第8話:複数拠点の追跡逃れと偽封筒の処分
ノアはほんの少しだけ息を吸い込んだ。
そのとき——
すぐ横で、軽い声が落ちてきた。
「私にもサンセット・ジンサワー、一つちょうだい。」
(ん? 女性……? 女の子?)
横目で見ると、
私より少し若いくらいの女の子が立っていた。
白銀の髪、そして——長い耳。
(……え。エルフ? じゃなくて、この国の亜人種?
いや、それより——知らない人だよね?)
彼女は笑顔でこちらを覗き込んだ。
「久しぶり。ノアさん。一杯いい?」
(……誰?)
その瞬間、耳元でミヤの声が極端に低くなる。
『ノアちゃん——会話を合わせて。今すぐ。』
通信が“プツッ”と途切れた。
(え。切れた!?)
残されたのは、
見知らぬ女の子と、
私の前のサンセット・ジンサワーだけ。
「……久しぶり、いいよ。どうぞ。」
私は笑顔を作り、
彼女の芝居に乗るように返した。
女の子は満足そうに頷き、
グラスを一口で飲み干した。
「ノアさん、遅くなってごめんね。
他の人と飲んでたの。……他に行こう?」
「……わかった。」
会計を済ませ、
私は彼女に続いて店を出た。
(ミヤさん……
どういう状況なの?)
胸の奥がじわりと締めつけられるなか、
ノアは青い光の外へ足を踏み出した。
まばらな通りを、二人で歩く。
風が通り抜ける音だけが響いた。
(……知らない人なんだけど。)
すると彼女が、突然こちらを見上げた。
「ノアさん、その服いいよね。交換しよ。」
「……いいわよ。」
(え? 交換? なんで?)
戸惑いつつも、私はパーカーを脱いだ。
彼女も同じ動きで、自分の服を差し出す。
渡されたそれは——
見た目はシンプルなのに、不自然なほど“私のサイズ”だった。
(……待って。なんでサイズぴったりなの?
偶然……じゃないよね。)
彼女は自分の服に袖を通しながら、
くるりと軽くスピンした。
「飲み過ぎたから……やっぱ帰るね。
停留所はこの先だから、一人で帰れるよね?」
「……うん。」
(帰る……? 何しに来たの?
私と“偶然を装って接触して”、服を交換して、帰る?)
彼女は軽く手を振ると、
青い光の方ではなく、逆方向の細い路地へと歩いて行った。
足取りは軽いのに——
背中は妙に“急いでいる”ように見えた。
(……なにこれ。
本当に誰?)
ノアはしばらく立ち尽くした。
新しい服の袖口を見つめながら、
胸の奥に広がる、説明できないざわつきを抱えたまま。
(……何だったんだろう、あの子。)
指先でそっと袖をつまむ。
そのとき——
すぐ横から、軽い声がふっと落ちてきた。
「ねぇお嬢さん。」
(……まさかのナンパ?
いや、この状況で?)
「僕の名前はユーゼンね。
一緒に飲みに行かない?」
(……ん?
ユー……ゼン……?)
思考が一瞬だけ止まった。
さっきまでの違和感が、一気に線でつながる。
私はカバンを漁り、
紙の手触りを探す。
「もしかして、ユーゼン・レイシュさん?」
その瞬間——
手紙に触れた指先に、
別の指が上からそっと重なった。
「ちょ、ちょ、ちょ。
あれぇ? 僕のこと知ってるの?
やだなぁ〜。これじゃ口説けないじゃん。」
(……人、違うフリしてたの?
なんで?)
彼はにやっと笑い、
ノアの手から手紙をひょいと奪い取った。
「……やめた。やめた。
ナンパ失敗だから帰るわ。じゃ、また。」
声は軽いのに、
目だけは一瞬だけ鋭かった。
そしてそのまま、
人混みの奥へ溶けるように歩き去った。
(……持っていった……。
今の……ユーゼン……だよね?)
胸の奥で、
安堵と不安が同時にぐらついた。
ノアは深く息を吐いた。
(ミヤさんに……報告しないと。)
フロートウェイ・トラムの座席に腰をおろすと、
ノアはすぐに端末を開いた。
「ミヤさん。」
『うなこと渡せたようだね。』
窓の外へ光のレーンが流れていく。
ノアはさっきの出来事の違和感をひとつずつ拾い集めながら尋ねた。
「……あれで、よかったの?」
『問題ないよ。完達だよ。』
ミヤの声は、驚くほど落ち着いていた。
「でも……知らない子が出てきて、服を交換して……
ユーゼンさんも急に、ああいう……。意味が分からなくて。」
少し沈黙があった。
それは、ミヤが事実を整理している時の静けさだった。
『ノアちゃん。今回の件は“急な変更”があったの。』
「変更……?」
『数日前から、あのバーのバーテンが“帝国の監視者”に差し替わっていたらしい。
ユーゼンの行きつけだからね。監視対象ごと店を変えたわけ。』
(……やっぱり、そうだったんだ。)
『だから本来の受け渡し場所は、急遽使えなくなった。
でも、ユーゼン側の“仲介役”には連絡が届いていた。』
「仲介……?」
『そう。あの白銀の子。“エージェント”。
ユーゼンの依頼を受けて、あなたと入れ替わったの。』
胸の奥がまたぎゅっと締まった。
「……なんでそんな回りくどい方法を?」
『ノアちゃん——これが“郵便団の原則”よ。
依頼人、仲介、配送人、受取人。
この四者は、絶対に直接つながってはいけないの。』
ミヤの声は、いつも以上に真剣だった。
『依頼人が誰で、エージェントが誰で、
どの配送人が届けるのか——
全部ひとつの線で繋がると、政治的な“意味”が生まれてしまう。』
(……だから、私は知らないままでいい——?)
『配送人は“送り先”は知っていても、
依頼人のエージェントを知ってはならない。
逆も同じ。
この分離があるから、どんな国でも私たちは許されているの。』
光のレーンが曲がり、空港への表示が見えた。
『今回、エージェントが服を交換したのは——
ユーゼンへの目印ね。誰が受取人の配送者かわかるように。』
(……配送人にコンタクトするため?)
『そう。でも勘違いしないでね。
“あなたをエージェントが特定した”わけじゃない。
渡した服の情報だけが、ユーゼン側へ共有されたの。
つまり……
あなたとエージェントは繋がらずに、合図だけが届く。』
(……そうか。私とエージェントは、互いに知らないまま……
でも、ユーゼンさんには“その服の配送人”だと伝わる……。)
『郵便団のお約束よ。
人物同士はつながらない。
つながるのは“合図”だけ。』
『そう。ノアちゃんが一人で探すのは大変だからね。
まぁ3人で会ってもいいけど。可愛い子二人だと目立つよね?』
ミヤは柔らかく息をついた。
『だから大丈夫。
ノアちゃんの仕事は完達。
今回も、あなたはちゃんと“中立”を守ったよ。』
トラムが減速し、空港のゲートが見えてきた。
ノアは胸に手をあて、小さく息を吐いた。
(……よかった。
たぶん、これで本当に終わりなんだ。)
「ノアちゃん、ひとつ質問ね。
手紙って、どうして確実に届くと思う?」
「え?……配達人が確実に届けるから、でしょう?」
「そう。そこが一番大事。
郵便団にとって“配達人の信用”が柱なの。
でもね、手紙には二種類あるのよ。
“国から出る手紙”と“国に入る手紙”。
どっちがより重要だと思う?」
「……どっちも重要でしょ。」
「その通り。でも実はね——
チェックが厳しいのは“入国”より“出国の手紙”なの。」
「え、でも入国の方が厳しいよ?
玄嶺帝国なんて……もう本当に……。」
「入国は“その人が害を持ってくるかどうか”のチェック。
でも、出国の手紙は違うの。」
「違う?」
「その国から“何が外に漏れるか”を見てるの。
国家の機密、軍の動向、政治情報……
出る手紙は、国にとっては“弱点”でもある。」
「……あ、なるほど。」
「だから配達人は危険なの。
手紙に“害”があるなら——
国は送り主を調べるし、
行き先も調べるし、
配達した人を捕まえるのも簡単。
ルートごと潰せる。」
ノアは言葉を失った。
「だから、郵便団は“仕組み”で信用を作ってる。
配達人は送り主を知らず、依頼人と配送人は繋がらない。
中立でいられるよう、分離しているの。」
「でも……フロンティア・ノルド連邦って、
入国は他の国よりゆるく感じたけど?」
「ゆるくなんかないよ。
チェックの仕方が違うだけ。
その国に害が出ないよう、
“郵便団が来る前の段階”で調整してるの。
来てから門前払いじゃなく、
来ても問題が起きないようにしてるのね。」
「……だから入国できてるんだ。」
「そう。そしてね、
手紙が“生存確認”に使われるのは……まあ、よくあること。
郵便団はそれを理解したうえで許可されてるの。」
「でも……利用されてるとも言えるよね?」
「利用されてるわ。
でも、中立って“利用されること”じゃないの。
どの国にも使われて、どの国にも肩入れしない。
その代わり、全部は止めない。
怪しい時は監視し、危険なら没収する。
全部は止めないけど、全部は通さない。
——その『境目』が信用を作るの。」
ノアはしばらく黙った。
「……だったら、裏取引とかで隠して送られたらどうするの?」
「それが一番怖い。
見えないものが一番危険。
だから公的な郵便団という“見えるルート”がある方が、
他の国は安心できるの。
裏で動かれるよりずっとマシ。」
「……なんか、すごく複雑。」
「複雑よ。
何が正しいかなんて国ごとに違う。
でも——
“より正しいと思える方法”なら、続ける価値がある。
郵便団はずっとそうしてきた。
これからもそう。」
ミヤはそこでふっと笑った。
「だからノアちゃん、あなたみたいな子が必要なの。」
ノアは少しだけ胸があたたかくなった。




