02 【黒の王子】
ゆるやかな夜の薄闇が、夕焼けに染まった空を侵食しようとしている。
風の出はじめたバルコニーの石畳にラルザハルは立ち尽くしていた。周囲を取り囲む神聖騎士の一団を気にするふうもなく、視線はただ一点だけに向けられている。
野に咲く白い花のような少女だった。
春の日溜まりのように微笑む、可憐で心根の優しいメイア。たったひとりの妹。
背後から弓を射掛けられたのだろう。背には深々と二本の矢が刺さっていた。だが致命傷となったのは矢傷ではない。背中から正確に心臓を貫く鋭い切先、それがメイアの生命を奪っていた。
「おまえが殺したのか?」
胸のうちに湧きあがるどす黒い感情とはうらはらに、声は奇妙なほど冷静な響きを持っていた。
「そうだ」
応えたのは十二、三歳の子供だった。
「私がその女を殺した」
手すりにもたれるようにうつぶせたメイアの横、血に濡れた中振りの剣を手にたたずむ少年は、死者に寄り添う不吉な影そのもの。
黒い鎧、短かめのマント、風に乱れた短髪、そのどれもが漆黒だった。唯一ちがっているのは瞳の色だった。双眸は氷を思わせる深い青。この年ごろの子供の持つ甘さや無邪気さは微塵もない。
その顔に見覚えがあった。
「ジャレス王子……」
アカルジャ王国第一王子、ジャレス・レナン・ディ・アカルジャ――肖像画やタペストリーで顔だけは知っていたが実物を目にしたのはこれが初めてだった。
「いかにも」
唇をかすかに歪め少年は言った。高くも低くもない、声変わりを迎える前の少年特有の凛とはりつめた声。別の場所で聴いたのなら、あるいは心地良いと感じたかもしれない。
「カラミア候の子息、ラルザハルだな」
メイアの血で赤く染まった刀身を振って、汚れを払い落とす。柄に象嵌された双頭の獅子は王族のみに許された紋章である。
「カラミア候ラーバルドとその婦人、ファーニティアは反逆の罪によりすでに処刑した。逃亡をはかった娘も同様にな。武器を捨て投降するか、抵抗してこの場で死ぬか、どちらでも好きなほうを選ぶといい」
ととのった造作には、どんな表情もあらわれていない。無抵抗の人々を斬り殺した後悔も、良心の呵責といった感情も。楽しんでいる印象すらなかった。
「反逆の証拠を見せていただきたい」
「それはできぬ。この件には幾人もの高貴な方々がかかわっているのでな」
答えたのはジャレスではなく、奥に控えていた法衣姿の老人だった。色鮮やかな紫の聖布を右の肩から斜めにかけている姿に、やはり見覚えがある。ロサ神殿の陰の支配者とも噂される人物、カーゼイ大司教だ。
「みえすいたことを言うな。そんな答えで納得できるとでも思っているのか」
「勘違いをするな。私は納得してほしいなどと言った覚えはない」
ジャレスはにべもなく言い捨てた。
「そんなことよりも、投降するのかしないのかは決まったか? まだなら早く決めろ。ながながと待たされるのは我慢がならない」
「……いいだろう」
真実なのか虚言なのか、ラルザハルにはもうどうでもよかった。両親が殺害され、メイアの生命までが奪われた。失ったものは二度と戻らない。それは、判り切ったこと。
ただ、眼前に、憎悪を向けるべき対象をみいだせたことが嬉しかった。
答えるかわり、剣を握りなおす。
ラルザハルは少年に視線をすえ、ゆっくりと一歩を踏み出した。ざわり、と空気が揺れ、周囲に動揺がひろがる。
答えなど、とうに決まっていた。
ラルザハルのいる位置から、ジャレスの立つ手摺の前までは、それほど離れていない。距離にしたら大人の男が大股で歩いて、せいぜいが十歩か、もう少しといったところか。
ジャレスは逃げる素振りも臆したようすもない。無言のまま、微かに目を細めただけだ。
「反逆か……」
独白が風に流されて消える。
いまさら反逆の汚名を恐れる理由はない。望むものも。望みがあるとしたら、メイアを手にかけたあの王子に一太刀なりともあびせることだった。無様に生き残ったことこそ、忌むべきこと。周囲を取り囲む兵の姿など気にもならなかったし、遅れをとるとも思えなかった。後のことはどうでもいい。
「かまわぬ、その男を殺せ!」
手前から攻撃をしかけてきた一人の兵士を切り伏せただけで、アカルジャの王子の眼前に近づけた。少年はやはり動かない。彼は剣を上段に構え、気合とともに打ち込んだ。
「なに!」
ふいに、火花が視界を覆った。鋭い衝撃に両手が痺れる。
「ラシェイ!」
ジャレスが初めて声をあげた。
女だった。燃えたつような赤毛の女だ。
ラシェイと呼ばれた女は二人の間に割って入るようにして剣をかざし、なかば自分の身を盾にラルザハルの剣を受け止めていた。
「お逃げください、ジャレスさま。……これ以上は持ちそうにありません」
完全に止め切れなかった衝撃が、彼女の首の付根を傷つけている。流れ落ちる鮮血が女性用にあつらえられた白銀の鎧に、紅と純白の鮮やかな対比をつくっていた。
「……どけ」
とまどいに乱される自身を叱咤するように、ラルザハルは低く唸った。
目の前の女を殺すのは容易い。このまま両手に力を加えれば、それだけでことたりる。
なのに動けなかった。
「きさま、よくもラシェイを」
そのとき、怒りを含んだ声がした。
突然、焼き付くような痛みが走る。脇腹に短剣が突き立てられていた。体から力が抜け膝がくだける。ラルザハルは膝を付いた。視界が反転して、上体がかたむく。
「ラルザハルさま!」
薄れゆく意識のなか、視界の端に、リーナンを見たような気がした。




