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10 【予兆】



「ジャレス王子を助けてくれたそうね」

 ラルザハルの居室を訪れるなり、ラシェイは前置きなしにそう言った。豪奢な赤い髪を背で束ねて、腰に剣を帯び、身を包むのは男物の衣装である。

 意識を失ったジャレスを担ぎ、王宮にある寝室に運んでから、そろそろ半日がたとうとしていた。

 寝台にジャレスを寝かせ、つい今しがたラルザハルは部屋に戻ったばかり。水に濡れたブーツを脱いで、着替えをすませたところだった。

「礼を言うには及ばない。ただ部屋まで運んだだけのことだ。好きでやったわけじゃない」

「それでも、あなたがいてくれて良かったわ」

 ラシェイはラルザハルの言葉に気を悪くするふうもなく、そう言った。今日の彼女の口調は前に話したときと比べ、いくぶん和らいですらいる。

「今朝のようなことは、よくあるのか?」

「そうね。それでも、ここ数年は安定していたのだけれど……。ねえ、王子はどこで倒れたの?」

「装飾庭園の――」

「ひょっとして、湖で?」

 心当たりがあるらしい。最後まで聞くことなく、ラシェイは正解を引き当てた。

「そうだ」

「ひとつ、聞いてもいいかしら?」

 吐息をついて、ラシェイは言った。

「ジャレス王子のことを、どう思っていて?」

「それを、この俺に訊くのか?」

 意識もせずに言葉が刺を帯びる。

 ラルザハルとその家族に、ジャレスがいったい何をしたのか。あの場所に居合わせたラシェイには、答えるまでもなく判っているはずだ。

「聞いて、ジャレス王子は……」

「よせ!」

 ラシェイの言葉をラルザハルは遮った。

「なぜ、それを俺に言う? あの王子に何があるにせよ、俺には関係のないことだ」

「そうね、ごめんなさい。邪魔をしてしまったようね。……失礼するわ」

 ラシェイは悲しげに言って謝罪すると、部屋を出ていった。

 ひとり取り残されたラルザハルは、奇妙な脱力感を覚え長椅子に腰を下ろした。俯いて、頭を抱える。

 最後まで聞かなかったのは、聞くことで決心が揺らぐような危機感を覚えたからだ。

 できるなら、何も聞きたくなどなかった。何も見たくなどないし、知りたくもない。

「よけいなことを……」

 得体の知れない感情が決心を鈍らせる。

 急がなくては、とラルザハルは思った。これ以上、深入りをしてしまわないうちに。

「……冷酷になれるはずだ」

 忘れたわけじゃない。決して。

 独白は苦渋に満ちていた。




 その夜、前の晩と同じようにラルザハルは寝台を抜け出した。

 行く先を特に決めていたわけではい。なかば無意識に夜闇に消えた少女の姿を求めて、幾度も通った小道をたどり、真夜中の湖に足を運んでいた。

 下草を踏んで、緩やかな広陵をくだり、凪いだ岸辺で足を止める。ゆっくりと暗い水面に向けて、ラルザハルは足を踏み出した。

 冷たい水が足元に染みて、ブーツに濡れ色が広がる。もう数歩、足を前に踏み出せば、ジャレスが叫びを上げて引き止めようとした場所だった。

「……」

 ラルザハルは振り向いた。

 ジャレスが立っていた古木の方を見て苦く笑うと、もと来た岸辺へと引き返した。




 夜が完全に明ける前、ラルザハルは寝台に戻った。短い睡眠をとって次に目覚めたとき、王宮内は妙に騒然とし、あたりには異様な気配がたちこめていた。

「何かあったんでしょうか」

 脇腹の傷は、ほぼふさがっていた。湿布を新しいものと取り替え、傷口を布でしっかり押さえ、慣れた手付きでラルザハルの着替えを手伝うと、リーナンは立ち上がった。

「あたし、ちょっと行って誰かに聞いてきますね」

「ああ、頼む」

 ほどなくして戻ってきたリーナンは、かなり慌てたようすで息を切らしていた。よほど急いで戻って来たのだろう。

「大変です。装飾庭園の奥の湖で、女のひとの死体が見つかったそうなんです」

「なんだって……本当なのか?」

 はい、と頷いて、リーナンは指先でロサの印を結ぶ。

「それもただ死んでいるんじゃなく、殺されて水に浸けられていたらしいんです」

 とっさに浮かんだのは、あの晩、人気のない湖で出逢った少女のことだった。すう、と体が内側から冷えてゆく。冷気にあてられたような感覚を覚え、ラルザハルは服の上から傷口を手でさすった。

「今朝早くに庭師が死体を見付けたそうです。普段は、めったに人が来ないような寂しい場所らしいんですけど、ここ最近、夜中になると湖に何かがでるって侍女達の間で噂になっているようなんです」

 どうりで装飾庭園では誰にも出会わなかったわけだ。ジャレスは何も言わなかったが、知っていて黙っている可能性は否定できない。もっとも、その噂とやらまで知っているとは思えなかったが。

 迂闊にも姿を見られていたらしい。まんがいち噂の正体が自分と知れれば犯人にされかねない。

「きっと、亡くなったフェリニオンさまの亡霊の仕業だろう。呼ばれたんじゃないか、ってそう言っていました」

 フェリニオンという名を聞いた覚えがある。そう、あれは確か……。

「呼ばれた?」

「聞いたのはそれだけです。その話は、あまり大っぴらにはできないらしくて」

「そうか、ありがとう。また何かわかったら教えてくれ。俺は、ちょっと行って様子を見て来る」

 身支度もそこそこに、ラルザハルは部屋を飛び出した。




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