第十話 俺であって俺でないもの
その刹那。
何か固い同士がぶつかり合ったときのような酷く鈍い音が響き、大量に積まれた荷物とともに後ろに控えていた男達が吹きとぶのを見た。荷物は袋から飛び出し、あたりに散乱する。男達は地面に叩きつけられ、かは、と咳き込んでいる者もいれば気を失ってしまった者もいるようだ。
「なんだ……!?」
一斉に武器を取り出し、構える。その場にいる全員が息を殺し、音がした方向を睨みつけた。いったい何が起こったのだろう。がらがらと瓦礫が落ちる音がする。それ以外は自分の心臓の音しか聞こえないほど、その場は一瞬にして静まり返った。
マイスはユトとフェルゼンさんを通路に押し込み、ここから動かないように、と言いつけてレイピアとマインゴーシュを抜き俺の隣に立つ。どうやら男たちを吹き飛ばした『何か』は床を抉ったらしい。砂煙が舞い上がり、姿が見えなくなってしまっている。しかもこの暗さだ。視界が悪すぎる。
俺は目を細めて姿勢を低くした。
声もなく、ベルトに忍ばせたナイフに手をかけて、投げる。投げつけた場所は直感。
砂ぼこりの中心に向かって投げたナイフは、すぐに見えなくなり、変わりに鋭く短い悲鳴が聞こえた。
「砂煙が邪魔ね――」
それを聞き逃さなかったリリーがそう呟いて、すぐに魔術の詠唱にかかる。それを見たクレイがはっとしたように目を見開き、二丁銃を構えて砂煙の中へ数発撃ちこんだ。
銃声が空間に響き、また悲鳴が上がる。
人間ではない。だとすると、こいつは――
「魔物だな、 しかもかなり強いやつだ――いいかロア」
とてつもない緊張感と胸を突き破るかのようにどくどくとなる鼓動の痛みに見舞われ、動きを止めた俺にマイスが声をかけてきた。
鈍い動作でマイスに向き直る。
「落ち着いて、冷静に、だ。わかってるよな?」
忠告だった。俺は無意識についっと目をそらし、剣の柄を握りしめる。心臓はまだ、早鐘のようだ。
「……わかってる」
マイスの忠告は、『俺』が『俺』でいるための大事な物だ。俺は、感情が高ぶると『俺』の意識が吹き飛ぶ。かわりに『俺であって俺じゃない存在』が暴れだすらしい。大抵意識が飛んでいる間の記憶はない。気がついて周りの光景に寒気を覚えたことだってある。
――これは俺がやったのか?
――そうよ。
いつの会話だろう。あの時のリリーのやけに冷静な声は、耳の奥で何度も再生されている。
目の前にはまだ晴れない砂煙が立ち込めているのに、俺が見たのは血の、濃く少し黒い赤。自分の剣も、手も、服も。全てが赤に染まっている。
吐き気がした。俺は胸の辺りの服を握りしめ、頭をふる。
その時。
「――吹き飛べ!!」
リリーの高い声が空間に響いた。刹那、淡い緑の光がリリーの手からあふれ出し、風が吹き荒れて砂煙を――魔物の体もろとも吹き飛ばす。
晴れた視界の先に捕らえたのは、巨大な牛のような魔物。体長は恐らく普通の牛の五倍はある。息は荒々しく、大きな赤の目は血走っていて、かなりの興奮状態であるのがわかった。
吹き飛ばされ、地面を滑った魔物は勢いよく立ち上がり、大きく一声鳴いた。巨大な角をこちらに向けて、突っ込んできたではないか。
「やべえ、こっちに来たぞ!?」
フェルゼンさんが慌てて声を上げる。
「っくっそ!! この牛野郎!!」
ルイスが舌打ちをしてから吐き捨て、俺たちを庇うように前に飛び出しざまに、ブーツに忍ばせたナイフを投げつける。それは吸い込まれるように魔物の目に突き刺さった。 聞くに耐えない大きな悲鳴が響く。
今俺たちがいる後ろには通路がある。この通路を壊されてしまったら大変なことになるのは目に見えている。
魔物が膝を折り蹲っている間に、俺とマイスは素早く魔物の後ろに回り込んだ。
マイスは吹き飛ばされた男たちを空間の隅で固まっているようにと指示し、右手にレイピアを左手にマインゴーシュを握って魔物に向かって勢いよく駆けていく。
魔物を挟んだ向こう側で銃声が轟いた。轟くと同時に魔物が弾かれたように起き上がり、右の壁へと突っ込んでいく。魔物の体は壁に激突し、激突した場所を中心にひびが走る。
俺はこみかみに汗が伝うのを感じながら、マイスの背を追った。腹の底から湧きあがってくる恐怖と『何か』。心臓がまるで鼓膜のそばにあるのでは、と思うくらいうるさい。
マイスが魔物の体を駆けあがり、頸椎にレイピアとマインゴーシュを突き刺す。そしてレイピアを手放すとマインゴーシュを両手で握りしめ、空中へと体を躍らせた。落下するマイスと同時に魔物に突き刺さったマインゴーシュが、その体を斬り裂く。
ひときわ大きな悲鳴が上がった。マイスが地面に着地するのを横目で見ながら俺も畳みかけるように剣を一閃させる。切っ先は魔物の足の腱を断ち切った。血が、吹き出てくる。
同時に魔物が力任せに後ろ脚を蹴りあげてきた。
まずい。
よけきれない――!!
咄嗟に剣で受け止めたが、それもむなしく、体が吹き飛んだ。天と地が逆転し、とんでもない速さで空中を飛ばされていることがわかった。
「っ……!」
体が壁に激突した。背をしたたかに打ちつけ、息が詰まる。剣はいつの間にか手から落ちてしまったらしい。ぼやける視界の中、辛うじて左目をあけると少し離れたところに転がっているのが見えた。
連続して銃声が響き、加えて炎が燃え上がる音と肉が焦げたにおいがした。そしてまた魔物が暴れたのだろう。地面が揺れる。同時にルイスのうめき声とクレイの短い、苦痛を含んだ悲鳴が耳を打った。
「おいロア!! 無事かっ!?」
マイスが振り返り、焦燥を含んだ急いた口調で叫ぶ。
咳き込みながら呼吸を整え、立ち上がろうとする。
早く、早く。
ルイスが腕を押さえて仁王立ちしている。抑えた腕からは『血』が滴っていた。クレイはどこだろう。俺の位置からはクレイの位置を確認することはできなかった。
壁に背を預け、ずるずると立ち上がる。魔物の蹴りを受け止めた腕はしびれ、まだ感覚は戻ってきていない。それでも早く行かなければ。仲間が戦っているのに、俺だけここで くたばっているわけにはいかない。
視界がはっきりしてきた。そして、俺は見た。
――魔物からの追撃を受ける、相方の姿を。
リリーの体は先ほどの俺と同じように軽々と吹き飛ばされ、地面を転がった。肩で息をした彼女は額を押さえてゆっくりと体を起こす。彼女の額からは血が流れ、彼女の顔を赤く染める。銀の髪も、赤に染まっていた。
不意に頭を金槌で殴られたような衝撃が走る。そして同時に視界が真っ黒になった。頭がぐらぐらし、吐き気までこみあげてくる。
意識が落ちる。感覚が、音が遠くなっていく。
「うっ……あああああ!!」
頭を抱えて床に額を付けるように蹲った。
――駄目だ。駄目だ。駄目だ!!
『あれ』が俺を闇へと引きずる。
『あれ』が俺から体を奪う。
『あれ』が――
『あれ』ってなんだ――?
全身を切り刻まれるような鋭い痛みに耐えきれず、叫びながら頭を抱えた。
天地がわからない。地面がぐらぐらと揺れ続けているような気さえする。
『いつまでも過去を振り払えないから、いつまで経っても弱えままなんだよ――』
その声にハッとして顔をあげると、そこにいたのは、俺と同じ顔をした人間だった。
口元に酷薄そうな笑みを浮かべ、俺を見下ろしている。さっきまでいたはずの空間、地下ではない。周りは真っ白で、俺とこいつ以外にはだれもいなかった。
こいつは誰だ?
平衡感覚はまだ戻ってこない。視界がゆがみ、点滅しだす。頭はがんがんと痛み、体は錘を付けたように重く、動けなかった。
『寝てろよ。あとは俺が片付けてやる。てめぇは引っ込んでな』
そいつはにやりと笑って剣を握る。
それを最後に、俺の意識は完全に落ちた。
「ロア? ロア。大丈夫かい?」
ぱしぱし、と頬をたたかれ、小さなうめき声をあげて、目を開けた。目を開けた瞬間、光が目をさし、思わず手で光を遮った。
ここはどこだろう。この明るさからして、どうやら地下道ではないらしい。体が妙にだるく、重い。
「気がついたようだね。どうだい体は?」
「……父さん」
「人相がだいぶ変わっていたようだったが。今は元に戻ったみたいだね」
優しい鳶色の瞳を細めて、父さんは頷いた。
俺は体を起して周りを見渡した。どうやらここはイレーヌさんの屋敷らしい。昨晩見た家具がたくさん置いてある所からして、間違いではないだろう。
それにしてもどうして俺はベッドの上に横になっているのだろうか……。
「……アンタ、あの後おかしくなったのよ」
ドアの近くに背を預け、腕を組んでいたリリーがため息交じりにそう言った。その表情はどこか苦しそうだ。
ベッドの横に立っていたクレイが俺の顔を覗き込み、大きな目を瞬かせて不思議そうに首をかしげる。
「ロア兄、顔がロア兄じゃなかったんです。でも、今はいつものロア兄」
「うん……そうか」
「でも、ロア兄が魔物を倒したんですよ? ロア兄、すごく強かったです」
きらきらした目でそう語るクレイを見ていると複雑だった。
おかしくなった。リリーはそう言った。だが、俺にはその記憶が全くない。ということは、また俺は『あれ』に陥ったのだろう。
俺は苦笑いを浮かべてクレイに「ありがとな」と呟いてからベッドを下り、立ち上がる。窓の外を見ると、空はまだ青い。
立ち上がった俺にリリーが呟いた。
「父さんがいたから生き埋めにならずに済んだけど。……あれだけ『大丈夫』って言ってたくせに」
俺はなんだかバツが悪くて、リリーの顔を見ることができなかった。
大丈夫だと思っていた。でも、結局は駄目だった。俺は、意志が弱いかもしれない。だからきっと、変な奴に体を乗っ取られるんだ。
それにしても。あいつは、何なんだ――?
その時、部屋のドアが開いた。その向こう側から現れたのは、懐かしい赤の服を身にまとった、背の高い女性。
「リリーシャ、あまりロアを責めないであげてくれ」
「あっアルアさん!? なんでここに……」
「久しぶりだね、ロア」
女性――アルアさんは整った中性的な顔をほころばせた。肩で切りそろえられた髪と同じ、茶褐色の瞳を細めて俺の頭をぐしゃぐしゃとなでる。というか掴んで左右に振られた、言った方が正しいかもしれない……
彼女もメルスタリオンの仲間。彼女の背は俺よりいくらか高いのだが、その彼女の背を超える大剣を武器に戦う、メルスタリオンの支柱だ。マイスとルイスが入る前からメルスタリオンに居たのだが、一年ほど前に『北国に用事が出来た』と言ったきり姿を見せなかった。手紙を一通もなかったし、もしかしたら何かあったんじゃ、と噂が立ったりしていたくらい、音沙汰がなかったのに。
アルアさんは俺の心を読み取ったかのように苦笑いをした。
「そんなに不審そうに見るなって。土地に詳しいお前なら、北国の場所も知っているだろ? 向こうの用事が長引いちまって、やっとの思いで仕事場に戻ったらディオさんが丁度出かけるところだったんだ」
「それでついてきてもらったんだよ。戦闘は専門外だからね」
「あんなえぐい体術習得してて良く言うぜ……」
ルイスがまるで本当にどこか殴られたかのように顔をゆがませ、力なく首を振った。
アルアさんは腕を組んで今度はリリーに向き直る。
「ロアの……そうだな、とりあえず『影』とでもいおうか――は、今に始まったことじゃないだろう? ロア自身の意志で止められるものではないんだ。責めるのは筋違いだろう」
「…………」
リリーは言葉に詰まり、眉を寄せて黙り込んだ。
アルアさんも、『あいつ』を知っている。影。アルアさんはそう言った。俺であって、俺でない物。その表現は正しいだろうな。
俺は心臓に手を当て、音を確かめた。規則正しく動いている。あの時、心臓は早鐘のようだった。
リリーは影が嫌いなのだ。残虐すぎるせいだろう。俺も、影が嫌いだ。
「あっ、そういえばユト達は?」
俺は仕事を放棄してしまったことを思い出し、頭の中に浮かびあがった影の姿を振り払って父さんを見た。
父さんは「大丈夫だよ」と淡く微笑んで頷く。父さんのサイドの髪につけた飾りが小さく揺れた。
「ルイスがお前をここまで運んでくれてね。運び屋の皆さんは私たちが安全に送り届けたよ」
「えっ、そうだったのか。ルイスに俺を担げるほどの筋力があるなんて……」
「おいロア、どういう意味だそれ」
ルイスに睨まれるが、俺は知らないふりをして笑ってやった。
その後、俺たちはイレーヌさんに仕事の報告をしてから、今後しばらくあの地下道を使わないように、と忠告を残し、イレーヌさんの家を後にした。
イレーヌさんは「また何かあれば」と笑顔で見送ってくれた。
妙に冷たい風が首筋をなでていく。足を止め、振り返って空を仰いだ。
今はイレーヌさんの家から、家に戻るためぞろぞろと連なって歩いているところ。空には星が輝きだしている。太陽はすでに西に沈み、代わりに赤い月が東から顔を出し始めた。
なんてことはない、ごく普通の夜だ。
だが、何かが引っかかる。なんとなく、胸騒ぎがするのだ。俺は赤い月に目を凝らす。ぞわぞわと腹の奥底から這い上がってくる恐怖に似た感覚。なんだ?
「どうしたの?」
月を見上げたまま動かない俺に気がつき、リリーが振り返って声をかけてきた。そのリリーの声に気がつき、全員が足を止める。
「あっ……いや……なんでもない。気のせいだったみたいだ」
「ふぅん……気のせい、ね……」
胡散くさそうに俺を見てからリリーはまた歩き出した。俺も月から視線を外し、歩き出す。
風が揺れた。先ほどの冷たさはなく、ふわりと俺を包んで、夜空へと流れて行った。
第一章 -傭兵篇- 完
第一章が無事に完結いたしました。
次話からは第二章、『世界』にようやく入ります。
これからも細々と書いていくので、どうかお付き合いくださいませ。