表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

日常の片隅で

トーストとミルクティー

作者: 夏那月
掲載日:2025/10/09




子どもの頃

朝起きるとパンのこんがり焼けた匂いや、ミルクティーの甘い香りが漂い、「おはよう」と迎えてくれる誰かがいるのが当たり前だった


目を覚ました瞬間、ふと蘇った記憶は一瞬にして霧散する


冷たい水で顔を洗い、シャツに腕を通しつつ

流れる天気予報を何となく聴く


窓を開けると、秋めいた涼しい風が部屋の空気をさらっていく

昼間はまだ少し汗ばむくらいなのに、ここ最近は朝と晩はカーディガンが必須アイテムになっていた


寒くなるこの季節はいつもカーディガンを手渡してくれたっけ

また、記憶が掠めた気がしたけれど、足を運んでそっと扉を押す


すれ違う人々は済ました顔で歩いている

誰一人声を掛け合うことはなく、聞こえるのは耳にさしたイヤホンの音楽だけだ


まるでひとりで生きているみたいだ


ふと、視線を感じて足元に目をやると

黒猫がじっとこちらを見上げていた


「どちらかというと犬派なんだけど」と思いつつも

澄んだ綺麗な瞳から目が離せない


数秒見つめあったあと、

黒猫は

「付いてきて」

とでも言うように私の前を歩き始める


会社までの道と一緒だし、今日は少し時間に余裕がある

まぁいいか、

と思いつつ後ろに続いて歩いてみることにした


黒猫は人を避けつつ、私の歩調を合わせてくれているように感じた


もう少しで会社に着くところで、黒猫が急に狭い路地に入っていった

『こんな道あったっけ...?』

少し迷ったけれど、乗りかかった船だと自分に言い聞かせ、奥へ進んでいく


路地に入って少し歩くと

いつもの街並みとは少し違う広場のような場所に出た

柔らかな朝の光が差し込み、石畳の隙間から揺れる小さな花がひっそり咲いていた


「綺麗..」

思わず漏れていた独り言にハッとして

辺りを見渡すと黒猫の姿は消えていた


ここまでは一本道だった

もっと奥に行っちゃったのかな..?


もう少し路地を進んでみることにした


チリン

広場から少し進んだところで鈴の音が聞こえた気がして振り返ると小さな看板が立っていた

「〇〇…?」

トーストの香ばしい匂いと、ミルクティーの甘い香りに誘われるように、気がつけば扉を押していた


「いらっしゃい」

店主と思われる人が柔らかい笑顔で声をかけてくれた


あの…

声に出そうとして止める


黒猫のことを聞く勇気も、何のお店か分からず入ったことも、聞けばきっと変に思われるだろう


そんなこちらを気にする様子もなく笑顔のまま

「トーストとミルクティーしかない店だけど、良かったらどうぞ」

とカウンター席を勧めてくれる


勧めてくれた席に移動し、お礼を言う

香ばしいトーストの匂いが鼻をくすぐり、ミルクティーの湯気がふわりと立ち上る


柔らかな光と木の温もりが、胸の奥のざわめきを少しずつ静めていくようだった


たっぷりとバターが染み込んだトーストを頬張り、甘いミルクティーをこくりと飲む


その味はどこか懐かしい

思わず手が止まり、口の中に広がる香ばしさと甘みを噛み締めた


子どもの頃の朝の光景が不意に広がる

パンのこんがりした香り、柔らかく温かい笑顔、朝の優しい光――胸の奥がじんわり温かくなる


気がつくと、頬に涙が伝っていた

大人になってから、人前で泣くことなんてなかったに等しい

涙の止め方も忘れたかのように、ぽたり、ぽたりと雫が頬を伝っていくことに自分でも驚いた


店主は静かに

まるで、涙が静まるのを待ってくれているかのように柔らかく微笑んでいる


「今日、ここには黒猫が案内してくれたんです、この路地で見失っちゃって、ふと目に入ったこのお店に、誘われるように入ってきました」

ついさっきは変に思われたらどうしよう、と言えなかったことを口にしていた


「私、ずっと一人前にならなきゃって、必死で頑張ってきました。

本当は誰かにずっとこうして聴いてほしかった、、

でも、それを口に出す余裕すら、いつの間にか失っていたのかもしれません」


もうずっとこの時間を待っていた気がした

声に出すと、胸の奥でひそかにくすぶっていたものが、そっと解き放たれていくようだった


「私、昔はバターたっぷりのトーストと、甘いミルクティーが大好きで、毎朝こうして話をする時間が大好きでした。

でも、大人になってからは、そんなこともすっかり忘れていしまってました」


店主は静かに頷き、おかわりのミルクティーを注いでくれる

甘い香りが心の奥をじんわり温めてくれてほっとする

長い間忘れていた小さな幸せの欠片を思い出させる


チリン

鈴の音が聞こえてハッと振り返る


そこにはさっきの黒猫がちょこんと座ってこちらを見ていた


私は残りのトーストとミルクティーを飲み込んで、そっと立ち上がる


「また、来てもいいですか?」


店主は変わらない穏やかな笑顔で

「いつでも、その扉は開いてるよ」

と答えてくれた


扉を開け、外に出る

黒猫はまるで「もう大丈夫」とでも言うように、尾をくるりと巻き、静かに座っている


一歩一歩、いつもの街並みに戻る路地を進む


「また、会えるかな」

路地を出る前に一度だけ振り返って呟く


チリン――。

鈴の音が聞こえた気がした


初めての小説

ほっこりしたひとときになれば嬉しいです

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
子供の頃の懐かしい記憶って、ふと思い出したときにとても切なくて温かい気持ちになります。この作品はそれを思い出させてくれました。 バターたっぷりのトーストって美味しいですよね。 私もこのお店に行ってみた…
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ