17 【メイアが遺したもの】
緑の萌える中の街道を、王都に向け、ラルザハルは愛馬を駆っていた。
黒とみまごう濃い葦毛に夕陽が鮮やかに射している。
軽やかでいて力強い馬脚、だが徐々に疲労がにじみはじめていた。
カラミアの屋敷からここまで、ほとんど休息をせず走りづめで来ていた。そろそろ雷光を休ませてやらなければならない。
幸い、すぐ近くに沢があった。ラルザハルは街道と隣接する木立を抜けて、比較的、足場のいい場所を選んで沢に降りた。
清水の流れる岩陰に雷光を誘導し、冷たい水を心ゆくまで飲ませてやる。時間が惜しいためブラシをかける余裕はなかったが、乾いた麻布で顔や目の縁を拭ってやった。耳の周りはとくに念入りに。鼻を鳴らして擦り寄ってくる雷光の首の横を撫でたとき、街道の方から、何頭もの馬の蹄が地を蹴る音が響いてきた。
「探せ! なんとしても探すのだ!」
尋常ではない声に、ラルザハルはその場に雷光を待たせて街道のようすを見にいった。
「やはり来たか……」
樹の影から街道を仰ぎ、低く呟く。白い鎧に太陽の紋章――神聖騎士の一団がそこにいた。カーゼイ大司教はラルザハルが王都に向かっていることを知り、なにがなんでも阻止するつもりなのだ。
神聖騎士の一団がどこかに行ってしまってから、ラルザハルは雷光を連れてふたたび街道にでた。彼らに見つかる恐れはあったが、ここで悠長に時間を費やしてもいられない。
やがて陽が落ち、辺りを黄昏が支配しはじめた。空は藍色に染まり、ひとつまたひとつと天上に星が満ちてきた。闇に乗じてラルザハルは雷光を走らせつづける。しばらく進むと、遠く前方にラルシェの街灯りが見えてきた。ここまで来れば王都までは目と鼻の先だった。そのとき、
「待て!」
ふいに暗闇で声がした。
「お前は……! いたぞ――」
咄嗟にラルザハルは、雷光ごと目の前の馬に体当たりをした。相手は剣を抜く間もなく落馬する。
「捕まえろ! い、いや、殺せ。殺すんだ!」
背後で声がした。すぐ後ろを追ってくる。多勢に無勢。ここで時間を無駄にはできなかった。ラルザハルは剣を抜いて応戦する代わり、前傾姿勢をとると、雷光の腹部に滅多に使うことのない拍車を入れた。
疾走の要求に、雷光は一瞬恐慌をきたした。
軍馬としての資質を重要視して育てられた雷光は敵に遭遇したとき、その場に踏み止まり剣を振るう主人の足となるよう訓練されている。戦場から逃げることは敗走を意味していた。雷光は嫌がってたたらを踏んだ。こんなとき先頭にたって走るようには訓練されていないのだ。
「行くんだ、雷光!」
それでも雷光は主人の声に応えた。雷光は全速力で走りだす。だが、いくらもしないうち速度が落ちはじめた。ここへ来て疲労が最高潮に達していた。街の灯りが近づいてくる。背後には追手がせまっていた。
雷光の、なめらかだった馬体から大量の汗が吹き出していた。吐く息が異様なほど粗く不規則になる。口から白い泡が零れはじめた。このまま走らせれば、あといくらもしないうち潰れるだろう。
だが、停まるわけにはいかなかった。
「雷光……! 頼む、あともう少しの辛抱だ」
「追えーっ! 逃がすな!」
ラルシェの街に入ったとき、新たな追手の声が響いた。ラルザハルは街の目抜き通りを右にそれた。
ガクン、と雷光が前のめりになった。なんとか体勢を立て直したが、限界がすぐそこまで迫っていた。目は血走り、口から吹き零れた泡が地面に落ちている。
「何やってんだい! あんた、そんなに無茶苦茶に走らせたら馬が死んじまうよ!」
ちょうど農家の裏口近くだった。覗き窓から女が顔を出した。
「あれ? もしかしてカラミアの若様?」
「俺を知っているのか?」
「ええ、あたしは……」
蹄の音が急速に近づいてくる。男達の叫びまでが耳に届いた。
「若様、追われているんだね?」
女はそう言うと木戸を開け、ラルザハルに中に入るよううながす。ラルザハルは雷光の背から飛び降りると手綱を引いて続いた。
雷光は、木戸を通り抜けるところまでが精一杯だった。馬は疲労が極限にたっしたとき、まれに地面に寝そべることがある。雷光は勝手口に続く裏庭に入ったとたん、へなへなと崩れ落ちるように腹ばいになった。
「雷光っ!」
「まだ、だいじょうぶだよ。疲れ切って動けなくなっただけさ。ゆっくり休ませれば元気になる。そこに手桶があるだろ。ほら、水を飲ませておやり」
ラルザハルは言われる通り、手桶に水を汲み、それを雷光の鼻先に持っていった。喉を鳴らして水を飲む姿に、とりあえずは大丈夫そうだ、と安堵の息を洩らす。だが、これ以上は走れないだろう。雷光に乗れないのは痛手だった。街の出入口には間違いなくカーゼイ大司教の手の者が目を光らせているだろう。新しい馬を借りたとしても、気心の知れていない他人の馬、それも農耕馬では結果は見えている。雷光に騎乗でき、時間に制限がなければまだ方法はあった。だが、いま剣を交えるのは不利があるどころか自殺行為に等しい。けれど諦めるつもりはなかった。
「とことんやってやるだけだ」
ひとりごち、ラルザハルは女に向き直る。
「雷光を……この馬をしばらく預かってほしい。もし数日たっても俺が戻らなかったら、カラミアの屋敷にいるリーナンという娘に知らせてくれ。それから……頼む、馬を貸して欲しい」
「安心おし。馬ならちゃんといるよ」
女に案内されてラルザハルは厩に行った。
「……これは」
厩の入口に来て、ラルザハルは絶句した。自分の目が信じられない。深雪がそこにいた。
「今朝方、突然ラシェイさまがお見えになって、この馬を預けていかれたんだ。もし馬の主人が現れたら渡してほしい、とおっしゃってね」
よほど大切に扱われていたらしく、深雪はすこぶる健康そうだった。機嫌もよく、純白の体毛もたてがみも艶やかだ。深雪はラルザハルに気づくと嬉しそうに擦り寄ってきた。
「ラシェイが……?」
これまでラルザハルは深雪に騎乗したことはなかった。馬は神経質で臆病なところがある。特定の主人を持つ馬は主人以外の人間が背に跨るのを好まないこともあった。普通はゆったりとした場所で、少しずつ馬と人間との意思の疎通を図るものなのだ。
「俺を乗せてくれるか、深雪」
問に応えるように深雪は肩に顔を押し付けてきた。鼻を鳴らし低くいななく。
「あたしも最初は何のことか判らなかったけど、そうか……こういうことだったんだね。さあ、時間が無いんだろう?」
ラルザハルは雷光の鞍を外すと、それを深雪に取り付けた。雷光はいくぶん落ち着きを取り戻し、ちゃんと四本の肢で立ち上がり、下草を食んでいた。
「雷光、よくがんばったな。後で迎えに来るから、それまで暴れるなよ」
雷光の首を軽く叩いて労うと、ラルザハルは踵を返し、深雪のもとに急いだ。
「いたぞー! こっちだ、こっちにに逃げて行く!」
暗闇に男の声が響いた。次いで街のあちらこちらで叫び声があがり、蹄の音が通りを駆け抜けてゆく。
「若様、急いで。いまのうちですよ。この先を左に折れてまっすぐ進めば中の街道に出ます。神殿の連中が戻って来ないうちに早く」
深雪に騎乗したラルザハルは、女に案内され、土塀沿いの目立たぬ裏通りを慎重に進んでいた。
「感謝する。この礼は必ず……そういえばまだ名前を尋ねていなかったな」
「レービェ」女は言った。「カラミアのお屋敷で執事をしていた、レパルの娘です」
「レパルの……」
「さあ、急いで。そして必ず戻って来てあの暴れ馬を持って帰ってくださいよ」
ラルザハルの言葉を途中で遮って、レービェは笑って手を振った。
「こっちだ! こっちにいたぞー」
表通りに出ていくらもしないうち追っ手に見つかった。人通りの完全に途絶えた真夜中である。白馬はこの地方では滅多にお目にかかれないだけでなく、夜の暗闇ではひどく目立つ。いったん誰かの目にとまったら最後、旗印を掲げて行進するようなものだった。
案の定、通りの横合いから何騎もの神聖騎士が現れた。ラルザハルは兵士の中央をまっすぐに、深雪を駆って前に飛びだした。
深雪は他の馬と比べ、一回り小柄である。性格も穏やかで扱いやすく、女性や子供を乗せて走るのにこれ以上ないほど適していた。だが優美な見かけを裏切り、単純に駈ける速さだけを競ったなら、雷光でも太刀打ちできない鋭さを持っている。特に先頭にたったとき、それらははっきりと頭角を現すのだ。
『ねえ、兄さま、知っていて? わたしの深雪は兄さまの雷光より速いのよ』
メイア!
背後から追ってくる蹄の音が、次第に遠ざかる。ラルザハルは深雪とともに、闇の中を朝日の昇る方向に向かい、ひたすら疾走した。




