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19 【貝がら】



 うすくなりだした夜の藍色。

 どこかで一番鶏が鳴いた。暗い天上に朝の気配が溶けだし、暁がにじんでゆく。

「お姉さま、どこに行くの? 僕もう帰りたいよ」

 眠っていたのを無理に起こされて連れてこられ、シスは目に涙を溜めている。足の裏が痛くてたまらない。夜着を着替えるどころか靴をはく間も与えられず、素足で歩かされていた。

 両親に先立たれ、神殿の片隅で飢えを凌いでいたシスは、名も知らぬ偉い司教様に連れられて、水辺に浮かぶ水鳥のようなお屋敷に連れてこられた。

 美味しいお菓子をくれ「お姉さま」と呼ぶようにと微笑んでくれた、きれいで優しかったはずのひとは何も言ってくれない。いつものように髪を撫で、甘やかしてくれると思ったのに……。

 風に枝葉が鳴る。いまは暗い木々のざわめきよりも、傍らにいるこのひとが怖かった。

 樹木の立ち並ぶ小道をぬけると、視界が急に開けた。湖面が静かなたたずまいを見せている。青白い細波が月光を揺らめかせていた。

「海?」

 ようやくレダニエは口を開いた。

「そうよ。わたくしたちの海。さあ、姉さまといっしょに貝殻を拾いましょう」

 足元に敷き詰められた白砂を踏み、水辺に向かう。水面を渡る風が夜着の裾をはためかせた。

「いやだよ……僕、怖い……」

「だいじょうぶよ。何も怖いことなんかないわ。ほら、こうして姉さまが手を握っていてあげる。……ね? だから、もう二度と溺れたりしないわ」

 あやすように言って、手を引かれ、柔らかく引き寄せられる。右足が水に濡れた。冷たい感触にシスは小さな悲鳴を洩らした。

「いやだっ……手を放して」

 ぬかるみに足をとられ、しりごみをして首を振る。空は少しずつ明るさをとりもどしていたが、足元から広がる湖はまだ暗く、黒々とした空洞のようだった。

 なかば引き摺られるようにして、水の中を歩かされる。両膝が沈み、腰の高さまで水が来たとき、とうとうシスは耐え切れなくなった。

「やめてっ! やめてよう!」

 金切り声を上げ、シスは抵抗した。

 逃げようと手足をばたつかせる。泣いても叫んでも許してはもらえなかった。

「どうして? 貝殻が好きだと姉さまに教えてくれたでしょう」

「欲しくないよ。僕そんなこと言っていない。貝殻なんて好きじゃないよ」

「言ったわ。きれいな貝殻をたくさん拾って、兄さまに見せるのでしょう? ……嘘をつくなんていけない子ね。さあ、姉さまと一緒に貝殻を探すのよ。そう約束したでしょう。……駄目よ、泣いても許してあげないから」

 凪いだ湖面のように静かな声だった。微笑みすら浮かべ、レダニエは言う。

「ちがう、僕じゃない。僕はそんなこと」

 シスの首筋に白い指が巻きついた。

 鳴咽の混じった声が途中で跡切れ、水の中に消える。




 予想の通り、レダニエは湖にいた。

「よせ! やめるんだっ!」

 ラルザハルは湖に分け入ると、幼子を水から引きあげ、レダニエの手から救いだす。

 最初は悲鳴をあげることすら忘れ、放心して体を震わせるばかりだったシスはしばらくするとしゃくりあげ、声を上げて泣きだした。

「……うぇぇ……うえぇぇん……」

 必死にしがみついてくる子供の背を手のひらでそっと叩いてやりながら、ラルザハルは安心させるように同じ言葉をくりかえす。

「だいじょうぶ。もうだいじょうぶだ」

 しばらくの沈黙をおいてレダニエは首を巡らせた。視線がさまよい、やがて一個所にとどまる。

 シスは喉の奥で悲鳴を飲み込み、ぴくりと体を縮こまらせた。

「……ジャ……レス……?」

 手を伸ばし、身を寄せて、レダニエは幼子を抱きしめた。その瞳はシスを見詰めていながら、遠い過去の残像を追うように、どこか焦点を欠いている。

「嘘よ……本当は嘘……貝殻を落としてなどいないわ。だから……そっちに行っては駄目よ。ただ、あなたを困らせたかっただけ。……だって、フェリニオンはあなたのことばかり可愛がるんですもの」

 頬を涙がつたう。レダニエは愛しいもにするようにシスの頬にキスをして、水に濡れた髪を指で梳く。

「放してあげるんだ。怖がっている」

 いま初めて、そこに他人がいるのに気づいたように、レダニエはラルザハルを見た。

「……誰?」

 蒼褪めたおもてを恐怖がかすめ、身を引くようにしてラルザハルから距離をとる。

 傍らに浮いていた小箱を手で引寄せ、胸に抱える。その場にシスを残してレダニエは立ち上がった。

 ふいに箱の蓋が開いた。両手からいくつもの小さな薄紅色が零れ落ち、青い水面に揺れる。そのうちの一枚が水面を漂い、ラルザハルの足元に流れてきた。

「これは……!」

 貝殻などではない。うすく向う側が透けて見えた。正視に堪えられず、投げ捨てる。

 カーゼイ大司教に連れて来られた哀れな子供たち。湖に浮かんでいた侍女――彼らの破片がそこにあった。

「わたくしの貝殻が流れていってしまうわ」

 濡れるのもかまわずに、レダニエは水の中に屈み込む。水底を手でさらい、あるいは浮いているものをすくい上げる。

「違う……これではないわ。わたくしの貝殻が……わたくしの……」

 見つからないの、とレダニエは言った。あの夜のように。またひとつ涙が頬をつたう。

「早く探さなくては、あの子が溺れてしまう」

 水の中に両手を浸し、レダニエは貝殻を探す。水に浮いていたものは遠く流れだし、白い指の間を擦り抜けてゆく。

「あ……!」

 チカリ――何かが光った。

 水音が響く。水の中に膝を付いたまま、レダニエは短剣を引き上げた。朝日を反射させ、細い刃を透明な雫がつたい落ちる。水面に波紋が広がり、消えていった。

「ようやく見つけたわ……わたくしの……」

 短剣を手に、レダニエは立ち上がった。

 水を吸い、艶やかに流れ落ちる黒髪。水藻のように揺れている。濃く濡れ色が染みた夜着が、胸に細腰に、吸いつくように纏いついていた。

「それを、こっちに渡すんだ。レダニエ」

 問いかけは懇願するように響いた。

「いやよ。ようやく見つけた、わたくしの貝殻ですもの」

 手を伸ばすのと同じ分だけ、身を離す。食い入るように、何かに魅了されるように、レダニエは白い刃を見詰めている。

「レダニエ、やめるんだ」

「駄目よ。だってもう見つけてしまったんですもの」

 身をひるがえし、湖の奥へと向かう。

「フェリニオンではなく、本当はわたくしが湖に沈むべきだった。わたくしがあんなことを言わなければ、ジャレスは溺れたりしなかったんですもの」

「事故だ。仕方なかったんだ。誰の所為でもない、あれは事故だったんだ」

「どちらにせよ同じことだわ」

 どこか諦らめの匂う表情でそう言って、レダニエは一歩後ろに下がった。指先が、優美な仕草で短剣をもてあそぶ。また一歩。そしてもう一歩。二人の距離が離れてゆく。

「あの子には、わたくしを切り捨てることはできないの。カーゼイ大司教のことではなくてよ。わたしく自身のこと……ねえ、わかるでしょう?」

「そうだとしても、まだ遅くない……やりなおせるはずだ」

「あの日のことが頭から離れないの。あの子を助けようとしてフェリニオンが湖に沈んだ日のことが」

「それでも……っ」

 レダニエは首を振った。頬を透明な雫がつたう。

「あの子が憎いわ。……わたくしの中には憎悪ばかりがつまっているの」

「それだけじゃないはずだ。そうだろう?」

「もう遅いのよ。わたくしは決して変れないわ。……そしてあの子も、わたくしがいる限り変れない」

 レダニエは言った。

「あなたから大切なものを奪ったあの子を、あなたは許す? それとも憎む? わたくしは、わたくしは……どちらも選べない」

 白い刃を朝日に透かし、頭上に掲げる。

「ねえ……わたくしたち、ふたりとも良く似ていると思わないこと? ……あなたはどちらを選ぶのかしら」

 短剣で喉を突く一瞬、レダニエはあでやかに微笑んだ。




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