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『黒子の絆』

作者: 小川敦人

『黒子の絆』


17年前、大手通信社の施設管理マネージャーとして隆介は、この施設を管理することになった。

設備運転は、県内でも大手のビル管理会社が担っていた。

隆介は、運転監視室へ挨拶に行った。前任者は、2年間で移動したため引継ぎもあまり完全なものではなかった。

運転監視室には4名の担当者が輪番を組んでいた。主任の家持は、隆介と同年代で2歳上だった。

隆介は、総務や営業も経験していた。維持管理は、隆介の経験が生かせる職務だった。

仕事へ考え方は、施設管理部門は"黒子に徹する"だった。

施設管理部門が活躍する建物は近い将来、必ず大きな問題が起きることをこれまでの経験で良く知っていた。

「よろしくお願いします」と頭を下げる隆介に、家持は温かな笑顔を向けた。

「こちらこそ。建物は生き物みたいなもので、愛情が必要なんですよ」

その時は、ただの社交辞令だと思った。

しかし、家持のその言葉は、彼の人間性そのものを表していることを隆介が理解するまでに、さほど時間はかからなかった。

---

「あの、家持さん」

赴任から3ヶ月後、隆介は運転監視室のドアを開けた。家持は古びた椅子に座り、モニターを確認しながら何やら書類に記入していた。

「やあ、野村さん。お疲れ様です」

家持はいつもの笑顔で振り返った。時計は午後9時を回っていた。

「実は、電力使用量の削減計画について相談したくて」

「ああ、本社からの『グリーンイニシアチブ』ですね。厳しいノルマですよね」

隆介は驚いた。彼がまだ誰にも話していない計画を家持が知っていたからだ。

「どうして知っているんですか?」

「先週、御社の前任者の山田さんが悩んでいたので、少し話を聞いただけです」

それが家持という人間の本質だった。会社の垣根を超えて、困っている人の話を聞き、時には解決策を提案する。

彼は単なる設備主任ではなく、この建物に関わる全ての人の相談役でもあった。

---

5年が過ぎた頃、隆介は上司から表彰された。電力使用量の削減目標を大幅に上回る成果を出したからだ。

同僚たちからの祝福を受けた後、隆介は真っ先に運転監視室に向かった。

「家持さんのおかげです」

隆介は賞状を手に、ドアを開けた。家持は少し恥ずかしそうに笑った。

「いえいえ、野村さんのアイデアが素晴らしかったんです。私はただ実行しただけ」

「あなたが深夜に手動で調整してくれなければ、こんな数字は出ませんよ」

家持は黙って肩を竦めた。彼は自分の功績を誇示することがなかった。

"黒子に徹する"という隆介の信条は、実は家持こそが体現していた。

「それより、子供さんの運動会はどうでした?」

家持は話題を変えた。隆介は自分のことなど忘れ、子供の活躍を嬉しそうに語り始めた。

家持はいつもそうだった。自分のことより、相手のことを大切にする。

---

10年目の冬、建物の暖房システムが深夜に故障した。外気温はマイナス5度。

重要なサーバールームの温度管理が危機的状況だった。隆介は緊急連絡を受け、急いで駆けつけた。

運転監視室には、家持の姿があった。彼は夜間当番ではなかったはずだ。

「どうして?」

「井上君の奥さんが出産で。代わりに来ました」

家持は簡潔に答え、修理業者に指示を出し続けた。隆介は無言で彼の横に立ち、できることを手伝った。

二人は一晩中、交代で仮設暖房機を監視し、サーバーの温度を管理した。

夜明け前、危機が去った時、家持はポケットからおにぎりを取り出した。

「奥さんが作ってくれたんです。半分どうぞ」

隆介は言葉を失った。自分は常に合理性を追求し、成果を数字で測ってきた。家持は違った。彼にとって仕事は人と人との繋がりだった。

「ありがとう」と隆介は言った。それは単なるおにぎりへの感謝ではなかった。

---

15年目、デジタル化の波が押し寄せてきた。

本社は「スマートビルディング構想」と銘打って、設備のIoT化、AIによる自動制御システムの導入を決定した。

隆介は新システムの責任者に任命された。彼は効率化の可能性に胸を躍らせた。

「これで24時間の有人監視が不要になります」と経営陣に報告した。「人件費を年間3000万円削減できます」

家持の表情が曇ったのを、隆介は見逃さなかった。だが、合理化は時代の流れだ。感傷に浸っている余裕はなかった。

---

16年目の春、新システムが稼働した。タブレット一つで建物全体を管理できるようになった。

隆介は本社から高い評価を受け、昇進の噂さえ流れていた。

「家持さん、こちらの操作方法を覚えてください」

隆介はタブレットを家持に渡した。家持は黙ってうなずいたが、その手は少し震えていた。

「大丈夫ですか?」

「ええ、ちょっと複雑で…でも頑張ります」

家持は笑おうとしたが、その笑顔は以前のように輝いていなかった。

数週間後、運転監視室を訪れると、家持はタブレットとマニュアルを前に必死で操作方法を覚えようとしていた。

若いスタッフたちはすぐに習得したのに、家持だけが取り残されていた。

「時間がかかって申し訳ありません」と家持は頭を下げた。

隆介は胸が痛んだ。17年間、この建物を守ってきた男が、今や「効率化の障害」となりつつあった。

それでも、隆介は合理化の方針を変えることはできなかった。

---

そして今日、17年目の秋。家持から退職の申し出があった。

「理由は?」と隆介は尋ねた。オフィスの窓からは、紅葉が見えた。

「私には新しいシステムについていく能力がないようです」

家持は静かに答えた。その声には怒りはなく、ただ諦めがあった。

「もう少し時間をかければ…」

「いいえ、時代についていけないんです。私のような古いタイプの管理人はもう必要ないんでしょう」

隆介は言葉に詰まった。彼は数字で示せる成果を追い求め、本社の評価を得ることだけを考えてきた。

その過程で、家持のような「人」の価値を見失っていた。

「AI監視システムは、設備の異常を検知できても、人の心の異常までは察知できませんよ」

家持はそう言って立ち上がった。その言葉に隆介は震えた。確かに新システム導入後、職員からの小さな相談事は減った。

設備のトラブルは減ったが、人間関係のトラブルは増えていた。

「私を裏切ったとは思っていません」と家持は付け加えた。「あなたは会社の方針に従っただけです」

しかし、その言葉は嘘だった。家持の目には明らかな失望の色があった。

17年間築いてきた信頼関係が、効率化という名の下に壊されていく痛みがあった。

---

退職の日、隆介は家持を見送った。建物の前で、家持は最後に振り返った。

「この建物を愛してください。建物は生き物ですから」

17年前と同じ言葉だった。しかし今、隆介はその意味を理解していた。建物は単なる鉄とコンクリートの塊ではない。そこで働く人々の思いが詰まった場所だ。

家持が去った後、隆介はタブレットを開いた。画面には全ての数値が正常を示していた。しかし、何かが足りなかった。人の温もりだ。

隆介は運転監視室に向かった。若いスタッフたちがモニターを見つめている。彼らは家持のように、廊下ですれ違う社員の名前を覚えることはないだろう。

清掃員の家族の話に耳を傾けることもないだろう。

隆介はその日、初めて運転監視室のスタッフ全員と昼食を共にした。

単なる数字ではなく、人として接することを始めた。家持から学んだことを、今度は自分が実践する番だった。

タブレットに表示される効率の数値は、少し下がるかもしれない。

しかし、隆介はもう気にしなかった。"黒子に徹する"という言葉の本当の意味を、今、理解したからだ。

それは、目立たないながらも、人と人を繋ぎ、建物に命を吹き込むことだった。

家持という名の「黒子」がいなくなった今、その役目は隆介が引き継がなければならない。

合理主義者だった隆介の心になにかが芽生えた。それは自責の念だった。

---

家持が去って一ヶ月が過ぎた。新システムは順調に稼働し、エネルギー使用量は過去最低を記録していた。

本社からは称賛の声が届き、隆介の昇進も決まりつつあった。しかし、隆介の心は晴れなかった。

深夜、空っぽの運転監視室で隆介は一人、モニターを眺めていた。かつて家持がいた椅子に座り、17年間の記憶を辿る。

「自分は何をしてしまったのか」

隆介の脳裏に家持の失望した目が浮かび上がる。家持は何も言わなかったが、その目は語っていた。「裏切られた」と。

隆介は苦しくなった。確かに彼は職務を全うしただけだった。

効率化は時代の流れであり、会社の方針だった。しかし、人間として、17年間苦楽を共にした同志として、自分のやり方は正しかったのか。

翌朝、隆介は鏡に映る自分を見た。目の下にはクマができ、頬はこけていた。家持と同世代だ。

彼もまた時代の波に飲み込まれる存在なのだと、隆介は初めて自分の立場を客観視した。

「野村さん、大丈夫ですか?」

オフィスで若い部下が心配そうに声をかけてきた。隆介は無理に笑顔を作った。

「ああ、ちょっと寝不足でね」

そのとき、エレベーターホールから聞き覚えのある声が聞こえてきた。

「あら、野村さん。お久しぶりです」

声の主は、9階に入居する出版社の編集者、菜緒子だった。知的な雰囲気を持つ女性で、いつも忙しそうに館内を行き来していた。

「渚さん、こんにちは」

「家持さんが退職されたと聞きました。寂しくなりますね」

その言葉に隆介は言葉に詰まった。菜緒子は不思議そうに隆介を見つめた。

「何かあったんですか?」

---

その日の夕方、隆介は菜緒子とロビーで缶コーヒーを飲んでいた。窓の外では雨が降り始めていた。

「実は家持さんには、本当にお世話になっていたんです」

菜緒子は缶コーヒーを両手で包み込むように持ちながら話し始めた。

「私が深夜まで残業していると、必ず巡回の途中で声をかけてくれて。『無理は禁物ですよ』って」

隆介は黙って聞いていた。

「一度、締め切り前に原稿データを消してしまって、パニックになったことがあって。家持さんが慰めてくれて、ITの知り合いを呼んでくれたんです。真夜中だったのに」

菜緒子の目が潤んだ。

「母が入院した時も、病院への行き方を調べてくれて。家持さんは、ただの設備管理の人じゃなかった。私たちみんなの…守り神みたいな存在だったんです」

隆介は胸が締め付けられる思いだった。家持と菜緒子の間には、隆介の知らない信頼関係が築かれていたのだ。それは隆介と家持の関係とはまた別の、深いつながりだった。

「私、家持さんに会いに行きました。先週、自宅に」

隆介は驚いて顔

「彼、元気にしてますか?」

「ええ。奥さんと二人、穏やかに暮らしています。でも…」

菜緒子は言葉を選ぶように間を置いた。

「野村さんのことを、とても気にしていました」

---

二人は雨の止んだ屋外のベンチに移動していた。星空が広がり、ビルの明かりが照らす道路が濡れて光っていた。

「家持さんは言っていました。『野村さんを責めないでほしい』って」

隆介は息を呑んだ。

「彼は野村さんのことを『真面目で誠実な人だ』と言っていました。『会社の方針に忠実なのは、責められることではない』って」

隆介は俯いた。その言葉が余計に彼を苦しめた。

「でも、一つだけ残念に思っていることがあると」

「何ですか?」

「野村さんが自分を『ただの数字』としか見ていなかったことです」

その言葉は隆介の心を鋭く突き刺した。

「私は…家持さんを数字としては見ていませんでした」

隆介の声は震えていた。

「でも、結果的にそうなってしまった。効率化のために、長年の経験や人間関係を無視して…」

菜緒子は静かに隆介の肩に手を置いた。

「家持さんは、あなたを恨んではいません。ただ、もう少し違う選択肢があったかもしれないと思っているだけです」

---

翌朝、隆介は早くに出社した。デスクに置かれたタブレットを手に取り、新システムの稼働状況を確認する。すべて正常。効率的で、合理的で、人の手が要らないシステム。

しかし、菜緒子の言葉が頭から離れなかった。

「もう少し違う選択肢があったかもしれない」

隆介は突然、立ち上がった。頭に一つの考えが浮かんだのだ。彼はタブレットを持ち、急いで重役会議室に向かった。

会議室には、本社から来た役員たちが集まっていた。隆介の昇進を正式に決める会議だった。

「野村君、おはよう。今日で君の17年間の功績が正式に認められる日だ」

社長が笑顔で言った。隆介は深く息を吸い込んだ。

「社長、提案があります」

隆介は新システムの修正案を説明し始めた。AIと人間のハイブリッド管理体制。

24時間のAI監視は維持しつつも、人間による巡回と対面コミュニケーションを復活させる案だった。

「コストが少し増えますが、建物に関わる全ての人の満足度は確実に上がります。それは長期的には会社の利益になると確信しています」

役員たちは眉をひそめた。

「それは効率化に逆行するのではないか」

「いいえ」と隆介は強く言った。「建物は生き物です。数字だけでは測れない価値があります」

隆介の目に、家持の姿が浮かんだ。

---

一週間後、隆介は家持の家を訪ねていた。小さな庭のある一軒家。玄関で隆介を迎えた家持は、少し痩せていたが、穏やかな表情をしていた。

「野村さん、わざわざ来てくれたんですか」

二人は縁側に座り、家持の妻が入れてくれたお茶を飲んだ。

「システムを一部変更しました」と隆介は切り出した。「AIによる監視は残しつつ、人間による巡回も復活させました」

家持は静かに微笑んだ。

「そして…」隆介は深く頭を下げた。「あなたに戻ってきてほしいんです。特別顧問として」

家持は驚いた表情を見せた。

「若いスタッフたちに、数字だけでは測れない『建物との向き合い方』を教えてほしい。あなたにしかできないことです」

家持は黙って庭を見つめた。風で揺れる木々の間から、陽の光が差し込んでいた。

「菜緒子さんから聞きました。あなたが私を裏切り者だと思っていないことを」

「ええ、あなたは職務を全うしただけです」

「でも、人として私は間違っていた。合理的であることと、人間的であることのバランスを取れなかった」

家持は静かに目を閉じ、そして開いた。

「野村さん、私がずっと言ってきたことを覚えていますか?」

「建物は生き物だということですね」

「そう。そして建物だけでなく、組織も生き物なんです。時には変わることも、立ち止まることも必要なんです」

家持はゆっくりと立ち上がった。彼は深呼吸をして、庭の向こうに広がる空を見上げた。

「ありがとう、野村さん。でも、私の時代は終わったんです」

隆介は言葉に詰まった。

「わかってください。私は決して怒っていません。ただ、それぞれの人生には区切りというものがある。私はもう次の章に進んでいるんです」

家持は穏やかな笑顔を向けた。

「私は近所の小学校で、子供たちに電気や機械の仕組みを教えるボランティアを始めたんです。小さな命が輝く瞬間を見るのは、とても幸せなことです」

隆介は黙ってうなずいた。家持の目に迷いはなかった。彼は本当に次の人生を歩み始めていたのだ。

「野村さん、あなたは今、建物のために何をすべきか気づいたんでしょう?それを実践してください。それが私への最高の謝罪であり、感謝なんです」

二人は長い間、黙って座っていた。やがて日が傾き始め、庭に長い影が伸びた。

---

三ヶ月後、運転監視室には新しい風が吹いていた。

若いスタッフたちは、以前のように単にモニターを見つめるだけでなく、定期的に建物を巡回するようになっていた。

「おはようございます、渚さん」

エレベーターホールで菜緒子に出会った隆介は、明るく挨拶した。

「あら、野村さん。今朝もお早いですね」

「ええ、新人に建物のことを教えているんです。家持さんから学んだことを」

菜緒子は微笑んだ。

「先日、家持さんから手紙が来ました。小学校での授業が楽しいって」

「そうですか」

隆介の表情に、少しの寂しさと、確かな安堵が混ざっていた。

「家持さんは去りましたが、彼の精神はこの建物に残っています」と隆介は言った。「私たちがそれを引き継いでいくんです」

菜緒子はうなずいた。「私たちは皆、誰かの黒子になることもあれば、誰かの黒子に支えられることもあるんですね」

隆介は腕時計を見た。

「そろそろ朝の巡回の時間です。よかったら一緒にどうですか?」

二人は並んで歩き始めた。モニター画面には、エネルギー使用量のグラフが表示されていた。

数値は以前より少し上昇していたが、隆介はもう気にしなかった。

建物は生き物だ。そして、その命を支えるのは、目立たない場所で働く「黒子」たちの絆なのだから。

家持は去ったが、彼が育てた「黒子の魂」は、確かにこの建物の中で生き続けていた。

隆介はそれを次の世代へと繋いでいく決意を胸に、静かに廊下を歩いていった。


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