第十七話 世界創造を伝える地・タンザナイト
吹き抜けた優しい風が俺の髪を揺らす。視界にちらつく前髪が邪魔で俺は前髪を掻き上げた。
すっきりした視界に入ったネモフィラさんは、風が吹いてきた方向を見つめて目を細める。長い髪が乱れるのも構わずに。
そして彼女は振り返って俺を見た。その目は俺であって俺でないものを見ている気がして、心地がいいものではない。思わず目をそらしてしまった。心を透かし見られているような、なんだか『俺』という存在が消えてしまったような気がした。
ネモフィラさんはふ、と息を吐き、長いまつげを伏せる。その表情は何か言いたげでもあったし、思案しているようにも見えた。
不意に後ろから服を引っ張られる。振り返るとリリーが俺を睨んでいた。銀の髪が光を受けて輝いている。その髪の隙間から見える澄んだ水色の瞳がわずかに震えていた。
「……早く行くわよ。あたしたちは、帰らなきゃ行けないんだから」
「…………」
恐怖か、それとも嫌悪か。リリーはネモフィラさんが姿を現してから落ち着きがなく、動揺しているようにも見える。
……無理もないかもしれない。
さんざん自分たちを苦しめてきた種族の姫君が目の前にいるのだから。しかもその人はエルフと人間と、そしてハーフエルフが手を取り合い、暮らしていける平和な未来を望んでいる。
動揺もするだろう。やっぱりそう思えた。
俺がこのまま去ろうか、そうちらりと考えた時、ネモフィラさんがローブの内側につけられたポケットから何かを取り出し、両手で大事そうに包み込みながら俺に近づいてきた。
弾かれるように、反射的にリリーは下がる。ユノはただ静かに事の成り行きを見守っていた。
ネモフィラさんは俺の前まで来ると両手を開き、それを見せる。彼女が大事そうに持ってきたのは、真っ黒な結晶のようなものがぶら下がっているペンダント。その黒は夜にも影にも――闇にも見えた。光さえも吸収してしまうような、真っ暗闇。それが圧縮されて出来たような結晶だ。
俺の目の前にそれを差し出してくる。俺は思わず訝しむように眉をひそめた。
「なんですか、これ」
「貴方に持っていてもらいたいものです。――きっと、貴方を正しい道へ導いてくださいます」
俺の質問には答えず、ネモフィラさんはそう告げて俺にペンダントを託した。そして両手を胸の前で組んで、まっすぐに俺を見上げる。
「ここから東へ向かうと、隠されたエルフの遺跡があります。そこには古代の遺産と、これまでこの世界がたどってきた歴史の全て――そして世界創造について記されています。そのペンダントが鍵となって、扉は開くでしょう。向かうことを強制は致しません、ただ、これは貴方に託します」
ネモフィラさんはそれだけ言い残すと気品のある会釈をして、木々の向こうへ消えて行った。
「ねえ、本当に行くの? 道草食ってる場合?」
結局あの後、ネモフィラさんに教えてもらったエルフの遺跡とやらに向かうことになった。またとても曖昧なのだが、そこに何かがあるような気がしてならない、そう思って。まるで自分に糸がついていて引っ張られるような、導かれるような、そんな感覚。何があるかなんてわからないが、俺に――もしかしたら二人にも――関係することのような気がした。このまま行かずに戻ったら、一生知ることのできないような不安感も同時にあった。
「エルフの遺跡なんてレンガが積まれた、ただの廃墟じゃない。何が世界創造よ……」
「別にいいじゃんか。遠い場所にあるわけじゃないんだ、行ってみる価値はある」
「あたしたちはただの傭兵よ? 世界創造だの歴史のすべてだの――考古学者じゃないんだから」
リリーは俺が「行こう」と言い出した時からずっとこの調子だ。確かに早く帰らなきゃいけないというのは確かな事だけれど、船が使えず、徒歩と獣車で帰るという手段しかない俺たちにとってみれば、一時間も一日も一週間も――は言い過ぎかもしれないが、そんなに変わらないと思う。
リリーは次第に文句を言うことをやめ、唇をとがらせながら渋々ついてくる。これ以上何かを言っても戻ることはないと判断したのだろう。実際、俺に戻るつもりはさらさらなかったし、ある意味リリーが黙ってくれたのは良かったかもしれない。生返事を繰り返すのも、めんどくさく感じたところだったから。
俺はふとユノはどうしているだろうとちらりと後ろを見やった。ユノは長い金髪を風に煌めかせながらリリーの少し後ろをただ黙々と着いてくる。なんだかんだと彼女が一番エルフのことについて詳しそうだし、向こうに着いたら先ほどのように少しは饒舌になるかもしれない。
まだ、ユノについて俺たちは知らなすぎる。
彼女が無口というのもあるが、俺たち自身が、元々相手の過去や事情を深く探ることをしないからだ。相手が話し始めるまでひたすら待つ。それが一番無難で、余計な問題を生まないから。
ただ、ユノの場合、今までの俺たちの暗黙の了解ともいうべき相手の詮索をしなければ、何も話してくれないかもしれない。彼女がただの無口だったら話は別なのだが、彼女が頑なに心を開かないことがはっきりとわかったからだ。昨日から今日まで一緒にいるわけだが、自分の名前以外、自らの情報を俺たちに教えていない。
(必要な事以外は何も話さなくてもいいってことなのか……?)
彼女の考えていることは本当に何もわからなかった。リリーのように、表情や態度に出やすいとかなら、読心術なんて魔術師のような力がなくても手に取るように考えていることが分かるのに。
……たぶん今リリーはいつも不機嫌な時にする無愛想な顔をしているだろう。
そう思い振り返ると、案の定俺の予想通りの顔を張り付けたリリーがそこにいた。なんだかおかしくて声を出さずに笑う。
「……何笑ってんのよ」
……不機嫌な時のリリーは鋭いんだった。
森を分け入ったその先。エルフの遺跡、と思われる場所にやっとたどり着いた。しかしやたらと高い壁に阻まれ、入ることは愚か、中を見ることさえできない。
壁の高さはだいたい十から十五メートルくらいかと思う。
「どこかに入り口はないのか? 普通、門とかなんかあるだろ」
「裏の方に着いちゃったとか? ていうかエルフってほんと昔から引きこもりばっかりなのね。わざわざこんな壁まで作って外部から遮断しなくても……」
リリーが呆れたように肩をすくめた。それにしても酷い言い方だと思う……
俺はため息をついてどこか中に入れる場所はないかと壁伝いに歩いてみた。
すると。
「な、なんだ!?」
急に先ほどネモフィラさんからもらった黒い結晶のペンダントが光り出した。とても濃い、ほとんど黒と言っていいような紫が壁を照らし始めたのだ。その光はどんどん強さを増し、俺の目の前の壁一面を照らした。
「な、何……? あの女、得体のしれないモノ寄こしてくれたわね……」
リリーが一歩後ずさって俺を――俺の首にかかるペンダントを見る。
そんなリリーの横でユノが短く息を吐いて、大きな瞳を瞬いた。
「……扉」
「えっ?」
ユノがつ、とペンダントが照らし出した壁に指をさす。確かにそこには扉のようなものが浮かびあがっていた。だが、浮かび上がっているだけで、本物の扉ができたわけではない。ユノはつかつかと浮かび上がった扉の模様に顔を近づけ、手を触れる。
「――入れる」
「はっ? えっちょ待っ――」
俺が言い終える前にユノは壁に突っ込んだ!
――しかし、そこに壁があるのは幻想だとでもいうかのように、ユノの体は輝きの中に消えていく。俺は慌てて輝きが治まらないペンダントの光から目を遮るようにしていた手をユノに向かって伸ばした。すると俺の指先も壁を通りぬける。
「なんだこれ……」
手を壁から抜き出し、まじまじと見つめる。何度も握ったり開いたりしてみたが、異常はないようだ。
リリーが俺と壁を見比べて首をかしげた。
「転送魔術の一種かしら……? だったら問題ないんじゃない?」
「……魔術ってすげえのな……」
さらりと言ってのけたリリーに俺は驚くやら感心するやらで変に緊張してしまった。
とにかく、中に入れるのだ。これは行くしかないだろう。
俺は心の中でよし、と呟いて壁の中へと進んだ。リリーも俺のすぐ後ろをついてくる。壁の中……と言っていいのだろうか。そこは真っ暗で上も下も右も左もわからない。さらに言ってしまえば平衡感覚すらほとんどないに等しかった。
これは本当に進んでいるのだろうか。ユノの背中すら見えない。ただ、近くにいるからか、リリーの存在だけは確かに感じられた。
「なんか気持ち悪いな。歩いてるのに、進んでないような――」
「確かにね。重力が無くなっちゃったみたいだわ。あたしたちの存在すらあやふやなものみたい」
ぽつりとリリーが落とした言葉に、俺はうん、とだけ呟いてただ前だけを見つめていた。
その通りだと思う。この空間で存在を保つ、ということが酷く難しいことのように感じたのだ。必死に足を踏みしめているはずなのに、踏みしめるべき地面がない。空を歩く、例えるならそんな感じ。
そんなことを考えていると、不意に体が重くなり、地面の感覚が足の裏に伝わってきた。急に視界に入った眩しい光の洗礼に反射的に目をふさぐ。光の刺さった目から頭に酷い痛みが走った。思わず低く呻くと今度は先ほどまでいた真っ暗な空間から背中を突き飛ばされたような感覚がした。なんとか姿勢を立て直し、その場でたたらを踏んで転ぶのを防ぐ。
「今度は何だよ……!?」
眉間にしわを寄せ、こめかみを押さえながら片目だけそろりと開いた。その視線の先に広がっていたのは。
「……ここが、エルフの残した古代遺跡――タンザナイト」
「タンザナイト……」
ユノが何事もなかったかのように俺たちに背を向けたまま呟いた、この場所の名前。
リリーの予測通り、レンガが積み上げられた建物と柱――それから道。割れ目から植物が生え、もとは白の美しい建造物だったであろう、すでに朽ち果てた物を鮮やかに彩っていた。
俺たちはゆっくりと歩き出し、周りを見渡す。見れば見るほど高度の技術が集まっていると素直に思った。大昔にこんな立派な建造物や彫刻を作る技術があったなんて。俺が今まで見てきた『人間の遺跡』はここまで精密な彫刻やレンガの組み方はされていない。しかも、人間が残したものはほとんどが破壊され、原形をとどめていないのだ。
それとは違い、ここはほとんど無傷のように――ただ、劣化や風化、または浸食で朽ちているところもあるが――見える。なぜ、こんなにも高度な技術をもった国が滅んでしまったのだろうか。
さらさらと水が流れる音がする。音のする方を振り向くと、柱が円を描くように立っている広場の中心に噴水があった。今もなお、水が流れ続けているのだ。噴水の下から柱の間に排水溝、のようなものが八つ伸びていた。その排水溝のそれぞれがさらに通路や建物の中へと伸びている。俺たちは噴水に近づいた。この噴水も、やはり大きな損傷はうかがえない。
「まだ水が流れているなんて……ここ、相当昔のもんなんだよな?」
「……二千年から三千年くらい前のもの……」
ユノが頷いて噴水から流れ落ちる水に触れた。細い指先から水が滴る。
「水は、ここから少し先にある湖からひいてる……まだこの噴水が動いているのは、魔法結晶のおかげ――」
「さすがはエルフの遺跡。魔法結晶、やっぱり使ってたんだな」
「……今のもとは少し違う……ここの魔法結晶の方が、本物の魔術に似た力を持つ……」
ユノはそう言って水に浸していた手を服の裾で拭い、先に進んでいってしまった。
リリーはそんなユノの背中を見つめ「変な奴」と小さく呟き、腰に手を当て、俺を見上げてくる。
俺は苦笑いを返してユノの背中を目で追った。勝手にこの遺跡から出ることはしないだろうし、自由行動をとっても別にかまわないだろう。彼女はやはり、こういった歴史関係に通じているのかもしれない。いつもより確実に口数が増えているのは、気のせいではないだろう。たぶん彼女は、興味のあること以外は無口な人なんだと思った。
不意にざっ、と強い突風が吹いてきた。同時に首筋に冷気を当てられたような寒気がする。俺は僅かに身震いをして風が吹いてきた方向を振り返った。
「どうしたの?」
リリーが髪を手で押さえて首をかしげる。俺の視線を追って、遺跡の奥を見つめた。
「いや……なんでもない……」
「何? あんた、何か顔色悪いわよ?」
リリーが眉間にしわを寄せ、怪訝そうに俺の顔を覗き込む。そんなに顔色が悪いのだろうか。ただ、やたら喉がひりつく。急に乾いた。手袋をはずしてベルトに挟み込み、噴水の水をすくって口に含んだ。飲み込むと冷たい水が喉を通りぬけ、少しだけ乾きが和らぐ。
「急にどうしたのよ? 何か憑いたんじゃないの?」
「……変なこと言うのやめろよ……」
俺はため息とともに肩を落とした。リリーは少しだけ首をかしげて柱に背を預け、あたりを見回す。
俺も柱に寄りかかり、そのままずるずると座り込んだ。なぜだろう、風が吹き付けただけだ。なんでこんなにもどっと疲れたのだろうか。リリーの言うように、何か憑いたのだろうか――いや、それはないな。
一瞬リリーの言葉に可能性を感じたが少し頭を振って否定した。そういうたぐいのものではない気がする。ネモフィラさんと会った時の感覚に近い。
だが、リリーは何の反応も示していないし、魔力を持つ物じゃないのだろうか。じゃあ、一体――
「――っ!」
リリーの声にならないほどの小さな悲鳴で俺の思考は遮られた。リリーを見上げると左腕の、いつも布を巻きつけている部分を押さえている。
「どうした? リリー?」
「な、なんでもないわ……気にしないで」
「なんでもないことないだろ。なんだ、もしかしてその布の下、傷跡でもあんのか? 傷が疼いて痛いとか?」
「違うわよ、あたしはそんな軟じゃないわ」
心配した俺の言葉を即座に否定してリリーは呆れたように肩をすくめた。
人が心配してんのに、それはないだろ……
俺がまたため息をつきそうになった時。
物凄い轟音とともに、背後の建物が崩れてきた!
「やべえっ!!」
弾かれたように立ち上がり、リリーの腕を引っ掴んで二人同時に倒れこむようにしてその場を離れた。
先ほど俺たちが居た場所に大きな瓦礫が突き刺さっている。その光景を見てよけきれなかった場面を想像し、身震いした。
「な、何……」
起き上がり、リリーは目を見張る。目の前の光景を理解しようと思考を巡らせているのだろう。
それは俺も同じだった。突然降り注いできた瓦礫。いや違う。突然折れた、柱の瓦礫。それは噴水をも直撃しており、水があちらこちらに流れ出していた。
倒れこんだときにむき出しの腕がすれて血がにじんでいた。ひりひりと押し寄せてくる小さな痛みに、目の前で起きていることが幻でも何でもないことを理解させられる。
俺がよろよろと立ちあがったとき、まだ立ち込める砂ぼこりの向こうに人影をとらえた。その陰は、俺たちとは違う形をしている部位がある。右腕が、明らかに大きすぎるのだ。
リリーは立ち上がると同時に短剣を引き抜いた。俺も倣って、剣を引き抜く。
影はだんだん濃くなり、足音も聞こえるような距離まで来ていることがわかる。
「……来る」
リリーの呟きとともに砂ぼこりが一瞬にしてかき消された。
その向こうから現れたのは。
「よお。お前らか、リリアーヌ達が言ってたのは。んー? ……なんか一人たんねえ気がすっけど、まあいいや。ほんとはお前らには『まだ』接触すんなって言われてんだけど、ひっさびさにレーツェルの奴が喜んでたから、つい我慢できなくてよぉ」
右腕を強靭な魔物のモノへと変化させ、にやりと肝が冷えるような恐ろしい笑みを口元にたたえた青年だった。