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第25話 最後に見るもの

 1994年5月23日。


 色も、音も、匂いも、味もない世界。残っているのは——モノクロの視覚と、触覚と、記憶。


 今日、火の欠片を手に入れる。代償は視覚と触覚。今日が——目で見る最後の日であり、手で触れる最後の日。


 チヨは朝、いつもより長く鏡の前に立った。


 モノクロの自分が映っている。二十二歳の女性。肩までの黒髪。痩せた顔。目の下に隈がある。数日でずいぶん痩せた。食事の味が分からないから、食べる量が減っている。頬がこけ始めている。


 自分の顔を——覚えておこう。明日からは、鏡を見ても自分が映っているか分からない。


 手を見た。自分の手。右手の指先が薬品で荒れている。左手の小指に、ルカとの指切りの感触がまだ残っている。この手で、何枚の写真を撮っただろう。何杯の味噌汁を作っただろう。何回、ルカの頭を撫でただろう。


 ルカの部屋に行った。ルカは制服に着替えていた。チヨの気配に気づいて振り返る。


 筆談ボードに書いた。


『ルカ。こっちを向いて』


「?」


 ルカが正面を向いた。モノクロのルカ。黒い髪。白い肌。制服の灰色。そして——明るい灰色の瞳。チヨには金色に見えないが、瞳の中で光が揺れているのは分かる。魂の光が。太陽のように温かい光が。


 チヨはルカの顔を見つめた。額の形。母に似てきた曲線。眉の角度。父の眉だ。凛としている。鼻の線。唇の曲線。顎の小ささ。耳の形。一つ一つの部品を、脳に焼きつけるように見た。


『きれいね、ルカ』


 ルカが照れて目を逸らした。チヨはルカの顎にそっと手を添えて、正面に戻した。


『もう少しだけ。見せて』


 ルカの目に涙が浮かんだ。何かを察したのだろう。この子は鋭い。金色の瞳を持つ者の直感。


 チヨはルカの頬に触れた。柔らかい。温かい。十五歳の肌。すべすべしている。昔は赤ん坊のもちもちした肌だった。初めて抱いたとき、あまりの小ささに壊してしまいそうで怖かった。それが——こんなに大きくなった。


 この変化を——見届けられない。十六歳の顔も、二十歳の顔も、知ることができない。


 ルカがチヨの手を取り、自分の頬に押し当てた。


 筆談ボードに書いた。ルカの字。震えている。


『姉ちゃんの手、冷たい。温めてあげたいのに、どうすればいいか分からない。でもこうしてる』


 チヨは微笑んだ。


『こうしてくれるだけで、十分温かいよ』


        *


 午後、健司が来た。


 チヨは健司の顔を見た。最後に見る健司の顔。角張った顎。少し長い前髪。眼鏡の奥の目。モノクロでも、この人の目は——優しいと分かった。いつも、チヨを見るときだけ、少し柔らかくなる目。


 健司もチヨを見ていた。何かを言おうとして——止めた。代わりにノートに書いた。


『今日の空は青い。雲ひとつない五月晴れ。チヨが好きだった空だ。風が少し強い。南風。梅雨の先触れ。あと、俺の白衣にはコーヒーの染みがついてる。昨日こぼした。情けない話だが』


 最後の一文は——チヨを笑わせるためだ。分かっている。チヨは声の出ない笑いを浮かべた。


『あなたの目にはまだ見えるから、それでいい。コーヒーの染み、洗ってあげたかったな』


 健司の目が赤くなった。泣くのを堪えている。医者の顔を作ろうとしているが、できていない。


 チヨは健司の手を取った。最後に触れるもの。健司の手。大きくて、温かくて、指先だけが荒れている。消毒液のせいだ。


 強く握った。強すぎて、健司が驚いた。


「どうした?」


 唇が読めた。チヨは首を振った。


『——なんでもない。手を握りたかっただけ。もう少しだけ、このまま』

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