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第一話「蛇頭編」

 そこには奇妙な形をした屋敷が一件だけ建っていた。

 内装は中世の貴族を思わす豪華な木の外壁に加えて一流の家具が揃えてある。しかしそれだけの様式美を備えた部屋も調和がなくなれば意味はない。

 例え小さな染みになる程度のインクが数滴こぼれただけでも不純のない白い生地に混沌をもたらす。

 それは趣味とインテリアが混ざり合い。美の不協和音を奏でるのに等しい。

 剣が、ギロチンが、斧が、ナイフが装飾品のように気取っている。

 比喩でもなく事実、処刑道具の類がそれぞれ壁へ固定されて飾られているのだ。

 部屋には三人の人間がいた。一人は変哲もない平凡な青年だった。

 もう一人も男なのだがこちらは三枚目の整った顔であることを除いて身体的に目立つところもない。ただし、両手には小ぶりの斧が握られ、その顔は蒼白であった。

 斧を持った男は落ち着きもなく、ぶつくさと独り言を喋り、精神的に追い詰められた状態であることは明らかだった。

 斧を持った男は目の前にいる女性に対して酷く怯えていた。

 その女性は高い塔に住む黒い魔女のような異彩を放ち、何よりも男共を惑わせる美貌があった。

 女性に対して何故、斧を持った男が恐怖するのか。後光が千里先まで届くような色白の肌に目がくらんでしまったから、などという理由ではない。

 女性は手に持ったナイフを幾つか試しぶりをしてから、斧を持った男性を招き入れるかのように誘った。

 斧を持った男は恐怖からまともに思考できていないらしく、あからさまな挑発に乗って女性に襲いかかった。

 もう一人の平凡な男は何もしない。女性は平凡な男に、斧を持った男を静止するのを手伝って欲しそうに目で懇願するものの。平凡な男は応じない。

 斧とナイフ、男と女の肉体差ではオークと生贄の美女ほどの力の差がある。

 二つの鉄と鉄が擦れ合うような斬り結びは一度きり、そのあとは必然的にどちらかの死を決定づけた。

 細いナイフが幼鳥のように飛び、そのまま地に落ちる。

 その隙に鈍い光が猛獣の牙となって無垢な女性に襲いかかった。

 女性は嗤う。自分の思い通りに動いてくれるカワイイカワイイお人形さんに、よくできましたねと褒めるつもりで蔑みと賞賛を送った。

「いささか役不足を感じ得ないでございますが、いいとしましょう」

 女性はふっと一息をついた。

 そして、首が飛んだ。


 池田屋遼樹は記者である。観察だけが趣味の、社会一般で言うところの変人である。

 記者といっても書いた記事は三流のゴシップ雑誌に載せられ。しかも新聞記事の死亡者一欄にも負ける狭い枠でしか仕事を任せて貰えない、うだつの上がらない男だ。

 たまに雑誌を贔屓する金持ちの道楽に付き合わされ、数ページの特集を載せるくらいはする。だがそんな仕事に限ってやれることは金持ち達にゴマをするだけの内容を書くくらいのものだ。記者魂も糞もありゃしない。

 そんな遼樹の唯一の特徴は血の繋がった兄に日本帝国の英雄である池田屋友樹を持つことだった。

 遼樹と歳を十ほど離れた友樹は科学者だった。物理学、生物学、工学全般と広く扱い。どれも天才的な才覚を有していた。

 核兵器を作れと御上に命令されれば、二十年掛かるとことを一年で済まし。慢性的な資源不足を解決しろと言われれば、植民地から資源を運搬するための合理的な船団構成やどの国にも劣らない最新の艦船を提供した。

 そして最強の戦艦を、最強の戦車を、最強の戦闘機を、最強の兵器を。友樹は御国の欲望に忠実に応え、そのどれもが期待以上だった。

 日本帝国人民が「今この国の最も偉大な英雄は誰か」と訊かれれば間違いなく彼のことを指すだろう。

 兄に比べてこの弟はどうして。と誰もが考えるが、遼樹自身はさほどこの状況に劣等感を抱いていない。

 逆転の発想で言えば遼樹にとって友樹は最も興味深い観察対象であり、見ていて一番面白い人物なのである。

 観察、それが遼樹にとっての全てあり他には何もなかった。

 徹底的な人間観察は遼樹から何かを成すという気持ちを奪い。傍観という快楽に執着させた。

 したがって、友樹の存在が一人の怠惰な夢想家を生み出したと言っても過言ではない。

 遼樹はその結果を真摯に受け止めた上で、俺は兄貴から悪い部分を全て吸い尽くした残りカスだ。と皮肉る余裕はあるらしい。

 そうして自主性から逃げて客観性だけを求めた遼樹は望みが講じてか。記者という、趣味がこうじた職を得られている。

 けれども記者という仕事も前途多難である。

 つい最近も道楽富豪の主義思想のために動物愛護などという戦時中に似つかわしくない記事を書かされ。兵隊さんが鉄砲玉で倒れるこのご時世に家畜共の心配などとは何だ。と不平をこぼしつつも七ページの特集で期日までに間に合わせた。

 これがまさか。新たなチャンスを生み出すとは遼樹自身も思いもよらなかった。

 動物愛護の特集を組んだ雑誌が販売されてからしばらくして、ある大物から編集部を介し、ぜひ屋敷へ招待するという旨の電話が鳴った。

 その人物とは軍需産業自動人形部門の大手、須々木次郎氏だった。

 彼は身内に自動人形の権威とまで呼ばれる設計者がおり、その優位を最大に生かして中小企業だった会社を一大軍事会社にまで成し得た成功者だった。

 スクープやスキャンダルに飢えていた編集部にとってこの機会を見逃す手はない。すぐさま遼樹には無期限の取材を言い渡された。記事にするネタが拾えるまで帰ってくるな。との厳命を編集長から直々に受け、遼樹は追い出されるようにして送り出された。

 あれやこれやと自分を蚊帳の外に話が進み、気づけば遼樹は次郎氏の屋敷に向かう馬車の中で優雅に揺れていた。

「あなたが池田屋猟奇さん、いえ遼樹さんでございますか」

 同じ馬車に搭乗していた美の冴え渡る二人の女性の内、姉妹で言えば姉と呼べる方が、上級階層の余裕を漂わせながら話しかけてきた。

 それは馬車に乗って挨拶をしたまま、初対面の気恥しさから抜け出した、最初の会話だった。

「ああ、記者の遼樹だ。どこかで会ったかな」

「いえ、あなたではなくあなたのお兄さんとお知り合いでございまして」

 予想通りの応えだったので、ちっとも面白くなかったが仕方ない。池田屋で思いつく名前といえば天才的な兄の友樹と馬鹿な弟の遼樹くらいのものだ。新聞の風刺として名前が乗るくらいなのだから、知られていても不思議ではない。

「お兄さんとは短い付き合いでございましたが、あなたの話は彼からよく聞いているのでございますよ」

「兄貴とどう知り合いかなんて俺には興味ないけどな。兄貴に口添えして貰いたかったら別な人間に頼んでくれ」

 遼樹はこの時点でもう既に嫌気がさしていた。どこに行っても友樹の名前を出して近づいてくる輩は大方同業者か、玉の輿を狙っている女か、セコイ政治関係者か、何かしらのビジネス関連の人間である。

 そして、そんな欲の皮が張った人間と関わると大概ロクな事がない。嫌がらせやしつこい付きまといならまだマシで。逆恨みを買った数はもう覚えきれない。

 だから彼女もそうなのだと、遼樹は決めつけた。

「お兄さんは。あなたのことを知的好奇心の盛んな最良の観察者だって言っていたのでございますよ」

「… …」

 ここで友樹の知り合いなどという大嘘の見栄を張った奴なら。近況を気にしている。とか、遼樹をやたらと持ち上げてくる根拠不明の口上が出てくる。だが、自分を率直に捉えた好意的な物言いは友樹自身の言葉以来だった。

 最近は発明や論文や学会の出席や高名な政治家とのパーティーで忙しいと聞く。二人でゆっくりと話したのはいつのことであったろうか。最後に故郷で顔を合わせたのは、どれほど昔のことだったろうか。

 遼樹はふと、そんな物思いに一時ほどの懐かしさを感じた。

「遼樹さんってあの天才科学者の友樹さんの弟?」

 やたら遼樹にとって聞き慣れた反応をしたのはお姉さんの横に座っていた妹の方だった。

「私はね、アカリ。噂好きの普通の乙女だよ。そんでね。こっちは私のお姉ちゃん」

「トバリと申します」

 元気な自己紹介と丁寧な自己紹介、見た目と雰囲気のとおり彼女らは姉妹であるそうだ。

 互いの名前がわかれば自然と会話も弾み。三人は打ち解け合った。

 美女との談笑は歳盛りの男である遼樹にとって楽しいものであり。ついつい会話が進み、時間を忘れさせてくれた。

 時計が正確なら馬車に揺られて四時間。途中で休憩と食事を挟んでいることを差し引いても、かなり人気のない場所に連れて来られたのがわかった。

 そうすると、彼女たちは須々木家縁の者なのだろうかと気にはなった。だが姉妹のどちらも上手く遼樹の質問を躱す。二人はどうにも中々自分のことを話さない曲者であるようだ。

 ついに屋敷の前に着くまで名前以外の何一つ知ることはできなかった。

「お着きになりましたでございますよ」

 トバリがそう言うと、馬車が止まる。

 外に出ると、異様な姿の屋敷が遼樹の目の前に姿を現した。

 玄関を有する扉は中世を思わす出で立ちにあるにも関わらず、なんとその屋根は藁葺き造りという暴挙である。右や左に視線を移すと壁はなんと真っ白の漆喰、なのに窓は付いていてそれも全てステンドグラス、美術センスを疑いたくなる。

「中も凄いよ。次郎の趣味で書院造だったり、石造りの中世の城の内装にしたり、まともな建築家が見たら卒倒ものだよ」

 遼樹はその言葉を聞きながら、軽くつられ笑いをするしかなかった。

 話によると本来は会社の持ち物であるらしく、会社の経営が良くなるたびに増改築を繰り返し。改築を請け負う建築家は次郎氏の気まぐれで毎回違う相手を呼んだからこうなったそうだ。

 まさしく、大した富豪の道楽である。

「アカリ。ちょっと手伝って」

 トバリがアカリを呼ぶ。何か運ぶ荷物でもあったらしい。せっかくなので運ぶのを手伝ってやろうという優しさを下心の上に被せ、遼樹は馬車に戻った。

 そこで見たのはトバリの意外な姿だった。

「トバリさん。それ―――」

「ああ、遼樹さんも宜しければ手を貸してもらえないでしょうか。アカリと運転手さんだけではどうも心もとなくて、いつもなら木下先生が抱きかかえて車椅子に乗せてくれるのですが」

 馬車から降りようとしているのは両脚のないトバリだった。長いスカートに隠れていたため馬車に乗っている時には気づけなかったのだ。いや、決して顔に見惚れて全体像を失っていたわけではない。

そういえば休憩中も食事の時も同じ場所に座って動かなかったのはそのためだったのか。

 しかし、それを差し引いても彼女の両脚のない姿は異様に見えた。身体障害者を扱った記事を手がけたこともある手前、何故そんな社会性の低い念頭が起きたのか、遼樹にとっても不思議だった。

 記者の魂というより遼樹の本質がトバリを注視するという行動をとらせた。

「どうかしたのでございますか」

 そうだ。切断面は普通、切られた部分の肉の盛り上がりがあるはずなのに、それが一切ない。斬られた肉の形をあえて残すように、外科的な施術が行われている。まるで切断部位を一つの完成形として捉えているかのようである。それは死化粧のように、蝋人形のように、その一瞬の出来事を保存している。

 通常、そんな価値観を保有すること自体ありえなかった。

 取材の一環で、身体障害者の人たちに手足を失った体験を聞いたことがある。その時は失った後に得た経験は貴重だったと話す人はいても、失った瞬間を嬉しそうに話す者は誰一人としていなかった。

 逆に、おぞましい記憶のように話たがらない人は何人もいた。

 彼女ならおそらくその逆の反応をするだろう。

 遼樹は背徳的な恐れを覚えながらも、知識欲という誘惑には勝てなかった。

「トバリさん。失礼だと思いますが、それは」

「両脚が気になるのでございますか。これは六年も昔のことですけど。私の大切な人に斬ってもらったものなのですよ」

 トバリの顔は聞かれたことに喜びを隠せないといった様子だった。それは恋人との馴れ初めや、初体験を恥ずかしそうに話す、恋する乙女の素顔に似ていた。

「両脚ともね。斬ってもらったのですよ。あの時の彼の気持ちはすごく嬉しかったわ。彼の愛がこの斬り口を通してひしひしと感じるのでございます。私と彼の。私たちだけのモノをくれたの」

 そして、更に告白が成功したことを報告するような喜び様で言った。

「彼も、私のために自分の両脚を切ってくれたわ。これは彼とのお揃い。だから私は、これをずっと大切にしているの」

 そうして切断面を撫でるトバリの手は、腹を痛めた我が子を愛おしむような優しい仕草だった。

 遼樹は二人の愛の結晶で出来たそれを見て、ホラー映画を楽しむかのような高揚から震えた。あるいは震えの原因は人間としての観念から起きた純粋な恐怖だったのかもしれない。


「おかえりなさいませ。トバリお嬢様、アカリお嬢様。それに遼樹様」

 洋式造りの扉をあけると、そこには日本旅館の玄関と洋館でありがちな大きな階段を超化学反応させたような景色が広がっていた。

 出迎えてくれたのは、割烹着と白いエプロンを纏った三十路過ぎの女性である。

 彼女は遼樹達一同に恭しく礼をした。その姿はどこかぎこちなく、操り糸のマリオネットがご主人様にお辞儀を強制されている様を連想させた。

「森野さんただいま」

「お疲れ様、森野。次郎様も木下先生もお変わりないでございましょうか」

「はい、二人とも、相変わらずお元気でございます。ささ、長旅でおつかれでしょうし、少し休んではどうですか」

「二人はそうするといい。だが俺はいい。すぐにでも次郎氏と話ができる都合をつけてくれないか」

「次郎様はご自分の書斎でお待ちです。すぐに呼びにいきますので… …ああどうしましょう。お客様にも、アカリお嬢様とトバリお嬢様にも御飲み物をお出ししなければいけないのに、どちらも先にすることができません。どちらかしか優先できないとはなんと、お仕えするものとしてなんと許しがたき選択を。こうなっては私が二人、いえ私が二つ分に引き裂かれてしまうしかありません!」

 さっきまで落ち着いた応対をしていたのに、なんだか森野の様子がおかしい。機械が自分の許容限界の命令をされて動作不良に陥ったような姿だった。

 そこに、トバリが助け舟を出す。

「待っている間私がお客様をもてなしますから。いいのですよ。それに私、何故だか今日は誰かをもてなしたい気分なのですよ。だからすぐにでもお茶を出したいの。代わりに森野は次郎様にお客様のことをお伝えになって」

「すみませんトバリお嬢様。本当に、なんといったらいいのか」

 森野が次郎氏を呼びに二階に向かうのだが、何度も何度も振り返り、遠慮しがちに遠ざかっていく。そのため、行きの時間だけでも非常に長い。視線が届かなくなるまで謝罪は続き、キッカリ五分と五秒もかかった。

 そんな姿をずっと眺めていたトバリはゆるりと口元に手をあて、上品な含み笑いをした。

「森野はどうにも忙しないところがありまして、ああいった頼りないところもあるのでございます。ですが、この屋敷をただ一人で管理しているようなものですから、致し方のないことですけれどね」

 こんな広くて複雑な屋敷のお手伝いが一人しかいないというのは変わった話だ。次郎氏はもしかしたら人嫌いなのかもしれない。もしくは偏屈なのか、性根の悪さが起因しているはずだ。

「どうかしら。ともかく森野は、自分は次郎様に頼られているからですよ。と私たちに申しておりますよ。たぶん、本人も実のところは知らないのでしょうけど」

 遼樹のこれまでの経験によれば、それはストレスによる妄想だ。と診断されたが伝えて得もしない。だから、気づいていないことにした。

 トバリに案内され、屋敷の談話室と呼ばれる場所に連れて来られた。通りがかった部屋を覗いたとき、障子張りの部屋や囲炉裏のある部屋を見かけたため、本当にここが談話室と呼べる物なのか正確には分からない。

 遼樹は紅茶をトバリに勧められたが、これを断った。これから次郎氏に会うとすれば尿意の感じるような飲み物は摂取したくはない。仮に後で喉が渇いても、次郎氏との面会で何か飲み物を出されるかもしれない。そうするとやはり今は飲まなくても困らない。

 出された紅茶はもちろん遼樹の分を除いた二人分出てきた。

 二人が紅茶のカップを手にした代わりに、遼樹は自分の取材帳をひらいた。

「突然で申し訳ないが、二人の次郎氏との関係を訊いてもいいかな。森野さんがあの調子じゃまだ時間がかかるかもしれないし。戻ってくるまででいいからさ」

 意外だったのだろうか。トバリはキョトンと、アカリは面白そうに笑った。

「そういえば遼樹さんって記者だったっけ」

「それはよろしいですが、必要はないと思いますけども」

「いや。だって俺が呼ばれたということは、次郎氏は俺に何かの記事をかかせるつもりだろ。だったら身辺調査も必要だし、俺も協力がなきゃ良い記事は書けない」

「遼樹さん。何か根本的に勘違いされているようでごさいますね」

「何をだ?」

「次郎様は記事を書かせるために遼樹さんをお呼びになったわけではないのですよ」

 遼樹は困惑した。それなら何故、自分のような記者としての価値以外に使いようのない人間を屋敷に招いたのか。その魂胆がわからない。

 遼樹はなんだか自分が致命的な問題を起こしたような気がした。

「そいつが人形事件を受け持ってくれる探偵くんかい」

 遼樹とは別の男性の声がトバリとアカリの後ろから聞こえた。

 長身の、三枚目くらいの顔をした男性がアカリの座っていたソファーに寄りかかっていた。

「どれだけ次郎氏からたかるつもりか知らないけれど。犯人さえどうにかしてもらえれば結構だよ。だからさっきみたいな興味本位な探りはやめてくれたまえ」

 上から目線が気に食わない。地位やお金だけが男を着飾らしているような、そんな薄い印象しか男から感じられなかった。

「トバリ、私にも何か飲み物を出してくれないか」

「ええ、分かりました。木下先生」

 召使でもないトバリに気安く命令するところを見ると、トバリの知り合いなのだろう。

 トバリはそんな木下先生のぞんざいな態度に気を悪くした様子もなく、軽く頷くと黙って台所に向かった。

 車椅子が最新の電動駆動付きであることを差し引いても、片手で飲み物を運ぶのは一苦労のはずだ。木下先生はそんな彼女を気遣う様子もない。

 木下先生はトバリが部屋を出ていくのを確認してから、急に遼樹の元へ近づいた。

 耳に囁くように顔を寄せたので、遼樹は身を引かざるを得なかった。

 ただし、何を囁いたかは聞こえた。

「殺人犯は間違いなくトバリだ。自動人形を自由に扱えるのは奴だけだ。証拠を探してくれ」

 人形事件。殺人犯。証拠。まさかと思うが、自分が呼ばれたのは―――そういうことなのか。

 合点はしたものの、遼樹は自分の背が凍るのを感じた。自分には場違いな。恐ろしいことに巻き込まれたことに気づき、帰り道を失ったお菓子の家の子供たちのような空恐ろしさを感じた。

 何にせよ、これは荷が重い。

 そこに森野が現れた。

「遼樹様。次郎様の準備が出来たのでお越しください。案内は、私がいたします」

「ああ、すぐにお願いする」

 断るにしろ。請け負うにしろ。次郎氏に会わなくては承諾も得られない。それに事件の実態も知らなくてはならない。面会は早々に済ますべき急務だ。

 事件解決など興味はないが、事件については大いに注目してやろう。遼樹にとってそれだけが生甲斐なのだから、観察者は見聞に徹することにした。


「よう来たな、若いの。ま、座れ座れ」

 次郎氏の書斎は同じ屋敷の談話室くらい広く、洒落っ気めいた甲冑に古い机や椅子などのイミテーションも充実していた。

 おそらく談話室よりも豪華なソファーに腰掛けて、遼樹は次郎氏と初めて対面した。

「お招きありがとうございます。×××からお招きいただいた池田屋遼樹です」

「堅苦しい挨拶も、敬語もなしだ。ま、気楽にいつも通りにしてくれ」

 どことなく気さくな感じのする次郎氏は、場の空気を調節してくれる上司といった感じだ。話しやすく、それでいて尊厳を損なわないような、そんな風だった。

 遼樹が次郎氏に名刺を手渡し、「ま、分かっとるよ」と代わりに自分の名刺を渡してくれた。

「ま、何かあったら私の紹介とでも言って使うが良いさ。そのくらいの旨みがあってもバチは当たらんさ」

「ありがとうございます。それで、本題の方ですが」

 抜けきらない敬語に次郎氏は少し不機嫌な顔をしたようだが、目上に対する態度が板についてしまっている以上、直しようはなかった。

「君を呼んだ訳か。ま、他の連中やトバリにも聞いているだろうが、ちょっとした治安上の問題があるのだよ」

「問題。と言いますと、事件か何かですか」

「ま、殺人事件だよ。それも四件の」

 次郎氏が言うには、ここのところ須々木重工関連の技術者や幹部を標的とした連続殺人事件が起こっているようだ。どれも手口は異なるのだが、一様に共通した現場証拠が残されているらしい。

 それは首を吊った四肢のない自動人形だ。

 ある時など、死体も首を吊った自動人形と同じく四肢を切り取られて放置されていたのだとか。

「四肢を切った自動人形が意図するメッセージ、正体の分からぬ犯人と謎は未だに多く残っているのだ。そこで私が目をつけた君、遼樹君にはこの謎を調査して欲しい」

 冗談じゃない。予想はしていたが、そんな探偵業を記者に依頼されても、灰色の脳細胞など持ち合わせている天才じゃない。謎など解けるはずもない。

 ましてや、無理に調査を請け負っても何一つ収穫なしでは次郎氏からどんな処罰を受けるかわかったものではない。

 軍事や政治にも大きな影響力をもった須々木重工の社長を怒らしたのであっては社会的死や自殺に見せかけて殺されることだってありうる。事件自体も公にされるどころか噂の根も葉もないということは、次郎氏が警察に口止めさせるくらいの気の入りようだ。そう考えても大げさではない。

 ここは断っておくに限る。

「申し訳ありませんが、探偵でもない自分に犯人探しなどできません。この件は丁重にお断りします」

「ま、そうもいかんのだよ」

 次郎氏は遼樹の要求などあっさりとはねた。決定力で言えばそこらの与党議員よりも大いに力を持っている人物なのだ。例え世界が認める正論でも、ダメと言ったらダメとなる。

「もし断るのなら君の出版社にも連絡を入れる必要があるしな。ま、池田屋の血筋といえども所詮は一介の記者だ。さて、どうするかい。遼樹君」

「… …」

 一人の記者の力ではこの運命にはどうしても抗えないらしい。

「そう、それでいいのだよ。早速調査してくれ」

「調査するにも、何から手をつければ」

「そこは君の記者としての力に期待しているよ。といいたいところだが、既に犯人の目星は付いている」

「と、言いますと」

「犯人は、この屋敷にいる誰かだ」

 次郎氏のその確信に満ちた目つきは、遼樹に反論の余地がないことを示していた。

 仮に、ここに犯人がいなくとも疑い深き誰か一人を上げろ。そういうことだ。

「分かりました。では早速調査させていただきます」

「ま、何か調べたいものがあったら森野に聞いてくれ。今回の事件の概要は全て彼女に任せてある。それと―――」

 次郎氏は思わせぶりに聞いてきた。

「トバリについての印象を、君から聞きたい」

 遼樹はどういう意味だろうか。と、言葉の裏に潜む真の意味があるような気がして回答に戸惑った。

 単なる興味であるかもしれない。それなら遼樹が他人に同じことを望むように、好奇心に対して応じるべきだ。

「面白い人だとは思います。この事件の有無を差し引いても、観察対象としては魅力的な人物です」

「それは彼女が単純に美人だからかね? それとも、彼女の容姿を抜きにしてか」

「男という性分では前者です。自分の本音としては後者ですけど」

「ふむ、なるほどな」

 次郎氏はニヤリと、金の両犬歯を晒けるような笑みを浮かべた。

 何かまずいことでも言ったろうか。

「それでいい。それこそ君だ。君を雇った意味はあった。今は何のことか分からないだろうが、いずれ君も自覚する時が来る。それも、すぐにな」

 言葉の真偽を測りかねるが遼樹はこれを黙して受け取った。

 そのあとは、あまり覚えていない。聞かされたのは大方、自慢話だろう。


 森野さんに頼み、談話室で簡単な食事をとった遼樹は屋敷の皆に話を訊くつもりでいた。

 その前に遼樹は森野さんから人形事件と呼ばれるこの連続殺人の概要を聞いた。

 あらかたは次郎氏と言ったことと変わらなかったが、つい最近起きた殺人はこの屋敷内で起こったことらしい。

 屋敷の外には監視カメラなる防犯装置やその他多くの防犯設備が屋敷の周囲を囲み、正門以外の侵入を不可能にしている。つまり屋内の犯行は屋内にいた人間にしかできないのだ。

 屋内の防犯設備は、次郎氏の「無粋」との一言で設置はされておらず、犯人の姿は見当もつかない。

 ただし、その日にいた人間は今ここにいる五人しかおらず、それが犯人はこの中にいる発言の根拠となっていた。

 関係ない話だけれど、防犯設備が屋内にない代わりに防火設備は揃っているそうだ。なんでも、昔に屋敷内でのボヤ騒ぎが起こってから次郎氏が付けたという。

 人形事件と呼ばれる所以の、四肢のない首吊り自動人形についても聞いてみると、どうも吊られていたのはどれもトバリが設計した自動人形だったらしい。

 それ以前に、須々木重工が開発量産している自動人形の多くは、トバリが提案したものである。

 遼樹は噂で天才的な自動人形の設計士のことは聞いていたが、まさかトバリのこととは思わなかった。 須々木重工の設計士の話といえば美術的にも実用的にも価値の高い設計と、軍部を片手一つで動かすような傲慢さは勝手ながらその設計士を男だと思わせていた。

 どうりで池田屋友樹のことを知っているわけだ。元々、自動人形の基本構造を発案したのは彼であり、自動人形の権威と言われるまで上り詰めたトバリが友樹にあった事がないわけがない。

 大方、学会か何かで知り合ったのだろう。

 話を戻すと、つまり須々木重工の制作物を吊るしたということは怨恨の線が考えられる。

 もちろん。警察も同じ見解で、次郎氏には話したはず。それで納得していないということは、次郎氏にだけが嗅ぎとれるようなメッセージが潜んでいるようだ。

 そうすると、木下先生が囁いたトバリの犯人説は何だか矛盾しているような気がする。

 もしくは木下先生が犯人で、探偵として雇われた遼樹をかく乱させるためにあんなデタラメを語ったのかもしれない。しかしそれは考えてみればすぐにわかる嘘、自分の立場を悪くするだけだ。

「うぐぐぐ。ぐがが」

 遼樹は頭が良くない。自らが語るように、知識や知恵は友樹に全てもっていかれたような存在なのだ。

 どう考えてみても思考回路の糸に絡め取られるばかりで、出てくるのは答えではなくうめき声ばかりだった。

「そんなに悩んでいるならいいこと教えてあげようか」

 談話室のソファーでコーヒーをいただいていた遼樹の背後から、そんな甘言がとんできた。

 声の主は妹のアカリの方だった。

「私ね。木下先生の秘密も知っているんだよ」

 後ろで独り言を聞き取られていたらしく、アカリはそう真実を仄めかした。

「いいのか。そんな大事なこと」

「イイじゃない。真実はいつか暴かれるものでしょ」

「他人の秘密を喋りたいだけじゃないのか。巷じゃ、そういう奴は少なくないし。俺たちはそういうやつを重宝するわけだけどな」

「褒めているの? 馬鹿にしているの? そんな態度じゃ教えてあげないよ」

「しかし、せっかくだから聞かせてもらおう」

「現金だね。私はそのほうが嬉しいけど」

 アカリは無邪気なのが恐ろしい位の素直な顔で、他人の明かされたくない過去を、平気で暴露し始めた。

「木下先生はね。元はお姉ちゃんの主治医だったの。あ、精神科の方のね。結構、男女としての仲も良かったみたいなの。それで、一時期は次郎に気に入られて遺産相続の話も出ていたのだけど。そのあと、木下先生とお姉ちゃんの仲が何かこじれちゃって。そしたら遺産相続の話もなし。今は私にも色目使ってくるから。もしかしたらまだ須々木家の財産に未練が残っているのかもよ」

「それは、とても参考になる」

 非常に興味深い。まさか木下先生とトバリがそんな仲だった経緯があるとは思わなかった。

 それなら、木下先生の怨恨の線で探ることもできる。

「でも、本当は私が木下先生を利用していて。実は私のほうが木下先生とお姉ちゃんの中を妬んで犯行を行った。とも考えられない?」

「… …お前。俺をからかっているのか」

「分かる? 遼樹さんったら賢いね」

 遼樹の頭が良くないということをご存知の上で、こんな天邪鬼な言動に出るとは。

 トバリほどでないにしろ。アカリもまた人を惑わすような性格を持っているようだ。

 アカリはそのあと遼樹に、「後は自分で考えてね」と捨て台詞を残すと複雑怪奇に入り組んだ通路の迷路へと消えてしまった。

 もしかしたらアカリは座敷童の類ではなかろうか。

 色々な情報を得たものの、まだ事件の真相は推測の域をでない。

 ここは渦中ならぬ火中の栗を拾うつもりで、須々木家の人間関係の中心となっている人物から話をつけるしかない。

 それはもちろんトバリのことだ。

 森野さんからトバリの部屋を聞くと、トバリの自室は一階にあることが分かった。二階の行き来にはエレベーターを使い、普段は不便ないよう下の階で暮らしているのだとか。

 自分の興味半分、事件の糸口を掴むための手段半分で遼樹はトバリの部屋を目指した。

 部屋は談話室からさほど離れていないので、すぐにたどり着いた。

「あら、遼樹さんでございますね。何か私の部屋に御用でも」

 部屋をノックする前に、目当ての人物が廊下の反対側から遼樹を見つけた。

 トバリは膝にプラスチックケースの虫かごを抱えて、遼樹の前に現れた。

「次郎氏に人形事件の捜査を頼まれてしまったからな。探偵みたいに現場検証してヒラメキが生まれてくるわけじゃないし、記者としていつも通り聞き込みをしに来たってわけさ。ところで、それは」

 指をさしたプラスチックケースの中には、家ネズミの中でも特に小さいハツカネズミらしき生き物が入っていた。前回の記事を書く際に拝見することのあったラットがドブネズミ由来の体格であるのと比べると、その小ささがよくわかった。

 ただ普通のハツカネズミと違っていたのは、後ろ足の膝から下が見当たらないことだった。

「この子は、扉と扉の間に足を挟んでいたの。木下先生はああ見えても、医者でしょう。だからこの子の治療を頼んできたところなの。後の話は部屋の中でどうかしら」

 トバリに勧められて断る理由もない。もとより長い話をする予定だったので、立ち話もなんだ。

 遼樹は紳士的なフリをして先にトバリを入れてやり、その後に続くようにして自分も中に入った。

 入ってすぐ。部屋が人間の内面を表しているという言葉が正しいことを思い知らされた。

 飾られているのは刃物刃物刃物。そして斬殺惨殺。切断、両断。そういう単語が壁から浮かび上がっている。

 壁の上を所狭しに並べられたのは処刑道具や拷問器具と、歴戦の勇士に使い込まれた武器にまで至る。

 多種多様に集められたどの器具どの武器にも共通することはそれらが切断の方法を持つことだった。

 そして、そのどれもが例外なく使用済の一品であることが傍目でもわかった。

 壁に掛けかけたギロチンなどは特に顕著で、幾千幾万の人命を奪うことで浴びた血を吸った刃が黒く酸化していた。

 部屋の一角には、自動人形の設計士らしく自動人形の模型や試作品のような類が固めて置かれていた。正直いえば、自動人形の権威にしては少なすぎる数のようにも思えた。

「本当は人形の作り手ではなく、操り手となりたかったのでございます」

 トバリは自動人形を気に止めていた遼樹にそう語った。

「でも自動人形の技術は全く進歩がなく、私が作る他なかった。それに、次郎様もそう望んでいたから―――」

「言いわけか? 俺が言うことでもないだろうけどな。自分のことを他人のせいにする奴は虫酸が走る。嫌だったら嫌だとキッパリ言って、仕事なんか辞めちまえ」

「そんな… …。これは遼樹さんには分からないことです」

「そうか? 天才であろうとなかろうと、社会に求められた人間になれなければ非難されるのは当たり前だ。一欠片でも自分以外の誰かのためにその仕事をやろうってなら、望みなんて捨てちまえ」

「よく言えますね。そんな優しくない言葉。もしかして私のこと、嫌いなのかしら」

「俺は同じことを友樹にも言ってやっただけだ」

 ついつい意地を張って言いすぎてしまったが最後の言葉は本当のことだ。

 トバリはまさか日本帝国随一の科学者に「仕事を辞めちまえ」と言った遼樹の言葉が信じられないという顔をしていた。だが、その顔が遼樹の期待に沿うよう作ったような顔なので馬鹿にされているような気もした。

「俺がそう言ったら、あいつ何て言いやがったと思う? 私は遼樹とは正反対の人間だ。それでもいい。と言いやがった。気づいたよ。友樹はこれまで一度たりとも自分のために働いたことはなかったってことにさ。やっぱあいつは変わっている。この世界の誰よりもだ」

「私の反応の方が普通だということですか」

「ああ、普通だ」

 何だかその言葉に語弊がある気もするけれども、実際そうだった。遼樹の知りうる限り、友樹は世界一の変人だった。本人自体はもちろんどんな識者にも侮辱されない賛美されるべき性質ではある。ただし、ごく一般でないことには変わりない。

 友樹は誰にも非難されず、褒める点しか持ち合わせず、後ろめたい過去など一つもない。彼はまさに偉人、まさに参考にされ得るべき人物像だ。しかし、それは書物から美点を抜き出して初めて言われることであって、現実の人間がその評価しかないということはありえない。そんな完成された人間は人ではなく、空想の産物のようなものだ。

 それでも確かに友樹は遼樹の兄弟として実在している変人なのだ。

「面白いお兄さんね。きっと切り刻んでキスしてしまいたいくらいに好きでしょうに」

「おいおい。そっちの性癖と同じにしないでくれ」

「あら、これは性癖などとは違いますわ。性器切断の変態プレイでも、欠損のある人間しか愛せない異常な性の観点でもない。これは愛情表現で、愛情の思想でございます」

 そう言って、トバリは壁に飾られていた一振りの大剣を指差した。

「あそこにありますのはフランスの公開処刑で使用されていた首切り役人の剣でございます。何でもその頃の斬首というのは貴族の死刑囚だけに与えられた特権であり、ある意味特別な行為だったのだそうです」

「で、その特別な行為が愛とどう関係あるって?」

「確かに愛というのは信頼関係で殺し殺される処刑人と死刑囚では無縁のように思えます。けれども、そうでもないのでございます。斬首というのは処刑人の正義に対する確信と剣の技量。それに死刑囚が死を恐れて身動ぎせぬ覚悟が必要なの。崇高な斬首という処刑には他者の立ち入れぬような深い関係が不可欠というわけ。お分かり。崇高な愛の形と何ら変わりないじゃないですか」

 トバリの愛というやつはどう反論してよいかもわからない、トンデモ理論だった。だが一つだけはっきりしていることは、その愛の理論が処刑と同じく終わりに向かっていることだった。

 それは悲劇のように、終わりによって昇華される愛の形なのだろう。下らない悲劇ならば喜劇程度済む。けれどもトバリの求める悲劇は命を賭すほどの傑作にしかないようだ。

 だとすると今の両脚が切断されたトバリの姿は未完であり、彼女にとっての愛は途中経過に過ぎないのではないだろうか。

 そんな歪な満たされぬ愛の充足感は彼女にどんな行為を起こさせるのだろう。

 遼樹はそれを想像し、戦慄した。

 幸いなのはトバリに人を切断するといった重労働ができる身体にないことだった。

「もしその愛の理論というのが本当ならトバリには殺人の動機があると言えるな。実際にそうされているし、しているわけだしな」

「すでに行なっていると断言するということは、私が犯人である証拠でもあるというのでございますか」

「ただし、人形事件の犯人ではないけどな」

 遼樹は先ほどトバリが持っていたガラスケースの中のネズミを指差した。

「取材関係で動物実験に使われる動物を無理言って見せてもらったのだけど。そいつらは勝手に交配しないようにオスの方は矯正されているんだ。そのせいで思いついた。人工的に切断するのと、事故で失うのとでは切り口が別じゃないのかって」

「それが、私がネズミの両脚を切ったという証拠にでもなるのですか」

「ならないだろうな。これはあくまでも取っ掛かりだ。他の誰かがネズミの足を切って放置し、出血死する前にトバリが木下先生に治療してもらうなんてことは時間的に無理があるしな」

「……ふふふ。遼樹さんも中々、面白い発想の持ち主ですね」

 トバリは遼樹以外の誰かを思い描いて、うっすらと笑みを浮かべた。

「とにかく。俺はトバリの罪にも趣味にも手出しはしない。興味は所詮、観客席から眺める分でわきまえているさ。切断による愛も俺には関係ない」

「それはどうかしら」

 遼樹の自信たっぷりのその意見に、トバリは否と応えた。

 当然、遼樹はそんな否定に良い顔をしているわけがない。

「悔しいのかどうか知らないが根拠もなくものをいうのはよしてくれ」

「根拠など、初めから誰でもしっていることじゃありませんか。遼樹さんだって私と同じ。私に似た攻めと受けの関係を持っているでしょう」

「それが根拠のないことだと―――」

「優秀すぎる兄と、その苦痛を黙って受け止める弟。十分過ぎる立証でございましょう」

 遼樹はギクリとした。遼樹が第三者としての目を養ってきた限り。それは一笑に付すことのできる理屈ではなかった。

「私が持つ愛の理論では攻めと受けとの関係が果てしなく流動いたします。しかし遼樹さんは常にマゾとして池田屋友樹の弟を演じている。その上、その関係を重々承知した上であなたは満足に役を堪能しているのでございますよ。嫌なら努力をする。普通の人といいますモノはこのように、自分の苦難や苦痛に抗うものでございましょう。それができない者は異質といっても過言ではないのですよ」

「違う」

「遼樹さんらしくない。いつも通り、他人のやりとりを淡々とすませばいいのに。どうも兄弟の話となると、遼樹さんは熱くなるようでございますね。そこがいいのですが」

 遼樹は何か苦言を漏らそうと、口をまごまごと動かす。だが脳裏に言葉は掠めもしない。

 遼樹は否定したかった。全ての決定と成り行きを他の誰かに任せている遼樹でも、これだけは肯定したくはなかった。

 俺と友樹の兄弟としての関係を、そんな簡単に分かったような言葉を吐くな。

 遼樹はその言葉が形にならず、時間だけが会話の間の沈黙をはっきりとさせた。

 そんな時、彼の頭を冷やす何かが頭上から降ってきた。

「ああ、雨でございますね」

 遼樹はトバリの言葉に一瞬考え込んだ。

「屋内で雨はないだろ」

「そうでございましたね。これは防火装置の水でしょう」

 談話室を除いてすべての部屋と通路につけられているという防火装置は、トバリが曰く。不良品らしい。

 どうやらどこかの部屋や通路で火事が起こると些細なボヤでも全てのスプリンクラーが作動してしまい。屋敷中が水浸しになるそうだ。

 トバリは部屋に置いてあった傘を、日傘を差すかのように自然に開いた。

 一方、遼樹は傘の持ち合わせなどないのでそのままずぶ濡れとなった。

「傘、余ってないか」

「余っていたとしてもお貸しいたしません。少し、雨にうたれている方がかっこいいでございますよ」

「雨が滴りゃ、全員いい男になるって寸法ではないがな」

 このままでは風邪も引くし、安全のためにもさっさと部屋の外にでも出ることにした。

 遼樹とトバリが揃って玄関ホールに出ると、他にも三人の人影があった。

「ああ、トバリ様ご無事でございましたか」

 お手伝いの森野さんと妹のアカリ、それに木下先生も既に玄関ホールに集まっていた。

「何があったのかしら。木下先生がヤケを起こして放火したのなら素敵なのだけれど」

 トバリがそう、せせら笑うようなジョークで木下先生をからかった。

木下先生はヤブから棒な発言に、少しムッとしたような態度だった。

「主治医の判断としては君が病的な発作を起こして凶行を行なったと思っていたが、どうも違うらしいな。火事は二階のようだし、君が一階にいたことはそこの探偵くんが保証してくれるのだろう」

「なんで火事の場所がわかる。見てきたのか」

「来る途中に一階の部屋を見てきたがどこも燃えてなかった、という簡単な消去法だよ。探偵くん」

 その言葉は、名探偵が助手に教えを告げるようなイヤみたらしい言葉遣いだった。

「ところで次郎見なかった。森野も木下先生も見てないってよ」

 そう言われても、遼樹もトバリも次郎氏は見かけていない。遼樹が書斎で出会ってから随分と時間が過ぎている。だから参考にはならない。

 誰もその問いに応えられず、沈黙が流れた。

 その無音に耐えられなくなったのか、森野が手を上げた。

「はい、森野さんドーゾ」

 先生代わりにアカリが指名して上げると、森野は自分の稚拙さに気づいて頬を染めた。そして、勧められるがまま発言した。

「次郎様は遼樹様と面会された後に誰かに会うとおっしゃりまして。それで誰も書斎には通すなと言われまして。おそらく、まだ書斎におられるのかと」

「それにしては遅過ぎるじゃないか。次郎さんがお年であるにしても、トバリと違って両脚も付いている。そんなに時間がかかるわけがないじゃないのかい」

 言い方が気に食わないが、確かに遅い。もし火の手が二階のどこかに回っているのだとしたら、逃げ遅れることになりかねない。

 皆一抹の不安を隠しきれず、どろりとした重い空気が漂う。それにたまらず、押し出されたように森野が声を張り裂けた。

「い、急いで次郎様の元へ、鍵、鍵はございますよ。急ぎませうよ」

 森野の呂律が回りきっていない。そうとう慌てているのだろう。スカートが足に蹴られて舞い上がるのも気にせずに、一目散に次郎の書斎を目指して先頭を走る。ただ、そうとう体力が無いらしく。階段を上がりきったところで一度休憩を挟まなければならない様子だった。

 そのあとを、アカリと次郎が追いかけ、遼樹も後に続こうとした。

「少しお待ちください」

 車椅子に座ったトバリには高さが足りず、遼樹の腕の裾を童のように引いて、遼樹を呼び止めた。

「来る途中で確認しましたところ。どうもエレベーターが止まってしまったようでございます。迷惑は承知の上で、その… …頼みたいことが」

 遼樹はトバリが何を言いたいのかすぐわかったが、少し放置してみることにした。

「それで、なんだ」

「それはですね。ええ、女心を察せないというか鈍いというか分かりませんがね。遼樹さんなら、そこは紳士的に、お任せくださいトバリさん。とでも言ってくださるかと思いました」

「さっさと言えよ」

「最後通告というものはご存知でございますよね。私は遼樹さんが後になって困らぬよう心配して差し上げているというのに。… …ねえ、これが最後ですよ」

「―――ぷっ。くく」

 可哀想というか可愛いというか。普段の余裕ぶった彼女らしからぬ発言に遼樹は笑いをこらえきれなかった。

 次郎氏に危機が迫っているのかもしれないのに、場をわきまえない遼樹の悪戯はトバリの怒りに触れてしまった。

「そんなに、面白いでございますか」

 遼樹の笑いがすっと消えた。それほどトバリの冷え切った恋人のような物言いは辛辣だった。これまで以上にトバリの言葉が遼樹の背を冷え切らした。

「いや、すまない。事態が事態だったな。エレベーターが使えないとトバリ一人であの階段上がれるわけがないか。うん。だったら抱っこかオンブするしかないな」

「そうなのですよ。遼樹さん相手なのは些か役不足ですが誰もいないのでは仕方ありません。どうか、やさしくお願いします」

 車椅子に座ったトバリが、抱きしめることを求めるように両手を開く。それはいずれ甘い香りを放つはずの蕾が今まさに咲いたかのような瞬間だった。ある種の誘惑が去来した遼樹は、咄嗟に彼女の両膝の裏と両肩に手を回して抱き上げてしまった。

「あの、これは一体どうしたことでございますか」

「… …すまん」

 トバリの指摘があったので、遼樹は少し残念そうに彼女を降ろした。

 今度は体位を変えてオーソドックスに後ろから担ぐことにした。ついでにトバリの傘の中に遼樹も入れてもらい。これなら雨に濡れる心配もない。お嬢様抱っこをすることに密かに憧れていた遼樹はこれも仕方がないと思いつつ、妥当だと思い直した。

 だがこれはこれで中々に魅力的な姿勢である。

 他人から見れば、トバリの綺麗な顔も肢体も観察できない格好にみえるだろう。その代わりに人間というのは五感があり、視覚で獲得できないものは他の感覚で補える。

 つまりだ。背負うことにかこつけて、手が吸い付くようなもちもちの太ももを遠慮なくガブリ持ち、預けられた身体からはふくよかな胸部や腹部の感触を味わえるのだ。

 そして首をくすぐる甘い吐息がなんとも艶かしい。

 これが役得というやつか。

 トバリ自体も非常に軽く、担いで歩くのはさして苦労はない。それは彼女の足が両脚とも膝を境に欠けているのだからむしろ当然だ。

 こうして彼女の身体を背中と両手両腕で感じると、新たに発見することもあった。

 まずトバリは見た目よりも随分とスタイルが良い。座った姿勢が多いせいで、今までそのことに気づかされなかった。

 上半身は電動式だけに頼らず車椅子を自分で漕ぐこともあるらしい。トバリの身体はそこら辺の女性よりも引き締まっていることが分かった。使っていない両脚は筋肉が衰えてむくんでいるのかといえば、そんなことはない。おそらくマッサージや自主トレーニングで半分の美脚を保っているのだろう。

 長い髪が首の横を擦る度に遼樹はどきりとしながら、それでもトバリがバランスを崩して背中から転落しないよう、細心の注意を払った。

「もし落としたら大変ね。きっと首から下が動かなくなって、一生分を遼樹さんに責任とってもらわなくてはならなくなるのでしょうね」

「そら大変だ。あんたと一生一緒なんて、いい退屈しのぎになりそうだ」

「退屈どころか何もかも奪い去ってあげましょうか」

「ちょうどいい。古臭くなってきたからゴミ箱に捨てようかと考えていたところだ。手間が省けて助かるよ」

 そんな下らない会話や、トバリが自分の髪の毛を摘んで仕返しとばかりに遼樹の首をくすぐる。一見仲がよさそうで、たぶん仲のいいやり取りが短い間だけども幾度となく繰り返された。

 それに反して遼樹の足取りは重くなっていた。

 いくらトバリが普通の半分より少し重い体重とはいえ、ヒト一人運ぶにはやはり骨が折れた。先行していた木下先生らはおそらくもう次郎氏の部屋についたのだろう。三人の姿は二階に登ってからまだ見ていない。

 それにしても、いつの間にかスプリンクラーの雨が止んでいた。

「トバリ様ぁ、遼樹様ぁ!」

 もう次郎氏の部屋が目と鼻の先にある位置で、森野さんが引き返してくるのが見えた。かなり慌てた様子で宙に繋いだ糸が絡まってしまいそうな勢いだ。

「森野、どうしたのでございますか」

 トバリは遼樹をからかうのをピタリと止め、平然とした様子で受け答えた。

 森野は二人の目の前まで走り寄り、心臓の動悸でだけで倒れてしまいそうな身体を持ち直して、自分が知った事実を二人に打ち明けた。

「じ、次郎様が、ご自分の部屋で、おおお亡くなりに。いえ。こ、ころされて、ございます」

 その言葉を聞いたとき。遼樹の肩にかけられた手の力がきゅっと、強くなった気がした。


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