聖女加護、解約済みです。王太子殿下の頭皮は自己責任でございます
婚約破棄されたので、契約通りに加護を解約するだけのお話です。
王太子殿下の頭皮に、幸あれ。
王太子殿下の金髪が、婚約破棄宣言の三秒後に散った。
私は特に驚かなかった。
予測の範囲内だった。
むしろ三秒、よく持った方だと思う。
最初の一房は、白大理石の床に落ちた。
次の一房は、殿下の肩に落ちた。
さらに次の一房は、宰相閣下の紅茶に、静かに着水した。
宰相閣下は、それを、飲んだ。
「…………」
誰も指摘しなかった。
できなかった。
王国で最も冷静な男が、現実と向き合うことを、そっと諦めた瞬間だったからである。
閣下は静かにカップを置いた。
「……私は今日、もう仕事ができない」
誰も止めなかった。
舞踏会場に、沈黙が降りた。
王太子レオナール殿下は、右手を高く掲げた姿勢のまま固まっている。
その指先は、つい先ほどまで私を断罪するために伸びていたものだ。
今は、断罪どころではない。
頭上が大事件である。
私は両手を前に重ね、静かに礼をした。
「婚約破棄、確かに承りました。では、聖女加護の提供を停止いたします」
「待て」
殿下が威厳ある声を出そうとして、失敗した。
声が裏返った。
同時に、前髪が二房ほど床へ旅立った。
「待て! 今、何をした!?」
「加護の停止でございます」
「なぜ髪が抜ける!?」
「存じません。そちらは殿下の仕様かと」
会場が、妙な空気になった。
誰も笑わない。
笑ってはいけない。
だが、全員が見ている。
王国の未来を背負う王太子殿下の頭頂部が、今まさに未来を失いつつあった。
「私の髪が……」
殿下が震える手で頭を押さえた。
遅い。
もうだいぶ出発している。
ことの始まりは、三分前である。
王宮主催の春の大舞踏会。
貴族たちが集まる華やかな会場で、レオナール殿下は私を指さし、高らかに宣言した。
「公爵令嬢エルミナ・ローゼンベルク! 貴様との婚約を、本日をもって破棄する!」
私は瞬きをした。
なるほど。
そう来ましたか。
殿下の隣には、桃色の髪をふわふわに巻いた少女がいた。
男爵令嬢のミリア様である。
彼女は胸元に手を当て、今にも倒れそうなほど儚げに微笑んでいた。
「エルミナ様……どうか怒らないでください。レオナール様は、真実の愛に気づかれただけなのです」
真実の愛。
便利な言葉である。
請求書には使えないが、責任逃れにはよく使われる。
「貴様は偽の聖女だ。本物の聖女はミリアだった。彼女の光こそ、神に愛された証なのだ!」
ミリア様が両手を胸の前で組む。
「神よ、私に清らかな光を」
ぽわっ。
彼女の周囲に淡い光が浮かんだ。
会場から感嘆の声が上がる。
私は心の中で、聖女加護管理台帳の該当欄を思い出した。
発光量、弱。
持続時間、短。
色味、不安定。
演出補助加護、過剰使用。
いつも通りでございます。
「よって、貴様を王宮より追放する! 今後はミリアを真の聖女として迎え、私の妃とする!」
「承知いたしました」
私が深く一礼すると、殿下は勝ち誇った。
「ようやく己の罪を認めたか」
「いいえ。契約終了を確認いたしました」
「契約?」
「はい。婚約に付随して提供しておりました、聖女加護一式でございます。婚約破棄により条件を満たさなくなりましたので、ただいまをもって停止いたします」
「何を馬鹿な」
「馬鹿ではございません。契約でございます」
私は胸元から小さな銀の帳簿を取り出した。
聖女加護管理台帳。
王宮に入ってから、私が毎日つけ続けてきた記録である。
ぱたん、と表紙を開く。
「第一項。王太子殿下の健康維持加護、停止」
すん。
殿下の頬から、つやが消えた。
「第二項。王太子殿下の美貌維持補助、停止」
殿下の目元に、三日寝ていない文官のような疲労が出た。
「第三項。王太子殿下の頭髪保護加護、停止」
そこで冒頭に戻る。
王太子殿下の金髪が、婚約破棄宣言の三秒後に散ったのである。
「私の髪があああああああっ!」
殿下が叫んだ。
会場中の視線が、殿下の頭部へ集まる。
よくない。
大変よくない。
視線が集まれば集まるほど、失われた部分が目立ってしまう。
「戻せ! 今すぐ戻せ!」
「婚約破棄後の加護再提供には、再契約料が発生いたします」
「金の問題ではない!」
「では、何の問題でございましょう」
「髪の問題だ!」
「でしたら、頭髪保護契約の継続が必要でございました」
殿下は口をぱくぱくさせた。
その間にも、床には金色の毛髪が少しずつ積もっていく。
春の舞踏会の床に、季節外れの落ち葉のようである。
ただし、葉ではない。
王太子殿下の髪である。
側近の一人、騎士団長子息のダリオ様が怒鳴った。
「貴様、王太子殿下に呪いをかけたな!」
「いいえ。呪いではございません。未契約状態でございます」
「未契約状態で髪が抜けるわけがないだろう!」
「そこにつきましては、殿下の日頃の睡眠、食事、頭皮環境、過度な整髪料使用をご確認ください」
「頭皮環境だと!?」
ダリオ様が怒鳴った瞬間、彼の頬に赤い吹き出物が三つ浮いた。
「うわっ」
近くの令嬢が小さく声を漏らした。
ダリオ様は頬を押さえる。
押さえたまま、しばらく動かなかった。
「……昨日、揚げ物を我慢したのに」
誰も聞いていない情報だった。
「第四項。側近団への肌荒れ防止補助加護、停止でございます」
「なぜ我々にまで!?」
「王太子殿下の公務同行者として、補助対象に含まれておりました」
「聞いていない!」
「はい。どなたも報告書を読まれませんでしたので」
私は帳簿を一枚めくった。
殿下の別の側近、文官家の嫡男が慌てて自分の顔を押さえる。
「ま、待て。私にも何かあるのか」
「第五項。徹夜後の目の下くま隠し加護、停止」
「やめろ!」
止める前に、彼の目の下がどんよりと青くなった。
会場から、気の毒そうなどよめきが広がる。
彼はまだ二十三歳だったが、今は遠征帰りの四十代文官のように見えた。
「第六項。会議中の眠気軽減加護、停止」
宰相補佐が、立ったまま寝た。
「おい! 寝るな!」
「すみません、急に王国の将来がどうでもよく……」
「起きろ!」
「無理です。まぶたが王命に逆らっています」
殿下が頭を抱える。
抱えるほど髪が落ちる。
「触るたびに減る!」
「殿下、落ち着いてください!」
「落ち着ける頭ではない!」
私は帳簿を見た。
「第七項。王太子殿下の寝癖抑制加護、停止」
ぼんっ。
殿下の残った髪が、左右に跳ねた。
絶妙だった。
ちょうど鳥が羽を広げたような形である。
王家の紋章が鷲でなくてよかったと、私は少しだけ思った。
「何だこの髪型は!」
「本来の寝癖でございます」
「本来の私を公開するな!」
「記録上、殿下は毎朝この状態でございます」
「記録するな!」
殿下は両手で左右の髪を押さえた。
しかし押さえた瞬間、今度は中央がぴょこんと立った。
会場の空気が限界を迎えた。
どこかで、ぷっ、と音がした。
全員がそちらを見る。
若い貴族令息が真っ青になっていた。
「わ、笑っておりません」
殿下が血走った目で睨む。
「笑ったな」
「笑っておりません。呼吸が少し裏切っただけです」
「呼吸を処罰するぞ!」
その令息は、必死に口を押さえた。
私は帳簿をめくる。
「第八項。舞踏会場の空調安定加護、停止」
むわっ。
会場の湿度が上がった。
着飾った令嬢たちの髪が、ゆっくりと広がり始める。
貴族紳士たちの襟元に汗がにじむ。
誰かの巻き髪が、ほどけた。
誰かの前髪が、額に張りついた。
「ちょっと、湿気が!」
「私の巻き髪が!」
「窓を開けて!」
「開けたら花粉が入りますわ!」
「花粉軽減加護も停止済みです」
「窓を閉めて!」
会場が一瞬で大混乱になった。
王宮楽団が、混乱を鎮めようとして優雅な曲を奏で始めた。
「第九項。王宮楽団の音程微調整加護、停止」
次の瞬間、祝いの曲が、不安な葬送曲のようになった。
弦が震える。
笛が泣く。
太鼓だけが妙に元気だった。
「やめろ! 余計に不吉だ!」
「申し訳ございません、殿下! 自分たちの実力と向き合う時間が突然来まして!」
「今向き合うな!」
殿下が叫ぶ。
すると、入口近くに立っていた王宮衛兵の兜が、ずるりと下がった。
別の衛兵のマントの留め具が外れた。
侍女の盆の上で、銀のスプーンが一斉に小さく震えた。
「第十項。王宮備品の微細安定加護、停止」
「備品まで!?」
「はい。王宮は繊細でございますので」
「繊細なのは私の髪だけで十分だ!」
「そこは否定いたしません」
会場のどこかで、また呼吸が裏切った。
殿下は頭を押さえながら、私を睨む。
「やめろ! 王宮がどうなると思っている!」
「婚約破棄後の王宮運用につきましては、新たな聖女様とご相談ください」
私はミリア様へ視線を向けた。
ミリア様は、びくりと肩を震わせる。
それから慌てて両手を組み直した。
「だ、大丈夫ですわ! 私が本物の聖女ですもの! 皆様、見ていてくださいませ!」
ミリア様は目を閉じ、祈りの姿勢を取る。
「神よ! 迷える者たちに、清らかな光をお与えください!」
しん。
何も起きなかった。
いや、正確には少しだけ起きた。
ぽ。
ミリア様の右手の人差し指が、豆粒ほど光った。
会場中が、それを見た。
ミリア様は必死に指を振る。
「ち、違いますの! いつもはもっと、こう、ふわあっと!」
「第十一項。聖女候補者ミリア様の演出補助加護、停止でございます」
「演出!?」
ミリア様が悲鳴を上げた。
「わ、わたくしの聖なる光を、演出などと呼ばないでくださいませ!」
「では記録上の名称を読み上げます。微弱発光現象に対する視覚的増幅、色彩調整、周辺粒子反射、天使風羽根模様追加補助」
「演出ですわね」
どこかの令嬢がぼそりと言った。
ミリア様の顔が真っ赤になる。
「そ、そんなはずありません! 私は本当に聖女で、レオナール様に選ばれて」
「はい。殿下に選ばれたことは否定いたしません」
「なら!」
「ただし、神に選ばれたかどうかは別問題でございます」
ミリア様が固まった。
殿下が叫ぶ。
「エルミナ! 貴様、ミリアを侮辱する気か!」
「いいえ。事実確認でございます」
「事実だと!?」
「はい」
私は帳簿を閉じた。
ぱたん、という音が、妙にはっきり響いた。
「ミリア様には、花を少し元気にする程度の癒やしの才はございます」
ミリア様が少しだけ顔を上げる。
「ですが、王宮聖女として必要な広域浄化、結界維持、疫病抑制、災害時祈祷、王族健康管理、祭礼時神殿接続は、すべて未確認でございます」
会場が静まり返った。
殿下の頭から、また一房落ちた。
「そして、それらの不足分は、この三年間、私の加護で補っておりました」
「嘘だ!」
「記録がございます」
「捏造だ!」
「王宮会計にも請求記録がございます」
「聞いていない!」
「はい。殿下は毎月、承認印を押しておられました」
私は近くの侍従へ目を向ける。
「恐れ入ります。王宮加護費の控えを」
侍従は一瞬迷ったが、すぐに青ざめた顔で書類箱を持ってきた。
私は中から一束を取り出し、殿下へ向ける。
そこには、殿下の署名があった。
王太子生活環境維持費。
王族健康補助費。
儀礼演出安定費。
王城湿気対策費。
王宮備品微細安定費。
王族専用シャンプー泡立ち向上費。
寝起きでも王子様コース。
頭髪保護特別枠。
殿下の自尊心確認時に侍女が自然に微笑む意欲維持補助費。
最後の三つを見た瞬間、側近の誰かが吹き出しかけた。
すぐに口を押さえたが、肩が震えている。
「寝起きでも王子様コース……」
「読むな!」
「頭髪保護特別枠……」
「読むなと言っている!」
「殿下の自尊心確認時に侍女が自然に微笑む意欲維持補助費……」
「長い! そして読むな!」
だが、こういう時、人は読むなと言われるほど読む。
会場中の視線が、書類と殿下の頭を往復した。
殿下は震える声で言った。
「最後のものは何だ」
「記録通りでございます」
「具体的に言うな」
「殿下が鏡の前で『今日の私はどうだ』とお尋ねになった際、侍女の皆様が目を逸らさず、自然な笑顔で頷けるよう支援する加護でございます」
「言った! 具体的に言った!」
「なお、使用頻度は高めでございます」
「記録を燃やせ!」
「王宮会計に写しがございます」
「会計ごと燃やせ!」
「横領と反逆の疑いが発生いたします」
「くっ……!」
殿下は歯を食いしばった。
その拍子に、左右の寝癖が少し揺れた。
誰も笑わなかった。
全員、かなり偉かった。
ミリア様が、震える声で言った。
「でも……でも、そんなの、私には分かりませんわ」
初めて、彼女の声から飾った甘さが消えた。
「私は、男爵家の娘です。どれだけ努力しても、舞踏会では名前より先に家格を見られます。聖女だと言われた時、ようやく誰も私を下に見ないと思ったのです」
会場の空気が少し変わった。
ミリア様は豆粒ほど光る指先を握りしめた。
「殿下が私を選んでくださった。聖女だと呼んでくださった。だから……だから私は、そうなれば全部変わると思って」
それは、はじめての本音だった。
私は、彼女を見た。
男爵令嬢。
淡い祝福。
大きすぎる肩書き。
そして、それにすがった少女。
笑うには、少しだけ苦い。
「ミリア様」
「……何ですの」
「肩書きが欲しかったのなら、なおさら祈りではなく、仕事を覚えるべきでございました」
ミリア様が唇を噛んだ。
「聖女は、光る者の名ではございません。倒れた者を起こし、汚れた水を清め、眠れない者のそばで祈り続ける者の名です」
会場が静まり返る。
私の声は、少しだけ低くなっていた。
「黙って支えることは、苦ではございませんでした」
自分で言って、胸の奥が小さく痛んだ。
三年間。
朝の祈祷。
夜の結界点検。
殿下の公務の前後に入れた細かな補助。
王宮に暮らす人々が、何も気づかず穏やかでいられるように整えた、名もない加護。
見返りが欲しかったわけではない。
けれど。
「ですが、支えられていることに気づかれないまま、不要と呼ばれるのは、少しだけ苦しゅうございました」
誰も、すぐには何も言わなかった。
私も、何も言わなかった。
言い切って、少しだけ後悔した。
これは事実確認ではなかった。
殿下の手が、頭から少しだけ離れた。
「エルミナ……」
その声は、先ほどまでと違っていた。
私は一度だけ瞬きをして、表情を戻す。
「……以上、契約終了に伴う補足でございます」
「今のも補足なのか」
「はい」
「……そうか」
殿下は何かを言おうとして、言えなかった。
その時、会場の扉が開いた。
王妃陛下が入ってこられた。
銀の扇を手に、優雅に。
けれど目はまったく笑っていない。
「何を騒いでいるのです」
王妃陛下の一言で、会場が凍った。
殿下は救いを求めるように叫ぶ。
「母上! エルミナが私に呪いを!」
王妃陛下は、殿下の頭を見た。
沈黙。
長い沈黙。
とても長い沈黙。
殿下の左右に跳ねた髪が、湿気でさらに広がっていく。
王妃陛下は、静かに扇を閉じた。
「レオナール」
「はい!」
「あなた、髪だけで済んでよかったと思いなさい」
「母上!?」
「エルミナ嬢が三年間、どれほど王宮を支えてくれていたか、あなたは何も見ていなかったのですね」
「しかし、私は真実の愛を」
「真実の愛で王城の湿気は取れません」
会場のどこかで、また誰かが吹き出した。
王妃陛下はミリア様を見る。
「ミリア嬢」
「は、はい」
「あなたは広域浄化ができますか」
「……できません」
「結界維持は」
「できません」
「疫病抑制は」
「できません」
「王太子の頭髪保護は」
ミリア様は、殿下の頭を見た。
見てしまった。
そして、少しだけ視線をそらした。
「……たぶん、無理です」
殿下が傷ついた顔をした。
「ミリア……?」
「い、いえ、その、わたくしは内面を愛しておりますので」
「今それを言うな!」
王妃陛下は深くため息をついた。
「エルミナ嬢。現在、停止した加護はいくつです」
「殿下個人への常時加護が百二十七件。王宮全体への生活補助加護が四百二十三件。合計五百五十件でございます」
「五百五十」
王妃陛下が目を伏せた。
殿下が恐る恐る言う。
「思ったより多いな……」
「思う前に読みなさい」
王妃陛下の声は静かだった。
だから余計に怖かった。
「エルミナ嬢。再提供は可能ですか」
「可能でございます。ただし、婚約者特典は終了しておりますので、通常の外部委託契約となります」
「料金は」
「緊急復旧費、三年分の未評価業務精算、迷惑料、ならびに頭髪保護特別枠の再設定費を含めまして」
私は、すでに計算済みの紙を差し出した。
王妃陛下はそれを見た。
扇の動きが止まった。
「高いわね」
「はい」
「ですが、妥当ね」
「ありがとうございます」
殿下が叫ぶ。
「母上! 払うのですか!?」
「払わない場合、あなたはその頭で次の外交晩餐会に出ることになります」
殿下は黙った。
実に分かりやすい沈黙だった。
私は帳簿を確認する。
「なお、未停止分も連動解除が進んでおります」
「まだあるのか!?」
「はい。残り五百三十九件でございます」
「減り方が怖い!」
「第十二項。王族専用シャンプー泡立ち向上加護、停止」
「それは今関係ないだろう!」
「殿下は泡立ちが悪いと不機嫌になられますので」
「言うな!」
「第十三項。王城廊下の足音反響軽減加護、停止」
「なぜそんなものが必要なのだ!」
「殿下が夜中に厨房へ菓子を取りに行く際、足音が響くと困ると」
「言うなと言っている!」
王妃陛下が、殿下を見た。
「レオナール」
「違います、母上。あれは視察です」
「深夜にプリンを三つ視察したのですね」
「プリンは国家の甘味事情を知るために必要で」
「黙りなさい」
「はい」
王妃陛下は強かった。
私はさらに帳簿をめくる。
「第十四項。王太子殿下の寝起き声爽やか補助加護、停止」
「それは何だ」
王妃陛下が聞いた。
「朝一番に殿下が『おはよう』とおっしゃった時、低く澄んだ声に聞こえる加護でございます」
「本来は」
「寝起きの鴨のような声でございます」
「誰が鴨だ!」
殿下が怒鳴った。
見事に裏返った。
「ぐわっ」
会場が静止した。
殿下本人も静止した。
「……今の、私か」
「はい」
「鴨か」
「表現はお任せします」
「鴨だった」
「承知いたしました。記録しておきます」
「記録するな!!」
殿下の叫びは、また少しだけ鴨に近かった。
王妃陛下が目を閉じた。
「エルミナ嬢」
「はい」
「外部委託契約の中に、王族品位維持の項目はありますか」
「ございます」
「入れなさい」
「承知いたしました」
「最優先項目は」
「頭髪保護、寝癖抑制、声帯安定、湿気対策、ならびに発言前思慮補助でよろしいでしょうか」
「最後のものを倍に」
「母上!?」
殿下が叫んだ。
王妃陛下は、涼しい顔で言った。
「倍に」
「承知いたしました」
私は帳簿に記した。
発言前思慮補助、二倍。
良い判断だと思う。
殿下は私を見た。
「エルミナ。その……今なら、婚約破棄を取り消してやっても」
会場の空気が、少し冷えた。
私が答えるより早く、殿下自身が口を閉じた。
先ほどまでなら、そのまま言い切っていただろう。
だが今は、違った。
殿下は床の髪を見た。
乱れた会場を見た。
疲れ切った側近たちを見た。
豆粒ほど光る指先を隠すミリア様を見た。
そして、最後に私を見た。
「……違うな」
殿下の声は小さかった。
「今のは、違う」
王妃陛下が、黙って殿下を見る。
殿下は、言葉を探すように唇を動かした。
「お前は、いつもそこにいた」
私は何も答えなかった。
「朝の式典にも、夜の祈祷にも、私が不機嫌な時にも、外交の前にも、母上が頭痛で休まれた日にも。いつも、そこにいた」
良いことを言っている。
かなり良いことを言っている。
殿下の残った髪は、まだ左右に跳ねていた。
しかも湿気を吸って、先ほどより堂々としていた。
王妃陛下は、殿下を静かに見つめていた。
おそらく、息子の成長を感じておられたのだと思う。
ただし、視線は時々、左右に跳ねた髪へ吸われていた。
「はい」
私は答えた。
「私は、それを……当たり前だと思っていた」
「はい」
「いなくなるなど、考えもしなかった」
殿下の手が、ゆっくりと下がった。
頭を守るより先に、言葉を選ぼうとしている。
遅い。
とても遅い。
けれど、初めてだった。
「エルミナ」
「はい」
「私は、お前に何と言えばいい」
会場が静まり返った。
私は、少しだけ息を吸った。
「謝罪を」
殿下の目が揺れる。
「それから、今後は書類をお読みください」
「そこもか」
「重要でございます」
殿下は、震える息を吐いた。
「……すまなかった」
その一言は、王太子としては小さく、男としては遅く、婚約者としては足りなかった。
けれど、初めて自分の口から出た謝罪だった。
髪型以外は、少しだけ立派だった。
私は深く礼をした。
「承りました」
殿下の顔に、ほんの少しだけ安堵が浮かぶ。
だから私は、続けた。
「ですが、お断りいたします」
「なぜだ!」
「謝罪と再契約は別でございます」
殿下が絶句した。
王妃陛下が、小さくうなずいた。
「当然ね」
「母上!」
「レオナール。謝ったから許されるのではありません。謝って、ようやく失敗を認めたことになるのです」
殿下は黙った。
私は、にこりともしなかった。
「契約相手としての信用が失われました。契約を理解せず、記録を読まず、提供された価値を把握せず、不要と断言したうえで、結果が出たら戻せとおっしゃる方とは、再契約できません」
「それでも、王家とは契約するのだろう」
「はい。王妃陛下とは契約いたします」
「私ではなく?」
「はい」
殿下は、少しだけ傷ついた顔をした。
今度は、髪ではないところが傷ついた顔だった。
ただし髪は、まだ左右に跳ねていた。
そのため、会場の全員が感情の置き場に困っていた。
心はしんみりしている。
目はどうしても髪へ行く。
人間とは、難しい生き物である。
私は静かに告げる。
「頭髪より、信用の方が戻りにくいものです」
殿下は黙った。
王妃陛下が小さく息を吐く。
「エルミナ嬢。あなたには、王家より正式に謝罪と精算を行います」
「恐れ入ります」
「今後の身の振り方は」
「実家へ戻り、しばらく休みます。その後、外部聖女顧問として業務を受けるか検討いたします」
「王宮へ戻る気は」
「湿気の多い職場は、少々」
王妃陛下の口元が、ほんの少しだけ動いた。
笑いかけたのだと思う。
王妃陛下は強い方なので、こらえた。
「そう。では、せめて馬車を用意させましょう」
「ありがとうございます」
私はもう一度礼をした。
その時、殿下が言った。
「エルミナ」
先ほどのような怒鳴り声ではなかった。
「何でございましょう」
「私は、お前を見捨てたのだな」
私は足を止めた。
殿下は、床に落ちた自分の髪を見ていた。
「今、お前に見捨てられて、ようやく分かった」
そう言って、殿下はゆっくりと膝を折った。
王太子が、舞踏会場の床に片膝をついた。
誰も声を出さなかった。
殿下は、白大理石の上に落ちていた金髪を、一房だけ拾った。
それだけだった。
それだけしか、今の殿下にはできなかった。
髪を拾ったところで、何も戻らない。
謝ったところで、三年間が戻るわけでもない。
けれど、失ったものを自分の手で拾おうとしたのは、たぶん初めてだった。
ただし。
片膝をついたことで、左右に跳ねた髪が、さらに鳥らしく見えていた。
良い場面だった。
かなり良い場面だった。
王家の紋章が本当に鳥でなくてよかったと、私は二度目に思った。
「殿下」
「何だ」
「緊急対応として、一つだけ助言を」
殿下の顔に、反射的に希望が戻る。
「何だ。早く言え」
「今夜は整髪料を落とし、頭皮を清潔にして、よくお休みください」
「医師の助言ではないか!」
「聖女加護停止後は、基本的な生活習慣が大切でございます」
会場のあちこちで、肩が震えた。
少しだけ重くなった空気が、そこで元に戻った。
私は今度こそ背を向ける。
扉へ向かう途中、ミリア様が小さく呟いた。
「わ、わたくし、どうすれば」
私は立ち止まらずに答えた。
「まずは花を元気にするところから始められるとよろしいかと」
「花……」
「基礎は大切でございます」
「レオナール様は」
「頭皮からでございます」
ミリア様は黙った。
王宮の扉が開く。
外の風は、湿っていなかった。
涼しく、軽く、私の髪を静かに揺らした。
背後では、殿下の声がまだ聞こえている。
「待て! 誰か! 鏡を持ってくるな! いや、やはり持ってこい! いや、見るのが怖い!」
「殿下、落ち着いてください!」
「落ち着ける頭ではない!」
「頭の問題に戻さないでください!」
「頭から始まった問題だろうが!」
私は馬車の前で、最後に一度だけ王宮を振り返った。
きらびやかな窓。
美しい庭。
格式高い白亜の城。
その内側では今、空調と照明と泡立ちと寝癖と頭髪をめぐる大混乱が起きている。
けれど、それはもう私の担当ではない。
私は静かに礼をした。
「では皆様」
誰に聞こえるわけでもない。
それでも、三年間の業務終了の挨拶として、私は丁寧に告げた。
「頭皮のご無事を、お祈りしております」
その夜。
王宮から、正式な再契約依頼が届いた。
封筒の中には、王妃陛下の署名入りの謝罪文と、十分すぎるほどの前金。
そして、殿下の震える字で書かれた三つの願いが添えられていた。
『このたびは、まことに申し訳なかった』
『寝癖抑制加護だけでも、至急お願いしたい』
『鴨については、何卒ご内密に願いたい』
私はそれを読み、しばらく考えた。
そして、返信用紙に一行だけ記した。
『頭髪保護特別枠とのセット契約のみ承ります』
翌朝。
王宮から、即日契約書が届いた。
契約書の末尾には、王妃陛下の追記があった。
『発言前思慮補助は三倍で』
お読みいただきありがとうございます。
本作は、聖女加護管理台帳の記録に基づいた、
正確な業務終了報告でございます。
笑っていただけましたら、評価・ブックマーク、
何卒よろしくお願いいたします。
王太子殿下の頭皮にも、たぶん励みになります。
なお「発言前思慮補助・三倍」の効果につきましては、
現在も経過観察中でございます。




