異世界で贄にされた私は、自分を騙すはずだった男を愛してしまったので、彼が間に合わない夜に死を選びました
※ハッピーエンドではありません。結末にご注意ください。
私は、最初から知っていた。
この世界の仕組みも、魔王と呼ばれる存在の真実も。そして、私がこの冷たい石畳の上に呼ばれた本当の理由も。
転移してきたあの日、意識が戻った瞬間、頭の中に膨大な知識が流れ込んできた。
それは誰かが強制的に刻みつけたような、冷たく鋭い記憶の奔流。痛みはなかった。ただ、世界がどれほど残酷なシステムで回っているかを、静かに理解させられた。
この世界の総魔力量は、初めから決まっている。
千年に一度、恐ろしいほどの魔力を抱えた人間が生まれる。その者は世界の魔力の半分以上を独り占めし、やがて循環を止め、いかなる生物も育たない「沈黙の季節」を引き起こす。
だから、その人間は殺されなければならない。
自らの魔力を半分削り出して殺魔の武器を作り、それを扱える唯一の「勇者」に殺されること。それが、この世界の調律だった。
私は、そのための代替品だった。
本来なら、この国の王女が犠牲となるはずだった。
十五歳で力に目覚め、聖女と崇められた彼女。十八の成人を迎える日に、すべてを終わらせる予定だった。幼馴染の勇者と、彼女の婚約者である公爵家の当主。三人は世界の悲劇を背負い、固く結びついていた。
そこへ、異世界から私が落ちてきた。
王女を上回る魔力を秘めた、歪な闖入者。
王家は躊躇うことなく、贄のすり替えを決めた。
『あの女を、代わりに使え』
そして、王女の婚約者だった男に、王命が下った。
——その女を篭絡し、死を受け入れさせろ。
男は従った。
最初の日々を、今でも鮮明に覚えている。
過剰なほど丁寧な言葉遣い。慎重に距離を測るような優しさ。計算され尽くした、隙のない笑顔。
彼は私の世話役となり、贅沢な部屋を与え、温かい食事を用意し、この世界の言葉と常識を教え込んだ。
すべてが、完璧だった。
殺すための家畜を育てるような、冷酷で義務的な完璧さ。
私は知っていた。
彼の指先が私に触れるたび、その背後に王命があることを。
それでも——私は、彼を好きになってしまった。
ある夜、庭の石段で冷たい月を見上げていたときのことだ。
彼が静かに隣に座り、何も言わずに同じ空を見上げた。
疲れ果てた横顔。月明かりの下で、いつも貼り付けられていた「完璧な笑顔」が削げ落ちていた。
「……お前は、ここにいていい」
掠れた低い声。そこには計算も、王命の重みもなかった。
ただの、壊れかけた一人の人間の本音が漏れ出ていた。
「あなたは……義務で私の側にいるのでしょう?」
尋ねると、彼は否定しなかった。
長い沈黙のあと、胸の奥から絞り出すように息を吐いた。
「最初は、そうだった。今も、すべてを嘘だとは言えない。だが——」
続きを言わなかった。
言えなかった言葉の重みが、夜の静寂の中に重く落ちた。
それから、少しずつ世界が変わっていった。
私が発熱で倒れた夜、彼は朝まで私の手を握りしめていた。
「医者を呼ぶ」と言いながら、冷えた手ぬぐいを何度も自分で取り替えていた。「帰ってください」と弱々しく拒んでも、「頼むから、黙って寝ていてくれ」と苦しそうに首を振った。
その瞳にあったのは、任務を遂行する男の目ではなかった。
別の日、私が「この世界の花を知りたい」と呟くと、翌日には分厚い図鑑が届いた。
ページの端が丁寧に折られ、私が好みそうな素朴な花だけに、彼の筆跡で印がつけられていた。
『これは夜にしか咲かない。……お前に似ていると思った』
その言葉を聞いた瞬間、胸の奥が痛いほど熱くなった。
ああ、私はこの人の声が、この人の不器用な手が好きなのだと自覚してしまった。
ある夕方、私は逃げ場を無くすように尋ねた。
「あなたは、私を篭絡しているつもりですか」
彼は息をのむように目を見開き、やがて痛々しく口元を歪めた。
「……気づいていたのか」
「最初から、知っていました。騙されているフリをしながら……あなたを好きになってしまいました」
風が庭の木々を揺らし、葉の擦れ合う音が響く。
彼は長い時間をかけて私を見つめ、震える指先で私の頬に触れた。
「……俺もだ」
その声は小さく、消えそうだった。
けれど、そこには王命も義務もない、身勝手で本物の愛だけが存在していた。
それから私たちは、二人の時間を貪るように過ごした。
夜に並んで星を見ること。
食事のあとに交わす、他愛もない会話。
抱きしめ合わなくても、側にいるだけで体が溶け合いそうな温もり。
あまりにも短い、奇跡のような日々。
私にとっては、一生分の幸福だった。
王女のことは、憎めなかった。
彼女はある日、私に深く頭を下げた。
「ごめんね」と呟いた彼女の瞳には、涙すら浮かんでいなかった。大切な幼馴染(勇者)と婚約者(男)を守るため、見知らぬ異世界人を犠牲にする罪を背負い、心を殺していた。
勇者のことも、理解できた。
彼は王女を愛している。だからこそ、私という犠牲の上に成り立つ平和に、誰よりも苦しんでいた。
でも、私が選ばれたのだ。
私が死ねば、王女は生きられる。勇者も、王女の側にいられる。
そして何より——あの人が、罪の意識で狂わずに済む。
魔力の半分を削り出し、殺魔の剣を作る日が来た。
礼拝堂の奥、冷え切った祭壇の前で自らの胸に手を当てる。
魔力を引き剥がす感覚は、身を裂かれるように冷たく、暗かった。
手のひらに集まった銀の光は、やがて一本の透明な剣へと姿を変えた。触れるだけで世界の均衡を感じさせる、美しくも残酷な刃。
「これで、いい……」
私は剣を抱きしめた。
これで、私は彼のために死ぬことができる。
予定されていた決行日の、前夜。
私は一人、夜の礼拝堂へ向かった。
明日では、遅すぎるのだ。
明日になれば、あの人が気づいてしまう。
私の手首を掴み、「行くな」と、「お前を失いたくない」と、本気で泣いて止めてしまう。
もし彼にそう言われたら——私は絶対に、世界よりも彼を選んでしまう。
生きようとしてしまう。迷ってしまう。
そんな醜い未練を晒す前に、今日、すべてを終わらせなければならなかった。
月光が青白く差し込む礼拝堂。
扉が重い音を立てて開き、甲冑を纏った勇者が入ってきた。
その顔は蒼白で、手は見たこともないほど震えていた。
「……来てくれたのですね」
私は微笑んだ。勇者は唇を噛み締め、声を出せないでいる。
「知っています。あなたが王女様を愛していることも。……そしてあの人が、私を、本当に愛してしまったことも」
勇者の手が、剣の柄を壊さんばかりに握りしめられる。
「明日ではダメなのです。あの人が、私を止めてしまうから。私を抱きしめて……生きろと言ってしまうから。だから、今夜にしました」
私は静かに歩み寄り、自分の魂を削って作った銀の剣を、勇者の震える手に握らせた。
「お願いです。迷わないで。私を……終わらせてください」
勇者が剣を構える。
刃が月光を反射し、冷たい一閃を描く。
勇者の目から、一筋の涙が零れ落ちるのが見えた。
私は静かに目を閉じた。
最後に胸を満たしたのは、あの人の顔だった。
一度も名前を呼べなかった、あの人。
名前を呼んでしまえば、その響きに囚われて、今すぐここから逃げ出したいと叫んでしまいそうだったから。だからずっと「あなた」としか呼べなかった、愛しい人。
「おはよう」と「おやすみ」を交わした朝夕。
「お前がいると、少し楽になる」と呟いてくれた夜の匂い。
冗談を言ったとき、照れたように耳を赤くした顔。
熱を出した夜、私を失うのが怖いと祈るように握りしめてくれた掌の温もり。
(……ごめんなさい)
あなたを、本気で好きになってしまいました。
あなたと過ごす明日が、欲しくてたまりませんでした。
刃が空気を裂き、胸を貫く感覚。
激痛のはずなのに、不思議と温かかった。
私の体から溢れ出す魔力の奔流が、世界へと溶けていき、歪んでいた理が急速に修復されていくのがわかる。
遠くで、重い扉が叩き割られるような音がした。
狂ったような足音。
悲鳴のような、私の名を呼ぶ絶叫。
あの人の声だった。
間に合わなかった男の、魂を絞り出すような叫び。
(ああ……来ないで……見ないで……)
最後に溢れ出そうになったのは、綺麗事ではない、醜い未練だった。
本当は、嫌だ。
本当は、あなたと一緒に生きたかった。
あなたの奥さんになって、この世界の知らない花を、もっと一緒に見たかった。
けれど、視界は容赦なく白く染まっていく。
溢れ出た涙が、冷たい月光に溶けて消える。
(さようなら、私の愛しい人)
世界の均衡が戻る。
あの人は生きる。王女も生きる。
私は、ここで終わる。
最後に残ったのは、あの人の不器用な温もりと、私の胸を焦がす、二度と届かない恋心だけだった。
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