12 【見えざるもの】
その日、レダニエは朝から機嫌が良かった。
いつもは決して他人には手を触れさせない黒髪に櫛をいれることを許し、その髪をゆるく編み込ませるほどに。そんなことは滅多にない。彼女はいつも鏡に向かい、自身の白い手を使って、艶やかな黒髪を熱心に櫛でときほぐす。どこか儀式めいたその作業は、それこそいつまでも続くのが常だった。
「いつまで、そんな場所に立っているつもり? さあ、こちらへいらっしゃい。あなたにいいものを見せてあげるわ」
微笑みすら浮かべる姉に混乱する。ジャレスは微妙に姉から視線をはずし、あいまいな笑みを浮かべた。
こうやって優しい言葉と微笑みを向けられて、淡い期待を抱かせ、幾度、冷たく突き放されたことだろう。ちょっとしたことに一喜一憂し、姉の顔色を伺っている自分をジャレスは嫌悪していた。
「あたらしい貝殻を拾ったの。きれいな貝殻を……ね、見て」
レダニエは膝の上に乗せて持っていた、青い縁取りのついた小箱を手に取って蓋を開けると、その中の一枚をうっとりと見下ろした。
「これよ、うすく透き通った貝殻なの。淡い紅色がとてもきれい」
急に吐き気を覚え、ジャレスは顔を背けた。
「どうかして?」
「いいえ……なんでもありません。姉上」
白い手のひらで、小箱がシャリンと澄んだ音をたてる。レダニエは蓋を閉めると、大切な小箱を膝に抱えなおした。
「お姉さま」
声がして、部屋の外のバルコニーから幼い子供が顔を見せた。年齢は五歳か六歳くらい、金の巻毛に青い瞳をした可愛らしい男の子だ。
「……その子供は」
「シスというの。わたくしの話し相手に、とカーゼイさまが新しく連れて来てくださったのよ」
「失礼いたしますぞ」
レダニエの声に応えるように、とうのカーゼイ大司教が姿を現した。レダニエはシスを手招くと、ふわふわとした金髪を撫でた。
「シス、この砂糖菓子をあげるわ。しばらく外で遊んでいらっしゃい。後でお姉さまも一緒に遊んであげるから」
「はい。お姉さま」
シスは嬉しそうに頷き、部屋を出ていった。
テーブルの上には色とりどりの髪飾りや細いピンがところせましと並んでいた。侍女の手が丁寧にレダニエの艶やかな漆黒をくしけずる。
「反逆者の息子を牢に繋ぐどころか、王宮に留め置くのは、どういう理由からですかな?」
「証拠は何もないはずだ」
「あの男の危険性はジャレスさまもご存知のはず。これいじょう野放しにされては困るのです。こちらに引き渡してもらえますな」
「そのつもりはない」
ジャレスはカーゼイ大司教に侮蔑の視線を向け、言い捨てる。
「もう、おまえの言いなりにはならない、と言ったはずだ」
二人の話す声のほか、部屋はしんと静まっていた。レダニエの長い髪をとく微かな音と、衣擦れ、侍女の息遣いが聞こえてくる。
「髪はゆるく編んで背に垂らすだけにしてね」
「はい。姫さま」
侍女は緊張した面持ちで言い、髪に香油をふりかける。甘い香りがほのかに漂ってきた。
「装飾庭園の湖に行ったそうね、ジャレス」
その鏡を取ってちょうだい。そう言って、レダニエは手鏡を指し示す。
レダニエは手鏡をかざしながら、髪飾りのひとつを手に取ると髪にあてた。紙のようにうすく延ばした金と銀を、精緻な細工で織り上げたものだ。
「湖に亡霊はいて?」
ジャレスは黙ったままだった。蒼褪めたおもてに動揺がかすめる。
「その方の名は、なんといったかしら」
「ラルザハルです……姉上」
ラルザハル――唇がその名を形にする。
「殺しなさい」
歌うようにレダニエが言う。
「ロサ神がそうせよとおっしゃっているわ」
「おお……啓示が下された。これは間違いなく『ロサの乙女』のお言葉ですぞ。ロサ神がその男の死を望んでおられるのだ」
重々しくカーゼイ大司教が告げた。
「……できません、姉上……私には」
鏡に映る自分をじっと見詰め、レダニエは目を見開いた。
刹那。侍女の悲鳴が響き渡った。
「きゃあー!」
侍女の手のひらが、テーブルに縫い止められている。さっきまでレダニエが手にしていたピンが、その手の甲に深く突き立てられていた。
「姉上!」
断末魔に似た悲鳴を上げ続け、侍女は泣き叫んだ。カーゼイ大司教は法衣の裾を乱してよろめくと、くぐもった声を洩らす。
「だれか! 薬師を呼べ!」
咄嗟に身悶えする手を押さえ、ジャレスは手に刺さったピンを引き抜いた。赤く穿たれた傷口に血の粒が盛り上がり、噴水のように飛沫をあげる。
ラルザハル、彼女はその名をもういちど繰り返した。
「あの方は生命を望んでいらっしゃる。その者を側近としてお迎えになりたいと……わたくしには囁きが聞こえてくるわ」
「姉上、私には……」
搾り出すような声にレダニエの言葉が重なった。
「それなら身代わりを探しなさい。その者の代わりをつとめるに相応しい者を」
レダニエと逢ったその足で、ラルザハルの居室を訪れるようになったのはいつからだろう。湖水宮を辞してふと気づいたとき、ジャレスは見覚えのある客室の前に立っていた。
前置きなしに、部屋の扉を開け放すのはいつものことだった。ジャレスはつんと顎をそびやかし胸の前で腕を組むと、見慣れた客室をぐるりと見回した。
捜し求めていた相手はすぐに見つかった。長椅子にゆったり腰を落ち着けてテーブルに向かい、なにやら書き物をしている。少し赤みがかった金褐色の髪、ときおり手で前髪を払うのが、何かに熱中しているときのラルザハルの癖だった。
わざと荒々しく靴音を響かせてジャレスは背後から近づいた。ラルザハルは石筆を置いてふりかえり、ゆっくりと視線をめぐらせる。
「どうした?」
憎まれ口のひとつでもあびせてやるつもりが、逆に声をかけられた。いつになく穏やかな声の調子と眼差しをしている。
「体調はもとに戻ったのか」
「戻った。もう何ともない。たまたまこの間は朝から調子が悪かったんだ。それだけのことだ」
たたみかけるような口調で言い切って、一方的に会話を終らせる。
体調不良を理由にすることじたい気に入らなかったが、反論を防ぐためジャレスはあえてそうした。あの場所で過去に何があったのか、誰にも告げるつもりはない。弱みを他人に見せるなど自尊心が許さなかった。
気を失って寝室に運ばれ、まる一日が過ぎている。湖で無様に醜態をさらし、ラルザハルには一番みっともない姿を見られてしまった。それだけでも充分過ぎるほどの失態だ。
「それならいいが。ああ……まだ、顔色があまり良くないな。熱でもあるんじゃないのか」
そう言って手を伸ばす。
「熱などない」
昨日、寝室まで担いで来たためか、頬に触れてくる温かな手は、その行為をジャレスほどには意識していないようだった。意外な接触にどう対処したらいいのか思いつかないまま、それでもどうにか無関心を装った。
「……どうかしたのか」
「なにがだ」
問われたことに驚いて、返す声がかすれる。
「おまえ、なんだか変だぞ。なにがあった?」
椅子に座ったままのラルザハルと、その斜め後ろに立つジャレスの目の高さはあまり違わない。至近距離だからなのだろうか。見透かされている気さえしてくる。ふいにレダニエの言葉が胸に甦り、ジャレスは動揺した。
「なんでもない。なにかあるはずなどないだろう!」
ジャレスは顔をそむけた。ラルザハルの手を振り払い、背を向ける。背後で自分の名を呼ぶ声を無視して、足を速め、逃げるように部屋をとびだした。




