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08 【月明かり】



 細く欠けた月が、たよりない光を地に落としている。

 深夜だった。王宮は静かな夜につつまれ、深い闇の底で安眠をむさぼっている。

 ラルザハルは眠れない自分を、どうしよもなくもてあましていた。

 真夜中に目を覚ますのは、何も今夜だけではない。家族を、幸福だった日々を、何もかもを無残に奪われたあの日から、幾度も悪夢にうなされていた。

 ラルザハルは寝台を降りると、夜着の上から上着を羽織り、寝室を抜け出した。

 ひんやりとした夜の回廊を抜け、屋外へと足を運ぶ。ひとの気配はどこにもない。皆、寝静まっているのか、物音ひとつしなかった。こうやって真夜中に出歩いて、王宮の広い庭園や、人工の森林を散策するのは何も今夜が初めてではない。

 誰かに見咎められれば面倒なことになる。けれど控えようとは思わなかった。いつのまにか住み慣れ見知った王宮の構造だ。夜警の隙を突くなど造作もない。

 夜歩きをするときの道順はだいたい決まっていた。厩舎の裏を抜けて、馬場を背に、しばらく歩くと小規模な森林が見えてくる。若木がみずみずしく枝を広げ、緑が心地良く風を鳴らす。その先に目指す装飾庭園があった。

 装飾庭園の入口は小高い丘になっていた。

 ラルザハルの佇む位置から、庭園のすみずみまでが一望できる。

 蔓薔薇が絡んだアーチ。色とりどりの花が咲き乱れた庭園の周囲を、丈の低い白石の壁がぐるりと一周している。幼子が遊ぶために造られたかのように、何もかもが可愛らしく、小ぶりにできている。花壇も丘も樹木も家も神殿も、王宮までもが。

 山を模倣した小高い丘から、町の中心を分断して横切る小川は、ゆるやかなカーブを描き、やがて小魚が群れ泳ぐ小さな海に流れ出している。緻密で精巧。夢のように愛らしい、小さな王国がそこにあった。

 緩やかな広陵をくだり、ひっそりと闇にたたずむ王国へとラルザハルは足を踏み入れる。吹き抜ける夜風が、暗く沈んだ草原の下草をさわさわと揺らめかせた。

 遠く離れた位置から見下ろすのと、こうして近くで見るのでは、まったく印象が異なる。夜のせいだろうか。細く欠けた月を仰ぎ、ラルザハルはそんなことを思った。

 庭園は几帳面に剪定されていた。折れた小枝はおろか、枯れた草花すら見当たらない。小人が住むのにちょうど良さそうな、煉瓦造りの家がいくつも並んでいた。赤や青の屋根や庭先の白いベンチには、真新しい塗料が塗られ、訪れる者の目を楽しませている。

 きれいで愛らしいはずの風景が、どうしてか逆の印象を見るものに与える。よそよそしく、どこか寒々しいのは、人の気配がないからだろうか。夜昼に関係なく、普通はもっと雑然として、生命力のようなものを感じ取れるものだ。

 町を通り抜け、森につづく小道をしばらく歩くと、樹木に埋もれるように建つ四阿を見付けた。ラルザハルは作り付けのベンチに腰を下ろし、ゆったりとくつろいだ体勢になる。明け方までこうしているのもそう悪くはない。

 どのくらいそうしていただろうか。

 ふと気づくと、吹き抜ける夜風に混じってかすかな水音が聴こえてくる。川の流れるさらさらという音とは違う。水面を小魚が跳ねてでもいるのだろうか。小魚にしては大きい。魚などではなく、もっと別のものだ。

 そう遠い場所ではないはずだ。歩いて来た方向とも違っている。水音はちょうど四阿の裏手から聴こえてきた。興味を引かれ、ラルザハルは周囲を見回してみる。

「……これか」

 獣道に似た、細い道が伸びていた。夜の暗さと、うっそりと茂る樹の枝葉。目立たぬよう、小道は巧妙に隠されていた。抜け道といった方がしっくりとくる。そんな造りだった。

 ラルザハルは立ち上がった。何かに呼ばれるようにして、暗がりに伸びた道をたどる。

 道はゆるやかな下り坂になっていた。くねくねと曲がり、足場も、お世辞にも良いとはいえない。さすがにここまでは手入れが行き届いていないのだろう。



 突然視界が開け、ラルザハルは足を止めた。静かに凪いだ湖面。夜に染まった藍色の空を映し、水に浮かぶ新月がほのかに揺れている。装飾庭園の最深、大海を模倣した湖であった。

 ひときわ高く水の跳ねる音がした。その方向に視線を向け、驚いて立ち尽くす。

 目にしたものを、にわかには信じがたい。

 誰一人として立ち寄る者のいない庭園の外れ、夜警の目すら届かない寂しい場所に、少女がひとり佇んでいる。

 少女は素足だった。ラルザハルに背を向けて湖の岸辺に立ち、踝までを水に浸している。視線はどこか遠くを見つめていた。ときおり小魚の銀鱗が月光を反射させ、足元をすり抜けてゆく。

 声を掛けるのはためらわれた。

 少女が身に着けているのは薄い夜着が一枚きり。暗い夜空に浮かぶたよりない月明かりを通しても、華奢な肩や、ほっそりとした身体の線がはっきり見て取れる。

 少女に何も告げず、このままもと来た道を引き返さなかったのは、どことなく異様な気配を感じたからかもしれない。

 ふたたび水の跳ねる音がして、少女が湖の深い方に歩き出した。驚いて、反射的にラルザハルは身を乗り出す。枝の折れるパキンという音が、やけに大きく辺りに響いた。

 少女はラルザハルの方に振り向くと、小さな悲鳴を洩らした。驚愕に目を見開いて立ちすくみ、いやいやをするように首を横に振る。

 白い、血の筋が透けて見えそうなほどに、白い肌。闇に溶けて流れる黒髪。妖精めいた瞳の翠。月明かりだけを浴びて育つという、月晶華げっしょうかのようだった。触れたとたん花弁を散らし地に溶けて消えてしまう、夜だけに咲く、幻の花。

「怪しい者じゃない。俺は、ただ……」

 驚かせるつもりはなかった。どうしたらいいのか判らず、ただ言葉を継ぐ。

「そう、ここに偶然居合わせただけなんだ。君に危害を加えたりはしない。本当だ……」

「見つからないの」

 少女が口を開いた。

「どうしても見つからないの。……ずっと探しているのに」

 ふいに、翠の瞳から透明な雫が零れた。雫は青白い頬をつたい、暗く澄んだ水面に波紋を落とした。

 何を探しているのか、それを尋ねる前に少女は踵を返すと、ラルザハルの立つ場所からは離れた岸辺に上がり、闇の奥に姿を消す。



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