第二話「蛇足編」
この第二話は一話、三話とは別の時系列での話です。
もし結末はどうなるかだけが気になる方は、どうぞ第三話をご覧ください。
そして第三話を見たあとにこの第二話が気になった方は、ぜひ見に戻ってくることを切望します。
池田屋遼樹は他の記者と同じくネタ帳、取材帳のようなものを携帯している。
ただし、それは同じ会社の同僚たちさえ「猟奇帳」と呼ばれる忌み嫌われる存在だった。
趣味嗜好が他人よりも異質だから当たり前なのだと言われると聞こえが悪い。あえて反論するならば、経済成長の頭打ちによる停滞した景気が閉塞的な社会的な事情を生み、それが反映されて猟奇帳ができたのだ。遼樹はそう弁解する。
だがその言い訳はここまでとしよう。
ともかく猟奇帳というものは陰湿だ。終末思想に駆られたカルト教団の集団自殺から愛人が産んだ我が子を出産途中で絞め殺す話まで、人間に吐き気と好奇心を等しく提供する物語が古皮の背表紙をより一層黒くするかのように書き込まれている。
ある時には実際に遼樹と同行していた友樹が遭遇した事件も記されている。
人形事件最後の日を今とするならば、五年ほど前。まだ比較的に仕事の合間があった友樹は仕事を求めて出版社を転々とする遼樹を半ば強引に誘って外食に連れて行った。
景気がよくなっていたと言っても戦時中だ。洋食を食べられる珍しい外食店は、遼樹が一生かけて稼ぐお金を一日で稼いでしまうような成金ばかりが客として来ていた。
遼樹は全額おごってもらうのも気が引けたので店の支払いを割り勘にしようと持ちかけたら、一般の食事代に0が二つも多い御品書きを渡され、途端に口が開かなくなってしまった。
遼樹はとてもじゃないが注文などできるわけもなく、更にもう一桁増やすような品数が頼まれていくのを、横目で眺めていた。
前菜は黄色い豆のスープと新鮮な野菜を平らげ。魚料理は油の乗った白身魚を、ふんだんに旨み成分を含んだ特製のソースとトッピングして蒸した野菜を付け加えた絶品を味わった。
遼樹は安い立ち食い蕎麦とそれを比べて、いたく感動しながら魚料理を堪能した。
そのあと、メインディッシュがまだあるらしい。遼樹はてっきり魚料理が主菜だと思っていたので、それは喜ばしい誤算だった。
前の料理の皿とフォークやナイフがウエイターに片されると、お口直しの梨シャーベットを挟んでメインディッシュが運ばれてきた。
その時だった。
友樹がこの店に来て初めて顔をしかめた。遼樹はその微動作が気になり、持ち上げていた両手の銀のフォークとナイフを下ろした。
「嫌いなものでもあったのか。なら、俺が代わりに食ってやってもいいぜ」
「得てして嫌いなものであっても美味しそうな顔をして食べるのがマナーだよ。私はそのくらいで顔色を変えることはしないさ」
「そういやそうだ。その優しい天才が気に食わない何かっていうのは、天地がひっくり返るようなことだろうな」
「たいしたことではないさ。いや、そうであって欲しいというだけか。どうもこの職に就くと、小さなことも気になってしまう」
「そりゃいいことだろう」
「違うさ。気づかなければ誰もが幸せだってことも多い。でも―――」
「でも、なんだ?」
「私の良心以上の願いには勝てないってことさ」
友樹がフォークを持って、メインディッシュのハンバーグに隣り合った豚の腸詰を転がした。
腸詰が炒めるように半々回転させられて、ある特徴的な部分を露出させた。
「ここだ」
フォークが指し示された位置には、手術痕のような縫い合わされた跡がある。それは豚の腸詰の両先端を結びつけたような自然な部分で、洞察力を働かさなければ見つけることも叶わない微妙な変化だった。
「調理に失敗して縫い合わせただけだろ。プロの料理人だってミスくらいはするさ」
「そうだ。プロでもミスはする。でも、ミスを取り繕うだけの料理人は半人前の証拠だよ。だけど、ここは洋食店でも一流の店。客がクレームを付けるような料理を出すようなミスは私の知る限りしない」
「じゃあ、調理前にできた傷が縫い合わされていただけじゃないか」
「それもない。あったとしても病気にかかったかもしれない豚の腸詰をこの店が出すかと思うか。いや、それはない。料理の具材には細心の注意を払い。その信頼で客を惹きつけるような店だ。別のイミテーションじみた外食店なら別だろうけど、故意に行わなければこんな料理は出てこないさ」
「結局これはなんだ? ミスじゃないなら故意に俺たちに不味い物でも食わせようって奴がいるのか」
「それは極論だよ。ただこの腸詰の傷はリスクを無視するほどの理由があるのさ。私の見立てでは、これは多くの人間が口にしたくない料理である可能性がある」
「と、言うと?」
「得てしてこれは豚の腸の手術痕ではなく。人間の腸を手術した跡だということさ」
人間を使った料理というのは、発想としては大胆さを通り越して馬鹿げた妄言といえた。
しかし友樹が唱えた理屈はほっておくには重大すぎ、軽んじて無視できるような話ではなかった。
殺人というのは論証や合理性にはなく、不条理なものかもしれない。だから友樹の考えはあまりにも筋道が立ちすぎているだろう。それでも人間が自分の身を守ろうとした時に現れるのは、最も安全な方法は何かという確率の袋小路に陥る。
だから確認してみる価値は大いにあるわけだ。
探してみるとすぐに友樹の推理が正しかったことがわかった。発作的な犯行だったらしく、トリックを一つこじ開ければ回答はもう既にそこにあった。
無断で厨房を調べるのは後で考えるとどうも強引だった。だがその結果、まだ調理し終えていない豚でも牛でも鳥でも魚でもない不自然な骨格をした肉塊が発見された。
遼樹は調理人たちに友樹の推理を話し、警察を呼ぶように願い出た。
もちろん料理人たちは顔を青ざめて反対した。しまいには営業妨害で訴えると脅され、やりたくはないが池田屋友樹のネームバリューを使い、客にはこのことを公表しないという確約付きで事なきを得た。
後で考えてみれば、この条件ほど冒涜的な選択はなかったと思う。
警察が到着し、鑑識が肉塊を割いて内臓の配置や骨格を調べると。それが霊長類の物ではなくほぼ成人男性の腹部であることが判明した。
幸というよりも不幸か。警察側の迅速な対応のおかげでまだメインディッシュを手にかけている途中のお客が何人も居た。料理人たちは友樹達に推測を聞かされた時よりも真っ青になって、客たちの食事の手を必死に止める事態となった。
初めは料理人たちが何を言っているのか理解できない客たちだったが、話を飲み込んだ途端。全員が吐いた。
店は胃酸の酸っぱい臭いで満たされるほどの内容物がぶちまけられ、床はゲロで敷き詰められた。中には消化し切った溶解物まで吐き出そうと喉に手首まで突っ込んでいる客もいた。
店の中は、もし友樹が推理した直後に客の食事の手を止めていれば、もう少し店の掃除が楽になっただろうと思わずにいられないくらい悪臭がひどかった。
犯人は一連のディナーを担当したこの店一番のシェフであることが直ぐに割り出され、警察は即刻彼の身柄を確保した。
犯行の動機については支離滅裂な話を繰り返し。なんとか証拠隠滅のためだけではなく自分の料理を酷評されたため、腹いせに彼自身を調理してしまった等の自供は聞き出せた。
友樹は事件後、事情聴取のために警察署への同行を願い出られた。
けれども、友樹は事件の解決した直後に手洗い場で血を吐いて倒れてしまい。警察署ではなく病院に直行していた。だから事情聴取は受けられそうになかった。
何故吐血したのかは、あの非道徳的なメインディッシュを食べてしまったからではない。そのことには遼樹だけが気づいていた。
遼樹の知る限り、友樹が血を吐くのはストレス性の胃潰瘍が原因である。そして、あの天才にとってのストレスとは他者を傷つけることの他にはなかった。
相手が人道に反した犯人であっても友樹にとっては他者の汚点を暴くことは他者の傷害に当てはめられた。
逆に料理を吐瀉した客たちを哀れむ気持ちという感覚は友樹にはない。友樹は他者の痛みを理解する以上の知能を持ち合わせながら、痛みに対する共感性や想像力は皆無だった。
ただ他者を傷つけるという直接的な責任だけが友樹は人一倍機敏に反応した。
もし間接的に誰かを傷つけることが友樹のストレスとなるなら、兵器全般の開発に携わってはいられないだろう。
そういった理由で事情聴取は代わりに遼樹が行うことになった。
聴取が終わった後は不覚にも取材陣に軽くインタビューを受けてしまい、記事として売り込むはずだったネタは大手一般記事の一角を飾る他愛のない話に変わってしまった。
記事のタイトルには残虐な犯行を解決した天才科学者の弟という、目を引くだけの内容のない話題となっていた。事件現場にいた誰一人として遼樹や友樹に感謝の意など微塵も持つはずもないのに、歪曲して伝わってしまったらしい。
こうして陽の目を見ない事件の話は猟奇帳の片隅でひっそりと眠りについた。
残った疑問といえば、どうして友樹が吐血するほどのストレスの代償得てまでも事を公にしようとしたか、その意図だ。友樹の行動原理からすれば何もせず何も言わず、避けるという手段もあったはずだ。
観察を趣味とする遼樹は自力でこの議題に取り組むものの、解決には至らなかった。
肝心の答案用紙さえ今は忙しくて開示できない有様だ。
そうして、この疑問は安っぽいミステリーで言うところの永遠の謎ということで遼樹の胸の内に収まった。
池田屋友樹と須々木トバリの出会いはある種の必然だった。
互いに惹かれあったのではなく一方的に、トバリが友樹に対して嫉妬心を抱いて近づこうとしていた。
その機会はついに巡り、トバリは友樹の学会の発表が終わった後に会う予約を取り付けることができた。
次の予定が詰まっているため、トバリが会って友樹と話をする時間は十分足らずもない。それでもこの出会いは運命的なものだと、トバリは確信していた。
トバリは学会での発表を全て右から左に流して、無い足で小気味良いステップを刻む気分で軽やかに車輪を押した。
今日はうるさい木下先生もいないので、この十分の出来事が素晴らしい人生体験になるのだ。
トバリは人生最後で最良の日になる予感を感じながら、殺風景な通路を抜けて蠱惑色の扉を開いた。
「あなたが池田屋勇気さん、いえ友樹さんでございますか」
慌てて声のイントネーションを間違えてしまい、トバリは自分の発言を訂正した。それ以前に、あまりの興奮のためか扉へのノックという基本的な礼儀作法さえ忘れ去られていた。
トバリは些細なことだと気にはしておらず。しかしそれは多くの地位ある人間にとって不快を誘う行動だった。
「そのとおりですよ。マダム」
友樹の容姿は、落ち着いた話し方に比べて歳の頃はトバリとあまり離れていない。それに黒髪と黒縁のメガネが何故か印象的だった。知性の香りと好青年の風体がそういった幻想を抱かせているのだろう。
「自動人形に搭載できるレベルの知能集積回路小型化理論と効率的な自立型AIの理論、どちらも素晴らしい発表でした。私、感動いたしました。まさに独創的な発想でございますね」
「ありがとう。しかし、これはまだ理論の段階だ。現世紀の技術ではこれを実証するには不足分が多過ぎる。トバリさんが実際に自動人形に搭載できる日はまだまだ先の話でしょう」
「そうでしょうね。そうでございましょう」
トバリは先と打って変わって小馬鹿にしたように嗤う。
「正直言いまして友樹さんの理論は無理です。できません。それは足りない部品で機械を造れと無茶を言っているようなものでございます。私ならば既存技術の有り合わせで理想的な自動人形を造ってみせます。だから何世紀先の虚像など正直言わせてもらえばただの妄想の垂れ流しなのです。今できなければ子供のお絵かきと大差ないのですよ」
天才の前で講釈を垂れるトバリは、わざと相手の意識を怒りに駆り立てるような言葉を選んでいた。
更に言動はエスカレートし、言葉は如何に友樹の発表が無意味で無意義であるかに終始した。
どれも言い負かせぬほど正論だったものではなく、むしろ稚拙な挑発が目立った。それでも時折否定し尽くせぬ主張を述べることで、トバリは自身の言い分の正当性を際立たせていた。
「―――と、いうことで友樹さんは自動人形への愛が足りないのでございます。私は愛ならどなたにも負けません。遠目に眺めて博識ぶっている天才(笑い)など無駄なことこのうえないでしょうに」
人の心を荒立たせる言葉が出尽くされ、友樹はトバリが望む感情を引き出した。
少なくともトバリはそう予感していた。
「総てその通り。トバリさんの熱意に、私は感服してこれ以上の言葉も出ません」
そう考えていたのはどうやらトバリだけだったようだ。
「科学者なら少しは反論してみてはどうでしょうか。それとも大人ぶって許容すれば万事解決されるとでも考えている低能なのでございますか」
「そうだ。私には何の反論の余地もない。君が望むなら望む分だけ口を閉じていよう」
「… …本気でございますか」
トバリは呆れた。会話だけではなく、会話から読み取れた事実があまりにもくだらなくて。トバリは落胆した。
この男はアイデンティティーが全く希薄なのである。目的がなく、イデオロギーもない。今でさえ反発もなく、差し障りのないように受け流すことだけを考えている。
舵取りどころか舵のない大船が天才と呼ばれる理由は、きっとその宝船に積まれた黄金色の貨物にしか存在しないのだ。
「だったら私を不快にした責任も取ってくれるのでしょうか」
「不快か、それは謝らせてくれ。悪かった何でも代わりはする」
「いいえ謝罪など結構でございます」
トバリはテーブルの上に、送り届けられたフルーツの盛り合わせを見つけた。より詳しく言えば、盛り合わせに添えてあったフルーツナイフがトバリの目に留まった。
トバリは慣れた手つきでナイフを捌き、指に刃を這わせ、ナイフの柄でくるりくるりと大きく楕円形を描いた。
「もしも私に誠意を見せてくださるのならどうかこれで私の身体を切り落としてみせてください。友樹さんは私のために何でもしてくださるのでしょう」
ナイフの刃にトバリの手を添えて、凶器が友樹に手渡された。
友樹はさすがに戸惑いを隠せず、受け取ることを躊躇していたようだった。
だが拒否権は与えられなかった。
遼樹はナイフを手に取った。
同意の上で殺傷を行う。とはいえど、それは良くても自殺幇助や自傷幇助だ。
その罪でさえ根拠となる発言を立証できなければそのまま殺人未遂、殺人、傷害、傷害致死の罪名へと繰り上げられる。
どの道、監獄送りなのは変わりない。
それはどう計算しても、リスクがあってメリットのない行為だった。
「いいでしょう」
友樹はそれを知ってか、知らずか。あっさりと申し出を受け取った。
友樹はトバリの額にキスをするくらいに顔を近づけ。ナイフは筆と紙しか持ったことのないような細い手で器用に扱われた。
「これで勘弁してください」
トバリの膝の上に、死んだ虫けらのように一束の髪が音もなく落ちた。
どこを確認しても髪以外は切られていない。トバリは無傷だった。ただ単にその場で美容師の真似事が行われたに過ぎず。トバリは少なからず不感を得た。
「何の冗談を―――」
そうトバリが言いかけて、中途半端な指摘は飛沫のような音に遮られてしまった。
音の正体は友樹の口から吹き出した血の噴霧だった。
血煙はトバリとは逆方向の明後日の方角に流れるも、トバリを面食らわせるには十分過ぎるインパクトだった。
自分が傷つけられるはずが不利益を避けた向こうの方が血を出してうずくまっているのだ。驚くのも無理はない。
「ごふっ、べっ」
半固形の血を床に吐く友樹の姿は、仕込みでも演技でもない。苦痛に身悶えした身体は中々起き上がろうとしない。
地面に溜まった赤い色は鉄臭く、舐めれば舌にこびりつくような粘度をしていた。
トバリは呆気にとられて何も言えず、しょうがないので友樹の苦しそうな背中を撫でてやった。
「ふう。すみません。どうも私は理髪師向きではないようだ。人の髪数本を切るのでさえこの有様だ。到底他の仕事もできそうにないな」
「友樹さんは勝手です。私が欲しかったのはそんな反応ではないのでございますよ」
「本当に、謝るよ。君の言うこと一つ聞いてやれなくてすまない」
「だから謝る必要はないと言っているでしょうに」
トバリは友樹の姿につい苦笑してしまう。天才と呼ばれた男の姿はそこにはなく。目の前で苦情受付係のように縮こまっている姿がなんとも奇怪で、風刺画のように笑えてくるのだ。
ここまでのへりくだり様はトバリの知っている中でも例を見なかった。
「あなたはとんだ天才で、とんだ小心者で、とんだ面白い人でございますね。そんなあなたが何故生きているのでございますか、何故一人で孤独で誰にも迷惑をかけずに死のうとは思わないのでございましょうか。私はそれが不思議で仕方がございません」
「それは、私が死ぬにはもう遅すぎただけだよ。今私が死んでしまえばこの国に住む国民全てが私の責任で不利益を被る。そんな私の胃を捩じ切ってしまうような出来事も。そんな死後の私など考えたくはない。私は私のために、私が苦痛を感じずにいられるには死さえも選択肢にはならないのだよ。だから死ねないし、死なない」
「想像を絶する利己心でございますね。自分の汚れた部分を直視しながら、よくもまぁそこまでぬけぬけとおっしゃるもので」
「実は全て自覚しているわけじゃない。これはある人物からの受け売りだ。教養や知識を抜きにすれば、彼はあるいは最良の観察者なのかもしれないよ」
「なるほど。その人もまた面白い方ですね。名はなんと」
「教えてもいいが、この一件を許してももらう代わりにしてもいいか」
「ええ。謝罪のプレゼントにしては些か小さな包み紙のような気もしますけど、貰い物は小さいものに限ります。いいでしょう。あなたの矮小な欲望のために許してあげます」
本当はもう少し話す時間もあったけれど、会話の切れ目が良いので二人はそのまま別れることにした。
たぶん。これから先も友樹と会う時間は相変わらず少ないだろう。再会の機会もいつになるかは分からない。
トバリは単純な他者への好奇心からそれを残念に思った。
そして次に会えるのは。
追記
これらの物語は蛇足である。
両脚など彼女にとっては必要のない付属品であり、付いている意味は皆無なのである。