09 【装飾庭園】
「おい。いったいどこへ行くつもりだ」
背後から聞こえてくる声を無視して、ラルザハルは心持ち足を速めた。
「おい!」
不機嫌な声が大きさを増す。声は、ちょうど二、三歩ほどの距離を置き、歩調を合わせてラルザハルの後を付いてくる。
「聞こえないのか。どこへ行くのかと聞いているんだ」
諦める気はないらしい。面倒なことだ。ラルザハルは肩をすくめた。足を止め振り返る。
「付いて来いと言った覚えはありませんがね」
嫌味たっぷりに言ってみても、効果はまるでない。ジャレスは平然として胸をはった。
「それがどうした。私は私の好きなように行動する。誰の指図も受けはしない」
「はいはい。どうぞご勝手に」
「なんだ。何か言いたいことでもあるのか」
傲慢そのものの口調。待ってましたとばかりに、ジャレスが食らい付いてくる。
いつものように嫌味の応酬になりそうな気配に、いい加減ラルザハルはうんざりしてきた。正直、またか、の心境である。
「何もございませんよ。王子さま」
その気がない、と言外に告げれば、忌々しげに舌を打つのが聞こえた。行儀の悪い王子もあったものだ。
「ふん。こんなときばかり丁寧な言葉など使いやがって。だいたい、おまえは……おい、聞いているのか」
「聞いてますよ。ちゃんとね」
なおも文句を並べ立てるジャレスをそのままに、さっさと歩き出す。ラルザハルは昨夜通った道程をたどっていった。本音を言えばジャレスが一緒なのは願い下げだが、それを口にしようものなら、我の強いわがまま小僧のことだ、意地でも付いて来ると主張するに決まっている。仕方がない、とラルザハルはなかば諦めて自分を納得させた。勝手にしろだ。うるさい餓鬼は無視するにかぎる。
ラルザハルが向かっているのは、昨夜訪れた装飾庭園にある湖だった。
昨夜見たもの、あれが現実のことだとは、にわかには信じがたい。本当は自分は寝室で眠っていて、夢を見ていたにすぎないのでは。真夜中のことだ。見間違いかもしれない。けれど、あのとき逢った少女の顔は今もはっきりと覚えている。
会話らしい会話を交す前に、逃げるように夜の向こうへ消えた少女。あっという間のできごとで、名前を尋ねることもできなかった。闇に浮かぶ陶器のように白いおもては壊れそうなほど儚げで、とても血の通った普通の人間とは思えなかった。頬を濡らす涙の跡がちらついて脳裡を離れない。供すら連れず、彼女は何を探していたのだろう。
もう一度、確かめたい。昼の太陽のもとで。昨夜と同じように岸辺に立てば、あれが夢なのか現実なのかはっきりするだろう。
厩舎を抜けて馬場を通り過ぎて歩くうち、さっきから文句を並べ立て、うるさいくらいに自己主張をしていたはずのジャレスは、いつのまにか口数が減っていた。会話――それは、ほとんど一方的なものだったが――が途絶え、二人はおし黙ったまま歩き続ける。自身の考えに熱中していたために、ラルザハルは妙な雰囲気に気が付かなかった。
装飾庭園の入口にある白いアーチの前に到着して、ジャレスは初めて口を開いた。その声はどことなく沈んでいる。
「この奥へ行くつもりなのか」
「ああ。それがどうかしたのか?」
「いや、べつに……」
いつもの毒舌ぶりはどこへやら。返って来た答えは、いやに歯切れの悪いものだった。
「嫌なら、無理に付いてくることはないぞ?」
「嫌だとは言っていない。たんに気が進まないだけだ」
「なんだ、この先に何かあるのか?」
「何もありはしない」
きっぱりとした否定が返って来た。
昨夜と同じ道をたどり、四阿に到着した。
奇妙なほど閑散としている。広大な規模の装飾庭園には、日中だというのに誰もいない。庭園をそぞろ歩く貴婦人も、木陰で戯れる恋人達も、庭師の姿すら見当たらなかった。
ラルザハルは枝葉をかき分けて、昨夜の湖へ続く小道を下ってゆく。ジャレスは相変わらず押し黙ったままだ。いつしか、その歩調までが遅れがちになっていた。
「やはり夢じゃない……」
湖は幻などではなく、思ったとおり実在した。鏡のように凪いだ湖面は深い蒼をたたえ、昨日と同じように周囲の景色を映して揺れている。そこに足りないものは、あの少女の姿だけだった。
ラルザハルは深呼吸をひとつした。広々とした景色を見回すと、澄んだ水面に向けて歩を進める。水に濡れるのもかまわずに、昨夜少女が立っていたあたりまで水に浸かった。視線を落とし、足元を見ようと前屈みになったとき、革のベルトで吊っていたはずの短剣が滑り落ちた。水滴がはね、水面が揺らぐ。抜き身の刀身が水の中で反射する。
叫び声がしたのは、そのときだった。
「やめろ……っ!」
喉を震わせるのは明らかに悲鳴だった。ジャレスはひどく取り乱していた。遠目にも、顔が蒼白になっているのが見て取れる。
「どうした?」
てっきりすぐ後ろを付いて来ている、と思い、関心を払ってもいなかった。
小道の出口に近い古木の陰に立ち止まったきり、ジャレスはその場を一歩も動かない。いや、動かないのではなく、動けなかった。
「やめろっ……行かないでくれ……」
普段の彼からは想像も付かない。今にも泣き出しそうに顔を歪め、ジャレスは懇願した。恐怖に彩られたおもては色を失い、死人のそれのようだった。
「ジャレス!」
ふいに少年の身体が傾いた。
ふつり、と糸が切れるように意識を失い、ジャレスはその場所に倒れ込んだ。




