第十二話 感じたのは
部屋に戻り、椅子に腰かける。ふと窓を見た。窓辺には華奢な花瓶が置かれている。ガラス製の、小さな花の装飾が施された花瓶には一輪の薄ピンク色の花が添えられていた。花弁が一枚落ちている。
「…………」
無言で落ちた花弁を拾い上げ、手のひらに乗せた。花弁に重さはない。だが、なぜか喉がつまるようなとても嫌な感じがする。それは不安とか恐怖とか、確立された感情ではなく、とても曖昧な感覚。
「――気のせいだよな」
窓を開き、花弁を落とす。小さな花弁はくるくると回りながら落ち、どこからともなく吹いてきた風にあっという間にさらわれ、飛んでいった。花弁が消えていった方角をぼうっと眺める。
明日からはまた仕事に出なければならない。休んだ分、かなり溜まっているはずだ。
明日を思い、はぁと大きなため息を吐くと。
「ロア、ちょっと来てくれないかい?」
ノックの音の後に、ドアの向こうから父さんの声がした。春のそよ風を思わせる、いつもの穏やかな声だ。
なんだろう。さっそく明日の話だろうか。
「何、父さん?」
「一階においで。マイスとお客さんのお相手をしていたんだけど、明日、ロアは仕事復帰だったね?」
「そうだけど……仕事の話?」
ドアの向こうで父さんが苦笑いしたのがわかる。
案の定、仕事の話らしい。
「わかった。今行く」
俺はそう返事を返し、椅子から立ち上がった。
マイスに呼ばれ、客間に入ると先程の少女が蜂蜜色の瞳をこちらに向けて、口元だけに笑みを浮かべて会釈をしてきた。
改めて少女の顔を見ると、まだあどけなさが残っている顔立ちをしている。俺と同じくらいの歳じゃないか。
俺はマイスに促され、マイスの隣に立った。向かい側に少女がソファに腰かけ、綺麗で品のある仕草で着物の襟もとをかき合わせる。
仕事場に訪れた少女は凛と言う名らしい。丁寧な物言いときびきびとした動きが、辣腕の商人のような印象を覚える。
「凛さんは『翡翠の都』からいらっしゃったそうなんだ。けれどあちらに戻るための護衛をつけること忘れてしまっていたらしく……」
「お恥ずかしい話です。私が母の言うことに耳を傾けず、挙げ句の果てに帰りのことを忘れるなどと……」
やや低めの声をした少女は、キモノの袖口で口元を隠し、ほう、とため息を吐いた。長いまつげが伏せられ、肩は力なく下がっている。
風が強くなってきたのか、窓ガラスがガタガタとなる。不意に凛さんと目が合った。切れ長の、冷たい印象の目が細められる。なぜか背筋が冷えた気がした。
顔に出たのか、仕草に出たのかは分からないが、凛さんは困ったように眉尻を下げ、今度は右手を右頬に当てて笑った。
「――貴方様は、私の妖がお見えになっていらっしゃるのかしら?」
「えっ? 妖?」
俺はだいぶ間抜けな声を出してしまい、慌てて口元をふさぐ。
凜さんの目が細められ、くすくすと言う控えめな笑い声が聞こえてきた。
「妖の気配を感じるとは、貴方様は余程勘の鋭いお方なのですね」
「いや……そんなことはないと思いますけど」
俺は首の後ろに左手を回し、凜さんから視線を外す。
あの瞳を見ていると、まるでこちらの心が全て見透かされているようで、なんとなく落ち着かない。それはきっと、彼女の言う、『妖』という存在が確かにここにいるという証拠なのだろう。
マイスが俺と凜さんを交互に見てから、「この話はもう終わりにしよう」と言うように小さな咳払いをした。
「――話を戻すぞ。それで、凜さんの護衛をメルスタリオンに頼みたいそうなんだ。ロア、明日から仕事復帰だろ?」
ああ、なるほど。
俺はマイスを目だけで見た。
「休んだ分、しっかり働いてもらわないと、な?」
マイスがにやりと笑い、俺の背中を叩く。
……なぜだろう。理由は納得がいくのに、腑に落ちない。最近、マイスのこの笑顔を頻繁に見ている気がする。
(マイスたちなんて、いっつも楽な仕事ばっかしてんじゃねえか……)
厄介事はいつも押し付けられている気がする。……今さら過ぎたことを言ったところで、何も変わらないのだが。おれは少しだけ肩を落として短く息を吐いた。
「わかったよ。どうせ明日から仕事復帰だしな――凛さん、ご紹介が遅れて申し訳ありません。俺はメルスタリオンのロアです」
「ご丁寧にありがとうございます。私も改めて。凛と申します。翡翠では酒屋を営んでおります。では、ロアさん。よろしくお願いいたしますね」
凛さんは目を細めて会釈をした。
夕食の後、父さんから呼び出され、俺は父さんの書斎にいた。
凛さんはというと、今夜は近くの宿に泊まるらしく、明日の朝にまた訪ねると言っていた。
リリーも呼び出されていたはずなのだが、まだ来ていない。恐らく、食器の片付けをしているのだろう。
俺は書斎をぐるりと見渡した。
書斎はさほど広くはない。部屋の面積の半分以上を本棚が占めているからだ。天井までの高さの本棚に、びっしりと難しそうな本が並べてある。本棚が倒れてきそうな感覚に、なんだか落ち着かない。音も何もしないせいか、余計にそう思った。
ただここに一人で突っ立っているのも暇だ。俺は本棚の間をゆっくりと歩き出した。そして、丁度目の高さの本棚の一角、やたらと分厚い本の間に挟まれた、周りの本と比べて随分の薄く、古そうな本に目を止めた。手に取り、表紙を見る。
「――『精霊と、守り人』……」
題名を読みあげ、本のほこりをたたいた。すると、古ぼけた表紙に書かれた絵が浮かんだ。
この世界には『精霊』と呼ばれる、神聖な存在がいると言われている。多くの宗教はこの精霊を崇め、すがっているのだ。
雨が降らず干ばつに悩んだ時や、海が荒れて漁に出られないときは水の精霊に。
逆に雨や雪の日が続き、日が照らなくなった時は光の精霊に。
畑が痩せ、野菜が作れなくなった時や家を建てる時には地の精霊に。
主な精霊は水、光、地、風、火、闇。リリー曰く、魔術も基本はこの六つから成り立っているらしい。
その精霊を守っていたのが『守り人』だ。今でいう神官とは少し異なり、仕えるのではなく、精霊自体を守る役割を務めていたとか。精霊に最も近く、人間やエルフとは少し異なる人々のことを指す。
俺は随分前に読んだ本の内容を必死に思い出そうと、右手を額に当て、表紙をじっと見つめた。
「――なに一人で難しそうな顔してんのよ? ……『精霊と守り人』? また随分と古い本読もうとしてるのね」
不意に手元を覗き込まれ、俺はハッとして隣に立つ相方の顔を見た。彼女は俺から本を奪うとそれを開き、ぱらぱらとめくっていく。
俺は次から次へと流れていくページを追うことができず、ただ茫然とする。ふとリリーの目を見ると、文章全てに目を通しているらしく、左から右へとなんども動いていた。
そして本はあっという間に閉じられ――もともとページ数が少なかったのもあるが――リリーはほうと息をついて僅かに空いた本棚の隙間に本を押しこみ、俺を見て腕を組んだ。
「かなり古いけど、それぞれの精霊の伝承について書かれた本みたい。どこにでもあるような内容ばかりだったわ。抜けてるページも何枚かあったけど、たぶんそのページもあたしたちが知っている内容のものだと思う。探す必要はなさそうね。だから父さんも放置してるんだと思うけど」
「……今ので全部のページに目を通したのか?」
「そうよ」
リリーは平然と告げ、不思議そうに首をかしげた。
こういうこと得意なのに、どうして他の分野で生かさないのだろう。理解力はとてもいいはずなのに、彼女は考えることよりも行動に移す方が早い。しかも短気で、やはり言葉より最初に手が出る……たまに魔術も。
俺は勿体ないと思い、少し苦笑いをした。
その時、書斎の扉が開かれ、扉の向こうから父さんが現れる。
「すまない、遅くなってしまったようだね」
父さんはローブ脱ぎ、机の上に畳みながら言った。
そして椅子に腰かけると、俺たちを手招きする。俺たちは頷き、父さんの向かい側に立った。
父さんは眼鏡のブリッジに手をかけ位置を元に戻すと、俺たちの顔を交互に見た。父さんの髪の飾りが揺れる。
「明日の仕事についてのことなんだが――ロアにはすでに伝えてあるけれど、二人には明日、凛さんの護衛として『翡翠の都』に向ってもらう。それで、凛さんを無事に翡翠の都のご両親のもとへお連れしたら仕事は完了だよ」
「翡翠の都……帝都でも何回か翡翠の商人を見たことがあるわ。アルアみたいな服の人が多いところよね?」
リリーの言葉に父さんはゆっくりと頷き、続ける。
「実は丁度、翡翠の都にここの新しいメンバーがいる。『ユノさん』と言って、かなりのロングソード使いなんだ」
「へえ、ロングソードか。男の人?」
「いや、女性だよ。私の顔なじみなんだが、職を探しているらしくてね。せっかくだから、うちに勤めてみないかと声をかけてみたんだよ。歳は十九。若年だが、実戦経験はかなり豊富だ」
「……父さん、ほんと顔が広いわね」
リリーが呆れ半分、驚き半分といった表情で腰に手を当て、父さんを見やる。父さんは苦笑いしてから俺を見た。
「ロア。明日は船を使って翡翠の都まで行くことになっていたね。時間は把握しているかい?」
「もちろん。その辺はさっき部屋に戻った時に調べた」
俺の返事に父さんは満足そうに頷いて、「部屋に戻ってかまわないよ」と言った。
俺とリリーは二人で書斎を後にする。扉を閉める直前、父さんが「おやすみ」とにっこり笑った。
廊下を歩きながら、考えを巡らせる。廊下の途中にある窓の外の家々の明かりは、ほとんど消えうせていた。
翡翠の都は初めていく場所であり、帝都や周辺の街とは違う文化を持っている。異文化に触れるのは初めてだ。期待に胸が膨らみ心臓が大きく鳴ったのが分かる。
それはリリーも同じようで、少しだけ嬉しそうな顔をしていた。頬は赤くなり、眼はきらきらと輝いている。元々好奇心の強い彼女にとって、今回の仕事は金にもなり、異文化に触れるという楽しみもあるため、嬉しいのかもしれない。
「嬉しそうだな、リリー」
「あんたもね。『翡翠の都』――一回だけ、翡翠から来た商人からアクセサリーを買ったことがあるんだけど、すごく綺麗だったのよね。とっても楽しみだわ! あ――そういえばあのアクセサリー、どこにしまったっけ……」
ぶつぶつと呟きだしたリリーを横目で見て、俺は小さく笑う。
そんなことをしている間に部屋の前に着き、リリーは「明日ね」と部屋に入って行った。俺も部屋の扉を開き、中に入る。
ベッドに直行し、豪快に寝転がった。
「『翡翠の都』に、『ユノさん』か……」
頭の後ろで両手を組み、天井を見つめる。今夜は満月だっただろうか。窓から月明かりが入り、部屋は暗くはない。確か、月のことを『ユノ』と呼ぶ地域があると聞いたことがあるような気がする。
「……どんな人なんだろう。『月』の名前を持つ人か……」
俺は呟きながら、まだみぬ異国の風景と人を思い浮かべて微笑んだ。