ろに仰け反って倒れた木下先生にはもう紳士的な振る舞いをする余裕はない。
かつての偉そうな態度は見る影もなく、恐慌を起こしてわけのわからないことを口走っていた。
「仔虫がどうにも五月蝿いようでございますね」
トバリの、まるでゴミクズをあしらうかのような発言は木下先生にトドメを刺した。残されていたわずかばかりの理性の堤防は決壊してしまい、彼を止める楔はもうどこにもない。
人間、キレてしまえば取る手段は多くない。
「殺される! 殺される!! 助けてくれえ!」
木下先生は這って逃げ、藁にも助けを求めるような風に壁へ寄りかかった。
そして、木下先生の手がトバリコレクションの一つに触れた。
さあ、終幕だ。
遼樹は結末を見届ける観客のように、彼らの一挙一動に注目することにした。
首が飛んだ。
黒く長い髪が扇のように開いて窓の光さえ遮ってしまう。
それは大きく孤を描いた後、鉛のような重い激突音を部屋に響かせた。
遼樹はその光景に息を飲んだ。
「あらあら、ひどい人たち」
しかしトバリは絶命どころか昏倒もしていなかった。
それは何の不思議なことではない。床に転がっているのはトバリの首ではないからだ。
「咄嗟にあれで守っていなかったら、お気に入りのドレスが破けてしまうところでしたわ。これにいくらと手間暇かけたかはあなたたちでは想像もできないでしょうけど」
床を転がっていた自動人形の首は勢いが殺され、止まった。固めて置かれた自動人形とは別に、頭単品だけトバリの近くにあったため上手く難を逃れたようだ。もしくは初めから計算づくの配置だったのかもしれない。
「なら今度こそ綺麗に首を撥ねてやる!」
だが危機は去ったわけではない。木下先生はもう一度をトバリの首を撥ねようと、斧を自分に引き寄せた。
トバリは焦りもなく。ただ呆れる。
「立った人間の首を切り落とすのは首切り役人でも難しいのでございますよ。あら、私は座っていましたか。それで遼樹さん」
急に名前を呼ばれたので客席に座っていたつもりの遼樹は少し狼狽えた。
「この愚か者に対してほんの少しの良心というものが遼樹さんに残っていたとしたら、事の真相を話して差し上げてもよろしいのではないでしょうか」
「… …本当に、何もかも見透かしているみたいだな」
「いいえ、私の目線から見えるのは欲深い男どもの象徴くらいのものですわ」
一人の欲を全て知れば、一人の人間の全てがわかるとどこかで聞いたような気がする。たぶんそうなのだろう。
とかく、所望された物を惜しみなく与えるのが遼樹のモットーである。
今は観客席に座っている時間ではない。そろそろ役者の一人が壇上に戻る必要があるようだ。
遼樹は事の一旦を話すことにした。
「木下先生。あなたの推理では自動人形の犯行は無理だ」
「何故わかる!」
怒りの矛先が向けられそうになっているにも関わらず、遼樹は平然と応えた。
「トバリが自動人形を操れるという前提がまず無い。ここにあるのは不完全、未完成の自動人形だけだ。―――俺の話を聞く気になってくれたか」
木下先生に恐怖という感情は以前拭えぬほど深く抉りこんでいた。だが、彼の怒りに染まった心を揺るがせる程度の効果はあった。
感情が揮発剤とすれば、心は火種だ。燻った疑念なら不燃性の癇癪に燃え移る危険性は一段と少なくなる。
それでも不安定この上ないことは変わりない。
遼樹は混乱した木下先生の頭にもよく分かるよう、できるだけ言葉を噛み砕くことに細心した。
「木下先生の言ったとおり、あれは軍用の兵器だ。だけど国だってあの代物を一人の自由にする危険性は重々承知の上だ。そして現実に権力が行使されている。あまり知られていない話だけどな」
自動人形の指揮によるクーデターやテロの可能性は国防の最重要課題とされ、常々問題視されていた。
このまま自動人形を野放しにできないと考えた国軍上層部は自動人形の起動できる人間を制御した。
それはあたかも核兵器を搭載したミサイルのように、何重ものプロセスを踏んで起動するシステムを生んだ。
トバリが言うように作り手は操り手になれない。手綱を持っているのはあくまでも軍の一部の人間なのだ。
「起動運用のプロテクに加えて国は自動人形の完成事態が危険な行為と考えた。生物化学兵器を先駆物質で止めて安全を確保するように、完成前で保管されることになった。そのために自動人形は全ての規格に軍が用意した統制チップと停止と起動状態を報せる無線を内蔵させた。つまり、この国のどこにいようと自動人形の居場所と起動は国家の管理下に置かれているってことさ」
もしトバリが自動人形を使った犯行に及んでいるとしたら、軍の無線によってそれは周知の事実のはずだ。
それが何の対策も取られず、放置されることなどあり得ない。そうなれば今回の事件が起こる前に、既に軍の手によって解決しているはずだ。
軍のアクションがないということはそのままトバリの無実と同義になるのだ。
「トバリではないのだとしたら、いったい誰が次郎氏を殺した! アカリか、それとも森野か?」
「それとも木下先生かしら」
「誰とも違う。それとトバリは黙って聞け」
トバリは円満な笑顔で引き下がった。
「まず凶器の話からしよう。これは何故犯人が延焼トリックを使ってまで部屋を燃やす必要があったのかに繋がるんだ」
「証拠隠滅では、ないのかい」
「そうだ。俺たちは何を証拠隠滅しようとするかに着目しすぎて、何故証拠隠滅しようとしていたのかを考えていなかった。不特定多数の証拠を燃やすにはもっと確実な方法があったのに、犯人はそれをしなかった。する必要がなかったわけじゃない。本当はできなかったと考えられないか?」
証拠隠滅とは、言うまでもなく誰が容疑者かを隠すために行われる。しかし、遼樹が言うように今回のようなパターンはずさん過ぎる。
これではまるで、ここに証拠があったので隠しました。とでもいうようにあからさまで、延焼トリックによって稼いだ時間を無駄にしてしまっているのだ。
「ところで火事の中心にあった凶器のことは覚えているな。あれは巨大な斧の刃。ではなく、ギロチンの刃なんだ。それもフランスで公開処刑にギロチンが使われる以前の試作段階にあった物、のはずだ。そうだな、トバリ」
「ええ、医者であったギヨタン博士が人道的な処刑道具を作る際に当初は半円月状のギロチンが作られていたのです。けれどギロチンの試作品を見たルイ十六世は、三日月状ではなく斜めの形状にすればどんな太い首でも切り落とせると的確な指摘をしたそうです。当時ギロチンの開発に携わった首切り役人のムッシュード・パリはルイ十六世を慕っていたそうだけど、効率的な斜めの刃がルイの太い首を跳ねることになるとは夢にも思わなかったでしょうね」
トバリがうっとりと見たこともない過去を想像して、水気をたっぷり含んだ唇でそう語った。
「アリバイはない。が、この凶器によって誰が次郎氏を殺せるかで区分することは可能だ。次郎氏の死後を見る限り、これは誰にもできない犯行だ」
「複数人で取り押さえればできるのではないかしら」
「いい質問だがトバリには聞いてはいない。確かに三人か二人がかりで取り押さえれば次郎氏を組み伏せることは出来るかもしれない。だけど考えてみてくれ。最大でも二人の非力な女性と一人の男性だけで、抵抗する次郎氏相手に綺麗な切断をするのは可能か?」
「探偵くんは犯人に入っていないようだね」
「仮にそうでも、状況は同じさ。ギロチンによる処刑は最低でも死刑執行人一人と屈強な執行人の助手二人が必要だ。死に直面した死刑囚は自分が騎士でもない限り大人しくはしてくれないさ。絶対に裁判所が下した法の剣から抗おうとする。失敗もするし、刑を執行する側が高い処刑台から落ちて先に逝くことだって有りうる」
「だから素人が三人や四人でかかったところで両腕と両足の四本も上手に切れないし、返り血も浴びてしまいます。証拠だって沢山残るのでございましたら、中途半端な証拠隠滅も意味をなさないのでしょう」
「じゃあ誰が次郎氏を殺した」
「それはもう分かっていることじゃないか。犯人はアリバイもなく犯行を実行する方法がある。その上で被害者は殺されるだけの覚悟があった。つまり、実行犯は一人しか考えられないんだ」
そう。自らが被害者になる可能性がありながら、事件を解決するのではなく調べてくれと言った。その無関心さは犯人が誰かもう知っているという確信の裏返しにあったのではないか。
「犯人は次郎氏本人だ。これは自殺さ」
ギロチンで自分の手足を切っていくというのはどんな気持ちだったのだろうか。止血帯やアドレナリンを用いても、最初に切った両足の時点で自殺をためらい止めてしまうこともできたはずだ。
しかし、そうはしなかった。次郎氏はそんな逃避を選択肢に入れず、出血死する前に左手の爪を床に食い込ませながら左手を切断した。状況証拠がそれを示してくれる。
最後はイモムシみたいな身体でギロチンを支え、右手だけで処刑の刃を引き上げ、自分の腕めがけて刃を落としたに違いない。それは正気の沙汰ではない。
延焼トリックも、雑な証拠隠滅も。証拠隠滅をした加害者を創造するための布石に過ぎなかったわけだ。
「俺も次郎氏の依頼に不信を抱かなければ気付けなかった。その時は、こんな壮絶な自殺をするとは思わなかったけどな」
「う、嘘だ!」
木下先生は無駄と知りながらも自分の正当性を訴えていた。
「探偵くん、君は次郎氏が自殺したというけどね。そんな理由どこにあるというのだ。次郎氏は須々木重工を立派に育てた。気を病むような人ではなかった。トバリとは違うのだよ」
「… …これは伝聞だけど、アカリは昔トバリと次郎氏が密約していた現場にいた。そこで次郎氏はトバリに『特別な人』になることを要求したそうだ。そんな次郎氏に育てられた今のトバリにとっての特別が愛だとするなら。次郎氏にとっての愛だ恋だとかは、一体何だったのだろうな」
木下先生は目を見開き、恐る恐るトバリに問いかけるように顔を合わせた。
トバリは言葉に迷うことはしなかった。
「愛とは色々ありますけどね。おそらく次郎様の愛も木下先生の固定観念に囚われた武骨な物ではなかったのでしょう」
トバリの言うことに確証はない。が、木下先生にも正確性は何一つない。
だから木下先生は遼樹の言うことに納得せざるを得なかった。
木下先生の手から手斧が零れ落ち、身体は項垂れてもう恐怖する気力もなくなってしまっていた。
あれから数時間後、警察の車両と葬儀のための車両が数台混ざって次郎氏の屋敷に到着した。
どうやら次郎氏は死の前に警察にも葬儀関連の会社に連絡をとっていたらしく。全ては円滑に、粛々と進んだ。
今回の出来事は次郎氏の掌の上で踊っていたに過ぎないようだ。今頃あの世で次郎氏はすまし顔で下界を眺めているに違いない。
「俺が事件を解き明かさなくても最初っから解決する算段踏んでやがったのか、あのクソジジイ」
「どうでしょうね。次郎様はひどく気分屋でしたから遼樹さんの行動如何で変わったのではないでしょうか」
「物は言いようじゃないか」
トバリは森野の手を借りて漆黒のドレスを纏い、沈黙こそ美しいというばかりの佇まいをしていた。だが、その本人の中身はそんな清純なものではない。
一方。遼樹は参加する義理はないため、死体のない葬儀が始まる頃には退散するつもりでいた。
木下先生だけは先に、折り返しの馬車に乗って、もうここにはいない。
「木下先生を警察につきださなくてもよかったのか。仮にも殺人未遂だろ。警察が動かないわけにはいかないぞ」
「さて何のことでしょうか。私も木下先生も単に自殺事件に遭遇しただけにございましょう」
こいつ。と、遼樹は無言で悪態をついた。
トバリにとってはもう木下先生はどうでもいい人なのだ。だから、トバリにとっては彼の刑事裁判で時間を浪費するのも馬鹿らしいのだ。
擁護するつもりはないけれど別れの慰謝料代わりに不問にしてやろうという、そんな心積りが根底にあるに違いない。
二人は屋敷の中をごった返ししている警察や葬儀の人を避けて、外に出た。
「遼樹さんはもう行ってしまわれるでしょうか。あなたには最後までいて欲しいですし、きっと次郎様もそう願われていますわ」
「ハッ。俺は誰かの都合に振り回されるのだけは御免だ。葬儀はアンタら三人で済ましちまってくれ」
「そう意地悪しないで欲しいのでございます」
トバリは前に手を組んで、聖女のように遼樹に祈りを捧げた。
遼樹は彼女の名画のような美しさの裏に悪魔の顔が隠されていることをご存知なので、とてもじゃないが騙される気にはなれなかった。
「どんなに頼まれても容疑者と同席して葬儀に出る気はないな。そのまま棺桶の中に詰め込まれちゃ洒落にも記事にもなりゃしない」
「可笑しいことをおっしゃいますね。今回は次郎様の自殺だと遼樹さんは証言しましたのに。言っていることがあべこべではございませんか」
「俺は主犯が次郎氏と言っただけだ。誰も共犯はいないと決めつけていない」
次郎氏の自殺は遼樹の論証でほぼ間違いはない。だが、それでは最も重要な側面が欠けていた。
それは動機。次郎氏が一体『誰のために』死ななければいけなかった、についてだ。
今回の自殺は遺書を残さない、誰のためでもない発作的な自殺にしては何年も計画を温めていたかのような、巧妙かつ複雑な方法なのだ。どう考えても次郎氏は自分自身を殺す手段を何ヶ月も、もっと長ければ何年も前に考案していたはずだ。
「次郎氏の自殺。両足を彼氏に切断させたトバリ。そして二人は秘密の約束をしていた。吊られた人形の四肢を木下先生の部屋の前に運んだ誰かの存在を含めて、それだけで自殺の現場にいた他の人間を疑うには十分な条件証拠だ」
「つまり遼樹さんは次郎様の自殺の瞬間、私が現場にいたとおっしゃりたいのですね」
「訊くまでもない」
動機がトバリのための切断愛とすれば、この欠けたパズルのピースも説明できるのだ。
だが警察にそれを証明するのは万人に平和の概念を説くことよりも難しい。
「普通に推理すれば次郎氏の延焼トリックとギロチンは他殺を匂わすための工作と考えられる。逆にトリックさえ見破れば他殺に見せかけた自殺に偽装できる。それにもし自殺が失敗したとしても、例えば四肢を切断する前に次郎氏が出血多量で息絶えてしまったとしても、もう一人がいればそれを完遂させることができる。いわゆる保険と云う奴さそれが例え足のない女性だとしても、残りの一・二本はそう難しくない」
遼樹は確信のようにトバリへ事実を突きつけた。
しかしトバリはどこ吹く風、高原に自慢の長い髪を棚引かせていた。
「それで。証拠は?」
当たり前だが証拠はない。あくまでも遼樹の推測だけが頼りの指摘なのだ。先ほど行ったように、これの立証は難解を通り越して不可能に近い。
警察が次郎氏の寝室を徹底的に捜査すれば一筋の光明が差し込むかもしれないが、次郎氏の寝室は完璧ではなくとも多くの証拠と共に焼けただれてしまっている。
もしもトバリの痕跡が見つかっても、事件以前に付いた痕跡なのか当日に付いたものなのか判別するのは困難を極める。そんなのは、鶏が産まれたのが先か卵が先か証明するようなものだ。
「今はない。けれどもこんなことを続けるようなら、俺が真実を誌面に晒す。このままじゃあ、それはそう遠くないだろうな」
「正義は我に在り、でございますか。ちゃんちゃら似合わない、偽善者らしい口上ですね。スクープさえ書ければ、腐れ外道の一般大衆の目に留まりさえすれば、満足なのでしょうか。まったく薄い魂胆でございますね」
トバリは頬を帆の先のように吊り上げて笑った。
「私が殺されそうになったとき、どうして私を助けようという人間らしさを見せなかったのでしょう。それは貴方が私と同じで歪んでいるからでございましょう。問うことなしに、本心さえ晒せない。そんな私好みの陰鬱な本性をあなたはお持ちでございますね」
「否定はしないさ。だけど干渉しないでくれ」
「ま、そうはいかないさ。と、彼の代わりに言っておきましょう」
「は?」
トバリが手招きをすると、警察でも葬儀の関係者でもない馬車から一人の壮年の男性がスーツケースを手に持って出てきた。
スーツケースは男性の腕と手錠によって繋がれ、何かの重要書類を運んでいることは明らかだった。
「鍵をこれに」
「かしこまりました」
壮年の男性はトバリに命じられたまま、スーツケースの二重のロックを鍵と暗証番号を使って開いた。
中には何枚かの羊皮紙が収められていた。
それが遺書であることは雰囲気と文面に書かれた次郎氏の肉筆によって察することができた。
「前半は堅苦しいので飛ばしましょう。ああ、ここでございます」
トバリが指した紙面の分には以下の事柄が書かれていた。
『尚、遺産は須々木トバリ。須々木アカリ。池田屋遼樹の三名で均等に分けること』
遼樹はかつて木下先生が遺産相続の権限を持っていたという話を思い出した。
「だから俺はアンタと離れられないとでも。馬鹿か。相続を放棄することだって俺にもできる」
「けれど須々木家の遺産を受取れる立場にいたことは変わらないですし。それは遼樹さんの知れない場所でレッテルになるやもしれません。そして、きっと次郎氏の愛は遼樹さんによって相続されるのでございます。そのための書面です」
「… …そういうことか。次郎氏」
次郎氏が遼樹を探偵に選んだのは他でもない。切断愛という歪な愛を達成するだけに満足せず、永遠に愛を伝播する方法を探していたのだ。
木下先生もその可能性を見出されたものの、値しないと判断されて席から外されてしまった。おそらく多少にせよそれに間違いはない。
「俺には関係ない」
「関係無くともいずれ混じり合う日が来ると、私も次郎様も信じているのでございますよ」
「なら勝手に妄想していろ。俺はもう帰る」
ちょうど壮年の男性が乗っていた馬車が折り返す。遼樹は長居は無用とばかりに帰りの馬車に乗り込んだ。
遼樹は揺れる席に座り込んで車窓から顔を出すと、そこにはまだトバリが車椅子にちょこんと座って待っていた。
二人の目が最後の一度だけぶつかった。
「ではまた逢う日まで、偽善者さん」
「これ以上は御免こうむるがな。サヨナラだ」
それでも両者はまた会う予感を胸に秘め、馬車は転がる。
車輪は回り。人と人の間にある歯車もまた旋律を響かせて廻り回る。
そして残った轍には血漿がぶちまけられた。
Good End.And,Forever
夢はネタの宝庫と聞くが、おそらくそれは大間違いだと思う。
もちろん、夢現のイメージによって描かれた名画や物理学会を揺るがす論文が描かれたという有名な逸話をよく聞く。ただ、それは何も夢によるものだとは言い難い。
夢は確かにイメージの海だ。だがそこから救い取られる真珠がわずかであるように、アイディアもまた一部しか採れない。採れたとしてもゴミクズであることはよくある。
話を戻すと、何が言いたいのかいと言えば。この三部作短編を書ききるのに半年も時間がかかったのは「俺のせいじゃねえ!」となけなしの説得をしたいわけだ。
元々この小説は前置きから皆さんが推測されるとおり、夢からできたものだ。
夢でのこの作品の内容は起承転結の上ではかなりひどく。しかし、夢で受けた印象というものは言うまでもなく素晴らしい、と思った。
夢から起きたての鈍い脳みそなので、その素晴らしさはメッキ程度のものに違いはないけれども。自分は後悔はしていない。
何よりも、元々は推理小説っぽいものではなく。スプラッター物の内容だった。
吊られた人形は意味不明なことをしゃべるし、トバリは最後に四肢を切断されたものの這いずり回って他の登場人物を皆殺しにするし、何よりもタイトルは思い出したくもないほどの厨二病を発症していた。
他にも度々変更しつつ、なけなしの文才と他のネタを頭から絞りだしつつ完成したのが「人形の唄」だったのです。
まあ、つまり。
夢の内容を小説にするのは難しいね。と言いたかっただけのあとがきでした。
駄文ですみません。以上、人形の唄を閉幕とします。