第三話『今後の方針』
六月十一日、土曜日。
神代高校二年帰宅部の尾賀純一は、休日は七時半に起きることが習慣になっている。ベッドの横にある机の上で充電器に繋いだ携帯電話から、アラームとしてセットしてあるAqua Timezの『決意の朝に』の歌をモーニングコールに目を覚ました。
携帯電話の側面に付いているマナーモードの設定をするボタンを押してアラームを止めた。
ベッドに対し机と反対側にある黄色地に赤と青の円が描かれたカーテン。その外からはザーザーと雨が降り注ぐ音が聞こえ、まだ降ってんのかーと霞のかかった頭でぼんやりと考える。雨という梅雨を体現する音以外はいつも通りの休日の朝だ。たたし、
「すぅ……すぅ……」
純一の隣で静かに寝息をたてている灰色の髪をした少女を除けば、だが。
「あー、そーいや一緒に寝たんだっけ……」
女の子だからと言って、智美がオセロと一緒に寝ようと純一の腕から引き取ろうとしたのだが、純一から引き離されそうになると泣き出し、決して彼から手を離そうとしなかったのでしかたなく一緒に寝たのだ。
純一のシャツをしっかりと握りしめるオセロは、ワンピースほどの丈になってしまっている純一のTシャツしか着ていないが、それでも蒸し暑かったらしく二人の上に掛けていたタオルケットがベッドの足元のほうで団子になっていた。
「風邪ひくだろ、ったく……」
起こさないようにオセロの手を静かにはずし、ゆっくりとベッドから降りてタオルケットを彼女の上に被せた。全く起きる様子はない。いつからかは知らないが、あの冷たい雨の中、裸同然の恰好をしていたのだ。衰弱はもちろん風邪をひいていたとしてもおかしくない程である。
「今はゆっくり休んどけ」
すやすやと眠るオセロの頭にそっと触れ、階下のリビングへ降りた。台所の食器棚からコップを取り出しコンロの上にあるヤカンから冷めたお茶を注ぐ。
「ふぅ」
一息つき純一はテーブルの上で無造作に置かれたテレビのリモコンで電源を点ける。が、主電源が入っていなかったらしく起動しない。少しイラッとした。
地デジ化が進んでいるこの御時世には少なくなったブラウン管のテレビの電源を足で点けた。
ブツッと接続音のような音がしてから待つこと二、三秒。休日の朝によくある子供向けのアニメが映し出され、テレビ本体に付いているボタンでチャンネルを変えていく。
「ろくなものがないな……」
日頃は智美が起きて朝食を作るまで、二階の自分の部屋で本でも読むのだが、いかせん机の隣にあるベッドではオセロが睡眠を貪っているため、下手に部屋の照明や机の電気スタンドを点けるわけにはいかず、本が読めなかったのだ。と、そこまで考えてから純一は気づいた。
(リビングで読めばいいんじゃん)
そうとわかれば話は早い。テレビの電源を消し、二階に本を取りに行くことにした、その時
尾賀家の中を一つの泣き声が響き渡った。
「ッ!?」
純一が慌てて階段を駆け上がると、横合いの部屋から智美がびっくりした様子で飛び出してきた。今起きましたと言わんばかりに目が半分閉じている。
「何、この叫び?」
「多分オセロだ……」
「じゅんちゃん、もしかしてあの子に何かしたの?」
「してねーよ」
(面倒臭い……)
馬鹿なことを言う母親を置いて自分の部屋へ急ぐと、ベッドの上で両目からぼろぼろと涙をこぼしながら泣くオセロの姿があった。所謂女の子座りというやつで、タオルケットを右手で握りしめている。
「じゅんいちー! じゅんいちぃー!」
どうやら純一がいないせいで泣いているらしい。純一は普通に中に入ろうとしたが、その前にオセロが先に彼の存在に気づいた。
「じゅんいち……?」
視界に純一を捕らえたオセロは一瞬泣き止み、
「じゅんいちぃ!」
「おわっ!?」
タオルケットを放り出して純一に飛びついた。といってもベッドから降りてよたよたとドアのところにいる純一の前まで来て、倒れかかってきたところを純一が受け止めた、と言ったほうが正確だが。
純一にしがみついたオセロは何度も彼の名を呼びながら泣き続ける。
「じゅんちゃんにしっかり懐いてるわねぇ」
振り返ると後ろで智美が二人の様子を覗いていた。
「母さん、朝ごはん作ってくるわ」
言うなり去っていく母親に、白い目を向けながら純一は少女の両脇に手を入れ、抱え上げた。
「一人にして悪かったな。悪気があったわけじゃないんだ、許してくれ」
片腕で支えながら頭を撫でてやっていると、落ち着いてきたのか、まだ少ししゃくり上げているもののようやく泣き止んだ。
充電器に繋いだままの携帯電話をポケットに入れ、純一達は智美が朝食の準備をしているであろうリビングへ移動する。
六人掛けのテーブルの上には、すでに朝食が用意されていた。三つランチョンマットが敷かれ、その上にはご飯と肉じゃが、豚汁が置かれている。昨夜の残りだ。既に電子レンジで温めたらしく、それぞれからは湯気が立ち上っている。
よく全部が電子レンジに入ったなと思いつつ椅子に座り、その左隣、六つ上の兄である歩人の定位置だった椅子にオセロを座らせる。その後に智美が純一の右、というか斜め右に座る。長細い形状のテーブルなので少し飛び出すようになっているのだ。
昨日の夕食の時もこの位置に座って食事をした。目の前に食べ物が並んでいるもののオセロは食べていいのかわからないのか、不安そうに純一と智美と食事を見比べていた。仕方なく純一が食べさせてやるとオセロは目を見張り、その後は両手で掴みながらがっついていた。
今日も目の前に食べ物があるというのに二人をちらちらと見ては肉じゃがに手を伸ばし、引っ込めてはまた伸ばしを繰り返している。と、
ぐぐぅ~
オセロの腹が鳴いた。
「ほら、お腹が空いてるみたいだからじゅんちゃん、食べさせてあげて」
「へいへい」
拾ってきたのは純一だ。一応自分が世話をするのが責任だろうと肉じゃがの肉を人参と箸でつまみ、オセロの口元へ運ぶ。
だが、オセロは急に立ち上がると純一達から急いで離れ、壁まで行くとそこで頭を抱えてしゃがみ込んでしまった。心なしか震えているようにも見える。
「Cena terdle……Cena terdle……Cena terdle……」
一人で震えながら何かを呟き続けるオセロ。
純一は伸ばした箸の先につままれた肉を見つめ、ぱくっと口に入れた。
瞬間、智美の平手が純一の頭をはたく。
「食べてないで、オセロちゃんのとこに行ってなんとかしてきなさい」
「わかったけど、叩かんでも……面倒臭い」
ぽろっと心情を吐露しながら箸を置き、小さくなって震えているオセロの側に行く。純一が彼女の肩に手を置くと、ビクッと肩が跳ねるのを感じた。
一体何に怯えてるんだと首を傾げ、体育座りのように膝を曲げて、そこに顔を押し付けているオセロを抱え上げた。元の椅子に座らせるが、しかしオセロは依然震えたままだ。
「とりあえず、頭でも撫でてあげたら?」
「あ、あぁ……」
言われた通りにしてみると、オセロは目の端から涙をこぼしながら顔を上げ、純一を見上げてくる。
「ほら、何か食べさせて」
慌てて肉じゃがのじゃがいもを箸で突き刺し、オセロの口に入れた。
驚いたように目を丸くするオセロに純一は自然とその頭に手を置き、無意識の内に微笑みながら優しく撫でる。
だが、何故か余計に泣き出してしまった。何で!? と純一は慌てるが理由がわからない。昨夜はおいしそうに食べていたからじゃがいもがまずいということはないはずだ。なら何故?
目を擦るオセロにおろおろとしてしまいながら、その様子を見て愉しそうに笑っている母親に純一は気付いた。
「何で笑ってるんだよ。つーか何で悪化したわけ?」
「違う違う。今度のは嬉し泣きよ」
「嬉し泣き?」
そう、と智美は頷く。
「昨日のことから思ってたことだけど、その子、ずっと誰かに虐げられながら生きてきたんじゃないかしら。お腹が鳴ってからの、さっきの怯えようからしても。でも、じゅんちゃんに優しくされたことが嬉しい誤算だった。だから泣いちゃったんだと思うのね」
「……」
一体どんな生活をしてきたのか。腹が鳴ったくらいで怯えなければならない生活など想像が出来ない。 ゆっくりと頭を撫でてやりながら右手で箸を掴み、まだ泣きじゃくるオセロの口に純一は食べ物を運び続けた。
食べ終えた純一達がゆっくりしていると、純一の腕の中に移動したオセロはすやすやと眠りに就いた。泣き疲れたのだろう、頬は純一が着ているシャツで拭ったが、目の回りは赤くなり、少し腫れている。
「寝ちゃったわね」
「うん」
智美はオセロの頭を撫でていたが、よし、と言って立ち上がるとリビングから出て、外出用の服に着替えて戻ってきた。
「ちょっと買い物に行ってくるから。オセロちゃんの生活用品を買い揃えないといけないし。流石にその恰好は、ね」
苦笑いするを智美。たしかに、素っ裸にシャツ一枚の幼い女の子(推定小学四年生)を抱えた高校生男児、という絵はあまりいいものではないだろう。
「母さんがいない間に変なことしちゃ駄目だからね」
「当たり前だ」
「ならいいけど。じゃあいってきます。二時間ぐらいで帰るから、ちゃんと勉強しておくのよ」
「わかってるって」
そう、と智美は返し、買い物バッグを片手に出掛けていった。
車庫の前にある座敷から車を見送り、二階に上がると再びオセロをベッドに寝かせて机に向かう。
一時間程経った頃だろうか。毎週提出することになっている数学の課題、4STEPをの答え合わせをしていると横からお呼びがかかった。
「ん……じゅん、いちぃ……?」
「ん?」
純一が右に首を回すと、半身を起こしたオセロが右目をを擦りながらこっちを見ていた。どうやら目が覚めたらしい。とがった耳を力無く下に垂らしながら、オセロはベッドの上で縁に体を寄せると純一の服を掴んだ。
にこっと笑うオセロに純一は小さく笑い返し、少し椅子の高さを下げてから抱き上げ、自分の太股に座らせて胸に体を預けさせる。
「じゅんいちぃ。じゅんいちぃ」
嬉しそうに純一の顔を見上げながら何度も名前を呼ぶオセロ。
食事のことがあったからか、オセロはかなり純一に懐いたようだった。
(面倒臭いことになるってわかってたはずなのに、何で拾っちまったんだろうな、俺は。施設に容れておけば楽だったろうに……)
「じゅんいちぃ。Benew yen nuit?」
そう言ってオセロが指差したのは、机の上に拡げられた4STEPだった。
(これは何、的なあれか? それとも何やってるの的なほうか? 言葉が通じないってのは本当に不便……、そうだ!)
「いいこと思いついた」
一時間後。
「ただいまー」
丁度二時間で智美が帰ってきた。手には中身の詰まった紙袋と買い物バッグを提げ、重そうにしながら玄関にどさっと置く。
智美が一旦腰を下ろして靴を脱いでいると、後ろのほうから階段の軋む音が降りてきた。
「おかえり、母さん」
「ただいま。オセロちゃんの服のサイズがイマイチわかんなかったから、適当にたくさん買ってきたの。ついでにプリンとかゼリーとか、おやつも買ってきたから」
「ふぅん。……(ほら、オセロ)」
「……」
(ん?)
後ろで何かこそこそとしているのを感じながら靴を脱ぎ、智美が後ろを振り返ると、階段の下に純一を置き去りにし、目の前にオセロが一人で立っていた。
オセロは何やら緊張している様子だったが、不安そうな表情をしながらも、
「あ、りがと。おかーさん」
え? と智美はフリーズし、目の前のオセロと階段の下にいる息子を見比べる。
「え? え?」
現状を理解しきれていない母親に面倒臭さを覚え、純一は一つため息をついた。
「もっかい言ってやれ、オセロ」
「ありがと、おかーさん」
「えっと……」
智美はしゃがんでオセロに目線を合わせ、
「今、ありがとって言ったの……?」
呆然とそう呟き、がばっと抱きしめた。
「何、オセロちゃん、日本語が話せるようになったの?」
「まだ単語単語だけどな。一つ一つに指差しながら教えていったら、家の中のものはあらかた覚えたよ。動きとかは難しいから、『ありがとう』と『ごめんなさい』だけしか教えてない」 感謝や謝罪の言葉を教えた純一もすごいが、それを覚えてしまったオセロには畏怖の念を抱かされる。だが、それは喜ばしいことであり、嫌悪するようなことでは決してない。オセロを抱きしめながら智美は抱き上げた。
「どーいたしまして。オセロちゃん、ちょっと着替えてこよっか。お母さん、たくさん買ってきたのよー」
智美は片手でオセロを抱えながら紙袋と買い物バッグを逆手に提げ、リビングへすっこんでいくが、
「じゅんいちぃー……」
悲しそうな顔をしながらオセロは純一に手を伸ばした。言葉はそれだけだったが、それでも離れたくないというオセロの気持ちはひしひしとと伝わってくる。純一は二階に上がろうとしていたのだが、オセロの悲しそうな声と、母親のじとーっとした視線に負け仕方なく側に行く。そしてオセロの頭の上にぽすっと手を置いた。
「着替えたら呼んでくれ。そしたらまた降りてくるから」
その時、純一はオセロの白目の部分が一瞬、淡い青色に輝いたような気がした。だがやはり気のせいだったのか、はっとした時にはただの白色にしか見えなかった。
泣きそうだった顔は落ち着き、純一の言葉を理解したかのようにオセロはおずおずと頷いた。
それを確認した智美はリビングへと引っ込み、純一は自室に戻った。
「ったく」
どかっと椅子に腰を下ろして純一はため息をつくと、机に片肘をつき頬杖をついた。片手で古文単語帳をめくる。
(別に子供は嫌いじゃないし、懐かれるのも嬉しい)
けど、
(面倒臭い……)
純一の中にあるのは、これだけだ。ただ面倒臭い。人が嫌いなわけではないが、自分から関わろうとすることはまずない。
いつからだろうか。物事に対してこんなにも面倒臭さを覚えるようになったのは。昔はそんなことはなく、他の子のように進んで遊んだりしていたのだが、少なくとも小学三年の頃には今のような面倒臭がりになっていた。
自然と今のような性格になっていったのか、それとも何か大きなきっかけがあってガラッと変わったのか。きっかけがあったのならば、それは何なのか。
しかし、いくら考えたところで出てくるはずもない。考えてもわからないことはわからない、つまりそれは純一の嫌いな面倒臭いに当て嵌まる。その疑問を頭の中から追いやり、単語帳に集中
『じゅんちゃーん、ちょっと降りてきてー』
──できず、ため息をつきながら手の中のものに赤シートを挟んで閉じ、右手に提げながらリビングに行く。真下にあるリビングから母親の黄色い声が聞こえていた気がしたが……。
「何、母さん」
入るなりそう言った純一はしかし、二の句が継げなかった。
智美は何やら興奮しているようで、しばらくしてからリビングの入口で呆然としている息子に気づいた。
「ほらじゅんちゃん、見て見て! すっごいかわいいのオセロちゃん!」
そう言って智美は純一の前にずいっとオセロを突き出した。さっきまで着ていた純一のTシャツではなく、今は薄緑色のワンピースを着ている。丈は膝より少し下くらいまでで、右の裾には回りより少し濃い色で何かの花が描かれているが、何の花かはわからない。形からしてボタンの仲間か何かだろう。本人も少しは喜んでいるのか、裾をくいくいと引っ張っている。
「短パンとかスカートとかいろいろ買ったんだけど、このワンピースが一番似合ってるのよ。かわいくない?」
「あ、うん……思う」
たしかに似合っている。薄緑と灰色の髪とがマッチし、互いが互いの色を映えさせていて、尖った耳もアクセントをつけるようにぴったりだった。そこらの子供と比べたらかなり浮くことだろう。もちろん良い意味で、だが。
純一の素直な感想がそれだった。そして、さっきから言いたかった言葉を口にする。
「その服の量、何?」
純一が指を差した二人の横には、一メートル程の高さに積み上げられた大量の服があった。さっき持って入ってきた袋の容量よりも明らかに多いだろうというその山を智美は一瞥し、
「何って、買ってきた服よ」
当然のように答える。
あ、そうと呟いき深く考えないことにした。車に積んでおいたのを後から持っておりたりしたのだろう。
「ほら、じゅんちゃんもかわいいって。よかったねーオセロちゃん」
「じゃんいちぃ、かわいい」
「いや、俺のことじゃないが……まあ、似合ってるぞ」
そう言われてオセロはにっこりと笑い、純一にしがみつく。
「でも、どうしようかしらねぇ」
智美が首を傾げ、オセロを難しい顔で見つめる。
「何が」
「明日は平日でしょ? そしたらお母さんは仕事だし、じゅんちゃんは学校だしで、誰も家にいられなくなるじゃない。オセロちゃんはどうしようって話になるわけ」
「そっか。流石に一人にはしておけないしな……」
「?」
何の話をしているのかわかっていないオセロは純一を見上げながら小さく首を傾げた。うーんと唸りながら壁を睨みつける。そこで壁に掛けられたものに目がいった。
「……ばーちゃんは?」
「え? ばーちゃん?」
ばーちゃんとは智美の母親で、名を典子という。風篠市に住み、今は一人でマンションに住んでいる。
うん、と頷きながら壁に掛かっている写真から目を離しオセロを見下ろす。
「ばーちゃん、今仕事とかもしてないんだよな。だったら俺か母さんがいない間は預かっててもらえないのかな」
智美はしばらく押し黙り、
「それしかないわね。ちょっとおばーちゃんに電話してみる」
すぐに繋がったらしい、いくらか話すと智美は純一に頷いて見せた。どうやら了承を得られたようだ。
(よかった、これで何とかなる……)
「? じゅんいちぃ?」
純一は腰に抱き着いている厄介な拾いものを見下ろしながら、とりあえずは問題をクリアしたことに胸を撫で下ろした。
しかし、それはあくまで『とりあえず』であり、問題は山積みだ。そのことを思い出して純一は嘆息し、学校に出された課題をすべくオセロを抱え上げて二階に上がっていった。




