15 【決別】
王宮で暮らすようになり幾日が過ぎたろう。いつのまにか脇腹の傷はほぼ完治していた。
「リーナン、お前にはいろいろと世話になりっぱなしだな」
繕いものをしていたリーナンは、手元から目を外すとラルザハルの方を向いた。
「いきなりどうなすったんですか? ラルザハルさま」
「お前にはいろいろ大変な思いをさせた。カラミアの家に関わり合いになったばかりに、知り合いもいない王都などに連れて来られたんだ。いまなら故郷に帰してやれるし、多少の持参金も持たせてやれる。新しい勤め先を探せるよう、心当りに紹介状も書いてやろう……いつまでも俺に付き合うことはないんだぞ?」
「わたしには、ここ以外に帰る家なんてありませんよ」
リーナンはくすりと笑った。
「レパルさんが飢えていたわたしを拾ってくださって、旦那様が助けてくださったんです。奥様もお嬢様も何も知らない役立たずだったわたしに、とても良くしてくださいました。だからラルザハルさま、わたしをお側に置いてください」
「だが、俺と一緒にいたら……」
「できました。衿のところの飾り紐の色を替えてみたんですよ。きっとこっちの色の方がラルザハルさまにはお似合いになると思って」
手鋏みで糸を切って糸屑を払うと、布地の皺を丁寧に伸ばしてゆく。リーナンは言った。
「カラミアの御当主様がいらっしゃるところが、いつだってわたしの家です」
「ありがとう、リーナン」
「嫌ですよう、そんなあらたまって。よしてください」
慌てたように裁縫箱を仕舞い首を振って立ち上がる。リーナンはちょっと涙ぐんでいた。
「あらやだ。もうこんな時間! わたし、今夜はもう休ませてもらいますね。おやすみなさい、ラルザハルさま」
「ああ、おやすみ」
リーナンが部屋を出て行き、ラルザハルは部屋にひとりきり残された。そろそろ皆が寝静まる夜更けである。
ときおり吹き抜ける風の音のほか、王宮はひっそりとしている。書き物でもしようかと筆をとり、そんな気分ではないと溜息をついた。今夜は眠れそうにない。
ラルザハルは立ち上がると部屋を後にした。
思い浮かべたのは、新月の月明かりの下で逢った少女ではない。けれど湖のことを考えていた。
雷光のようすでも見ようかと厩舎へ足を運び、ジャレスと出逢った。やはり伴のひとりも連れていない。他人が近づくのを拒むかのように、いつでも彼はひとりだった。
厩舎の灯りも届かない暗闇にジャレスはいた。木のベンチに腰掛けて、片膝を立て、その膝に頬杖をついている。夜にとける漆黒の髪。身に着けているのは薄い夜着が一枚だけ。肌寒い夜風が吹いていた。俯いたまま、ぼんやりと足元を見つめている。
ラルザハルは声も掛けず、立ち去りもしなかった。無言のまま少年を見下ろしていた。
どのくらいそうしていただろう。
冷えはじめた夜風に身を震わせ、ジャレスは顔を上げた。考えごとに熱中していたらしい。驚いたように周囲を見まわした。
「いつからそこに……?」
「そんなに長いあいだじゃない。いま来たことろだ。……眠れないのか?」
ジャレスは頷いた。
「目が冴えて」
いつになくジャレスは沈んでいた。昼間の傲慢さがまるきり嘘のように。歳相応の、少年らしい素顔がのぞいている。
「腹の傷はもういいのか?」
「ああ。じきに傷口を押えている布も取れるようになる」
「……そうか」
飽きもせず、傷のことを尋ねるのは、ほかに共通の話題がないからだった。
意志の疎通が伴うことのない、意味を成さない言葉遊び。上辺だけを上品にとりつくろう社交辞令のようでいて、そうではなかった。同じように繰り返される言葉の奥に、いつだって別の何かが見え隠れしていた。
交わした言葉はそれほど多くはない。年齢も近いとは言えず、ましてや友と呼べるほど親しい存在であるはずもなかった。ジャレスについて、ラルザハルは何ひとつ知らない。知っていることがあるとすれば、最初に出逢った、あのバルコニーがあるだけだ。
誓いを忘れたわけじゃない。
けれど思いとはうらはらに、ラルザハルは口を開かずにはいられなかった。
「もう殺しはするな」
それには応えずに、ジャレスは言った。
「父上の……陛下の特別なはからいでカラミア領は存続することが決まった。お前は新カラミア候を名乗ることを許された。……これでもう、自由の身だ」
暗闇に視線を落とし、小さく息をつく。ジャレスは自嘲するように、微かに笑んだ。
「誰のはからいだって?」ラルザハルは言った「ロザハ三世陛下は重い御病気のはずだ」
アカルジャ国王が現在危篤状態にあり、もう政を執り行えないのは周知の事実となっていた。周囲の補佐の上にようやく成り立っているとはいえ、実際に決定権を持ち、執務を行っているのはジャレスをおいて他にない。
「もう誰も殺したりするな。愚行を改めろ。お前は……次代の国王になる身だぞ? それだけじゃない――」
「それ以上は言うな」
言葉は途中で遮られた。
「自分の足元に火が点いていることぐらい判っているさ」
アカルジャ国王ロザハ三世崩御に向け、すでにダファル候は動き出している。それくらい、ジャレスも十分承知しているだろう。
「それなら、なぜ、カーゼイ大司教と手を切らない? 自分の身を危うくしてまで、こんなことをいつまで続けるつもりだ」
「そんなこと、お前に関係ない」
隠し切れない弱みをちらつかせながら、手を差し伸べたとたん、そうやっていつも突き放す。気づかれていないとでも思っているのだろうか。
「私に指図するな。私は、私のやりたいようにするだけだ」
神殿と、カーゼイ大司教と手を切りさえすれば、ジャレスはちゃんとやっていけるはずだ。憂いさえ取り除くことができれば、もう愚行に手を染める必要もなくなる。
もともと資質がないわけじゃない。それが判っているからこそ、ラルザハルはくいさがらずにいられなかった。
「理由を言え。何がお前をそうさせている?」
「……何も」
「みえすいた嘘をつくな」
「嘘なんかじゃないっ!」
堪えきれなくなったようにベンチを立ちあがり、ジャレスは声を荒げた。
「もうこれいじょう私にかまうな! お前などに何が判る。放っておいてくれっ!」
「それができたら……っ!」
逃げるようにその場を離れようとするジャレスの、剥き出しになった腕を掴み、ラルザハルもまた声を荒げた。
「その手を放せ。きさま、誰に向かって口をきいている。お前も死にたいか!」
口にした瞬間、その意味に、ジャレスは凍りついた。
目の眩むような激情に、一瞬、ラルザハルは我を忘れた。胸のうち、カッと熱いものが込み上げる。考えるより先に体が動いていた。
ラルザハルはジャレスを突き飛ばした。背後にあった樹木に叩きつけるようにして、その背を幹に押し付ける。痛みと衝撃にジャレスは顔を歪めた。木の枝が軋んだ悲鳴を上げ、木の葉が舞い散った。
ジャレスは体制を崩し、後ろに倒れそうになる。その上に覆い被さるようにして、ラルザハルは身を近づけた。蹴り上げられることのないように体を重ね、両肩を押さえ込む。蒼褪めたおもてを見下ろして、息が掛かるほど顔を寄せた。
「死ぬ? 誰がだ」
耳元に囁いて、夜闇に白く晒された首筋に指を巻きつけた。そのまま、ゆっくりと力を加えていく。気管が絞まり、徐々にすぼまっていく。感触が、両手に伝わってきた。ぐう、と喉が鳴った。
「……や……めっ……」
腕を引き剥がそうと試みたが果たせず、ジャレスは喘いだ。
圧迫された気管が、必死に空気を求め、手の下で脈を打つ。体が痙攣するように震え、やがて抵抗が止んだ。血の気の引いたおもて。ラルザハルの腕に爪をたてていた指先が放れ、手がすべり落ちる。両膝から力が抜け、支えを失った体が足元にくず折れて、ようやくラルザハルは自分のしていることに気がついた。
樹木の根元に背中を寄り掛からせ、ジャレスは座り込んでいた。意識はない。上体が左に傾ぎ、ゆっくりと下草に倒れてゆく。
「…………」
ラルザハルは動けなかった。その場に立ち尽くして言葉を失い、恐ろしいものでも見るように、ただジャレスを見下ろしていた。
いくばくかの沈黙が流れた。やがて、びくり、とジャレスは身を震わせた。横を向いて体を二つに折り、幾度も咳き込む。
「……ど……して……や……める……?」
それはラルザハル自身の問いでもあった。
最初から殺すつもりで、ずっと機会を狙っていた。仕損じることのないよう、冷静に、そのときを待っていた。待ち望んでいた機会が訪れて、なのに、ラルザハルは手の力を抜いて獲物を開放する。
この動揺はどこから来るのだろう。自身の手のひらを茫然と見つめる。
「いつでも殺れるからだ……」
「なら……なぜ殺さない……?」
声はひどくかすれていた。ジャレスはすぐには動けないようだった。くっきりと指の跡が浮いた喉元から、視線を外せない。食い入るように見つめたまま、ラルザハルは続けた。
「そうだ、いつだって殺せた。お前を殺すなど造作もない。ああ……そうだとも」
いい訳めいた独白だった。誰かに向けてではなく、自分自身に。
「出逢ったときから俺達は憎しみあうようにできていたんだ。最初からそれが運命だった……ちがうか?」
ジャレスが頷く。
「ああ。その通りだ」
屋敷を燃やし、大切な人々を手にかけたジャレス。長年尽くしてくれたレパルの無残な最期の姿が脳裏に浮かんだ。血に濡れて倒れていた父、腕の中で事切れた母、そしてメイア。
悲しみも憎しみも変わらない。いまも心にある。胸の悪くなるような憎悪と共に。
復讐するつもりでいた。殺すつもりだった。
けれどもう、きっと殺せない。知ってしまったから。
なぜ殺せないのかと、ラルザハルは自問する。殺せないのに、なぜここに留まるのか、と。
「おまえは俺に何を求めている?」
「……なにも」
突き放すようにジャレスが言った。
「最初から何も求めてなどいない」
そうだ。答えを聞くまでもない。最初から判り切っていたことだ。ジャレスは誰の手も欲していない。助けなど求めていない。
自嘲にうすく笑み、ラルザハルは決別を告げる。
「俺は、明日ここを出て行く。……お前と関わり合いになるのは、もうたくさんだ」
ジャレスは何も言わず、ただ頷いた。
翌朝――
ラルザハルとリーナンは王都を後にした。
アカルジャ国王ロザハ三世崩御が伝えられたのは、それからまもなくのことである。




