06 【わりきれぬ想い】
ラルザハルは特に拘束されていない。
どうやら罪人扱いとも少し違っているらしく、自由に部屋を出て王宮の内部を歩いたり、庭園を散策することを許されていた。
ジャレスの思う通り行動することへの抵抗もあり、最初のうちラルザハルは与えられた居室を出なかった。だが怪我も回復の方向に向かい体力が戻り始めると、しだいに部屋に閉じこもっているのが苦痛になってくる。もともと室内で大人しくしているより、外に出て体を動かすほうが性に合っていた。
「ふん。やはりここだったか」
雷光のようすを見に行った帰りだった。厩舎を出たところで、聞き覚えのある声に呼びかけられ、ラルザハルは足を止めた。
「待っていたのか?」
意識もせず、そんな言葉が出た。
「まさか」
厩舎の木戸は開いたままだった。板塀に背中を付けて寄りかかったまま、ジャレスは怒ったように言った。
「誰がきさまなど待つものか。たまたま近くを通りかかっただけだ」
ふい、と横を向く。そのまま立ち去るつもりなのか、ジャレスは背を向けると早足に歩き出した。
「……待てよ」
呼び止める理由はない。話すことも。
ジャレスが驚いたようにわずかに肩を揺らし、立ち止まったときになってようやくそう気づいた。
「なぜ……」
メイアを殺した?
そう尋ねそうになり、ラルザハルは慌てて言葉を飲み込んだ。答えなど聞くまでもないし、聞きたくもない。ましてやジャレスの口からなど。
気まずい沈黙が流れた。
少なくともラルザハルにとっては。重苦しい時間が過ぎていく。沈黙に耐え兼ねてラルザハルが厩舎に戻ろうとしたとき、ジャレスが口を開いた。
「剣の相手をしろ」
「……なんだって」
聞き取れなかったのではなく、その意図するところが判りかね、ラルザハルは尋ねた。
「剣の相手をしろと言ったんだ。それとも傷がまだ痛むか?」
腹の傷はふさがりつつあるとはいえ、まだ完全に癒えたわけではない。だが少しくらい体を動かすのに支障はないだろう。体を慣らすにはかえってちょうどいいくらいだ。
問題は別にあった。
武器を持たせて、剣の相手をさせる? この俺と? 肉親を殺した者と、殺された者。その二人が剣を手に相対すれば、どんな結果を生むかなど最初から目に見えている。
生命が惜しくはないのだろうか、とラルザハルは不思議に思った。この自信はどこからくるのだろう。それとも特権階級の者がいかにも持ちそうな根拠のない自信だろうか。
「本気で言っているのか? 俺が何者なのか判っているはずだ」
「ああ、むろんだとも」
かすかに眇められた目が、愚問だと言外に告げている。付いてこい、と言い置いてジャレスは再び歩き出した。
手にしているのは真剣だった。
厩舎からそれほど遠くない、人工の森に面した一角である。
二人のほか人影はない。年に一度、秋の収穫祭に馬上試合が行われる以外、ほとんど使用されることのない静かな場所である。
「さあ、遠慮はいらんぞ。かかってこい」
挑発的な口調とはうらはらに、ジャレスは動かない。剣を手に、油断なくかまえながら、慎重に間合いをとっている。
練習試合に事故は付き物といっていい。
小さな怪我など日常茶飯事だし、ときには死人が出ることもある。手にした武器が真剣なら尚更に。形式にのっとった騎士同士の手合わせの結果、怪我を負ったからといって、相手を怨むのは筋違いだし、むしろ恥ずべき行為とされている。
それが、王族であるジャレスに当てはまるか定かではないが、復讐をとげる絶好の機会であるのも事実だった。一国の王子を殺めれば、むろん無事ではすまないだろう。だからといって躊躇する理由にはならないし、事故にみせかけて罪を逃れるつもりもない。保身など、最初から考えてもいなかった。
まっすぐな剣だな、とラルザハルは思った。
流れる水のような透明感と、静かな湖面のように凪いだ空気。そんなものを思い起こさせる。冴えた刃を思わせる姿には、かすかな緊張のいろがうかがえた。
いまは剣技の基本を正確に守っているだけで、未熟さばかりが目立つ。だが、三年後には見違えるほど成長しているだろう。
「どうした、かかってこい。いつまでも動かないつもりなら、私から行くぞ」
言い終わるか終らないかのうちに、ジャレスが打ちかかってきた。一気に間合いを詰め、ラルザハルの懐ちかくに飛び込む。
鋭い金属音が交錯し、火花が弾ける。
最初の攻撃を、ラルザハルは正面から受け止めた。互いの眼前で剣を交差させたまま、ちょうど一呼吸分の猶予を与え、相手の出方を待つ。
剣を交えた一瞬に、ジャレスの力量は検討がついた。力の差は歴然とし、勝敗も見えていた。なのに、この高揚感はどこから来るのだろう。
反撃に転ずる寸前、低く呟く。
「どうする?」
問いではなく挑発だった。自身の優位を判ってはいたが、そんなことは取るに足らない些事でしかない。
哀れなメイアの最後の姿も、ジャレスへの復讐心も、今だけは頭から吹き飛んでいた。
『剣を交えれば相手がどんな人間か理解る』
ラルザハルが幼いころ、死んだ父、ラーバルドはよくそんなことを言ったものだ。その言葉を胸のうちで反芻しながら、ラルザハルは重心を前に移し、逆に距離を詰める。
「……っ!」
剣が弾かれる寸前に身を引いて、跳び退いて後退する。ジャレスは鋭敏な反射神経と鋭い勘、そして抜群の判断力を持っていた。
そうだ。こうでなくては面白くない。
知らず、唇に笑みが刻まれる。
「いいぞ……おまえ」
余裕を欠いて見開かれた瞳。だが、まだ負けを認めたわけじゃない。青い双眸には力強い意志があった。
「いい気にっ、なるなっ!」
かっとなったように頬を紅潮させ、ジャレスが声を荒げた。その声がわずかにうわずっている。剣を弾かれたときの衝撃で手が痺れるのか、切先が小刻みに震えていた。
ふたたび打ち掛かってきたジャレスは、すでに先ほどまでの冷静さを完全に失っていた。
惜しいな、と思う。
これがなければ、仮に力量の差はあったとしても、まだやりようがあるだろうに。なにより、実戦なら命取りになりかねない。
攻撃を正面から受けず、斜めに剣を払うことで衝撃を逸らした。勢いを殺がれ、ジャレスはバランスを失う。崩れるように前のめりになって地に右膝を付いた。
こんなにも簡単に誰かに打ち負かされた経験はなかったのだろう。なかば放心状態のまま、ジャレスは肩で息をついていた。
王子という身分に周囲が気を遣うこともあったかもしれない。だが肩書きを無視して同年代の少年のうち、いったい何人がジャレスと対等に渡り合える力量を持っているだろう。
冷静なようでいて、感情に流されやすい傾向もあった。いっけん無表情ともとれる、表情の読み取りにくい瞳。氷のようだ、と前に感じたそれは、いつのまにか深い水面の蒼に印象をかえていた。
目の前の少年に、いまは亡き少女の姿がかさなった。
背に矢をうけて血に染まった、哀れな少女の姿ではない。
春の穏やかな陽射しのように微笑む、可憐な花にも似た少女。ひっこみじあんで、他の少女達がはしゃいだり大声で笑っている輪にはうまくなじめず、少し離れたところから、そのようすを楽しそうに眺めていた。
不器用で、思ったことの半分も言葉にできなくて。そんな妹をラルザハルはいつももどかしく感じながらも、何よりも大切で、誰よりも愛しいと思っていたのだ。そう、守ってあげたいと。
「なにを血迷ったんだ、俺は……」
どうかしている、と思った。メイアと少しでも似ているところがあると感じるなど、気が違ったとしか思えない。自分はどうかしている。だいいち、あの王子とメイアとでは、共通項など何もないではないか。
絶好の機会だった。
絶好の機会のはずだった。
なのに、自分は何をためらうのか。
無防備に向けられた背中。
いまなら確実に果たせる。簡単なことだ。手にした剣を振り下ろすだけでことたりる。ためらう理由など何もないはずだ。
だが、ラルザハルは行動を起こさなかった。起こせなかったといってもいい。
いまはまだ、そのときじゃないからだ。
そう自分に言い聞かせてみる。
もちろん、いずれはジャレスを殺すつもりでいた。復讐心も変わらずある。胸の悪くなるような憎悪とともに。
この感情にいつわりはなかった。




